龐徳  豪傑生きるべきか死すべきか



龐徳(ほうとく)字は令明(れいめい)
南安郡狟道県の人(170~219)
龐悳とも記される。

馬騰(ばとう)に仕える。

弓矢の名手で常に白馬に乗っていたことから「白馬将軍」と呼ばれ恐れられた。
のち馬騰の子・馬超とともに戦うが曹操に敗れ、張魯を頼る。張魯も曹操に降ると、龐徳は重く取り立てられた。

于禁とともに関羽と対峙すると、彼の従兄と旧主の馬超が蜀にいたことから忠誠を疑われた。すると「我は国恩を受けている。今年中に我が関羽を殺さなければ、関羽が我を殺すだろう」と決意を述べ、弓で関羽を負傷させた。
長雨で城が水没してしまい、龐徳は船に乗って戦った。その決意は固く「良将は死を恐れて逃げない。烈士は生き恥をさらさない。今日は我の死ぬ日だ」と叫び、逃げだそうとした味方を斬り捨てた。
大将の于禁をはじめ次々と味方が降伏していくなか単身で戦いつづけたが、船が転覆してしまいついに捕らえられた。

関羽の前に引き立てられてもひざまずかず、関羽に「従兄も馬超も蜀にいる。お前を味方にしたかった」と誘われると「黙れ小僧。曹操には百万の兵があり天下に威信を轟かせている。凡人の劉備が敵うものか。我は国家の鬼となっても賊将にはならぬ」と罵り、首を斬られた。
降伏をいさぎよしとせず自ら斬られた忠誠を高く評価され、手厚く葬られ子供にも爵位が与えられた。

龐徳とは対照的に、于禁が命乞いをしたと聞いた曹操は「わしに30年仕えた于禁が、危急の際に龐徳に及ばないとは」と嘆いたという。