劉弁 第13代皇帝・少帝

劉弁(りゅうべん)字は不明
司隷河南郡洛陽県の人(??~190)
後漢の第13代皇帝。
霊帝と何皇后(かこうごう)の長男で、少帝(しょうてい)の名で知られる。
後に献帝となる劉協(りゅうきょう)の異母兄。
生年は173年(後漢書)と176年(漢紀)の二説がある。
189年5月、父の死に伴い即位した。
同年8月、伯父で大将軍の何進(かしん)が、対立する宦官に暗殺されると、袁紹ら何進の配下の報復によって宦官が殺された。
一部は少帝と劉協を連れて逃げたが、廬植(ろしょく)に追いつかれて斬られ、あるいは黄河へ身を投げた。
少帝は劉協とともに歩いて都へ帰った。
何進が宦官に対抗するため呼び出した董卓は、この混乱に乗じて都の実権を握った。(『後漢書 霊帝紀』)
董卓が兵を率いて少帝らを保護すると、少帝はおびえて泣き出し、事情を聞いても要領を得なかった。代わって劉協が話し、ようやく状況を把握した。董卓は賢さに感心し、また劉協がかつて董太后(とうたいこう)に養育されていたため、自身は董太后の一族であると称し、劉協を帝位につけ傀儡にしようと企んだ。(『後漢書 董卓伝』)
董卓は袁紹に廃位を相談した。袁紹は表向きは賛成したが、重大事なので太傅を務める叔父の袁隗(えんかい)とも相談したいと言い時間を稼ごうとすると、董卓は「劉氏の血統など残す必要もない」と言った。袁紹は答えず、そのまま都を逃げ出した。(『袁紹伝』)
「呉書」に曰く、袁紹らは少帝が幼く、母の身分も低く後ろ盾がいないため、名声高い劉虞(りゅうぐ)を即位させようと企み、袁術に誘いを掛けた。だが袁術は自身が後漢王朝に取って代わろうという野心を抱いており、表向きは大義を盾にそれを断った。(『袁術伝』)
同年9月、少帝を廃し、劉協が献帝として立てられた。劉弁は弘農王に封じられた。(『後漢書 霊帝紀』)
董卓を恐れ誰も逆らわなかったが、廬植だけが廃位に反対した。董卓は怒り処刑しようとしたが、蔡邕(さいよう)が弁護し助けた。(『後漢書 献帝紀』)
同月、母の何太后が董卓に殺された。
190年1月、袁紹らが董卓討伐の軍を興すと、それに担ぎ上げられることを恐れた董卓により、劉弁も殺された。(『後漢書 献帝紀』・『後漢書 董卓伝』)
董卓は李儒(りじゅ)に命じ薬と称して毒薬を劉弁に渡した。劉弁は「私は病気ではない。これは毒だろう」と見抜き拒否したが、力ずくで飲まされそうになり、覚悟を決めて妻の唐姫(とうき)ら宮人を集め、別れの宴を開いた。
劉弁は唐姫に舞をさせ、「あなたは王の妻だ。どうか民の妻にはならず、自愛してくれ」と言い遺し、自ら毒をあおいだ。
皇帝ではなく懐王と諡された。
唐姫は郷里に帰り、夫の遺言を守って再婚の勧めを断った。董卓の死後、実権を握った李傕(りかく)は彼女を妻にしようとしたが、名乗りさえしなかった。それを知った賈詡が献帝に庇護を求め、弘農王妃として都に迎え入れられた。(『後漢書 后紀』)
後年、曹操は少帝の陵墓を通りかかると、少帝は王として祀られており、皇帝陵として詣でるべきか迷い、意見を求めたが誰も答えられなかった。
すると董遇(とうぐう)が進み出て「古例によると年内に死亡すれば君主として認められません」として不要と答え、納得した曹操は参拝しなかった。(『王朗伝』)
譙周(しょうしゅう)は名前の持つ力を説き、「霊帝は二人の子(少帝と献帝)をそれぞれ史侯(しこう)・董侯(とうこう)と名付けた。二人は帝位についたが、後に侯の位に下げられた」と語った。(『杜瓊伝』)
地方の一豪族に過ぎない董卓によって廃位されたことは、後漢王朝の事実上の滅亡を意味する出来事である。
死後も不遇は続き、弘農懐王と諡され、実質的に皇帝と認められなかった。明代に作られた系図からも少帝は省かれているという。
「演義」ではより暗愚さを強調され、「横山三国志」では美少年の劉協と比べ、小太りの冴えない少年に描かれる。
その死も毒殺を拒み、李儒に母とともに塔から突き落とされる、より酷い最後に変更された。
また「演義」等では幼帝だと強調されるが、即位時17歳ならば、後漢歴代皇帝で4番目の高齢(しかも1~3位は初代~3代皇帝で占められ、4代以降では最高齢)であり、後漢王朝が幼帝ばかりだったのが真相である。
|