周魴  髪を剃って曹休を騙す



周魴(しゅうほう)字は子魚(しぎょ)
揚州呉郡陽羨県の人(??~??)

呉の臣。

若い頃から学問を好み、孝廉に挙げられ寧国県長となり、懐安県に転任した。
銭唐の一帯に勢力を張る賊徒の大頭目・彭式(ほうしき)が略奪を働くと銭唐国相に赴任し、1月ほどで彭式ら一味の首級を挙げた。丹陽西部都尉に昇進した。

黄武年間(222~229)、鄱陽郡の大頭目の彭琦(ほうき)が反乱すると鄱陽太守に任じられ、胡綜(こそう)とともに討伐し生け捕りにした。昭義校尉を加えられた。

魏に名を知られた山越や名将に、曹休(そうきゅう)に偽装投降を仕掛けるよう指令が下り、周魴は小人物には荷が重く、漏洩の恐れもあると考え、自ら応じた。
7通の手紙を送って呉の内情や将兵の配置を教え、必勝の策を立てて信じさせると、228年、曹休は罠に掛かり10万の兵で侵攻した。周魴は都からの詰問に謝罪し髪を剃りさえしたため(※当時は重罪人の証である)曹休は騙されたのだった。
陸遜らとともに魏軍を分断し、数万もの首級と捕虜を得た。(※石亭の戦い)(『周魴伝』)

曹休は罠に掛かったのを悟ったが、呉軍が3万しかいないのを知ると、数を頼みに攻撃を仕掛け、敗北した。(『朱桓伝』)

凱旋すると孫権は歓迎の宴を開き、「あなたは剃髪してまで義のために尽くし、成功に導いた。功名は後世まで伝わるに違いない」と激賞し、裨将軍を加え関内侯に封じた。
(※後世の徐衆は「太守の職務は民を守ることなのに、自分勝手に敵をおびき寄せ、剃髪し身体を傷つけてまで功名を求めた。君子の称賛は得られない」と例によっていちゃもんを付ける)

董嗣(とうし)が不服住民を率いて険阻な土地に根城を築き、豫章・臨川郡を攻撃した。
吾粲(ごさん)・唐咨(とうし)が3千の兵で迎撃したが何ヶ月経っても平定できず、周魴は上表しいったん攻撃をやめ、自分の一存に任せて欲しいと願い出た。
周魴は間諜を送って董嗣を誘い出し、暗殺した。董嗣の弟は震え上がって服従し、一帯で反乱は絶えた。

太守を務めること13年で没した。
統治には信賞必罰を貫き、威厳と恩愛が行き渡った。
子の周処(しゅうしょ)も晋書に列伝される名臣となった。(『周魴伝』)

陳寿は山越の平定に功績あった人々を同伝に収め、周魴を「優れた策略を用いた」と評した。

「演義」でも石亭の戦いでの偽装投降が描かれる。曹休に罠を疑われて自刎しようとしたのを止められ、髪を切ってその代わりにし信用させた、とアレンジされた。