朱桓 呉の関羽雲長

朱桓(しゅかん)字は休穆(きゅうぼく)
揚州呉郡呉県の人(178~239)
呉の臣。
孫権の将軍府で側近を務め、余姚県令となった。
県では疫病が流行り、飢饉も起こっていたため、有能な役人を選んで治療と炊き出しを行わせ、官民に慕われた。
盪寇校尉となり兵2千を与えられ、呉郡と会稽郡で編成を命じられると、四散していた兵を集め1年余りで1万人に達した。
丹陽郡・鄱陽郡の反乱を瞬く間に鎮圧し、裨将軍に上り新城亭侯に封じられた。
222年、曹仁が数万の兵で侵攻すると、周泰の後任の濡須督を務めた。
曹仁は東に陽動の兵を送り、朱桓が兵を分けて東に向かわせると、曹仁の本隊が濡須へ急行し、兵を呼び戻すのも間に合わず、朱桓のもとには5千の兵しかなかった。
将兵は恐慌をきたしたが、朱桓は「勝敗を決するのは将の手腕であり、兵の多寡ではない。曹仁の指揮が私に勝ると思うか? 兵法には攻める者(の勢い)は倍に、守る者は半分になるとあるが、それは野戦で士気も同じな場合の話だ。魏軍は遠征で疲れ切っているが、我々は城と険阻な地形に守られ休養も十分で百戦百勝の情勢だ。たとえ曹丕がやって来ても心配無用なのに、ましてや曹仁ごときは問題にもならない」と檄を飛ばした。
そして軍旗や軍鼓も使わず、いかにも弱そうに見せかけると、223年、曹仁は罠に掛かり、子の曹泰(そうたい)に城を攻めさせ、常雕(じょうちょう)に別働隊を任せ諸葛虔(しょかつけん)・王双(おうそう)に呉軍の妻子がいる中洲を襲わせ、自身は後方を固めた。
朱桓は中洲を救援させると常雕を攻撃させ、自ら曹泰の軍営に焼き討ちを仕掛けた。常雕を討ち取り、王双を捕縛し、1千の首級を上げ大勝した。
孫権は激賞し嘉興侯に封じ、奮威将軍に昇進させ、彭城国相に任命した。(『呉主伝』・『朱桓伝』)
228年、周魴(しゅうほう)が魏へ偽装投降し、曹休(そうきゅう)が10万の兵を率いて合流しようとした。
陸遜・全琮(ぜんそう)・朱桓が包囲したが、曹休は兵数を頼みに、撤退前に攻撃を企んだ。
朱桓は「曹休は血縁で重任を受けただけの凡将です。退路も2つに絞れ、1万の伏兵を置けば捕虜にできます。そうすれば寿春を落として淮南を奪い、許昌・洛陽へも侵攻できます」と献策したが、陸遜は孫権と事前に協議を重ねていたため却下した。(※石亭の戦い)
229年、前将軍に上った。青州牧となり仮節を授かった。
237年、魏の呂習(りょしゅう)が呉へ偽装投降を仕掛けた。朱桓・全琮が合流しようとしたが罠に気付き、朱桓が殿軍を務め撤退した。李膺(りよう)は呉軍が河を半分渡ったら攻撃しようと狙っていたが、朱桓が殿軍にいるのを見ると、躊躇して攻撃できなかった。これほど魏軍に恐れられていた。
当時、全琮が軍の督を務めていたが、孫権は勅命で胡綜(こそう)も軍議に加えさせた。
全琮はなかなか戦果を挙げられず、奇襲作戦を立てたが、気位が高く他人に指図されるのを好まない朱桓は抗議し、言い争いになった。全琮は言葉に詰まり「陛下が胡綜に命じられ、胡綜が立てた作戦だ」と責任転嫁した。
朱桓は激怒し、胡綜を呼び殺そうとすると、側近が胡綜に告げて逃がした。朱桓は側近を殺し、諌めた副官も殺すと「発狂した」と言い都へ帰った。
孫権は功績と能力に免じて罪に問わなかった。
(※孫盛は「朱桓の残虐さは虎や狼と変わらない。ほしいままに人を殺すの(朱桓)と、法を破って見逃すの(孫権)と、失うところが大きいのはどちらか」と指摘する)
孫権は子の朱異(しゅい)に配下を任せ、治療させて数ヶ月で復帰させた。
孫権は出立の見送りに来て「あなたと力を合わせて天下を定めるべく、5万の兵で一方面を任せたい。こう言えばもう病気がぶり返すことはないだろう」と言い、朱桓も「恐れ多くも重用していただき、奸逆の徒を除くよう命じられたからには、病も自ずから快癒するでしょう」と答えた。
「呉録」に曰く。
「一度だけ陛下の髭を撫でさせてください。それで他に思い残すことはありません」と言い、孫権は許可した。朱桓は「私は今日、虎の髭を撫でました」と言い、孫権は大声で笑った。
決して過ちを認めず、人の下につくのを嫌い、戦いのさなかでも思い通りに軍を動かせないことがあると憤激した。
一方で惜しみなく他人のために金を使い、道義を重んじた。記憶力がずば抜けて高く、一度会っただけの相手を何十年経っても忘れず、1万の配下の妻子の顔まで全員覚えていた。将兵の生活を大切にし、一族に厚い援助をし、俸禄や財産は全て分かち合った。
239年、62歳で病没した。
軍営の全ての者が男女を問わず嘆き悲しんだ。家に貯えが無かったため孫権は塩5千石を下賜し葬儀を行わせた。
子の朱異が後を継いだ。(『朱桓伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
241年、殷礼(いんれい)は陸遜・朱桓に寿春を攻めさせるなどの献策をしたが退けられた。(※朱異の誤記か)(『呉主伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で「朱桓らが国家の威信を奮い起こした」と記した。(『孫晧伝』)
陳寿は「朱然(しゅぜん)・朱桓は勇敢に武勲を立て名を知られた。呂範(りょはん)・朱桓は思い上がって偏狭な所がありつつも天寿を全うしたが、子の呂拠(りょきょ)・朱異は父のような欠点が無かったのに命を落とした。時代に変化があったからだ」と評した。
「演義」では曹仁と戦った際に27歳の若武者に設定された。(※実際には45~46歳)
ところが孫策の後を継いだばかりの孫権に招かれたとも記しており、5歳くらいで仕官したという矛盾が生じている。
常雕を自ら討ち取り、石亭の戦いでもオリキャラの張普(ちょうふ)を討ち取るなど武勇に優れた。
主君にしか従わず、目上や同僚と争い、配下に慕われた、呉の関羽のような人物である。
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