朱霊  曹操に心酔するも憎まれる



朱霊(しゅれい)字は文博(ぶんはく)
冀州清河郡鄃県の人(??~??)

魏の臣。
「徐晃伝」に附伝される。

はじめ袁紹に仕えた。

「九州春秋」に曰く。
清河郡で季雍(きよう)が反乱し、公孫瓚(こうそんさん)に寝返った。
朱霊が攻撃を命じられたが、彼の家族は城内におり、公孫瓚は朱霊の母と弟を城壁の上へ連れ出し、降伏を誘った。
朱霊は涙を流し「男がひとたび身を投げだして仕えたからには、二度と家族のことを考慮しない」と言い、構わず城を攻め落とした。季雍を捕らえたが、家族は全員死んだ。

曹操が陶謙(とうけん)を攻めた時、袁紹は朱霊に3陣営の兵を指揮させ援軍として送った。そこで曹操に心酔し「多くの人物を観察してきたが曹操のような方はいなかった。これぞ真の明君である。こうして出会ったからにはもうどこにも行かない」と言い鞍替えした。士卒も朱霊を慕っていたため全員がそれに従った。(『朱霊伝』)

199年、勢力の衰えた袁術が袁紹を頼ろうとすると、曹操は劉備・朱霊・路招(ろしょう)に攻撃させ阻止した。袁術は撃破され病没したが、劉備はそのまま独立した。(『武帝紀』・『先主伝』)

「王沈魏書」に曰く。
曹操は冀州を制圧すると、新たに編成した兵5千と騎馬1千を朱霊に任せ、許南を守らせた。
曹操は「冀州で新たに得た兵はこれまで勝手気ままを許されてきた。しばらく締め付けたからまた不満を抱いているようだ。あなたはとにかく威厳があるから、道義に従い寛大に扱わなければ、変事が起こるぞ」と戒めた。
はたして朱霊が赴任するや程昴(ていこう)が反乱した。即座に斬り、謝罪の報告をすると、曹操は自筆の手紙を返し「あなたの責任ではない」と罪に問わなかった。(『朱霊伝』)

208年、荊州討伐が始まると趙儼(ちょうげん)は都督護軍として于禁・張遼・張郃・朱霊・李典(りてん)・路招・馮楷(ふうかい)ら7軍を統括した。(『趙儼伝』)

211年、潼関の戦いでは徐晃とともに夜間に河を渡り、陣営を築いた。(『武帝紀』)

その後、夏侯淵の指揮下で氐族を討伐した。(『夏侯淵伝』)

215年、漢中を攻め、張魯(ちょうろ)に味方する氐族を徐晃とともに撃破した。(『武帝紀』)

しかし曹操の恨みを買い、ついに兵を没収しようとし、威厳あり恐れられている于禁に命令書を届けさせた。朱霊や配下はおとなしく辞令を受け、于禁の指揮下に入った。(『于禁伝』)

「王沈魏書」に曰く。
220年、曹丕は帝位につくと鄃侯に封じ、領邑を加増した。詔勅で「あなたは先帝(曹操)を助け何年にも渡り軍事を司った。功績は古の名臣を超え、書物の中で賛美されている者でもあなた以上ではあるまい。何か希望があれば遠慮せず言ってくれ」と命じると、朱霊はかねてから高唐に領邑を得たいと願っていたことを伝え、高唐侯に移封された。

名声は徐晃らに次ぎ、後将軍まで上り、高唐亭侯に封じられた。(『朱霊伝』)

「魏略」に曰く。
孫権は魏へ降伏し、その書状の中で「張遼・朱横海(将軍)が兵を率い合肥に現れた」と記す。
「ちくま版」は朱霊のことかと注釈する。(『呉主伝』)

229年、石亭の戦いで曹休(そうきゅう)は呉の罠にはまり敗走した。後続の朱霊らが呉軍と遭遇し、驚いた呉軍が撤退したため曹休は辛くも帰還できた。(『満寵伝』)

「王沈魏書」に曰く。
没すると威侯と諡された。(『朱霊伝』)

243年、功臣の一人として曹操の霊廟前に祀られた。(『斉王紀』)

「演義」では袁術討伐の際に劉備に騙され兵を引き渡してしまい、危うく曹操に処刑されかけた。
潼関の戦いで徐晃とともに伏兵を率いたのを最後に登場しない。

絵師曰く、「なにこのメンタル面やばそうなマクベ」