沐並 大バズリした男

沐並(もくへい)字は徳信(とくしん) 冀州河間郡の人(??~??)
魏の臣。
以下「魏略」に曰く。
若くして父を失い苦労した。はじめは袁紹に仕えた。 融通の利かない性格だが、公正かつ果断で名吏と呼ばれた。
後に曹操に招聘され軍謀掾となり、黄初年間(220~226)には成皋の県令となった。
ある時、監察官の劉肇(りゅうちょう)が県を訪れ、食料を要求した。ところが蝗害と旱害で役所には蓄えが無かった。劉肇の使者が県吏を怒鳴りつけると、沐並は激怒し配下を引き連れ、劉肇を捕らえようとした。
逃亡した劉肇が訴え出たため「爪や牙にも等しい監察官を捕らえようとは、沐並は清廉という評判をかさに着て驕っているのか」と糾弾された。危うく処刑されるところだったが髠刑に留められた。
刑期を終えると復職し、十数年間を奔放に暮らした。 正始年間(240~249)に三府長史に上った。
以前、沐並は姉を訪ねたが、せっかく鶏を絞め、キビを炊いてくれたのに、融通の利かない沐並は食べずにさっさと帰ってしまったことがあった。この話がなぜか中原に広く伝わった。
241年、芍陂の戦いの際に呉に動員された益州牂牁郡の兵が煮炊きをした。先に煮えた者が、まだ煮えていない者に一緒に食べようと声を掛けたが、彼は煮えたら自分の物を食べると断った。「お前さんは沐徳信になるつもりかい」と彼はからかわれた。(戦場では今すぐ何が起こるかわからず、食いそびれたら馬鹿だという意味か)
あまりに有名すぎて沐並は前代の人物だとさえ思われていたという。
長史になってから8年経ち、済陰太守に次いで議郎となった。
60余歳となり先行きの短さを悟った沐並は、あらかじめ遺言を作り、二人の息子に葬儀は慎ましく行うよう命じた。
嘉平年間(249~254)に危篤に陥ると穴を掘らせ、死んだら二人で埋め、哭礼も野辺送りも弔問も祭壇も棺も植樹も不要、と改めて命じた。妻子はそれを全て守った。
「魏略」で沐並は常林(じょうりん)、吉茂(きつぼう)、時苗(じびょう)とともに「清介伝」に収録されている。
清介は「潔癖すぎて度量が狭い」の意である。(『常林伝』)
|