陳寿  三国志の著者



陳寿(ちんじゅ)字は承祚(しょうそ)
益州巴西郡安漢県の人(233~297)

蜀・晋の臣。
三国志(いわゆる正史)の著者。

若くして学問を好み同郡の譙周(しょうしゅう)に師事した。
蜀に仕え観閣令史となった。
宦官の黄皓(こうこう)が権勢を振るい高官もへつらったが、陳寿だけは屈服せずたびたび譴責され左遷された。
父が没し喪に服していた時、病気にかかったため薬を作らせているところを弔問客に見られ、同郷の人々に非難された。(※服喪中は自分の身体の心配などしてはいけないとされる)

263年、蜀が滅亡しさらに数年経っても郷里の悪評により世に出られなかった。
司空の張華(ちょうか)はその才を惜しみ「批判はもっともだが心情を考えれば降格や排斥させるほどではない」と弁護してやり、孝廉に挙げられ佐著作郎になり、陽平令(平陽国相?)に任じられた。
「諸葛亮集」を上奏し、著作郎に上り本郡の中正を務めた。
「三国志」65篇を著し人々に称えられた。夏侯湛(かこうたん)は「魏書」を著していたが「三国志」を読むと(到底及ばないと)すぐさま破却し執筆をやめた。張華も大いに評価し「君に晋書を書かせたい」と言うほどに重用された。

しかし一説に魏の丁儀(ていぎ)・丁廙(ていよく)兄弟の子に「米を1000斛くれれば列伝を書こう」と持ちかけ、断られたため書かなかった。
父が蜀の馬謖(ばしょく)に仕え、(街亭の戦いで敗れ)馬謖が処刑されると父も連座して髠刑となったため諸葛亮を恨み、その子の諸葛瞻(しょかつせん)にも軽んじられたため諸葛亮を「軍略には長じなかった」と、諸葛瞻を「書は巧みだが名声が実態に勝った」と悪く書いたなどと非難されることもあった。

張華は中書郎に推挙したが、張華と敵対する荀勗(じゅんきょく)は讒言により陳寿を長広太守に左遷した。母が高齢のため着任は免れた。
後に杜預(とよ)が司馬炎に黄門侍郎か散騎常侍に任じるよう推挙したため御史治書となった。
母が没したため官を辞すと、遺言に従い洛陽に葬った。ところがこれも故郷に葬らなかった不孝行と非難されたうえ罷免された。かつて師の譙周は「君は才能と学問で名を上げるが、必ずや不当な批判を受ける。不幸なことだ。慎重に振る舞いなさい」と忠告しており的中したのだった。
数年後に太子中庶子となったが拝命しなかった。

297年に没した。享年65。
范頵(はんいん)らが「(大文学者の)司馬相如が重病になると時の皇帝は著作を全て集めさせました。陳寿の三国志は勧戒が多く、得失を明らかにし教化に役立ちます。文の華やかさでは司馬相如に及びませんが、質実で正確な点では勝ります。どうか採録してください」と上表し、詔勅により陳寿の著作は全て書き写された。
他に「古国志」50篇と「益部耆旧伝」10篇など多くの文章が世に伝わった。(『晋書 陳寿伝』)

その記述は正確さを旨とし、創作ではない確実にあっただろう出来事のみを抽出している。だがいささか簡潔すぎたため後に裴松之が詳細な注を入れ「三国志」は注とともに現代まで伝わった。
蜀の旧臣として祖国には多くの配慮をしており、たとえば劉備・劉禅は一貫して名ではなく先主・後主と記し敬意を表す。
また蜀書の末尾には「季漢輔臣賛」を載せることで、その国名が蜀ではなく漢だったことを示唆した。