鄭渾 任地を必ず栄えさせる

鄭渾(ていこん)字は文公(ぶんこう)
司隷河南郡開封県の人(??~??)
魏の臣。
父・祖父はいずれも名高い儒学者だった。
兄の鄭泰(ていたい)が揚州刺史になり任地へ向かう途中で急逝したため、遺児の鄭袤(ていほう)を連れ、兄の仕えていた袁術(えんじゅつ)のもとへ戻った。
袁術には手厚くもてなされたが、いずれ破滅するだろうと考え、兄の親友で豫章太守の華歆(かきん)に身を寄せた。
後に華歆とともに曹操に仕え、鄭渾は県令に抜擢されると、長期的視野の無い民衆は狩猟でその日暮らしをし、子を育てることも無かったため、猟の道具を取り上げ、代わりに農耕と養蚕を行わせ、捨て子を法令で禁じた。はじめは罪を恐れて服従するだけだった人々は、やがて生活が向上すると満足し、鄭渾を慕い子の字に鄭と名付けた。
左馮翊太守に転じると、かつて馬超とともに挙兵した梁興(りょうこう)が官民合わせて5千戸あまりを率いて当地を荒らしていたため、配下は避難を勧めたが、鄭渾は人々は梁興を恐れて従っているだけだと言い、防備を固め政治の安定に力を注いだ。
予見した通りに梁興の下から人々は離れて行き、夏侯淵の援軍が到着すると、鄭渾も兵を出し梁興を討ち取った。
さらに靳富(きんふ)、趙青龍(ちょうせいりゅう)らが反乱したが鄭渾は速やかに鎮圧した。
上党太守に転任し、215年、漢中征伐に際し京兆尹に任じられた。
鄭渾は家族と単身者、温厚な者と孤児や老人を一組とし助け合わせた。漢中征伐では兵站を担当し、民を開墾に派遣したが、逃亡する者はなかった。
曹操は鄭渾を気に入り都に呼び寄せた。(『鄭渾伝』)
220年、侍御史として司馬懿らとともに曹丕に皇帝への即位を求めた。(『文帝紀』)
水害に悩む陽平・沛郡の二太守に転任された。
鄭渾は率先して堤防を一冬の間に完成させ、大豊作を招いた。人々は鄭渾を讃える石碑を建て、堤防を「鄭陂」と名付けた。
山陽・魏郡太守に転じ、経験を活かし同様に栄えさせた。
曹叡はそれを讃え将作大匠に昇進させ、天下に治績を布告させた。
鄭渾の統治する土地の人々は富み栄えたが、彼自身は質素倹約に努めたため、妻子は常に飢えと寒さに苦しんだという。
没すると子の鄭崇(ていすう)が郎中に取り立てられた。(『鄭渾伝』)
陳寿は「鄭渾と倉慈(そうじ)は筋道の立った思いやりのある政治を行った。魏の名太守である」と評した。
「演義」には登場しない。
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