董卓  暴君

 

董卓(とうたく)字は仲穎(ちゅうえい)
涼州隴西郡臨洮県の人(??~192)

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

後漢末の群雄。

若い頃は男伊達を気取り羌族の地方を放浪し、顔役の全てと交友を結んだ。
郷里へ帰り農耕に励んでいたが、顔役たちが訪ねてくると牛を殺して振る舞い歓待した。顔役らは感激し、千頭あまりの家畜を贈った。

桓帝の末年(168年頃)、6郡から良家の子弟が推挙され、羽林郎に任じられた。
董卓は武芸に秀で腕力が強く、馬を走らせながら左右どちらへも射撃できた。軍の司馬となり、張奐(ちょうかん)の并州討伐で戦功を挙げ郎中となった。恩賞の絹9千匹を全て部下へ与えた。
広武令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉と昇進し、罷免されたが并州刺史・河東太守に任命された。
中郎将に上ったが黄巾の乱で敗北し罷免された。

涼州で韓遂(かんすい)らが反乱すると中郎将に復帰し防戦に当たった。(『董卓伝』)

董卓はなんの成果も挙げられなかった。
186年、張温(ちょうおん)が討伐軍を率い、董卓を召集したがぐずぐずして遅刻した。張温が責めると不遜な態度を見せ、参謀の孫堅は処刑すべきだと進言したが、張温は西方で威名の轟く董卓を殺したら支障があると渋った。
孫堅はなおも「天子の軍を率いるあなたをないがしろにした。韓遂らの討伐を命じられながら何もしなかった。手柄も立てていないのに召集を渋りしかも不遜な態度を取った」と3つの罪を数え上げたが、張温は従わなかった。
韓遂らは大軍を恐れて開戦前に散り散りになったため、討伐軍に恩賞は与えられなかったが、孫堅が董卓の処刑を進言したことに誰もが感嘆した。(『孫堅伝』)

董卓は羌族の数万の兵に包囲され食料も尽きたが、魚を捕ると偽って軍を動かし、密かに川をせき止めて数十里に渡って水を貯め、渡河してから水を流し無事に逃げ延びた。この戦で6師団のうち5師団が敗走したが董卓だけが兵を損なわずに撤退した。
前将軍となり斄郷侯に封じられ、後に并州牧となった。

189年、霊帝が没すると大将軍の何進(かしん)は袁紹とともに宦官の誅滅を図ったが、何太后(かたいこう)は聞き入れなかった。
そこで董卓ら地方の有力者を召し寄せて軍事力を盾に脅そうとしたが、到着前に何進は宦官に暗殺された。袁紹は報復のため宮殿へ突入して宦官を殲滅し、少帝を連れて逃げた宦官も董卓に捕まった。
何進の弟で車騎将軍の何苗(かびょう)も殺され、指揮官を失った何進・何苗の兵は全て董卓に身を寄せた。
董卓はさらに呂布を寝返らせ丁原(ていげん)を殺して兵を奪い、かくして都で軍事力を持つのは董卓のみとなった。(『董卓伝』)

董卓は呂布に大いに目をかけて信頼し父子の契りを結んだ。(『呂布伝』)

都の外で徴兵していた鮑信(ほうしん)は帰還すると董卓の野心を察し、遠路はるばる来て疲弊しているうちに討つべきだと袁紹を焚き付けたが、恐れをなした袁紹は動かず、鮑信はそのまま郷里へ帰った。

天候不順により司空が罷免され、董卓が後を継ぎ、さらに太尉に上り節越と近衛兵を与えられた。
ついに少帝を廃して献帝を立て、間もなく少帝と何太后を殺した。(300年ぶりに)相国の位を復活させて就任し郿侯に封じられた。様々な特権を得て、母を池陽君(ちようくん)に取り立てられた。(『董卓伝』)

董卓は驍騎校尉に任じて曹操を用いようとしたが、姓名を変えて郷里へ逃げ挙兵した。(『武帝紀』)

董卓が少帝を廃したいと相談すると、袁紹は叔父の袁隗(えんかい)と相談したいと尻込みした。董卓は「劉氏の血統など残すまでもない」と言い、袁紹は何も答えずその足で冀州へ逃亡した。
人事権を持つ何顒(かぎょう)らは裏で袁紹と通じていたため、処罰せず渤海太守・邟郷侯を与え懐柔すべきだと進言し、董卓ももっともだと同意した。(『袁紹伝』)

袁術も後将軍に任じられたが董卓を恐れ逃亡した。(『袁術伝』)

残忍非情で厳しい刑罰で脅し、わずかな恨みにも必ず報復したため人々は身を守るのも困難だった。
ある時には村祭りに集まった民を襲い、男をことごとく斬首して女をさらい、金品を奪って車に首を連ね、賊を討伐したと言いふらして凱旋し、首を燃やして女を兵に与えた。宮女や公主も襲った。

周毖(しゅうひ)・伍瓊(ごけい)に人事を任せたが彼らが刺史・太守に任じた韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨(ちょうし)、張邈(ちょうばく)らはこぞって挙兵した。董卓は内通して自分を売ったと思い込み、周毖と伍瓊を処刑した。
王匡(おうきょう)も挙兵したが、董卓は河を渡ると見せかけて伏兵を背後に回し、ほとんど壊滅させた。しかし次々と豪雄が挙兵したため恐怖し落ち着かなかった。(『董卓伝』)
許靖(きょせい)も周毖らと人事を担当していたが、周毖が殺され従兄が孔伷に協力していたため処刑を恐れ逃亡した。(『許靖伝』)

袁紹を盟主に曹操、袁術、鮑信らが挙兵した。(『武帝紀』)

中牟県令の楊原(ようげん)は逃亡を企てたが、任峻(じんしゅん)は「誰もが董卓に怒っていますが、きっかけがなく決起できないだけです。あなたが口火を切れば後に続くでしょう」と説得し、「関東10県の兵を集めれば1万人を下りません。河南尹を代行し募兵しましょう」と進言した。
楊原はそれに従い、任峻に主簿を命じた。任峻は上奏して河南尹を代行し兵を集めた。
ちょうど曹操の軍が県境に入ってきたため、張奮(ちょうふん)と相談して協力を決め、郡を挙げて迎えるとともに、一族と食客を数百人集めて合流した。曹操は大いに喜び、任峻を騎都尉に任じるよう上表し、さらに従妹をめとらせた。(『任峻伝』)

董卓は都にいた袁隗ら袁紹の一族をことごとく処刑し、当時の英傑らはみな袁氏と交友を結んでいたため復讐を旗印として挙兵した。(『袁紹伝』)

張承(ちょうしょう ※呉の重臣とは別人)は董卓を討伐しようと蜂起を企んだ。だが弟の張昭(ちょうしょう ※呉の重臣とは別人)は「董卓の兵は多く衆寡敵しません。そのうえ急に挙兵しても将校は平素から目を掛けていたわけではなく、兵も訓練されていません。しかし董卓は兵力を頼んで道義を無視しており、彼の天下は長くは持たないでしょう。協力者を集め時期を待つべきです」とたしなめた。張承はもっともだと思い、官を辞すと兄弟は揚州へ避難した。(『張範伝』)

孫堅も挙兵し袁術の後見を得た。荊州へ兵糧を求める使者を送る宴のさなかに奇襲攻撃を掛けられたが、あわてず座ったままで、孫堅が動揺しないのを見て取った董卓軍は攻撃せず撤退した。
華雄を討ち取るなど大勝した。董卓は勇猛さを恐れ、和睦を求め子弟を抜擢してやると持ちかけたが孫堅は「天に背き王室を覆したお前の一族を皆殺しにしなければ、俺は死ぬにも死ねない。どうしてよしみを通じるものか」と拒絶した。(『孫堅伝』)

190年、洛陽の都を焼いて陵墓を暴き宝物を略奪して(本拠地の涼州に近い)長安へ遷都し、太師となり尚父と号した。(『董卓伝』)

朝廷に仕えていた司馬防(しばぼう)も長安へ移らなければならなかったが、天下が乱れていたため、長子の司馬朗(しばろう)に家族を連れて故郷へ帰るよう命じた。
しかし密告されて捕まり、董卓のもとへ引き立てられた。董卓が「お前は私の死んだ子と同い年だから目を掛けていたのに裏切られるとは」と怒ると司馬朗は褒め殺し、董卓は「お前の言うことはもっともだ」と機嫌を直した。
司馬朗は董卓が間違いなく滅びると察し、賄賂をばらまいて無事に故郷へ帰った。
そして一族の長老たちへ「董卓追討軍が立てば、ここは必ず戦場となります。今のうちに親戚の趙威孫(ちょういそん)のいる黎陽へ避難しましょう」と言ったが、故郷から離れがたいと誰も従わなかった。
結局、司馬朗と同郷の趙咨(ちょうし)だけが黎陽へ逃げ、数ヶ月後には読み通りに河内に追討軍が集結した。
追討軍は団結せず、略奪を働き民の半数近くが殺された。(『司馬朗伝』)

董卓は長安へ遷都し献帝も移した後も洛陽に駐屯していた。袁紹らは怖気づいて進軍しようとせず、曹操は「大軍が揃っているのに何を恐れているのか。董卓は都を焼き払い、無理やり天子を動かし、四海は動揺している。一度の戦いで天下を定める好機だ」と勧め(たが袁紹らは動かず)単身で追撃を掛けた。
徐栄(じょえい)に大敗したが徐栄は寡兵で一日中戦った曹操を警戒し、追撃しなかった。

191年、長安へ撤退した。(『武帝紀』)

孫堅が洛陽まで90里に迫ると董卓は遷都して関中へ撤退した。孫堅は洛陽に入ると皇帝の陵墓を修復し、暴かれた墓を埋め戻した。(『孫堅伝』)

董卓は幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を太傅として招聘したが交通が遮断されており使者はたどり着けなかった。(『公孫瓚伝』)
劉虞は朝貢したいが皇族として恥ずかしくない使者を務められるのは誰かと尋ね、推薦された田疇(でんちゅう)を抜擢した。田疇は正式な使者では命を狙われるからと私的な旅行を装い、間道を伝って長安へ着き使命を果たした。(『田疇伝』)

華歆(かきん)は(難を逃れるため)下邳県令への赴任を願い出たが、病を得て許可されず、脱走し南陽郡へと逃れた。袁術に引き止められたが、董卓の討伐を訴えるも聞き入れられず、去ろうと考えた。ちょうど都から馬日磾(ばじつてい)が派遣され、掾に召されて徐州へ向かい豫章太守に任じられた。(『華歆伝』)

天子の用いる車を使い、一族をことごとく軍事・朝廷の高官につけた。公卿には拝謁させて自分は挨拶を返さず、三公や官僚は報告に出向いた。封地の郿には長安の都と同じ高さの城壁を築き、30年分の穀物を蓄え、もし天下の支配に失敗したらここに籠もって一生を過ごせるとうそぶいた。
公卿を集めて宴会を開くと、数百人の反乱者を引き入れ舌や手足や目を切ったり大鍋で煮た。瀕死の者が転げ回り公卿が肝をつぶして騒然としても、董卓は平然と飲み食いしていた。
天文を占わせ大臣が処刑されると出ると、かねてから恨んでいた張温が袁紹と内通していると讒言させ鞭で殴り殺した。
法令は苛酷で感情により刑罰を乱用し、人々は誣告し合ったため冤罪で命を落とした者は4桁に上った。みな不満に思ったが表に出せず、道で行き合うと目配せして非難の心を共有した。
銅製の像や鐘、台座をことごとく叩き壊し、硬貨を廃止し改めて鋳造したが、模様すら付けず小さく磨くこともしなかったため価値が暴落し、貨幣は流通しなくなった。

192年、王允(おういん)・士孫瑞(しそんずい)は呂布を味方に引き入れて暗殺計画を練った。(『董卓伝』)

董卓は暗殺を恐れて常に呂布に護衛させていた。しかし気性が激しく短気なため後先を考えずに腹を立て、ちょっと気に食わないことで呂布を戟で殴った。呂布は回避して謝ったが、内心で恨んだ。董卓の侍女(※貂蝉のモデルである)と密通しており発覚を恐れてもいた。
王允に内応を誘われると「董卓とは親子の関係である」と渋ったが、「血縁ではなく(董卓に襲われ)命を守るのに精一杯なのに親子だなどと言っていられるか」と説き伏せられた。(『呂布伝』)

献帝の快気祝いに乗じ、配下を衛兵に化けさせて、宮殿に入ろうとした董卓を囲んだ。董卓が驚き呂布を呼ぶと、呂布は「詔勅である」と言って殺した。
三族も皆殺しされ、董卓の死体に走り寄った田景(でんけい)が斬られると反抗する者もなく、配下で殺された者はたった3人だった。
長安の官民は大いに喜び、董卓に迎合した者は全て処刑された。

その頃、董卓の娘婿の牛輔(ぎゅうほ)は李傕(りかく)・郭汜(かくし)・張済(ちょうせい)らを率い陳留・潁川郡を攻めていた。
呂布の討伐軍も迫り、混乱の中で牛輔も殺され、郭汜らは恐慌をきたし解散し帰郷しようとしたが、李傕配下の賈詡が「王允は(董卓と同じ)涼州人を皆殺しにしようとしているのに、解散すればたやすく捕らえられてしまう。ならば兵を集めて長安を攻め、成功すれば天子を奉じて天下を治めればよいし、失敗してもそれから逃げればよい」と進言した。納得した残党は長安へ進撃し、樊稠(はんちゅう)・李蒙(りもう)らと合流し10万の大軍に膨れ上がった。
長安を攻め落として王允を殺し、呂布は敗走した。
董卓を埋葬したが暴風雨により墓は震え、流れ込んだ雨水で棺が浮き上がった。
李傕らは高位に上り朝政を牛耳った。(『董卓伝』・『賈詡伝』)

荀彧は曹操に董卓の評価を問われると「暴虐があまりに酷すぎます。必ず災いを招いて命を落とし、何もできません」と答えた。はたして反乱により殺された。(『荀彧伝』)

荀攸(じゅんゆう)は鄭泰(ていたい)・何顒・种輯(ちゅうしゅう)・伍瓊らと密議を凝らし、「董卓の無道は夏の桀王・殷の紂王を超え、天下の人々に恨まれている。強力な軍勢を持つが一人の男に過ぎず、暗殺して献帝を守り天下に号令を掛けよう」と述べた。
しかし計画は直前に露見し、荀攸・何顒は投獄された。何顒は心労と恐怖のあまり自害したが、荀攸は泰然自若として平素と変わらなかった。
董卓が殺されたため助かり、後に曹操に仕えた。(『荀攸伝』)

199年、曹操の捕虜にされた呂布は自分が力を貸せば天下に敵無しだと言い、曹操も心を動かしかけたが、劉備が「彼が丁原・董卓に仕えながら何をしたかお忘れか」と指摘すると、曹操はうなずいた。
呂布は劉備を指差し「この男が一番信用できないのだぞ」と罵り、処刑された。(『呂布伝』)

219年、諸葛亮らは劉備を漢中王に推挙する上表の中で「董卓が苦難の口火を切って都を破壊し、曹操がそれに乗じて帝権を奪い王室を衰退させた」と述べた。
劉備も献帝へ「董卓が混乱の端緒を開いた」と述べた。(『先主伝』)

263年、蜀を制圧した鄧艾は「郿には董卓の砦が残っているから劉禅を移住させれば宮殿にできる」と提案したが司馬昭は却下した。(『鄧艾伝』)

陳寿は「心ねじけ残忍で暴虐非情だった。記録に残されている限りおそらくこれほどの(酷い)人間はいない」と評した。
裴松之も「桀王、紂王、始皇帝、王莽も暴虐だったが長い年月を経てからその悪行が明らかになった。だが董卓は台頭から死ぬまで3年に満たないにも関わらず、その災いは山よりも高く害毒は四海へ流された。残忍きわまりない性格は山犬や狼よりも甚だしい。陳寿の評は妥当である」と評した。