張角  黄色いカリスマ



張角(ちょうかく)字は不明
冀州鉅鹿郡の人(??~184)

黄巾賊の首領。
張宝(ちょうほう)・張梁(ちょうりょう)の兄。

「典略」に曰く。
熹平年間(172~178)に妖術を操る賊徒が現れ始め、光和年間(178~183)に張角や張脩(ちょうしゅう)が台頭した。(『張魯伝』)

神霊の啓示と称し8人の使者を各地へ送り、教化しつつ「蒼天に代わり黄天が立ち天下泰平が訪れる」と吹き込み同志を集めた。

184年、魏郡で反乱すると各地で傘下の36地区が呼応し郡県の役所を襲った。
「献帝春秋」に曰く、張角は天公将軍、張宝は地公将軍、張梁は人公将軍と称した。(『孫堅伝』)

36万人が呼応しみな黄色い頭巾をかぶり同日に挙兵した。
何進(かしん)が大将軍に任じられ指揮を取り、(黄巾の乱への呼応を恐れ)党錮の禁が解かれたが張角だけは赦されなかった。
盧植(ろしょく)が張角本隊の討伐へ向かい、皇甫嵩(こうほすう)・朱儁(しゅしゅん)は潁川郡へ向かった。

朱儁は波才(はさい)に敗れた。
南陽太守、幽州刺史、広陽太守が殺され汝南太守が敗れた。
朱儁は皇甫嵩とともに波才を撃破した。
交趾郡で反乱が起こり刺史が捕らえられるなど、黄巾賊だけではない反乱が相次いだ。(『後漢書 霊帝紀』)

朱儁は上表により孫堅を配下に迎え、向かうところ敵なしだった。
汝南~潁川郡の黄巾賊は追い詰められ宛城に立て籠もったが、孫堅は自ら城壁を乗り越え大勝した。(『孫堅伝』)

盧植が勝利し張角を包囲したが、宦官の左豊(さほう)が誣告したため盧植は投獄され、交代した董卓は勝てなかった。
漢中で張脩が反乱した。
皇甫嵩が卜已(ぼくき)を捕らえ、張角本隊の討伐へ向かった。
張梁を捕らえ、既に病没していた張角の死体を損壊した。さらに張梁を討ち取った。(『後漢書 霊帝紀』)

張角の死後も羌族の反乱や黒山賊・白波賊の勃興など反乱は治まる気配なく、黄巾賊残党も30年近く抵抗を続けた。
後漢王朝の支配力の低下を露呈し、各地の豪族の武装強化を促し、乱世の到来をもたらした黄巾の乱により後漢王朝は実質的に滅亡したとも言われる。

「演義」では南華老仙(なんかろうせん)に与えられた「太平要術の書」で妖術を身に着けた。史実と同様に開戦から間もなく病没した。