馬超  正義の槍が熱く燃えている

 

馬超(ばちょう)字は孟起(もうき)
扶風郡茂陵県の人(176~222)

関中を領した馬騰(ばとう)の子。

羌族の血を引いていたため異民族の信望が厚かった。

馬騰と同等の勢力を持つ韓遂(かんすい)と仲違いし、馬騰は妻子を殺された。
両者は激しく戦い、若き馬超も韓遂の腹心・閻行(えんこう)と一騎打ちしたが、敗れて重傷を負った。
治安の悪化を恐れた曹操が鍾繇(しょうよう)に仲裁させ、停戦したが大きなしこりが残った。

202年、官渡の戦いで袁紹を破った曹操は袁氏の領土に侵攻し、馬騰にも助力を乞うた。
馬超が父の代理として龐悳らとともに援軍を率い、袁紹の甥・高幹(こうかん)と戦った。馬超は足に矢を受けたが、傷口を袋で包みなおも戦い続け、敵将の郭援(かくえん)を討ち取った。

208年、関中への懐柔策として馬騰が都へ招かれると、馬超は父の跡を継いだ。
しかし211年、曹操が張魯(ちょうろ)を攻めると、隣国の関中は動揺し、馬超は先手必勝とばかりに挙兵を決意した。
曹操に子供を人質に出していた韓遂はしぶったが、馬超は「私は父を捨て、これからあなたを父と敬います。あなたも子を捨て、私を子と思ってください」と説得したため、ついに折れた。
馬超の挙兵に関中の諸侯はもとより、連動して魏の西方で一斉に反旗が翻った。馬超は高名な学者である賈洪(かこう)を拉致すると、宣戦布告の文書を書かせた。

曹操は潼関に曹仁を入れ、自らも兵を率いて迎え撃った。徐晃、朱霊(しゅれい)を敵の背後に回そうとしたが、逆に馬超の奇襲を受け、曹操自身も窮地に陥った。しかし許褚が必死に防戦し、さらに丁斐(ていひ)が機転を利かせ、牛馬を解き放ち戦場に突入させたため、大混乱になった隙に曹操は逃げおおせ、徐晃らが背後に回ることも成功した。

戦線が膠着すると馬超はやむなく和睦を申し出た。その席上で曹操を殺そうとしたが、そばで許褚が目を光らせていたため果たせなかった。
曹操は賈詡(かく)の献策でわざと韓遂に親しく口を利き、馬超に不審を抱かせ、仲を裂くことに成功した。
結束の乱れた関中軍は敗北し、馬超は退却したが韓遂は捕らえられて斬られた。都にいた馬騰ら一族も連座して処刑された。楊阜(ようふ)は「馬超は必ず再起する」と追撃を促したが、後方で別の反乱が起きていたため、曹操は進言を取り上げなかった。

翌年、楊阜の不安は的中し、馬超は再び兵を挙げた。涼州刺史の韋康(いこう)を殺したが、楊阜が投降した諸将と語らい反乱を起こさせたため、馬超は敗れ張魯を頼って落ち延びた。
そこで兵を借りまたも挙兵したが、趙昂(ちょうこう)、王異(おうい)夫妻の抵抗にあい、足止めされるうちに夏侯淵、張郃らが駆けつけたため撤退した。
馬超と張魯の仲は次第に悪化したため、その頃に益州の首都・成都を包囲した劉備のもとへ帰参した。
益州の劉璋(りゅうしょう)は馬超が来たと聞くと恐れをなし、降伏したという。

傲慢さがたたり左遷された彭羕(ほうよう)は、劉備に恨みを抱き馬超に「君が外で兵を率い、私が内を仕切れば天下は思いのままだ」と謀叛を持ちかけた。馬超は拒絶し、密告したため彭羕は処刑された。
その後は張飛とともに漢中を攻めるが、目立った活躍はなく、222年、47歳で病を得て亡くなる。劉備よりも一年早い死であった。
遺言では「一族はことごとく曹操に殺され、あとは従弟の馬岱(ばたい)を残すだけです。馬岱に家を継がせてください」と言い遺したという。

蜀軍としての活躍はほとんどなかったが、独力で曹操を追い詰めたこと(曹操はこれを含め生涯で5回ほどしか負けていない)は驚異と言えるだろう。
その潼関の戦いでは曹操を渭水に追い込み一斉に矢を射かけたが、許褚が馬の鞍で矢の雨を防ぎ曹操を小舟に乗せ、転覆させないため群がる味方を斬り捨てて自ら櫂を漕ぎ、なんとか曹操ひとりを逃したというのだから、本当にあと一歩のところで曹操を討ち取りそこねたのである。