三国志 な行


那楼  上郡烏丸の単于代行


那楼(なろう)
烏丸の人(??~??)

上郡烏丸の単于(王)代行。

207年、曹操の討伐軍が袁煕(えんき)・袁尚(えんしょう)や、蹋頓(とうとん)ら烏丸の単于を撃破すると、代郡烏丸の単于代行の普富廬(ふふろ)と上郡烏丸の単于代行の那楼が配下を引き連れ祝賀に赴いた。(『武帝紀』)



難升米  魏への朝貢の正使


難升米(なそめ)
倭の人(??~??)

倭の臣。

238年、倭王の卑弥呼は大夫の難升米・副使の都市牛利(たしごり)を帯方郡へ送り、魏へ朝貢したいと申し出た。
帯方太守の劉夏(りゅうか)は使者と護衛を付けて都へ送ってやり、曹叡は喜び難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉に任じ、褒美と卑弥呼を親魏倭王に任じる印綬を与えた。
(曹叡の逝去による遅延もあり?)240年、倭にそれらが届けられ、卑弥呼は感謝の上表を返した。

243年にも別の使者が朝貢し、245年に難升米に褒美の旗指し物が与えられた。

247年、卑弥呼は帯方太守に赴任した王頎(おうき)に、載斯烏越(そしあお)を派遣して狗奴国の卑弥弓呼(ひみここ)と争っていることを報告した。
王頎は張政(ちょうせい)を遣わせて卑弥呼と卑弥弓呼の戦を調停させ、難升米に旗指し物が届けられた。(『東夷伝』)



難楼  上谷郡で9千の集落を率いた烏丸の大人


難楼(なんろう)
烏丸の人(??~??)

烏丸の大人(指導者)。

後漢末、幽州では遼西郡で丘力居(きゅうりききょ)が5千、上谷郡で難楼が9千の集落を配下にし(後漢の)王を自称していた。
その他にも蘇僕延(そぼくえん)が1千、烏延(うえん)が8百の集落を治め、やはり王を名乗った。
彼らはいずれも智謀ある勇敢な者たちだった。

袁紹は公孫瓚(こうそんさん)に対抗するため彼らに協力を求め、撃破すると詔勅を偽造して勝手に単于(王)の位を与えた。(『烏丸伝』)



能臣氐  右北平か代郡烏丸の単于


能臣氐(のうしんてい)
烏丸の人(??~??)

右北平烏丸の単于(王)。
名は能臣氐之(のうしんていし)とも書かれる。

207年、右北平の能臣氐は袁煕(えんき)・袁尚(えんしょう)・蹋頓(とうとん)・楼班(ろうはん)らとともに数万の騎兵を率い、曹操の討伐軍を迎え撃ったが大敗した。(『武帝紀』)

218年(『武帝紀』)、代郡烏丸の能臣氐(※曹操に敗れ本拠地を変えたのか?)は、魏に背き鮮卑の大人(王)の扶羅韓(ふらかん)によしみを通じようとした。だが扶羅韓の配下が心服しておらず、いずれ失敗すると考え、同じく大人(王)の軻比能(かひのう)とも別に連絡を取った。軻比能は扶羅韓・能臣氐と同盟を結ぼうと持ちかけ、席上で扶羅韓を殺し軍勢を奪ってしまった。(『鮮卑伝』)



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