馬良  馬氏の五常、白眉最もよし

 

馬良(ばりょう)字は季常(きじょう)
襄陽郡宜城県の人(187~222)

蜀の臣。

馬良は若いころから眉に白髪が混ざっていた。彼の兄弟は五人とも字に「常」が入り、みな優れていたことから「馬氏の五常、白眉最もよし」とうたわれ、「白眉」の語源となった。
諸葛亮とは非常に親しく、順調に出世を重ねた。その名声は広く知られ、孫権の使者として赴く際には諸葛亮の提案で、馬良自身を紹介する書状をたずさえた。はたして孫権は感服した。
劉備が関羽の仇討ちで呉に侵攻すると、異民族を懐柔し次々と心服させた。だが劉備が陸遜に敗れ、馬良も36歳の若さで戦死した。
諸葛亮はその死を悲しみ、弟の馬謖(ばしょく)に目をかけたが、彼が大敗し北伐を頓挫させたのは周知の事実である。


~演義と正史~
なお『演義』では馬良は戦死せず、南蛮征伐のさなかに病死している。
『演義』では馬謖が兄の死を諸葛亮に伝え、そのまま南蛮征伐に従軍しており、馬謖の出番を増やすために馬良の死が遅くなったものと思われる。
ちなみに馬良は『演義』では関羽が窮地に陥ったことを、すでに関羽が戦死したころにのんびりと報告したり(なんせずいぶん後から出発した廖化(りょうか)と同時に着いている)、劉備の布いた陣形を諸葛亮に伝えた際に「この陣形を帝に勧めた者を斬れ」とまで言われる無能っぷりを見せており、あまり賢い印象は受けない。