杜預 破竹の勢い

杜預(とよ)字は元凱(げんがい)
司隷京兆郡杜陵県の人(222~284)
魏・晋の臣。 杜恕(とじょ)の子。 杜畿(とき)の孫。
博学で多くに通達した。興廃を知り「至らぬ者は何をしても徳の境地に達しない。功を立てたり書を著す者は道に近づいた賢才だ」と常々言った。
父の杜恕は司馬懿と対立した末に横死した(※罷免されて民の身分で没した)ため杜預も長らく登用されなかった。
司馬昭の代になり妹の高陸公主(こうりくこうしゅ)をめとり、尚書郎に任じられ、祖父の杜畿の爵位を継ぎ豊楽亭侯となった。
4年後、司馬昭の相国参軍事となり、263年の蜀征伐では指揮官の鍾会の鎮南将軍府の長史として従軍した。
蜀を制圧した鍾会は264年、反乱して殺され、属官もみな殺されたが杜預だけは知恵を働かせて逃げ延びた。
領邑1150戸に加増された。賈充(かじゅう)とともに律令を制定し、それに注釈を付け「法は簡易でわかりやすくなければいけない」と言った。
泰始年間(265~275)、河南尹となった。首都は王政の発端であると考え、議論は大略を心掛けるようにした。
詔勅により官吏の人事基準を定め、「1年ごとに官吏の優劣を報告させ6年後に全て優ならば飛び級で昇進、全て劣ならば罷免、優の方が多ければ昇進、少なければ左遷」など明確にした。
だが司隷校尉の石鑒(せきかん)とは以前から険悪で、弾劾により河南尹を罷免された。
折しも鮮卑が秦州に侵攻しており、安西将軍の石鑒の補佐にあたる安西軍司にはじめ任じられ、長安に着くと秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節とされた。
石鑒は出撃を命じたが、杜預は敵の勢い盛んであり春まで準備を整えるべきだと反対し、5つのやってはならないことと4つのすべきではないことを数え上げた。石鑒は激怒し、勝手に城壁や官舎を修繕したと罪をかぶせた。
杜預は檻車で都に送還されたが、公主の夫だったため爵位の剥奪だけで許された。鮮卑への対策は結局、杜預の献策した通りになった。
これにより杜預は計略に長けていると見込まれ、并州から司隸にまで侵攻した匈奴の劉猛(りゅうもう)への対策を命じられた。
度支尚書に任じられ、製鉄道具の開発、物価調整のための倉庫の建設、税法の改革など50条を作り、全て認められた。
だが石鑒が朝廷に戻ると戦功の水増しを杜預が弾劾したため激しい言い争いとなり、二人揃って罷免された。杜預は役職のないまま度支尚書の仕事を続け、数年後に正式に復帰した。
274年、皇后の楊艶(ようえん)が没した。
旧例では葬儀を終えると皇帝と群臣は服喪をやめることになっており、太子も同様にやめるべきではないかという意見が出された。杜預は古典を引き太子は3年の喪に服すべきだと言い、司馬炎も同意した。
暦と日時計の数値が合わないため「二元乾度暦」を作り世に広まった。
黄河の孟津の船着き場が危険だったため橋の建設を訴えたが、群臣は「孟津は殷周からの由緒あるのにこれまで橋がなかったのは、聖人・賢人もみな建てられないと考えたからだろう」と反対した。杜預は「詩経」を引き「周の文王は浮橋を造ったとある。これは橋ではないか」と論破した。
橋は完成し、司馬炎が自ら杜預に酒を注ぎ「君でなければ完成しなかった」と称えると「聡明な陛下だからこの些細な案を実行できたのです」と返した。
後漢末に失われた欹器(適量の水を注がないとこぼれてしまう器。戒めのために飾る)を再現し、司馬炎に称えられた。
278年、長雨と蝗害が起こった。上奏し農業について重大事を述べた。
度支尚書の任に当たること7年、数え切れないほどの創設と廃止を行った。朝廷も民も称え、あらゆるものを備えていることから「杜武庫」と呼んだ。
司馬炎は呉の制圧を考えていたが朝廷では反対がほとんどで、杜預・羊祜(ようこ)・張華(ちょうか)だけが同意した。羊祜は病になると杜預を後任に推挙し、度支尚書のまま仮節・行平東将軍となり、羊祜の征南将軍軍司を兼務した。
羊祜が没すると鎮南大将軍・都督荊州諸軍事となり、武備を整えて呉の西陵督の張政(ちょうせい)を撃破し、365戸に加増された。
張政は名将だが備えを怠って敗北したのを恥じ、被害を過小報告した。杜預は上表して捕虜を解放し、実際の被害を呉に知らせた。孫晧は怒り、張政を罷免した。
これにより呉討伐に備え、前線の名将を退けられた。
279年、杜預は呉討伐の時期を尋ね、司馬炎は来年だと答え、それでは遅すぎると異を唱えた。一月も経たずにまた上表し「羊祜は内々に陛下(司馬炎)と計画を練ったため反対者を増やしてしまいました。彼らは失敗すれば国を傾けると言うがそんなわけはありません。成功しても自分の手柄にならず、前言撤回したくないだけなのです。もし孫晧が遠くへ遷都し前線を固めたら作戦は破綻します」と訴えた。
司馬炎が張華と碁を打っているところにその上表が届いた。張華は碁盤を押しのけ杜預に同意し、かくして司馬炎も早期の出撃を決めた。
280年正月、杜預は出撃した。
10日に渡り進撃し全ての策が当たった。周旨(しゅうし)らに800の兵で夜に長江を渡らせ、周辺に旗を並べ(大軍に見せかけ)山に火を放った。呉軍は戦意喪失し都督の孫歆(そんきん)は震え上がり江陵督の伍延(ごえん)に「晋軍は長江を飛び越えて現れた」と語った。1万の男女が降った。
益州から攻め上がった王濬(おうしゅん)は孫歆を撃破し、周旨らは敗走する軍に紛れて陣中に入り、孫歆を捕らえて逃げた。晋軍の中で「計略によって代わる代わる戦えば一人で万人と戦える」という歌が流行った。
江陵に迫ると伍延は偽装投降しようとしたが、兵が城に整然と並んでいたため杜預は嘘と見破り撃破した。
杜預には病気で顔にコブがあり、呉人は犬の首にコブのように瓜をつないだり、コブのある木を見つけると木肌を削って「杜預の頭」と書きつけた。江陵を制圧すると杜預はそれらを行った者を全て探し当てて殺した。
長江上流を制圧すると荊州南部から交州・広州に至るまでこぞって降伏した。斬首か捕虜にした都督・監軍は14人、将軍・太守は120人に上った。呉の将兵は一族ごと江北へ移住させ、江南を晋の官吏に治めさせたため荊州は落ち着き、呉人は故郷に帰るように次々と降伏した。
王濬は孫歆を討ち取ったと都に報告したが、そこへ生きたまま孫歆が護送されてきて、王濬は都の笑いものとなった。
ある人が「夏が近づき長雨が続いているから疫病が起こります。冬を待ってから進軍しましょう」と献策したが杜預は「楽毅は一戦で斉を併呑した。我々は勢い盛んで、竹を斬る時に切れ込みを入れれば後は力を入れずに割れるようなものだからこのまま進むべきだ」と退けた。(※破竹の勢いの語源である)
快進撃は続き呉軍は抵抗せずに降伏した。冬を待つよう意見した者も誤りを認め謝罪した。
孫晧を降伏させ凱旋した。当陽県侯に進み9600戸となり、子の杜耽(とたん)も亭侯に封じられ1千戸を与えられた。
杜預は(三国統一後は武官の立場が危うくなると思い)しきりに「代々の文官の家柄で武は苦手です」と退官を訴えたが認められなかった。
「司馬法」の「天下が安寧でも戦を忘れれば危うい」という言葉をもっともだと心得て、訓練を怠らず、学校を建て長江・漢水地域を徳で治めた。山の蛮族を討伐し、要害に兵を配置し警戒を続けた。大規模な灌漑工事を行い、人々は「杜父」と呼んで頼りにした。
水路も大々的に整備し「後世の誰も杜翁(杜預)に逆らわない。その智略による名声、武勇による功績が知れ渡った」とうたわれた。
国家の利益になることは全て行い、行動する時には始めから終わりまで考慮したため失敗は少なかった。邪魔する者が現れると「(古代の聖王の)禹王や后稷は世を救おうと願っていた。私も同じだ」と言った。
後世に名を残すことを望み、自らの功績を石碑に刻み一つは万山の下に沈め、一つは峴山の上に建て、山と谷が逆転するような天変地異が起きても功績が残るよう計らった。
自身は馬に乗れず弓も下手だったが将帥として兵を率いた。
人に対しては恭しく礼をわきまえ、隠し事せず、飽きることなく教え諭し、なすべきことはすぐこなし、言葉少なく慎み深かった。
三国統一後に余裕ができると経典の研究に励み、「春秋左氏経伝集解」を著した。あらゆる注釈を考察して「釈例」を、さらに「盟会図」・「春秋長暦」を著しいずれも一つの門派を形成するほど優れた学問で、晩年にようやく完成した。他に「女記讃」を著した。
論者は「杜預の文章は質朴かつ実直」と評し(研究は好評だが文章は?)世の人にはあまり重んじられなかった。
ただ摯虞(しぐ)だけが絶賛し「春秋左氏伝はもともと春秋の注釈だったが、それ自体が優れていたため単独で世に広まった。杜預の釈例も同様に春秋左氏伝の注釈だが単独で広まるだろう」と述べた。
当時、王済(おうせい)は馬に目がなく、和嶠(かきょう)は金銭欲が強く、杜預はいつも「馬癖と銭癖だ」と呼んだ。司馬炎にお前は何癖だと問われ「左伝癖です」と答えた。
荊州に赴任中、しばしば都の貴族や要人へ贈り物をした。理由を聞かれると「利益を求めるためではなく讒言を防ぐためだ」と言った。
ある時、宴で酔いが回り離れで横になった。嘔吐する声が聞こえ、外から覗いてみると杜預ではなく大蛇が吐いていたという。(※なんだこの話は)
司隷校尉となり特進を加えられたが、移動中に宿で没した。享年63。
司馬炎は嘆き悲しみ征南大将軍・開府儀同三司を追贈し成侯と諡した。(※羊祜と同じ諡号である)
杜預は遺言で「古代に合葬は無かった。聖人である周公旦が合葬を始めたのは、生きている間に何をなすかが重要だと教えるためだろう。以来の君子は合葬するかしないか自ら判断してきた。私が尚書郎の時、密県の邢山に塚があり、ある人は鄭国の祭仲の塚だと言い、またある人は鄭国の子産の塚だと言った。見に行くと鄭国の方を向き、開け放たれた質素な塚だった。山には美しい石が多くあったのにそれを用いておらず、中に宝物も無いことを示していたから荒らされずにそのまま千年残っていたのだ。節倹の極地である。
私は文徳郭皇后(曹丕の皇后)の一族が絶えたことを聞き、上表して陪陵(皇帝陵の側に造られる功臣の陵墓)を造る許可を得た。あの邢山ほどではないが良い所だ。既に道も整備しておいた。墓は洛水の丸石を使い、邢山の塚のように節倹を旨として欲しい」と頼み、子孫はその通りにした。
子の杜錫(とせき)が後を継いだ。(『晋書 杜預伝』)
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