馬忠  南方を治めた大人物



馬忠(ばちゅう)字は徳信(とくしん)
巴西郡閬中県の人(186?~248)

蜀の将。

若い頃は狐篤(ことく)と名乗った。字の雰囲気からして侠客や山賊の類だろうか。
寛大かつ公明正大な人物で、度量が深くたびたび大笑いするが、逆に怒りを露わにすることはなかった。

後に仕官すると順調に出世を重ね、夷陵の戦いで敗れた劉備のもとに5千の兵を率いて駆けつけると、劉備は「この戦いで黄権(こうけん)を失ったが狐篤を得た」と喜んだ。

225年、諸葛亮は南中を攻め、馬忠を牂牁太守に任じた。馬忠は反乱した朱褒(しゅほう)を鎮圧し、威厳と慈悲のある統治で民に慕われた。
後には諸葛亮の北伐にも従軍し、軍事はもちろんのこと事務を任されもした。

233年、張翼(ちょうよく)が法に厳格過ぎる統治で異民族の反発を買い、劉胄(りゅうちゅう)の反乱を招いた。
朝廷は張翼を召還するとともに馬忠を後任に据えた。張翼は配下がすぐにでも弁解に出向くよう勧めるのを無視し、軍備を整えてから馬忠に引き継いだため、すぐに反乱を鎮圧することができた。
これにより馬忠はもちろん張翼もかえって昇進した。
その頃、益州の郡では反乱が相次ぎ、太守は殺されたり、捕縛され呉へ送られていたため、安全な県に留まって統治していたが、馬忠は構わず奥地に庁舎を構えて直接指揮を取り、多大な治績を上げた。

242年には都に上がり高位に就くも、魏の侵攻や南方で反乱があれば前線に出向いて采配を振るった。
249年に没すると任地の民はもちろん異民族も涙を流して死を悼み、各地に馬忠を祀る廟を建てたという。

「演義」では凡庸な将として描かれ、祝融に一騎打ちで敗れ捕虜となるていたらく。だが一方で諸葛亮の罠にはまった張郃を射殺する大金星も挙げている。
しかし李恢(りかい)と同じく南方の統治で多大な功績を挙げ、「演義」の荒唐無稽な諸葛亮の南中征伐は、馬忠と李恢の逸話を大幅に脚色したものであると言える。