張純  劉虞に討伐された自称安定王



張純(ちょうじゅん)字は不明
幽州漁陽郡の人(??~188)

賊徒。

光和年間(178~184)、涼州で反乱が起きたため幽州の騎兵隊3千が徴発され、公孫瓚(こうそんさん)が統率した。だが進撃中に張純が烏丸の丘力居(きゅうりききょ)を引き込み反乱した。公孫瓚はその討伐に当たり、撃破して騎都尉に昇進した。

「九州春秋」に曰く。
張純は弥天将軍・安定王を自称した。(『公孫瓚伝』)

中山太守の張純は丘力居の配下となり、弥天安定王を自称し三郡烏丸の総帥となった。青州・徐州・幽州・冀州を攻撃し略奪した。(『烏丸伝』)

「典略」に曰く。
劉子平(りゅうしへい)は武勇に優れた劉備を張純の討伐軍に推挙した。劉備は負傷したが死んだふりでやりすごした。(『先主伝』)

184年、幽州牧となった劉虞(りゅうぐ)は異民族に恩賞を約束して手懐け、張純を殺させ平定した。(『烏丸伝』)

「後漢書」では経緯が異なる。
涼州の反乱討伐に向かった公孫瓚は、烏丸とともに反乱した張純を撃破して騎都尉に昇進した。
張純は胡族の丘力居とともに再び反乱した。公孫瓚は撃破したものの深入りしすぎて包囲され敗走した。(『後漢書 公孫瓚伝』)

徴発された幽州の烏丸騎兵隊3千は兵糧が尽きたため、命令に背き烏丸へ帰った。
中山国相の張純は泰山太守の張挙(ちょうきょ)を「烏丸はすでに背き、みな反乱を企んでいる。涼州の反乱を朝廷は平定できていない。洛陽では頭が2つある赤児が生まれ、これは天下に二人の君主が現れる徴候である」とたきつけ、187年にともに反乱した。
軍勢は10数万に膨れ上がり、張挙は天子を、張純は弥天将軍・安定王を自称し霊帝へ退位を要求した。

188年、朝廷は北方で名高い劉虞を幽州牧に任じた。劉虞は恩徳を施して支持を集め、張挙・張純を賞金首とした。反乱軍は散り散りとなり、張純は賞金に目のくらんだ食客の王政(おうせい)に殺された。(『後漢書 劉虞伝』)