呂布  三国志最強の男

  

呂布(りょふ)字は奉先(ほうせん)
并州五原郡九原県の人(??~199)

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

後漢末の群雄。

勇猛さを認められ州に仕えた。州刺史の丁原(ていげん)に主簿に任じられ大いに親愛された。

189年、霊帝が崩ずると大将軍の何進(かしん)は各地の有力者を集めて宦官の排斥を企み、丁原も応じ執金吾となったが先手を打たれ何進は暗殺された。
混乱の中、宦官は一掃されたが董卓が実権を握り、呂布を寝返らせて丁原を殺させ、兵を奪った。呂布は騎都尉に任じられ董卓と父子の契りを結んだ。

192年、王允(おういん)・士孫瑞(しそんずい)は王允が同郷の呂布を目にかけていたこともあり味方に引き入れて暗殺計画を練った。
董卓は暗殺を恐れて常に呂布に護衛させていた。しかし気性が激しく短気なため後先を考えずに腹を立て、ちょっと気に食わないことで呂布を戟で殴った。呂布は回避して謝ったが、内心で恨んだ。董卓の侍女(※貂蝉のモデルである)と密通しており発覚を恐れてもいた。
王允に内応を誘われると「董卓とは親子の関係である」と渋ったが、「血縁ではなく(董卓に襲われ)命を守るのに精一杯なのに親子だなどと言っていられるか」と説き伏せられた。(『呂布伝』)

献帝の快気祝いに乗じ、配下を衛兵に化けさせて、宮殿に入ろうとした董卓を囲んだ。董卓が驚き呂布を呼ぶと、呂布は「詔勅である」と言って殺した。
三族も皆殺しされ、董卓の死体に走り寄った田景(でんけい)が斬られると反抗する者もなく、配下で殺された者はたった3人だった。
長安の官民は大いに喜び、董卓に迎合した者は全て処刑された。

その頃、董卓の娘婿の牛輔(ぎゅうほ)は李傕(りかく)・郭汜(かくし)・張済(ちょうせい)らを率い陳留・潁川郡を攻めていた。
呂布の討伐軍も迫り、混乱の中で牛輔も殺され、呂布が(董卓の故郷の)涼州人を恐れ恨んでいたため郭汜らは恐慌をきたし解散し帰郷しようとしたが、李傕配下の賈詡が「王允は(董卓と同じ)涼州人を皆殺しにしようとしているのに、解散すればたやすく捕らえられてしまう。ならば兵を集めて長安を攻め、成功すれば天子を奉じて天下を治めればよいし、失敗してもそれから逃げればよい」と進言した。納得した残党は長安へ進撃し、樊稠(はんちゅう)・李蒙(りもう)らと合流し10万の大軍に膨れ上がった。
長安を攻め落として王允を殺し、呂布は敗走した。(『董卓伝』・『呂布伝』・『賈詡伝』)

呂布は董卓を殺したことを感謝されているだろうと袁術のもとへ逃げたが、拒絶された。
次いで袁紹を頼り、黒山賊を討伐した。頭目の張燕(ちょうえん)は1万の精鋭と数千の騎兵を率いていたが、呂布は赤兎馬を駆り成廉(せいれん)・魏越(ぎえつ)ら猛将とともに突進し撃破した。
だが兵の増強を要請したり、配下が略奪を働いたため、袁紹に憎まれた。
呂布もそれを察して暇乞いをし、報復を恐れた袁紹は刺客を送ったが失敗し、張楊(ちょうよう)のもとへ逃げた呂布を追撃させたが恐れて誰も手出しできなかった。(『呂布伝』)

臧洪(ぞうこう)は後に「兵の貸与を断られて去っただけの呂布に、命を狙われる理由があるだろうか」と袁紹を非難した。(『臧洪伝』)

呂布はその前に張邈(ちょうばく)を訪ねて意気投合した。袁紹・曹操・張邈は友人だったが、董卓討伐の際に盟主となり増長した袁紹は張邈に責められたのを怒り、曹操に命じて殺させようとしたが、曹操にも内輪揉めしている場合ではないと非難されたことがあった。
だが張邈は袁紹に恨まれた呂布を助ければ、曹操を怒らせるのではないかと疑心暗鬼を起こし、陳宮に「天下無敵の呂布を迎え入れれば群雄として割拠できる」と焚き付けられ挙兵した。
呂布は兗州牧に任じられ、3県を除き兗州の大半を制圧したが、遠征した曹操の本隊が戻り100日以上対峙した。(『呂布伝』)

夏侯惇は曹操の家族を保護に向かって呂布軍に出くわし、撤退させたものの偽装投降に引っ掛かり捕縛されてしまった。
配下の韓浩(かんこう)が兵を率い、人質に取った兵を怒鳴りつけ、夏侯惇に「国法ですからどうしようもありません」と涙ながらに告げ、夏侯惇もろとも殺そうとした。金目当てだった兵は人質を解放したが、韓浩は許さず斬り捨て、夏侯惇は助かった。
報告を受けた曹操は「万世の法律とすべきだ」と韓浩の判断を称賛し、人質を取られても構わず皆殺しにするよう法に記させた。
これにより人質を取る者は絶えた。(※前漢から同じ法律があったが形骸化していた)(『夏侯惇伝』)

程昱(ていいく)は呂布に家族を人質に取られた靳允(きんいん)を「呂布は粗雑な神経で親しむ者も少ない」など呂布と曹操を比べればどちらに付くべきか明らかだと説き伏せた。(『程昱伝』)

呂布が濮陽に駐屯すると、曹操は「呂布はわずかの間に一州を手に入れながら、要害を確保して迎撃せず、なんと濮陽に駐屯した。私には彼が無能だとわかる」と言ったが、呂布は青州兵を撃破し、曹操も落馬して手を火傷し、配下に救出された。諸将が曹操の顔が見えないと恐慌をきたしたため、負傷を押して督戦した。
旱魃と蝗害により共食いが起こるほどの大飢饉となり、両軍ともに撤退した。(『武帝紀』)

曹操は夜襲を掛け明け方に撃破したが、帰還中に呂布が現れ三方向から攻められた。呂布は自ら格闘し日が傾くまで乱戦が続いたが、典韋が奮戦して退けた。(『典韋伝』)

195年春、曹操は定陶を攻め、救援に駆けつけた呂布を撃破した。
夏、薛蘭(せつらん)・李封(りほう)を攻め、またも救援の呂布を撃破し薛蘭らを討ち取った。
呂布・陳宮は1万の兵で攻めたが曹操は寡兵ながら伏兵を用い大勝した。呂布は夜陰に紛れて徐州刺史の劉備のもとへ落ち延び、張邈と弟の張超(ちょうちょう)は曹操に殺された。かくして2年のうちに兗州の全てを奪回された。(『武帝紀』)

196年、劉備が袁術を攻めた隙に挙兵し、劉備を降伏させ主従が入れ替わった。
袁術が紀霊(きれい)に劉備を攻撃させると、諸将は挟み撃ちするよう勧めたが「劉備が敗れれば袁術は泰山の臧覇(ぞうは)らと連携して我々を包囲する。救援しないわけにはいかない」と言い1200の兵を率い出撃した。
紀霊が呂布を恐れて攻撃できずにいると、呂布は紀霊を招き「劉備は私の弟だから助けに来た。私は揉め事の仲裁をするのが大好きだ」と言い、戟を地面に突き立て「今から戟の小枝(脇に付けた刃)を射るから、命中したら解散し、外したら戦いを続けろ」と言い、命中させた。諸将は呂布を讃え、宴会に明け暮れた後に解散した。(『呂布伝』)

劉備は妻子を捕らえられ、糜竺(びじく)は妹を嫁がせ糜夫人(びふじん)とした。さらに資金援助したため劉備は勢いを盛り返した。(『糜竺伝』)
呂布と和睦し妻子を返還された。(『先主伝』)

劉備が徐州刺史として迎えられる時、陳羣(ちんぐん)は「袁術はいまだ強大で、背後を呂布に襲われれば全てを失います」と忠告しており、その通りになったことを劉備は後悔した。(『陳羣伝』)

197年、袁術は息子の嫁に呂布の娘を迎えようとしたが、陳珪(ちんけい)は袁術・呂布が連携すれば脅威になると考え、同盟するなら曹操と組むよう説得すると呂布も先に袁術に拒絶された恨みを思い出し、既に出発させていた娘を奪回し、使者を捕らえた。
陳珪は子の陳登(ちんとう)を曹操のもとへ派遣しようとしたが呂布に渋られたものの、曹操から左将軍に任じる使者が来ると喜んで陳登を送った。
陳登は曹操に「呂布は武勇はあるが無計画で、軽々しく人についたり離れたりするから早く滅ぼすべきだ」と伝え、曹操も「呂布は野心ある狼の子だ。いつまでも養ってはいられない」と同意し、陳登と密に連絡を取り合った。
呂布は徐州牧を要求したが陳登が広陵太守に任じられ、陳珪が昇給しただけだったことに立腹し、戟で机を叩き割り「お前の親父(陳珪)が曹操と同盟するよう勧めたのに私の要求は一つも通らず、お前ら親子は揃って高い地位に上った。私を売ったな。曹操になんと話してきた」と聞いた。
陳登は顔色一つ変えずゆっくりと「将軍(呂布)は虎と同じでたらふく肉を与えなければ人を食います。(だから徐州牧を与えてください)と言いました。しかし曹操は、呂布は鷹だから空腹なら役立つが満腹になると飛び去ってしまうと申していました」と返した。呂布の怒りは解けた。
袁術は激怒して攻め寄せ、呂布は陳珪に責任を問い方策を尋ねた。韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)を寝返らせる策を取り大勝した。(『呂布伝』)

袁術に仕えていた袁渙(えんかん)はこの際に捕虜となり、仕官させられた。
呂布が劉備と険悪になり、袁渙に劉備を罵る書簡を書かせようとしたが、何度命じられても断った。呂布は激怒し武器をちらつかせ「書けば生、書かねば死だ」と迫ったが、袁渙は平然と笑いながら「徳だけが人に恥辱を感じさせると聞いています。劉備が(徳のある)君子ならば罵られても恥と思わず、(徳のない)小人なら言い返すでしょう。そうすれば恥を与えられるのはあなたです。それに私は以前に劉備に仕え、今はあなたに仕えています。私が別の人に仕えたら、あなたを罵ってもよろしいのですね」と言った。呂布は恥を知り取りやめた。

死後、曹丕はこの逸話に感心し、従弟の袁敏(えんびん)に人となりを尋ねた。
「袁渙は柔和に見えますが、大義に関わる状況に直面し、危難に臨んだ時は、孟賁や夏育(※古代の勇者)でさえも超えられないほどです」と答えた。(『袁渙伝』)

198年、呂布は袁術と結び曹操と敵対した。(『呂布伝』)
劉備が1万の兵を集めたことを危惧し自ら出兵し先制攻撃した。(『先主伝』)

高順(こうじゅん)が劉備、夏侯惇を続けて撃破し、呂布も騎兵を率いて曹操本隊を迎え撃ったが敗走した。曹操に袁術ではなく自分につく利害を説かれると降伏を考えたが、陳宮らに説得され思いとどまった。
袁術に援軍を求め、自ら1千騎を率いて出撃したが敗北し、それきり城に籠もった。呂布は勇猛だが無計画で猜疑心が強く、身内よりも諸将を信頼していたが、諸将の思惑は異なり疑心暗鬼に陥ったため敗れることが多かった。(『呂布伝』・『武帝紀』)

199年、呂布を討伐し3度撃破したが、籠城され兵も疲弊していたため曹操は帰還しようとしたが、荀攸(じゅんゆう)・郭嘉は「呂布は勇猛だが智謀がありません。3連敗し気力も衰えていて、指揮官が衰えれば士気も上がりません。参謀の陳宮は智恵はあるがグズで、呂布の気力が回復せず、陳宮が策を立てる前に攻めれば攻略できます」と進言した。(『荀攸伝』)

曹操が塹壕を掘り水攻めし包囲を3ヶ月にわたり続けると、侯成(こうせい)・魏続(ぎぞく)・宋憲(そうけん)らが結託して反乱し、陳宮を捕らえて降伏した。
呂布は楼上に登り抵抗したが、包囲が狭まると降伏した。(『呂布伝』・『武帝紀』)

張楊はかねてから呂布と親密で、救援したかったが果たせなかったためはるか遠くから声援を送った。(『張楊伝』)

捕らえられた呂布は縄がきつすぎるから緩めてくれと頼んだが、曹操は「虎を縛るのだからきつくしないわけにはいかない」と断った。呂布は「あなたが気に病んでいるのは私一人だけです。もう天下に心配することはありません。あなたが歩兵を、私が騎兵を率いれば天下を平定するのはわけのないことです」と言い、曹操も心を動かしかけたが、劉備が「彼が丁原・董卓に仕えながら何をしたかお忘れか」と指摘すると、曹操はうなずいた。
呂布は劉備を指差し「この男が一番信用できないのだぞ」と罵り、処刑された。
陳宮・高順とともにさらし首にされた後、都へ送られ埋葬された。(『呂布伝』)

208年、曹操の大軍が迫ると孫権は「曹操の老いぼれは帝位を狙っていたが袁紹・袁術・呂布・劉表(りゅうひょう)、そして私に阻まれていた。私だけが生き残り並び立つことはできない」と開戦を決意した。(『呉主伝』)

陳寿は「吼え猛る虎の如き勇猛さを持ちながら、英雄の才略なく軽佻にして狡猾、裏切りを繰り返し眼中にあるのは利益だけだった。古今でこうした人間が破滅しなかったためしはない」と評した。

「演義」では劉備・関羽・張飛の三兄弟を寄せ付けず、許褚・典韋の二人を圧倒する脅威の武勇を披露。
「真・三國無双シリーズ」でも倒すことすら困難な、疑いなく三国志最強の男として扱われる。