全琮  名臣、晩節を汚す

 

全琮(ぜんそう)字は子璜(しこう)
揚州呉郡銭唐県の人(198?~249?)

呉の臣。
全柔(ぜんじゅう)の子。

父の全柔は朝廷に仕えていたが、董卓が実権を握ると官を捨てて帰郷した。後に都尉となり、孫策が呉郡に迫ると真っ先にその配下となり、やがて孫権の車騎将軍府の長史となった。

ある時、全柔が米を売りその金で必要な物を買ってくるよう命じると、全琮は米を人々に施してしまい、何も持たずに帰った。全柔が立腹すると、全琮は平伏し「買ってくるよう命じられた物は差し迫って必要ではなく、一方で士大夫らは逆さ吊りされているような苦しみの中にあります。それを見て施さずにはいられず、父上の許可を得る暇もありませんでした」と言った。全柔は以前にも増して息子を非凡だと思った。
(※徐衆は「評判を求め父の財産を勝手に使ったのは父子の礼に背く」と例によっていちゃもんを付け、裴松之は「確かに礼には外れるが、他人の急場を救うために施したのを評判を求めただけと言ってしまうのは、全琮の思惑とは違うのではないか」と反論する)

当時、中原の戦乱を避けて南方に移住し、全琮を頼る者が数百家に及んだ。全琮は家財を傾けて援助し、物を分かち合ったため名声が轟いた。
奮威校尉に任じられ、山越の討伐を命じられると、兵を集め精鋭1万を手に入れた。偏将軍に昇進した。(『全琮伝』)

210年、周瑜が没すると龐統は遺体を孫権のもとへ送り届けた。戻ろうとすると名声高い龐統の見送りに全琮らが集まり、人物評価に優れた龐統は彼らを一人ずつ評し、全琮は「施しを好み名声を嫌い、樊子昭(はんししょう)に似ている。智力は多いと言えないが、時代を代表する優れた人物だ」と評された。(『龐統伝』)

張允(ちょういん)の子の張温(ちょうおん)の評判を聞いた孫権が周囲に尋ねると、劉基(りゅうき)は「全琮に肩を並べる」と言い、顧雍(こよう)は「肩を並べる者などいない」と絶賛した。孫権は「もし本当なら張允は死んでいないのと同じだ」と喜び、引見した。
張温の弁舌に群臣は思わず聞き惚れ、張昭(ちょうしょう)は彼の手を握り「このおいぼれがあなたに希望を寄せていることを、よく覚えておいていただきたい」と感嘆した。
議郎・選曹尚書に任じられ、後に太子大傅となり深く信任された。(『張温伝』)

孫権からの季節ごとの賜与品の手厚さは張昭・全琮・劉基が等しかった。(『劉繇伝』)

219年、関羽が魏へ侵攻すると、全琮は今なら関羽を討てると計略を立てた。孫権は既に呂蒙と同様の計画を進めていたため、漏洩を恐れて握り潰した。関羽討伐を終えると孫権は祝宴の席で事情を明かし、「これは全琮の手柄でもある」と称え、陽華亭侯に封じた。(『全琮伝』)

「魏略」に曰く。
孫権は魏へ降伏し、その書状の中で「魏の馬和(ばか)が居巣へ進出し、河を渡ろうとしているため周泰・全琮が偵察に向かうと攻撃され多くの死傷者を出した」と記す。(『呉主伝』)

222年、魏の曹休(そうきゅう)・張遼・臧覇(ぞうは)が洞口へ侵攻すると、呂範(りょはん)が迎撃を命じられた。魏軍はしばしば船足の速い軍船で攻撃を仕掛けたため、全琮は警戒を怠らずに防いだ。
魏軍が数千の兵で中洲を攻めると全琮・徐盛(じょせい)・孫韶(そんしょう)はそれを撃破し、敵将の尹盧(いんろ ※尹礼か)を討ち取った。
この功績により綏南将軍となり、銭唐侯に進んだ。(『呉主伝』・『徐盛伝』・『呂範伝』・『全琮伝』)

225年、仮節を授かり九江太守を務めた。(『全琮伝』)

228年、陸遜の指揮下で朱桓(しゅかん)とともに左右の督を務め曹休を撃破した。(※石亭の戦い)(『全琮伝』・『朱桓伝』)

この頃、丹陽・呉・会稽の3郡で山越が蜂起したため、孫権は3郡の辺境を分離して東安郡とし、全琮を太守に任じた。赴任すると賞罰を明確にし、反乱者に帰順を呼びかけると数年で1万人が降伏した。
平定したため呼び返され、東安郡は廃止された。
「江表伝」に曰く、帰途に銭唐県に立ち寄り、盛大に祖先の祭祀を行い、町人や知人、一族を招き数千万銭を振る舞った。人々は郷土の誉れと称えた。

229年、衛将軍・左護軍・徐州牧に上り、公主の孫魯班(そんろはん)を妻に賜った。

「呉書」に曰く。
もともと勇気と決断力を持ち、難事に取り組む時には奮い立ち我が身を顧みなかった。しかし軍の指揮を執るようになると威儀を大切にして慎重に行動し、万全の作戦を立て、小さな利益を追わなかった。

「江表伝」に曰く。
太子の孫登(そんとう)が出征を命じられると、誰もそれを止められない中、全琮だけが「太子が自ら出征した古例はありません」と孫権を諌め、取りやめさせた。論者は全琮には重臣としての節義があると評価した。(『全琮伝』)

「呉書」に曰く。
陳熾(ちんし)を「大将軍にもなれる人物」と推挙したが官途に就く前に没した。(『呉主伝』)

230年、魏から呉に投降した隠蕃(いんばん)は評判を集め、全琮らに尊重された。しかし隠蕃は後に反乱した。(『孫登伝』)

233年、5万の兵を率い六安へ軍を進めた。住民が離散すると、配下は彼らを捕えたいと申し出たが、「危険な橋を渡りながら僥倖を期待し、(敵地で)安全も確認できないまま事を起こすのは、得るものと失うものが相半ばし万全とは言えない。たとえ住民を得られても敵方の力を弱められず、(兵を分けた隙に攻められ)万一のことがあれば損失は小さくない。民を追わなかったことで罪に問われても、私はそれを甘受する。功を求めて国に迷惑は掛けられない」と却下した。(『全琮伝』)

孫権が合肥新城を攻め、全琮・朱然(しゅぜん)が越を授けられ左右の督となり、六安を攻める作戦だったがともに敵を降せず撤退した。(※「朱然伝」には234年と記される)(『呉主伝』・『朱然伝』)

237年にも再び攻めたが戦果を挙げられなかった。(『呉主伝』)

237年、魏の呂習(りょしゅう)が呉へ偽装投降を仕掛けた。朱桓・全琮が合流しようとしたが罠に気付き、朱桓が殿軍を務め撤退した。李膺(りよう)は呉軍が河を半分渡ったら攻撃しようと狙っていたが、朱桓が殿軍にいるのを見ると、躊躇して攻撃できなかった。これほど魏軍に恐れられていた。

当時、全琮が軍の督を務めていたが、孫権は勅命で胡綜(こそう)も軍議に加えさせた。
全琮はなかなか戦果を挙げられず、奇襲作戦を立てたが、気位が高く他人に指図されるのを好まない朱桓は抗議し、言い争いになった。全琮は言葉に詰まり「陛下が胡綜に命じられ、胡綜が立てた作戦だ」と責任転嫁した。
朱桓は激怒し、胡綜を呼び殺そうとすると、側近が胡綜に告げて逃がした。朱桓は側近を殺し、諌めた副官も殺すと「発狂した」と言い都へ帰った。
孫権は功績と能力に免じて罪に問わなかった。(『朱桓伝』)

239年、周瑜の子で配流されていた周胤(しゅういん)の赦免を諸葛瑾(しょかつきん)・歩騭(ほしつ)・朱然・全琮らが訴え認められたが、ちょうど病没した。(『周瑜伝』)
ちなみに孫魯班ははじめ周胤の兄で早逝した周循(しゅうじゅん)に嫁いでいる。(『孫権歩夫人伝』)

241年、淮南を攻め、芍陂を決壊させ兵糧庫を焼き、住民を捕虜とした。
魏の王淩(おうりょう)と戦い、秦晃(しんこう)ら十数人の将が戦死した。(※芍陂の役)(『呉主伝』)

次男の全寄(ぜんき)は根性の曲がった人物で、顧譚(こたん)に蔑視されていた。
芍陂の役で顧譚の弟の顧承(こしょう)と張休(ちょうきゅう)が奮戦して敵を食い止め、長男の全緒(ぜんしょ)や下の子の全端(ぜんたん)が反撃してなんとか王淩を退けた。
論功行賞では顧承・張休が大きく評価され、全緒・全端の評価は低かったため、全琮・全寄父子はそれを恨み、共謀して顧譚を陥れた。

「呉録」に曰く。
全琮・全寄は繰り返し讒言し、(評価役の)陳恂(ちんしゅん)と結託して戦功を過大評価させたと訴えた。

配流先で顧譚・顧承・張休は命を落とした。(『顧雍伝』)

太子の孫和(そんか)と弟の孫覇(そんは)が同等の扱いを受け、人々はそれぞれを擁立し争った。(※二宮の変)
全琮が人々が子弟をそれぞれの役所に送り込んでいると陸遜に告げると、陸遜は「子弟に才能があれば信任されるもので、栄利を求めて勝手に出仕させてはならない。二人の皇子の勢力が互角であれば対立するものだ」と危ぶんだ。
果たして全寄は孫覇に取り入り、軽率に孫和と事を構えた。陸遜は全琮に「金日磾(※皇帝に取り入り気ままに振る舞った息子を殺した人物)を手本にしなければ家門に災いをもたらすでしょう」と忠告したため、二人は険悪になった。(『陸遜伝』)

同241年、太子の孫登は遺言で「全琮らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。(『孫登伝』)

246年、右軍司馬・左軍師に上った。(※「呉主伝」には右大司馬と記される)
慎み深く素直な性格で、相手の気持ちを汲み取りながら意見し、面と向かってきつい言葉で反対することはついぞ無かった。
孫権は(辺境の)珠崖・夷州を占領しようと考えると事前に全琮に意見を求め、「勝てないことはありませんが、当地は疫病がはびこり、移住させた民を介して蔓延します。みだりに防備を減らしてまで求める利益はありません」と反対されたが、聞き入れなかった。
1年ほどで遠征軍の8~9割が疫病で死に、孫権は深く後悔した。全琮は「諌めなければ不忠になると思いました」と言った。
全琮は信任を受けて重んじられ、一族の子弟も取り立てられ莫大な恩賞を受けたが、己を虚しくして驕り高ぶる態度を見せなかった。(『全琮伝』)

247年に没し、子(三男?)の全懌(ぜんえき)が爵位と兵を継いだ。(※「全琮伝」には249年正月没と記される)(『呉主伝』・『全琮伝』)

「建康実録」に曰く、249年冬没、享年52。(『建康実録』)

「呉書」に曰く。
長男の全緒は武勇に優れたが44歳で没した。
次男の全寄は二宮の変で孫覇に与しへつらったため自害させられた。
末子の全呉(ぜんご)は孫権の孫に当たるため列侯された。(『全琮伝』)

257年、魏の諸葛誕が反乱を起こすと、呉は全懌・全端らを救援に派遣した。しかし呉に残った全氏の一族に内紛が起こり、全緒の子の全輝(ぜんき)・全儀(ぜんぎ)らは一族を引き連れ魏へ亡命した。
鍾会は全輝・全儀に「遠征軍が勝てないため全氏の一族が処刑されそうになったから亡命した」という手紙を全懌に送らせた。全懌・全端らは恐慌をきたし、魏へ降伏した。(『鍾会伝』)

裴松之は太子の孫和を差し置き孫覇を擁立した人々を非難し「一点の悪事により数々の良い点をみな駄目にしてしまう。歩騭はそれ以外の良いところを評価してやる必要などなく、呂岱(りょたい)・全琮らは論ずるにも値しない」と一蹴する。(『孫和伝』)

陳寿は「時代を背負って立つ才能があり、当時の人々から重んじられたが、息子の悪事を野放しにしたため、謗られ名誉を傷つけられた」と評した。

「演義」では石亭の戦いにのみ登場。芍陂の役も二宮の変も描かれないため晩節を汚さないが、名臣でもない。