周泰  傷だらけの戦士



周泰(しゅうたい)字は幼平(ようへい)
揚州九江郡下蔡県の人(??~222?)

呉の臣。

「江表伝」に曰く。
寒門の出身(貧しい出自)だった。

蔣欽(しょうきん)とともに孫策に仕え、側近となった。慎み深く多くの戦功を立てた。
孫策が会稽郡を制圧すると別部司馬に任じられ兵を預かった。孫権に人となりを愛され、配下にもらい受けられた。

孫策が山越を討伐した時、孫権は1千に満たない兵しかいないのに油断し、防護柵もろくに造らずにいた。そこを山越の数千の兵に襲われ、孫権がやっと馬に乗った時には敵が迫り、鞍に斬りつけられるほどだった。配下も混乱する中、周泰だけが身を挺して孫権を守り奮闘し、それを見て配下も落ち着き、敵を撃退した。
周泰は12の傷を負ってしばらく人事不省となり、彼の働きがなければ孫権は命を落としていた。
孫権は深く感謝し、春穀県長に任じた。
皖城の戦い、江夏の戦いにも加わり、宜春県長に転任した。赴任するたびに任地の租税を扶持として与えられた。
黄祖(こうそ)の討伐、赤壁の戦い、南郡の戦いでも活躍した。(『周泰伝』)

203年、山越が不穏な動きを見せると、周泰らが政情不安定な諸県に赴任し鎮圧に当たった。(『呉主伝』)

曹操が濡須を攻めると迎撃し、撤退させると駐屯し濡須督となり、平虜将軍に任じられた。
指揮下の朱然(しゅぜん)・徐盛(じょせい)らは周泰を侮り指示に従わなかった。そこで孫権は自ら濡須を訪れ宴会を開くと、周泰にもろ肌脱がせ、傷跡を指差しては過去の戦いの思い出を話させた。そして御蓋(君主の使う日傘)を授けると、徐盛・朱然は孫権の信頼と周泰の功績を知り、指示に従うようになった。

「江表伝」に曰く。
孫権は号泣しながら周泰を親しく字で呼び、「幼平殿、あなたは兄と私のために熊や虎のごとく勇敢に戦い、命も惜しまず数十の傷を負われ、肌は切り刻んだようになっている。あなたを肉親と同様に思い、兵を任せずにはいられない。あなたと喜びも悲しみもともにしたい。思うように事を運んでくれ。寒門の出身だからと遠慮されることはない」と言い、自分の帽子と傘を授けた。そして華々しく凱旋させ見送った。

219年、孫権は関羽を討ち取り荊州を制圧すると、蜀の攻略を目論み、周泰を漢中太守・奮威将軍に任じ、陵陽侯に封じた。(『周泰伝』)

「魏略」に曰く。
孫権は魏へ降伏し、その書状の中で「魏の馬和(ばか)が居巣へ進出し、河を渡ろうとしているため周泰・全琮(ぜんそう)が偵察に向かうと攻撃され多くの死傷者を出した」と記す。(『呉主伝』)

黄武年間(222~229)に没した。(『周泰伝』)

222年に朱桓(しゅかん)が後任の濡須督になっており、同年に没したのだろうか。(『朱桓伝』)

子の周邵(しゅうしょう)が兵を継ぎ、230年に没すると下の子の周承(しゅうしょう)が兵と陵陽侯を継いだ。(『周泰伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「周泰らが国力を四方へ伸ばした」と記した。(『孫晧伝』)

後世の孫盛は孫権が周泰の怪我を案じたり、凌統の孤児を養育したことを評価する。(『凌統伝』)

陳寿は周泰を黄蓋・蔣欽・甘寧・凌統・丁奉らと同伝に収め「みな江南の勇猛な臣であり、孫氏が手厚く遇した」と評した。

「演義」では蔣欽とともに揚子江で江賊をしていた。夷陵の戦いでも活躍し、沙摩柯(しゃまか)を討ち取るなど史実よりも出番が多い。また架空の弟の周平(しゅうへい)も登場するが、夷陵の戦いで戦死する。

「吉川三国志」で初登場の際に蔣欽・周泰は字で名乗ったのを踏襲したためか、「横山三国志」でこの時の蔣欽・周泰は後に活躍する時とは全く別人の顔をしている。ちなみにモブ顔ではあるが傷だらけどころか作中屈指のイケメンである。