馬鈞  三国時代のエジソン



馬鈞(ばきん)字は徳衡(とくこう)
雍州扶風郡の人(??~??)

魏に仕えた発明家。

若い頃は遊び暮らしており、あまりにも貧乏だったため生活費を稼ごうと機織り機の改良をしてみたところ、自身の発明の才能に気づき、評判を呼び都に上った。

ある時、高堂隆(こうどうりゅう)、秦朗(しんろう)と古文書の議論になり、二人は記録に残る指南車(常に南を指し示す道具)は実在しないと言ったが、馬鈞はそれに反対した。高堂隆らは嘲笑したが馬鈞は「空論を弄ぶよりも、実際に造ってみればいい」とあくまで主張したため、高堂隆らは曹叡(そうえい)に上奏し、指南車を造るよう詔勅を下させた。はたして馬鈞は指南車を完成させ、名声は天下に轟いた。

その後、投石車を連発式に改良したが裴秀(はいしゅう)に欠点を指摘されると、反駁できなかった。
裴秀は高名な馬鈞を言い負かしたと得意になって吹聴したが、馬鈞に師事する傅玄(ふげん)は「人には得手不得手があるものだ」と師を弁護した。
傅玄は曹羲(そうぎ)も説き伏せたが、その兄の曹爽(そうそう)は放置したため結局、馬鈞の改良案は容れられなかった。

その他の発明品を簡単に箇条書きで紹介する。

・所有する田畑に水を引くため足踏み式の水車を発明。普通の水車の百倍の効率だった
・別の発明家が曹叡に機械人形を献上したが、不満に思い馬鈞に改良を命じた。成功し「水転百戯」と名付けられた
・諸葛亮が開発した連弩(連射式ボウガン)を見せられると「巧妙だが改良の余地がある。私なら5倍の性能を持たせられる」と言った

傅玄は後に師の業績を振り返り、墨子ら古の偉人にも匹敵する才能でありながら、周囲の理解を得られず十分な活躍の場を与えられなかったことを惜しんだ。
事実、当時の発明技術は医学とともに仙術と大差ないものと見られ、馬鈞の業績の大半は「方技伝」に仙人らと同列に記録されているに留まる。