万彧  孫晧を擁し孫晧に殺される



万彧(ばんいく)字は不明
呉の人(??~272)

呉の臣。

県令をしていた頃、不遇をかこっていた孫皓(そんこう)と親しくなった。

264年、三代皇帝の孫休(そんきゅう)が没した。臨終の間際に幼い長男を後継者に指名していたが、同盟国の蜀が魏に滅ぼされ、交州が離反して間もない情勢に幼君を立てることを危ぶみ、丞相の濮陽興(ぼくようこう)や張布(ちょうふ)ら重臣は協議の末、万彧の推薦する勇猛な孫皓(そんこう)を第四代皇帝に立てた。

だが孫皓は即位するや酒色にふけり、自分たちも冷遇され始めたため濮陽興はすぐに後悔し、廃位を考え出した。
万彧はそれを察すると孫皓に讒言し、濮陽興と張布を処刑させた。
右丞相となった万彧は孫皓の寵愛をかさに着て専権を振るい、人々から憎まれた。
孫皓を恐れ誰も手出しできなかったが、左丞相の陸凱(りくがい)は一族の多くが呉の重鎮を務めていたため恐れず諫言し、孫皓の政治を痛烈に批判した中で万彧を「身分の卑しい小人物」と断じている。

267年、不始末でも犯したのか都を出され巴丘の守備を命じられ、いったんは都に戻ったものの272年、孫皓から譴責され、その心痛から病を得て没した。

記述の怪しい「江表伝」には詳しい経緯が記されている。
孫皓が271年に突如として一族を引き連れ華里に移ろうとした。万彧と留平(りゅうへい)はこのまま孫皓が帰らない可能性もあると考え、必死に引き止めるとともに、最悪の場合は自分達は都に戻り国政を行おうと相談した。
結局、孫皓は考え直して都に戻ったが、二人の相談を耳にすると激怒し、酒宴の際に毒を混ぜさせた。
給仕が毒に気づき量を減らしたため致死量には足りなかったが、万彧は心痛のあまり自害し、留平は病を得て1月後に没したという。

なお「演義」では孫皓を諫言し殺された忠臣扱いされている。