段煨  董卓軍の良心



段煨(だんわい)字は忠明(ちゅうめい)
涼州武威の人(??~209)

董卓の配下。

191年、孫堅が洛陽に迫ると華陰に駐屯し侵攻に備えた。
農業に励み略奪を働かず、董卓の死後も留まり統治を続けた。

195年、献帝が董卓残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)が牛耳る長安から脱出すると、段煨は華陰に迎え入れようとした。だが献帝に従う楊定(ようてい)は以前から段煨と反目しており「段煨は謀叛を企んでいる」と讒言し、楊定と親しい种輯(ちゅうしゅう)も口添えした。
楊彪(ようひょう)が反論したものの、楊定がさらに郭汜の兵が段煨の陣に入ったと虚言を弄したため、献帝一行はやむなくそこを立ち去った。
楊定は続けて段煨を攻撃したが敗北し、献帝を追ってきた李傕・郭汜がそれに乗じて段煨を援護したため、楊定は一人、荊州へと落ち延びていき消息を絶った。
すげなくされた段煨はその後も献帝を援助し続けており、彼に二心はなかった。

またその頃、賈詡は仕えていた李傕のもとを離れ同郷の段煨を頼った。
すでに広く名を知られていた賈詡は段煨の配下たちにも慕われ、段煨もいつか実権を奪われるのではと恐れたが、表には出さず丁重に遇したものの、賈詡はそれを察して身の危険を感じ、同じく董卓残党の張繡(ちょうしゅう)のもとへ移った。
その際に妻子を置き去りにしたが、賈詡の計算通り、段煨は張繡との関係悪化を恐れて賈詡の妻子を手厚くもてなしたという。

その後、献帝は曹操に迎え入れられ、198年、裴茂(はいぼう)の指揮下で段煨は董卓残党の掃討を行い、李傕の首を挙げ安南将軍に任じられ、列侯された。
さらに朝廷に徴され大鴻臚にまで上り、209年に病没した。