彭羕  残念すぎる男



彭羕(ほうよう)字は永年(えいねん)
益州広漢郡の人(178?~214?)

劉璋(りゅうしょう)の配下。

身長8尺で容貌魁偉、性格は驕慢で人をぞんざいに扱ったと伝わる。
また彼の伝は蜀書巻十に立てられているが、収録されているのは彼と同じく謀叛ないし不忠で身を滅ぼした人物ばかりである。

同郷の秦宓(しんふく)に益州へ推挙されたが、彭羕は驕慢だったため讒言を受け髡鉗(こんけん 断髪され首枷をされる)の刑に処された。
劉備が益州入りすると無断で龐統を訪ねて馬が合い、法正(ほうせい)も彼を評価していたため劉備に取り立てられ、益州制圧に大きな功績があった。
だが彭羕は思い上がって傲慢に振る舞いだし、諸葛亮も彼の野心を見抜き劉備に諫言したため、左遷された。

彭羕はこれに大いに不満を抱き、馬超に「あの老いぼれ(劉備)は耄碌して話にならない」「あなた(馬超)が外を、私が内を握れば天下に不足はない」と反乱の相談とも取れる愚痴をもらしたところ、あっさり密告され逮捕となった。

彭羕は獄中から諸葛亮に手紙を送り、劉備には我が子のような恩を受けながら裏切ってしまった罪は死に値する、と悔いつつも馬超への愚痴は事実と異なる点があると弁明したが、結局処刑された。享年37。
「正史」ではきわめて残念な馬超に反乱を持ちかけるあたり本当に残念な人物である。

「演義」では字をなぜか永言(えいげん)とマイナーチェンジされる。
罪人の立場に置かれており、益州入りした劉備を助けるところまでは同じ。
後に親友の孟達(もうたつ)が関羽を見殺しにしたため劉備に恨まれたのを案じ、反乱を教唆する手紙を送ったところ、馬超の手に渡ってしまった。馬超が彭羕を訪ね「実は自分も劉備に不満がある」と鎌をかけたところそれに同調したため、密告→逮捕→処刑とあいなった。
その後、彭羕の処刑を受け孟達が魏へ出奔するという流れで、好アレンジだろう。

「吉川三国志」とそれを原作とする「横光三国志」では字面の似た彭義(ほうぎ)と書かれるが、字は「正史」と同様に永年である。