潘濬  泣き虫将軍の20年戦争



潘濬(はんしゅん)字は承明(しょうめい)
武陵郡漢寿の人(??~239)

劉表(りゅうひょう)、劉備、呉と主を変え、呉の重臣となった。

高名な学者である宋忠(そうちゅう)のもとで学び、理論だった弁舌を評価された。のちに建安七子に数え上げられる王粲(おうさん)に見出されたのを機に、人材ひしめく荊州の人士の間でも名声を得て、20代で劉表に召し出された。
江夏に赴任すると、汚職官吏を一掃し厳格な法治でよく治めた。
やがて劉表亡き後に荊州は曹操の手に落ちたが、江夏は劉備に味方する劉琦(りゅうき 劉表の長子)が治めていたため、潘濬も劉備に仕えるようになった。
劉備が蜀を攻めると、潘濬は関羽のもとで荊州の政務を一任された。

219年、北上した関羽の留守を突いた呂蒙の急襲により、荊州は呉の手に落ちた。
関羽と険悪の仲だった糜芳(びほう)、傅士仁(ふしじん)らは寝返り、関羽もまた孤立して戦死すると、荊州の将兵のほとんどはそのまま呉に降ったが、潘濬だけは病と称し自宅にこもった。
孫権は潘濬を用いたいと考え説得させたが、潘濬は床に伏したまま泣くだけで聞く耳を持たなかった。そこで孫権は、潘濬を寝台にくくりつけたまま連れてこさせ、自ら説得しようやく降伏させた。
潘濬は才知と忠誠心を高く買われ荊州の軍政を任された。

220年、関羽の仇討ちに乗り出した劉備に呼応し、荊州で反乱が相次いだ。
土地勘のある潘濬が討伐を命じられ、反乱を鎮圧し、馬良(ばりょう)によって扇動された武陵蛮も退けた。
潘濬は陸遜とともに最前線の守備にあたり、また呂岱(りょたい)に従い異民族の反乱鎮圧にもたびたび駆り出された。
統治能力に優れた潘濬は、武陵蛮ら異民族の降伏者を多く編入し、強大な戦力をまとめ上げたという。

人を見る目にも長け、重臣の歩隲(ほしつ)が私兵を雇う許可を求めると、軍閥化することを恐れて反対したが、のちに歩隲の子・歩闡(ほせん)が謀反し、潘濬の危惧は的中した。
また魏から隠蕃(いんばん)という者が投降すると、重臣たちはそろって喜んだが、潘濬だけは怪しみ、息子が隠蕃と交友を結ぼうとすると叱りつけた。のちに隠蕃は魏の密偵だったとわかり、潘濬の見立てはここでも当たった。
さらに徐宗(じょそう)という者が横暴をきわめていたが、名声が高く誰も咎められずにいると、潘濬は意に介さず法に照らして処刑した。
これらの行いは法を重んじ国のためを思い、自身の名声が傷つくことを恐れなかった好例である。

234年、諸葛亮が没し蒋琬(しょうえん)が後継となった。
潘濬の妻は蒋琬の妹であり、また蜀からの降伏者でもあることから、武陵太守の衛旌(えいせい)は潘濬の内通を疑い、孫権に報告書を出した。
すると孫権は報告書の封も切らずそのまま潘濬に渡し、衛旌を召喚し罷免してしまった。それほど潘濬への信頼は厚かった。

だがこの頃、孫権の寵愛を得た呂壱(りょいつ)という佞臣が権勢をふるい、自由気ままに賞罰を与えていた。
丞相の顧雍(こよう)や左将軍の朱拠(しゅきょ)までが軟禁されるに及ぶと潘濬は激怒し、都に戻ったが、すでに孫権は太子の孫登(そんとう)の意見すら聞かない有様であった。
やむなく潘濬は呂壱の暗殺をもくろんだが、呂壱はそれを察知すると出仕を避け、あわてて顧雍を釈放した。
やがて陸遜、歩隲らも潘濬に加わり糾弾すると、ようやく孫権は目を覚まし呂壱を処刑した。
孫権は諸臣に謝罪し、呂壱の専横を咎めなかった者を罰したが、陸遜や潘濬の態度からすでに自分が信頼を失っていることを悟り、のちにこれが陸遜との確執につながることとなる。

239年、潘濬は没した。
「演義」では「信用できない酒好きの小者」と評されたり、望まずとも関羽を裏切ったことから数々の史書で裏切り者として描かれ、マンガ「蒼天航路」でさえ(剛直さこそ見せるものの)いち早く関羽を見捨てた背信者とされるが、そもそも関羽の下にいた頃は事務方であった潘濬に身を処せるわけもなく、しかも降伏をさんざん渋っているのだから、責め立てるのは筋違いもいいところである。