卞氏  踊り子から皇太后へ



卞氏(べんし)
徐州琅邪郡開陽県の人(160~230)

曹操の妻。
曹丕、曹彰(そうしょう)、曹植(そうしょく)、曹熊(そうゆう)らの母。

もとは踊り子だったが20歳の時に曹操に見初められ側室となった。
出自に似合わず質素倹約を重んじ、聡明で慎み深かった。ある時、曹操が複数のイヤリングを見せ選ぶように言うと、彼女は中級の物を選び、理由を問われると「上等の物を選べば欲深いと思われ、下等を選べば倹約を装っているだけと思われます」と答えた。

197年、宛城の戦いで曹操の庶長子である曹昂(そうこう)が戦死すると、彼を我が子同然にかわいがっていた正室の丁(てい)夫人は激怒し、自ら実家に戻り曹操に離縁されたため、代わって卞氏が正室となった。
その後も卞氏は足繁く丁夫人のもとに出向き彼女を立てたため、やがて丁夫人にも感謝されたという。

219年、曹操が魏王になると王后に立てられ、曹丕が帝位につくと皇太后となった。
息子の曹丕には先立たれたが「世説新語」には曹丕の没後、曹操の死後にその側室をそっくり曹丕が引き継いでいたと聞くと「曹丕の食べ残したものは犬や鼠も食べないでしょう」と嘆息し、墓参しても哭礼を行わなかったという。

かつて卞氏が病に倒れた時、曹丕の妻の甄姫が心労のあまり泣き崩れたことに感激していたが、その甄姫も曹丕に疎まれ自害へ追い込まれていた。
また功臣の曹洪(そうこう)は曹丕の若い頃に借金を断ったことを恨まれ、些細な罪で処刑されそうになった。その際に卞氏は曹丕の側室を「曹洪を殺せばお前もただではおかない」と脅して曹洪を解放させており、これらのことから曹丕には複雑な思いを抱いていたのだろう。

230年に没し曹操と同じ墓に葬られた。2009年に曹操の陵墓が発見された時、卞氏と思われる遺骨も見つかっている。