廬植 師匠

廬植(ろしょく)字は子幹(しかん)
涿郡涿の人(?~192)
後漢末の名将。
190センチを超える長身で、常に天下太平を思い描く剛毅な人物であった。
大学者として知られる馬融(ばゆう)のもとで学んだが、詩や文学よりも実際的な学問を好んだ。名士でもある馬融は学問を教えるかたわら常々女性をはべらせ舞や歌をさせていたが、廬植は一度も振り返ることはなかったという。
後には自らも教鞭を執り、劉備や公孫瓚(こうそんさん)の師となった。
才人として名を馳せ要職を歴任し、黄巾の乱でも大将に任じられたが、役人への賄賂を拒絶し左遷された。しかし皇甫嵩(こうほすう)が「我々が勝てたのは廬植の策に従ったからです」と上奏したため、すぐに復帰できた。
のちに董卓が台頭し、廃帝を言いだすと廬植はただ一人反対した。董卓は彼を殺そうとしたが、天下に名声の轟いていた廬植の助命を願う人は多く、免官されるだけに留まった。
廬植は暗殺を恐れ、老いと病を訴えて故郷に帰った。案の定董卓は追っ手を差し向けたが、察知した廬植は逃げ延びた。
のちに袁紹に招かれ軍師となった。(!)
臨終の際、息子に「穴を掘って埋めよ。棺は必要ない。副葬品は絹を一反入れてくれればいい」と遺言した。最期まで高潔の人であった。
命を長らえのちに水鏡先生となったとする小説もある。「演義」での登場シーンは少ないが劉備の師匠として著名な人物である。
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