張飛  燕人張飛ここにあり



張飛(ちょうひ)字は益徳(えきとく)
幽州涿郡の人(??~221)

蜀の臣。

若い頃に関羽とともに劉備に仕え、数歳上の関羽に兄事した。
劉備が平原国相となると、張飛とともに別部司馬になりそれぞれ部隊を指揮した。劉備・関羽・張飛は同じ寝台で休み兄弟のように恩愛を掛けられたが、公の席では一日中そばに立って護衛し、劉備のために苦難をいとわなかった。(『関羽伝』・『張飛伝』)

勇猛ぶりは関羽に次ぎ、程昱(ていいく)ら魏の謀臣は「関羽・張飛は1万人を相手に戦える」と称えた。(『張飛伝』)

「英雄記」に曰く。
196年、劉備が袁術と戦った時、下邳城の留守を任された張飛は同僚の曹豹(そうひょう)を殺そうとした。曹豹は守りを固めつつ呂布を招き入れ、下邳城を陥落させた。
劉備は撤退したが既に軍勢は散り散りになっており、敗残兵をまとめて袁術に挑んだが敗走した。(『先主伝』)
「呂布伝」の注に引く「英雄記」では曹豹は殺され、許耽(きょたん)が混乱に乗じ呂布を招き入れたとある。(『呂布伝』)

199年、呂布を討伐すると曹操により中郎将に任じられた。
だが劉備は曹操に背き袁紹・劉表(りゅうひょう)を頼り、張飛もそれに同行した。(『張飛伝』)

曹操が劉備を袁術の討伐に向かわせようとすると董昭(とうしょう)は「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち、関羽・張飛がそれを羽翼として支えており心中はわかりません」と反乱を警戒したが曹操は聞き入れなかった。(『董昭伝』)

「傅子」に曰く。
劉備が曹操を頼った時、郭嘉は「劉備は人並み外れた才能を持っている上に人心をつかんでいます。関羽・張飛は一人で一万人と戦える英雄で、劉備のために決死の働きをします。災いになる前に殺しましょう」と進言したが却下された。
(※裴松之は「正史で郭嘉は劉備を殺せば人心を失うと全く逆のことを言っている」と指摘する)(『郭嘉伝』)

「呉歴」に曰く。
劉備は曹操に警戒されるのを恐れていたが、野菜を育てているところを曹操の密偵に見られると関羽・張飛に「私が野菜なぞ育てる男なものかと疑惑に思われる前に逃げるぞ」と出奔した。
(※裴松之は「曹操は劉備に袁術を討伐させるため外に出し、郭嘉らに諌められた。なんというでたらめか」と指摘する)(『先主伝』)

「魏氏春秋」に曰く。
張飛は曹操のもとから逃げる際、かつて妻を曹操に奪われた秦宜禄(しんぎろく)を「妻を奪った男に仕えるのは愚かだ」とけしかけ仲間に誘った。
だが秦宜禄はすぐに後悔し離脱しようとしたため張飛に殺された。(『明帝紀』)

「魏略」に曰く。
200年、いわゆる夏侯姫は13~14歳の時に沛国でたきぎを採っていたところ張飛に捕まり、良家の子女と知った彼の妻にされた。
後に娘が劉禅の皇后となった。(『夏侯淵伝』)

劉備は配下に迎えた諸葛亮と日に日に親密になった。古参の関羽・張飛は不機嫌だったが、劉備に「私に孔明が必要なのは魚に水が必要なのと同じだ。二度と文句を言わないで欲しい」となだめられ、何も言わなくなった。(※水魚の交わり)(『諸葛亮伝』)

208年、劉表が没し曹操の大軍が迫ると逃亡したが、長坂坡で追いつかれた。劉備は妻子を捨てて逃げ、張飛に20騎で殿軍を命じた。張飛は川を盾にして橋を落とし、目を怒らせて矛を小脇に抱え「我こそが張益徳だ。掛かってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわると恐れて誰も近づけず、無事に逃げ延びた。
荊州を制圧すると宜都太守・征虜将軍に任じられ新亭侯に封じられた。(『張飛伝』)

劉備が孫権を頼ると曹操の配下らは劉備は殺されると考えた。だが程昱は「孫権はまだ新興勢力で曹公に対抗できない。劉備は英名あり関羽・張飛は1万人と戦え、結託するに違いない」と言い、その通りになった。(『程昱伝』)

「江表伝」に曰く。
諸葛亮が同盟のため孫権を訪ねた時、劉備は孫権が勝てるのか不安に思っていた。周瑜に招かれると関羽・張飛へ「同盟のため行かねばなるまい」と言い、単身で会った。周瑜は不安を解いてやったが、劉備は油断せず兵を留め形勢をうかがった。
(※孫盛は「劉備は窮地に陥り呉を頼ったのに形勢をうかがうわけがない。呉を賛美するために書かれたものだ」と指摘する)(『先主伝』)

「献帝春秋」に曰く。
孫権が劉備と協力して益州を制圧しようとすると、劉備は単独で益州を攻めるつもりだったため「曹操に対抗するため力を合わせなければならないのになぜ同盟国(益州)を攻めるのか」と反対した。孫権は聞き入れず孫瑜(そんゆ)の軍を派遣したが、劉備は張飛を秭帰に駐屯させるなど抵抗したため諦めた。(『先主伝』)

「趙雲別伝」に曰く。
孫夫人(孫尚香)は劉備が遠征した隙に兄の孫権から迎えの船を寄越された。劉禅を連れて呉へ帰ろうとしたが趙雲・張飛に阻まれ劉禅を取り戻された。(『趙雲伝』)

212年、劉備が益州へ侵攻すると張飛は諸葛亮・趙雲・劉封(りゅうほう)とともに別路から攻め入った。(『張飛伝』・『先主伝』・『劉封伝』)
江州で厳顔(げんがん)を捕虜にすると「大軍を相手になぜ降伏せず抗戦したのだ」と怒鳴りつけたが、厳顔は「無礼者に侵略され、首をはねられる将軍はいても降伏する将軍などいない」と言い返した。
張飛は激怒し斬首しようとしたが、厳顔は顔色ひとつ変えず「斬るならさっさと斬れ。どうして腹を立てることがある」と平然とし、感心した張飛は解放し賓客として遇した。(『張飛伝』)

張飛は張裔(ちょうえい)の軍を撃破した。
後に張裔が岑述(しんじゅつ)と諍いを起こすと諸葛亮は「あなたが張飛に敗れたと聞いた時には食事の味もわからないほど心配した。親友だと思っていたのに私が岑述に少し期待を掛けただけのことをなぜ我慢できないのだ」と苦言を呈した。(『張裔伝』・『楊洪伝』)

法正は益州牧の劉璋(りゅうしょう)へ「兵も兵糧も少なく張飛が数万の兵で迫っている」と降伏勧告した。(『法正伝』)

向かうところ敵なく劉備と合流し、益州を制圧すると諸葛亮・関羽・法正・張飛に格別の恩賞が与えられ、巴西太守に任じられた。(『張飛伝』)

益州牧となった劉備を関羽・張飛・馬超が爪牙にあたる武臣として支えた。(『先主伝』)

関羽は諸葛亮に手紙を送り馬超は誰に匹敵するか尋ねた。諸葛亮は関羽の負けず嫌いな性格を熟知していたため「一代の傑物で張飛と先を争うが、髯殿(関羽)の比類なき傑出ぶりには及ばない」と答えた。関羽は大喜びし、手紙を来客に見せびらかした。(『関羽伝』)

「山陽公載記」に曰く。
馬超は厚遇されるのをいいことに劉備を字で呼んでいた。関羽は腹を立て殺そうとしたが劉備は「追い詰められて私を頼ってきた者を字で呼んだだけで殺したら誰からも理解されない」とたしなめた。張飛は「それなら礼儀を教えてやる」と言い、翌日の会議では劉備のそばに関羽・張飛が近侍した。馬超はその様子から自分の無礼さを悟り心を改めた。
(※裴松之は「そもそも関羽は益州に立ち入ったことがなく、だから手紙で諸葛亮に馬超の評価を尋ねたのだ。それにどうして二人が近侍しているのを見ただけで無礼を悟れるのか。論理的ではない文章は腹立たしい。「献帝春秋」と「山陽公載記」の猥雑で虚偽誤謬に満ちた記事はいちいち指摘できないほど無数にある」とブチギレている)(『馬超伝』)

「傅子」に曰く。
劉備が益州を攻めると趙戩(ちょうせん)は「劉備は戦下手で、益州は堅固な土地だからすぐには陥落しない」と言った。
傅幹(ふかん)は「劉備は寛大で度量があり人の死力を振り絞らせる。諸葛亮は正道に寄りながら権謀がある。張飛・関羽は万人と戦える。劉備の智略を三人の英雄が補佐すれば必ず成功する」と見立てた。(『先主伝』)

「零陵先賢伝」に曰く。
張飛が劉巴(りゅうは)の家に泊まった時、ろくに話もしなかったため激怒した。諸葛亮が「張飛は武人ながらあなたを敬慕しています。主君(劉備)が大業を果たそうとしている時ですから少しは我慢して(交流して)くれませんか」と頼んだが、劉巴は「大丈夫たるもの四海の英雄と交わるべきで単なる武人と語り合う必要はない」と拒否した。それを聞いた劉備も腹を立てた。
呉の張昭(ちょうしょう)も批判したが、孫権は「もしも劉巴が世論に従い態度を変え、劉備の機嫌を取ろうと不本意な相手と交流する人物なら、高尚さを称えられなかっただろう」と言った。(『劉巴伝』)

功曹の馬斉(ばせい)を劉備に推挙した。尚書郎に上った。(『楊戯伝』)

曹操が漢中を制圧すると、劉曄(りゅうよう)は「劉備は英傑ですが益州は制圧されたばかりで安定していません。政治に明るい諸葛亮が丞相を、関羽・張飛が三軍に冠たる武勇で将軍を務め安定させる前に攻略すべきです」と進言したが却下された。(『劉曄伝』)

215年、曹操は漢中を制圧すると夏侯淵・張郃に守備を任せた。張郃は別働隊で巴西郡を攻め民を奪おうとし、張飛と50日にわたり対峙した。
張飛は1万の兵で攻め、狭い山道で連携の取れない張郃を撃破した。張郃は馬を捨てて10人ほどで間道を縫って逃げた。(『張飛伝』)

217年、張飛・馬超・呉蘭(ごらん)は下弁に駐屯し曹洪(そうこう)と対峙した。
218年、呉蘭が撃破され張飛・馬超は漢中へ撤退した。(『武帝紀』)

張飛が後方に回り、前の呉蘭と背後の張飛のどちらに備えるべきか意見が分かれると曹休(そうきゅう)は「張飛が本当に背後を断つつもりなら隠密に行動するはずですが、逆に声を張り上げ気勢を示しています。敵の態勢が整う前に呉蘭を急襲して破れば、張飛も撤退します」と言い、曹洪は採用しその通りになった。(『曹休伝』)

219年、劉備を漢中王に推挙する上表に征虜将軍・新亭侯として連名した。(『先主伝』)

劉備は漢中王に即位し、張飛は右将軍・仮節となった。(『張飛伝』)

漢中の守備は張飛が任されるだろうと誰もが考え張飛も自認していたが、劉備は魏延を抜擢した。
方策を問われた魏延は「曹操が天下の兵を集めて攻め寄せればこれを防ぎ、配下に10万の兵を与えて攻めさせれば併呑してみせます」と答え人々を感嘆させた。(『魏延伝』)

漢中王に即位した劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取った黄忠を後将軍に起用しようとした。
諸葛亮は「黄忠の名声人望はもともと関羽・馬超に及ばないのに急に同列にしたら、戦功を間近で見た馬超・張飛はまだしも関羽は納得しないでしょう」と諌めたが、劉備は自ら関羽に説明すると言いそれを退けた。(『黄忠伝』)
関羽は怒ったが使者の費詩(ひし)にこんこんと諭されて反省し任命を受けた。(『費詩伝』)

221年、車騎将軍に上り司隷校尉を兼務し、西郷侯に進み、劉備は詔勅で一層の働きを励ました。

関羽は部下を厚遇したが士大夫には傲慢で、張飛は逆に士大夫を敬愛し部下にあわれみを掛けなかった。
劉備はそれをいつも「お前は刑罰で部下を殺しすぎるうえに兵士を毎日鞭で叩いている。しかもその罰した部下を平気で側近にしている。災いを招くやり方だ」と戒めたが張飛は改めなかった。

同221年、劉備が孫権を攻め(※夷陵の戦い)張飛は1万の兵で合流しようとしたが、部下の張達(ちょうたつ)・范彊(はんきょう)によって暗殺され、首を孫権のもとへ届けられた。
劉備は張飛の配下から上奏が来たと聞いただけで張飛の死を悟った。(『張飛伝』)

諸葛亮が後任の司隷校尉となった。(『諸葛亮伝』)

桓侯を追贈され、長男の張苞(ちょうほう)は早逝したため次男の張紹(ちょうしょう)が後を継ぎ侍中まで上った。
張苞の子の張遵(ちょうじゅん)は尚書となり、263年の蜀滅亡に際し諸葛瞻(しょかつせん)とともに戦死した。(『張飛伝』)

長女の敬哀皇后(けいあいこうごう)は221年に劉禅の妃となり、223年に皇后に立てられた。
237年に没するとその妹が翌238年に張皇后(ちょうこうごう)となった。(『敬哀皇后伝』・『張皇后伝』)

260年、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に諡号が追贈された。(『後主伝』)

袁準(えんじゅん)は「袁子」で「張飛・関羽は劉備とともに旗揚げした爪とも牙とも言うべき(優れた)腹心だが、武人に過ぎなかった。劉備は諸葛亮を得て本領を発揮した」と評した。(『諸葛亮伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「関羽・張飛は武勇に優れ、一身を捧げて世を正し、劉備を助け勇壮果敢だった。左右の守りとして稲妻が閃くように飛び回り、難儀を救い大業を助け韓信・耿弇と並ぶ名声と徳義を打ち立てた。しかし人との交際・応対に礼儀がなく、凶事を招いた。彼らの浅慮と身を滅ぼして国を救った態度を悼む」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「関羽・張飛は一万人と戦えると賞賛され時代を代表する勇猛の臣だった。関羽は曹操に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を赦し、ともに国士の風格があった。しかし関羽は剛情で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、その欠点から身の破滅を招いたのは道理からいって当然である」と評した。

「演義」では字は音の同じ翼徳(よくとく)にされ、関羽とともに劉備の義兄弟に設定される。
酒乱でたびたび失態を犯す乱暴者だがどこか憎めないキャラ付けをされ、後年には分別ある成長も見せた。
正史とは逆に関羽は自分よりも張飛のほうが強いと謙遜し、多くの大将首を挙げているが、よく見ると大した敵を討ち取っていない。