羅憲 孤立無援の戦い

羅憲(らけん)字は令則(れいそく)
荊州襄陽郡の人(??~270)
蜀・晋の臣。 羅蒙(らもう)の子。
父の羅蒙は蜀の広漢太守を務めた。 13歳で巧みに文章を書き、名を馳せた。譙周(しょうしゅう)に師事し孔子の高弟の子貢になぞらえられた。
正直かつ誠実で厳格な性格で、士人と飽きることなく交友し、施しを好み財産に興味がなかった。
蜀に仕え太子舎人・宣信校尉となり、呉への使者を務め呉人にも称えられた。
だが専権を振るう黄皓(こうこう)に全くおもねらず、巴東太守に左遷され都督の閻宇(えんう)の領軍に任じられた。
263年、魏軍が侵攻を開始すると閻宇は都に戻り、羅憲は永安城を守った。
成都陥落の報告が届くと城内は動揺し、(籠城していた)周辺の県の官吏は次々と逃亡したが、羅憲が混乱を招く者を一人斬ると落ち着いた。蜀の滅亡を知ると3日の喪に服した。
呉はそれに乗じて領土を広げようと、援軍と偽り盛憲(せいけん)を向かわせ降伏勧告した。羅憲は激怒し「蜀と呉は唇と歯のような密接な関係なのに、危難に同情もせず漁夫の利を求めている。降伏などできるものか」と魏へ帰順した。防備を整え激励すると兵はみな従った。
264年、蜀を制圧した鍾会が反乱に失敗して討たれ、益州は混乱し全ての城から主が消えた。
呉は歩協(ほきょう)に侵攻させたが羅憲に大破され、孫休は怒り陸抗(りくこう)を増援に送った。籠城を続け1年が経ち、救援のあてはなく大半の兵も病気にかかった。城を捨て南か北へ逃げるよう進言されたが「人の上に立つ者は民に仰ぎ慕われなければならない。守り切れないからと民を見捨てて逃げるのは君子たる者のすることではない。ここで死のう」と却下した。
そこへ晋の胡烈(これつ)が救援に現れ、呉軍を撤退させた。 羅憲は晋の陵江将軍・監巴東軍事・使持節となり、、武陵太守を兼任した。
泰始年間(265~275)のはじめに入朝した。「忠烈果敢で策略と才能がある」と詔勅され鼓吹や宝物を賜った。(『晋書 羅憲伝』)
「襄陽記」に曰く。
268年、司馬炎に蜀の旧臣で登用すべき人材を問われ常忌(じょうき)・杜軫(としん)らを推薦し、司馬炎は全て召し出した。(『霍峻伝』)
270年に没し、使持節・安南将軍・武陵太守・西鄂侯をを追贈された。(※矛盾)烈侯と諡された。
子の羅襲(らしゅう)は(羅憲と同じ)陵江将軍を歴任し、兵を受け継ぎ(祖父と同じ)広漢太守にまで上った。
甥(兄の子)の羅尚(らしょう)は若くして父を失い、叔父の羅憲を頼った。
羅尚は「羅憲伝」に附伝される。益州刺史に上ったが叔父に全く似ず貪婪な性格で、皮肉にも李特に益州を奪われる。(『晋書 羅憲伝』)
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