朱拠 空回りする期待感

朱拠(しゅきょ)字は子範(しはん)
揚州呉郡呉県の人(194~250)
呉の臣。
朱桓(しゅかん)の一族。
風采と体力があり議論が巧みだった。
222年、五官中郎将となり侍御史を務めた。
当時、曁艶(きえん)が人事を壟断し、欲深く節操のない人材を一掃しようとしていた。朱拠は「天下はまだ安定せず、過失や欠点に目をつぶっても有能な人物を起用すべきだ。清潔な人物を抜擢すれば、発奮し悪事をやめて善に走ることもある。性急に淘汰すべきではない」と意見したが、曁艶は聞き入れず、後に失脚した。(『朱拠伝』)
孫権は当時の指揮官の実力に不満で、呂蒙や張温(ちょうおん)を懐かしみ、文武両道の朱拠ならば呂蒙らの後を継げると期待し建義校尉に任じた。
229年、建業に遷都すると都へ呼び寄せ、娘の孫魯育(そんろいく)をめとらせ、左将軍に任じ雲陽侯に封じた。
謙虚な態度で、惜しみなく金を使い人々を援助したため、豊かな俸禄を得ながらも家は貧しかった。(『朱拠伝』・『孫権歩夫人伝』)
230年、魏から投降した隠蕃(いんばん)を朱拠・郝普(かくふ)が「王者を補佐する才」と称賛したため声望を集め、人々はこぞって交際を求めた。後に隠蕃は謀叛を図って処刑され、郝普は自害させられ、朱拠も長く禁錮された。(『胡綜伝』)
嘉禾年間(232~238)、王遂(おうすい)が朱拠の配下から金を横領した。人事を壟断する呂壱(りょいつ)は、朱拠が黒幕だと疑い、無実の配下を拷問して殺した。朱拠が手厚く葬ってやると、呂壱は黒幕だから黙秘したまま死んだ配下を丁重に葬ったのだと糾弾した。
孫権も問責したが、朱拠は弁明することもできず処罰を待った。数ヶ月後、劉助(りゅうじょ)が真相を暴き、王遂が犯人だと指摘した。孫権は「朱拠までが濡れ衣を着せられたなら、小役人や民衆は想像以上の被害を受けている」と気付き、呂壱を処罰し、劉助に莫大な褒美を与えた。(『朱拠伝』)
241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「朱拠らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)
246年、驃騎将軍に上った。(『朱拠伝』)
孫権は朱桓の子の朱異(しゅい)と軍事について論じ合い気に入った。従父の朱拠へ「肝っ玉の座った人物だとは聞いていたが、会ってみると噂以上だった」と言った。
「文士伝」に曰く。
朱拠は朱異・張純(ちょうじゅん)・張儼(ちょうげん)らが子供の頃、才能ある子らを試そうと即興で賦を詠ませた。3人とも見事な賦を作り、朱拠は大喜びした。(『朱桓伝』)
「呉録」に曰く。
孟仁(もうじん)は驃騎将軍の朱拠の小役人をしていた時、志の高さに比して低い身分にくすぶり、家が雨漏りさえしているのを悔しがり、母に泣いて謝った。母は「ひたすら仕事に励むべきで何を泣くことがありますか」と言い、後に朱拠にも実力を認められた。(『孫晧伝』)
249年、2羽のカラスがくわえたカササギを宮廷に落とす異変があり、朱拠が丞相代行としてそのカササギを焼く祭祀を行った。(『呉主伝』)
二宮の変では太子の孫和(そんか)を擁護し、意見には心が籠もり、正しい道を守ろうとする気概が顔にもあふれ、死を賭して守り通そうとした。(『朱拠伝』)
孫権が孫和を幽閉すると、朱拠と屈晃(くつこう)は配下を引き連れ、顔に泥を塗って自らを縄で縛り、釈放を連日に渡り訴えた。孫権は酷く不快に思い、軽率な真似をするなと戒めた。
孫和に代えて孫亮を太子に立てようとすると、それにも頑強に反対し、激怒した孫権は朱拠・屈晃を百叩きの刑に処した。(『孫和伝』)
さらに讒言により新都郡丞へ左遷された。まだ到着もしない内に、孫弘(そんこう)が繰り返し讒言し、さらに孫権が病床にあるのをいいことに詔勅を偽造し、自害させた。享年57。
後に二人の子の朱熊(しゅゆう)・朱損(しゅそん)も孫魯班の讒言により非業の死を遂げた。(『朱拠伝』)
「呉書」に曰く。
顧悌(こてい)は朱拠とともに二宮の変の弊害に意見し、歯に衣着せぬ言動で名声を高めた。(『顧雍伝』)
「通語」に曰く。
朱拠らは礼に従い太子を守ろうとしたのである。(『孫和伝』)
251年、孫権は朱拠の娘の朱夫人(しゅふじん)を孫休の妃とした。(※裴松之は「孫休に姪をめとらせたのである」と近親婚に呆れる)
255年、孫魯育も孫魯班の讒言により殺された。(『孫休朱夫人伝』)
258年、孫綝(そんちん)は孫亮を廃位すると孫休を帝位につけようと招き、その手紙の中で「朱熊・朱損は朱拠の後を継ぎ忠義一筋で、孫魯育の殺害も孫魯班に従っただけなのに、孫亮は詳しく調べず軽々しく二人を処刑した」と述べた。(※ちなみに孫綝の妹は朱損の妻である)(『孫綝伝』)
永安年間(258~264)、孫休は朱拠らの功績を採り上げて名誉を回復し、朱熊の子の朱宣(しゅせん)を雲陽公に封じ、娘をめとらせた。
陳寿は「吾粲(ごさん)・朱拠は困難な時勢の中にあって、正義を守らんがために身を滅ぼした。悲しいことである」と評した。(※吾粲も二宮の変で讒言により処刑された)
「演義」には登場せず二宮の変も起こらない。
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