朱儁 名将、憤死す

朱儁(しゅしゅん)字は公偉(こうい)
揚州会稽郡上虞県の人(??~194)
後漢の臣。
「後漢書」では名は「朱雋」と書かれる。
若くして父を亡くし、母が絹を売って生計を立てた。孝行で名を知られ県の門下書佐となった。義を重んじ財を軽んじたため故郷で敬われた。
同郡の周規(しゅうき)が招聘され、冠を仕立てるため郡から百万銭を借りたが、家が貧しく返済できなかった。朱儁は母の絹を持ち出して弁済してやり、家業の元手を奪われた母は怒ったが、朱儁は「少しの損で大きな利益が得られます。初めが貧しければ後に豊かになるのは当然の理です」と説いた。
県長の度尚(どしょう)に見込まれ、会稽太守の韋毅(いき)に推挙されたのを皮切りに郡の役職を歴任し、後任太守の尹端(いんたん)に主簿に取り立てられた。
173年、尹端は賊徒の許昭(きょしょう)に敗れ、死罪を宣告された。朱儁は変装して都に上り、役人に賄賂をばらまき減刑させた。尹端は喜んだがなぜ無事だったかわからず、朱儁も生涯に渡り他言しなかった。(※なぜ真相が残ったのだろう)
後任太守の徐珪(じょけい)に孝廉に推挙され、2度の栄転の後に蘭陵県令となった。統治は素晴らしく東海国相に上表で称賛された。(『後漢書 朱儁伝』)
「続漢書」に曰く。
郡の功曹を務め、孝廉に推挙され進士の資格を得た。(※進士は科挙の科目で当時は存在しない。科挙でいう進士のようなものという意味か)(『孫堅伝』)
交趾で梁龍(りょうりょう)ら賊徒1万が蜂起し、南海太守の孔芝(こうし)もそれに加わり荒らし回ったが誰も討伐できなかった。
178年、朱儁が交趾刺史に任命され、会稽郡で兵5千を集め出撃した。州境まで来ると進軍を止め、偵察するとともに威光恩徳を示して賊軍を動揺させ、しかる後に攻撃し梁龍を討ち取り1ヶ月で平定した。
都亭侯に封じられ領邑1500戸を与えられ、黄金50斤を賜り、都に上り諫議大夫となった。
184年、黄巾の乱が起こると才略を見込まれ右中郎将に任じられ持節を授かり、左中郎将の皇甫嵩(こうほすう)とともに豫州の黄巾賊を討伐した。ことごとく平定し、皇甫嵩に功績を譲られ、西郷侯に進み、鎮賊中郎将に昇進した。
南陽郡で反乱した黄巾賊の張曼成(ちょうまんせい)は太守を殺し、宛城に百日余りも籠城した。後任太守の秦頡(しんけつ)が張曼成を討ち取ったが、黄巾賊は趙弘(ちょうこう)を後継に立て、十数万人に膨れ上がった。
朱儁・荊州刺史の徐璆(じょきゅう)・秦頡が1万8千の兵で宛城を包囲したが落とせず、朱儁は罷免されかかったが司空の張温(ちょうおん)の擁護により却下された。
趙弘を討ち取ったが、韓忠(かんちゅう)が後継に立てられ抗戦を続けた。朱儁は賊軍をおびき寄せて撃破し、韓忠は小城に籠もり降伏を申し出た。徐璆・秦頡・張超(ちょうちょう ※張邈の弟ではなく書家で著名な方)は認めようと言ったが、朱儁は「許せばつけ上がり平定できない」と攻撃を続けたが陥落できなかった。
やがて「死にものぐるいで戦っているから勝てない」と気付き、わざと退路を開けてやると韓忠は城外へ出て撃破された。降伏したが怒り心頭に達していた秦頡は韓忠を殺してしまい、黄巾賊は孫夏(そんか)を立ててさらに抵抗した。朱儁が攻撃しようやく鎮圧された。(『後漢書
朱儁伝』)
朱儁は上表し孫堅を佐軍司馬にした。宛城の戦いで城壁を乗り越えて奮戦し、朱儁がその活躍を上表したため別部司馬に任じられた。(『孫堅伝』)
185年、右車騎将軍に上り、都へ凱旋し光禄大夫となり、領邑5千戸に加増され、銭塘侯に転封し特進を加えられた。
母が没し喪に服すため官を辞し、後に将作大匠に復帰し少府・太僕に転任した。
黄巾賊に呼応して各地で賊徒が蜂起し、中でも黒山賊の張燕(ちょうえん)は百万の配下を集めた。河内郡に侵攻したため、朱儁が河内太守に任じられ撃退した。再び光禄大夫となり、屯騎校尉を経て城門校尉・河南尹となった。(『後漢書
朱儁伝』)
「張超集」に曰く。
張超(ちょうちょう)は朱儁に袁遺(えんい)を推挙した。(『武帝紀』)
「呉書」に曰く。
大将軍の何進(かしん)、太尉の朱儁、司空の荀爽(じゅんそう)が張紘(ちょうこう)を招いたが仮病で断られた。(※朱儁の太尉就任は何進・荀爽の死後。車騎将軍の誤りか)(『張紘伝』)
その頃、董卓が都を牛耳り、重鎮の朱儁と表向きは親しくしつつも内心では憎悪していた。
袁紹らの討伐軍が都に迫り、董卓は長安への遷都を建議したが、朱儁はそのたびに反対した。董卓は太僕に任じ懐柔しようとしたが、朱儁は辞退し改めて遷都に反対した。叙任の使者が「栄転を断り、聞かれてもいない遷都になぜ反対するのか」と問うと「私に太僕は務まらず、遷都は緊急の懸案でもありません」と答え、使者がさらに「遷都のことは私でさえ聞いていない。なぜ知っているのか」と問うと、「相国(董卓)から聞きました」と返し、董卓も諦めた。
結局、遷都は決まり朱儁は洛陽の守備に残された。袁紹ら討伐軍と内通したが、発覚を恐れて荊州へ逃げた。
董卓が楊懿(ようい)を河南尹に任じ洛陽を守らせると、朱儁は兵を集めて引き返し、楊懿は逃亡した。河南郡は略奪されていたため朱儁は東進して軍需物資を集め、各地に董卓討伐を訴えた。
徐州刺史の陶謙(とうけん)が援軍を送り、さらに朱儁を行車騎将軍にするよう上表した。董卓は李傕(りかく)・郭汜(かくし)に数万の兵で攻撃させ、兵力で劣る朱儁は敗れ、勝ち目がないと悟り進軍できなかった。
192年、董卓が誅殺されたが李傕・郭汜が長安の都を牛耳った。陶謙は名将の朱儁なら討伐できると考え、徐璆・孔融(こうゆう)・鄭玄(じょうげん)らと連名で推挙し、兵を集めようとした。
しかし李傕らは周忠(しゅうちゅう)・賈詡らの献策で先に詔勅で朱儁を召し寄せた。配下は反対したが「詔勅には逆らえない。李傕・郭汜・樊稠(はんちゅう)らは凡庸で長期的計画を持たず、変事は必ず起こる。私が内からそれに乗じれば万事解決できる」と応じ、太僕となった。陶謙らは推挙を取り下げた。
193年、周忠の後任の太尉・録尚書事となった。
翌194年に日蝕で罷免されたが、行驃騎将軍事・持節に復帰し、関東の鎮撫を命じられた。しかし李傕が樊稠を殺し、郭汜とも争う混乱が起こったため出立せず、大司農に転任した。
献帝は詔勅で争いを止めようとしたが収まらず、郭汜は朱儁を人質に取って利用しようとした。剛直な朱儁は怒りからその日のうちに病を発し没した。(『後漢書
朱儁伝』)
「会稽典録」に曰く。
朱育(しゅいく)は会稽郡の人物について論じ、「朱儁は天与の聡明さをそなえ、慎み深くも万事に精通し、神の如き武略で策謀は決して外れず、軍を動かせば全て事前の計画通りで、だから天下の正義の軍は董卓追討の盟主にしたいと願った」と評した。(『虞翻伝』)
「演義」でも史実と同様の事績をたどり、黄巾の乱でも活躍する。
「吉川三国志」では傲慢な小人物に描かれ、劉備を侮辱したり、実力を知ると良いように利用した。(※演義では劉備の功績を上表している)
最後も郭汜の横暴に絶望して自害した。
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