董允  蜀のご意見番



董允(とういん)字は休昭(きゅうしょう)
南郡枝江の人(?~246)

蜀の臣。
董和(とうか)の子。

皇太子・劉禅(りゅうぜん)の側近となる。
諸葛亮は北伐にあたり出師の表で「内のことはすべて郭攸之(かくゆうし)・費禕(ひい)・董允にお聞きください」とまで言った。のちに費禕は前線に召し出され、郭攸之は控えめな性格で目立たず、劉禅を諌める役は董允だけが務めることとなった。
孔明の死後、劉禅は後宮を美人で満たしたいと願ったが董允の反対で断念した。また劉禅は宦官の黄皓(こうこう)を寵愛したが、董允が目を光らせていたため、黄皓の思うようにはさせなかった。
董允が費禕、胡済(こせい)らと馬車で出かけようとしたとき、董恢(とうかい)という身分の低い若者が訪ねてきた。董恢は出直そうとしたが、董允はすぐに馬車を片付けさせ董恢を手厚くもてなした。また常々「自分は蔣琬(しょうえん)にも費禕にも及ばない」と自省をおこたらなかったため、董允の謙虚な姿勢と才知は人々にも認められ、諸葛亮・蔣琬・費禕に董允を合わせて「四相」「四英」と呼ばれた。

董允が死去すると、劉禅や黄皓は望むままに羽を伸ばし、堕落をきわめ、やがて蜀の滅亡を招いた。

~余談~
『正史』では通常、父の伝が立てられている場合は、子の事績は父の伝に付記されるのだが、董允だけは父と別に伝が立てられている。
陸抗(りくこう 陸遜の子)や陳泰(ちんたい 陳羣(ちんぐん)の子)ら父にも劣らない名将でさえ付記されているのに、董允だけが例外なのは、父の董和の事績をはるかに上回っているからだろうかと、裴松之は推測している。
ちなみに父の董和は、息子とその友人の費禕のどちらが優れているか迷い、許靖(きょせい)の子の葬儀にわざとみすぼらしい馬車で参列しようとした。
董允は嫌がったが、費禕は平然としていたため、「どちらが大物かようやくわかった」と董和は言ったという。
どうも董允は父にはあまり評価されていなかったようである。