朱然 炎の男

朱然(しゅぜん)字は義封(ぎほう)
揚州丹陽郡の人(182~248)
呉の臣。
朱治(しゅち)の甥(姉の子)。
元の姓は施然(しぜん)。
13歳の時、子供のいない朱治が孫策に願い出て養子にもらい受けた。孫策は丁重に召し出し、手厚く祝ってやった。
孫権とは学友で篤い恩義があり、200年に孫策の後を継ぐと19歳で会稽郡余姚県長に任じられた。
山陰県令に昇進し、折衝校尉を加えられ5つの県を監督した。孫権は才を高評価し、丹陽郡を分割して臨川郡を作り、朱然を太守に任じ兵2千を授けた。ちょうど蜂起した山越を討伐し一月で平定した。
曹操が濡須を攻めると防備にあたり、偏将軍に任じられた。(『朱然伝』)
朱然・徐盛(じょせい)らは濡須督の周泰の指揮下にあったが、彼を侮り指示に従わなかった。そこで孫権は宴会を開くと、周泰にもろ肌脱がせ、傷跡を指差しては過去の戦いの思い出を話させた。そして御蓋(君主の使う日傘)を授けると、徐盛・朱然は孫権の信頼と周泰の功績を知り、指示に従うようになった。(『周泰伝』)
219年、関羽との戦いでは別働隊を率い、潘璋(はんしょう)とともに関羽を捕虜にした。昭武将軍に上り西安郷侯に封じられた。
呂蒙が危篤になり、孫権がもし復帰できなければ誰を後任にすべきか尋ねると「朱然は決断力でも実行力でも十二分です」と推薦した。没すると孫権はそれに従い、朱然に仮節を与え江陵に駐屯させた。
222年、夷陵の戦いでは陸遜とともに劉備を迎え撃ち、先鋒を撃破し、退路を断った。征北将軍となり永安侯に進んだ。(『朱然伝』)
徐盛・潘璋らは追撃を掛ければ劉備を捕らえられると上表したが、陸遜・朱然・駱統(らくとう)らは魏が裏切って侵攻を企んでいると主張し、的中した。(『陸遜伝』)
魏は曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃に江陵を包囲させ、曹丕自ら後詰を務めた。
孫権は孫盛(そんせい)に1万の兵を与えて救援させ、長江の中洲に陣取り、砦を築いたが張郃に撃破され、朱然は孤立した。潘璋らも駆けつけたが包囲を破れなかった。
城内では疫病が蔓延し、戦える兵は5千人しかなく、曹真は地下道を掘り、櫓を築き城壁の目の前から矢の雨を降らせた。配下は狼狽したが朱然は恐れの色も見せず、隙をついて2つの陣地を奪いさえした。
包囲は6ヶ月を過ぎ、北門を守る江陵県令の姚泰(ようたい)は内応を企んだが、朱然は事前に察知して処刑した。
魏軍はついに諦めて撤退し、これにより朱然の名は魏にも轟き、当陽侯に改封された。(『朱然伝』)
「呉録」に曰く。
援軍の諸葛瑾(しょかつきん)は鷹揚な性格で臨機応変な策を採らず、孫権は不満だったが、結局は救援に成功した。華々しい勲功は無かったが兵を損なわずに戦果を挙げたことを評価された。(『諸葛瑾伝』)
孫登(そんとう)は歩騭(ほしつ)に人物評価を頼み、荊州の歴代の有能な人物11人として諸葛瑾・陸遜・朱然・潘濬(はんしゅん)らを列挙した。(『歩騭伝』)
224年、朱治が没し喪が明けると、朱然は姓を施然に戻したいと願い出たが、孫権は許可しなかった。
227年、孫権は自ら石陽を攻めたが撤退することとなり、潘璋が殿軍を務めた。
しかし夜間行軍で混乱し防ぎ切れなくなり、朱然が引き返して敵を食い止め、味方の船がはるか彼方まで引き上げるまで守り抜いた。
229年、車騎将軍・右護軍に上り、兗州牧となった。後に呉・蜀で領土の分割協議が行われ、兗州が蜀の領土となったため解任された。(『朱然伝』)
曹休(そうきゅう)が皖城を攻めると、蔣済(しょうせい)は朱然に背後を襲われると危惧し、援軍を送るよう上奏した。はたして曹休は敗走したが、援軍に救出された。(『蔣済伝』)
呉・蜀が連動して魏を攻めると、衛臻(えいしん)は朱然の動きを陽動と見抜いた。
曹叡が親征しようとすると、呉は蜀への義理で兵を出しただけで、すぐに撤退するから戦費の無駄だと反対した。結局、曹叡は親征したが前線にたどり着く前に呉軍は撤退した。(『衛臻伝』)
234年、蜀と合同で魏を攻めることとなり、朱然・全琮(ぜんそう)が斧鉞を授かり左右の督となった。だが疫病により取りやめられた。(『朱然伝』)
孫権は人事を壟断する呂壱(りょいつ)を処刑すると、諸葛瑾・朱然ら重臣に忌憚のない意見を述べるよう言ったが、みな武官だから政治のことは陸遜・潘濬に聞くよう返した。(『呉主伝』)
237年、魏を攻めると蒲忠(ほちゅう)・胡質(こしつ)がそれぞれ数千の兵を率いて迎撃した。この時、朱然の手元には800の兵しかいなかったが敢然と戦い撃破した。(『朱然伝』)
2万の兵で江夏郡を包囲したが胡質に撃破された。(『明帝紀』)
239年、諸葛瑾・歩騭は10年前に罪を犯し配流されていた周瑜の子の周胤(しゅういん)を赦免するよう上表し、朱然・全琮も同じく上陳した。認められたがその頃に病没した。(『周瑜伝』)
241年、樊城を包囲し司馬懿と戦った。
「晋紀」に曰く。
呉は三方から魏を攻め、朱然・孫倫(そんりん)は5万の兵で樊城を包囲した。芍陂を攻めた全琮が撤退後も他の二方面は包囲を続けた。司馬懿が救援に向かおうとすると論者は呉軍は自滅しつつあるから後方で指揮を執ればよいと反対したが、兵法を引き自ら出撃した。
司馬懿は南方の気候は持久戦に向かないと考え、短期決戦を挑もうと挑発したが朱然は乗らなかった。そこで司馬懿は何が何でも攻撃を仕掛ける素振りを見せると、不利を悟った朱然は撤退し、追撃で大戦果を挙げた。(『斉王紀』)
論者は呉軍の勢い盛んだから不利だと言ったが、胡質は「樊城は土地が低く兵も少ない。救援しなければ陥落する」と言い戦いを挑み勝利した。(『胡質伝』)
「魏略」に曰く。
樊城を包囲した朱然に、援軍の夏侯儒(かこうじゅ)は兵が少なかったため戦いを挑まず、距離をおいて太鼓や笛を鳴らし牽制した。1月余りし司馬懿が到着するとともに進撃し朱然を撃退したが、夏侯儒は臆病だとも策士だとも言われ賛否両論となり、結局前線から召還され太僕となった。(『張既伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
殷礼(いんれい)は朱然・諸葛瑾に襄陽を攻めさせるなど多方面から魏を攻める策を立てたが、孫権は採用しなかった。(『呉主伝』)
同241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「朱然らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)
244年、歩騭・朱然は蜀が魏に寝返ろうとしていると疑ったが、孫権は一蹴し、その事実はなかった。(『呉主伝』)
246年、再び魏を攻め、退路を断とうとした李興(りこう)を逆に夜襲で不意打ちし撃破した。
朱然は出撃に先立ち、馬茂(ばぼう)の偽装投降に騙され怒っていた孫権に「勝利したら長江いっぱいに船を並べて凱旋し、陛下の腹立ちを解きます。この言葉を覚えておき、実現したか検討してください」と言っていた。
孫権はこの上表を隠しておき、祝宴の場で披露し「必ずしも言う通りにはならないと思っていたが、その通りになった。事の成り行きがよく見えている」と激賞し、左大司馬・右軍師に任じた。(『朱然伝』)
「漢晋春秋」に曰く。
朱然は柤中を攻め数千の首級や捕虜を得て、1万の民が河を越えて避難した。司馬懿はすぐ民を戻せば混乱しそこを襲撃されると危惧したが、曹爽(そうそう)は聞き入れずに帰らせ、朱然に襲われた。(『斉王紀』)
248年、朱然は江陵に城壁を築いた。(『呉主伝』)
身の丈7尺(169cm)と小柄だったが性格はおおらかで、清廉を重んじ兵器は(威信を示すため)飾り付けするが、それ以外は質素だった。終日職務に励み、いつも陣頭に立ち、何が起きても動揺しない様は誰も真似できなかった。
平時にも朝夕ごとに兵を非常召集し整列させたため、敵は対処がわからず勝てなかった。
諸葛瑾・歩騭の子の諸葛融(しょかつゆう)・歩協(ほきょう)らは父の兵を継いでいたが、孫権は朱然に彼らを監督させた。
陸遜が没すると歴戦の名将の中で生き残っているのは朱然だけとなり、孫権は並ぶ者がないほど厚遇した。
病に倒れ2年にわたり床に伏せ、とうとう危篤になると、孫権は心配のあまり食事を減らし、夜も眠れず、薬や食事を届ける使者を途切れることなく送った。
病状を報告する使者が来ると、自ら様子を尋ね、御殿に通して料理を振る舞い、帰りには反物を授けた。重臣が危篤になった時の対応として、呂蒙・凌統に次ぐものだった。
249年、68歳で病没した。
孫権は喪服を着け心を込めた哭礼を行った。
子の朱績(しゅせき)が後を継いだ。
孫権死後の五鳳年間(254~256)、朱績は改めて施姓に戻りたいと上表し認められた。(『朱然伝』)
「傅子」に曰く。
孫権は孫堅・孫策の事業を受け継ぎ、張昭(ちょうしょう)を腹心、陸遜・諸葛瑾・歩騭を股肱、呂範(りょはん)・朱然を手先とし適切な職務を与え、敵の油断と隙をうかがい、みだりに軍を動かさなかったから敗戦は少なく、江南の地は安定したのである。(『呉主伝』)
陸機(りくき)は「弁亡論」で「朱然らは国家の威信を奮い起こした」と記した。(『孫晧伝』)
陳寿は「朱然・朱桓(しゅかん)は勇敢に武勲を立てた。朱績も指揮官として有能な才を具え、よく父祖の仕事を受け継いだ」と評した。
「演義」では関羽の殺害に関与した者がほとんど皆殺しにされることもあり、朱然も夷陵の戦いで趙雲に討ち取られてしまう。
「真三國無双」では夷陵の戦いなど朱然を火攻めの開始地点まで護衛するミッションが多く、放火魔やチャッカマンのあだ名で呼ばれる。
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