州泰 平民出の名将

州泰(しゅうたい)字は不明
荊州南陽郡の人(??~261)
魏の臣。
「鄧艾伝」に附伝される。
功業を立て用兵に巧みだった。
征虜将軍・仮節都督江南諸軍事まで上った。
「世語」に曰く。
はじめ荊州刺史の裴潜(はいせん)に従事に任命された。
司馬懿が宛に駐屯した時、裴潜はたびたび州泰を使者に出し、それで知己を得た。
228年、孟達(もうたつ)の討伐で司馬懿の先導を務め、才を見込まれた。
招聘しようとしたが父・母・祖父を立て続けに失い9年の喪に服したため、司馬懿は属官の地位を欠員にしたまま喪が明けるのを待った。
9年後、属官に取り立てるやわずか36日で新城太守に抜擢された。
司馬懿は宴会を開いてやり、鍾会(※原文は父の鍾繇(しょうよう)と誤記)に「君は平民から宰相(司馬懿)の役所に入り、36日で太守になった。乞食が小さな車に乗ってなんと早く走ることか」とからかわせると、州泰は「その通りです。君は名家の子として文才に優れ、ずっと文官を務めている。猿が土の牛にまたがり、なんと歩みの遅いことか」と返した。客人はみな大喜びした。(『州泰伝』)
250年、王昶(おうちょう)は、新城太守の州泰・荊州刺史の王基(おうき)・征南将軍の王昶が三方から呉を攻める策を立てた。三軍とも戦功を立てた。(『王昶伝』)
251年正月、州泰・王基は呉軍を撃破し数千人を降伏させた。(『斉王紀』)
「世語」に曰く。
兗州・豫州刺史を歴任し治績を上げた。(『州泰伝』)
252年、司馬師は大将軍となり魏の実権を握った。州郡を守る代表的な臣下として王基・州泰・鄧艾・石苞(せきほう)の名が列挙される。(『晋書 景帝紀』)
257年、諸葛誕の反乱では兗州刺史として石苞とともに遊軍を務めた。
呉の朱異(しゅい)が大軍勢を率い2度に渡って攻め寄せたが、州泰らに撃退された。呉軍を率いる孫綝(そんちん)は激怒し朱異を殺した。(『諸葛誕伝』)
「孫綝伝」に詳細が記される。
朱異は3万の兵で魏軍の包囲網を牽制した。州泰が迎撃して2千人を死傷させると、呉軍は態勢を立て直し5万の兵で攻め寄せた。
朱異は決死隊6千を募り、夜陰に紛れて対岸に渡ったが、石苞・州泰に撃破された。さらに胡烈(これつ)が間道を伝って兵糧を焼き払うと、孫綝は3万の兵で朱異に決死の戦いをさせようとしたが、拒否されたため処刑した。
諸葛誕も敗れると呉軍は撤退し、孫綝は救援に失敗した挙げ句に多数の兵を失い、声望ある朱異を殺したため人々に恨まれ、後に誅殺された。(『孫綝伝』)
261年に没した。
衛将軍を追贈され、壮侯と諡された。(『州泰伝』)
「演義」では諸葛誕の討伐に顔を出す。
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