劉備 義侠、天地を喰らう

劉備(りゅうび)字は玄徳(げんとく) 幽州涿郡涿県の人(161~223)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
蜀の初代皇帝。
漢王朝の末裔で、祖父の劉雄(りゅうゆう)は県令を務めた。 幼くして父を失ったため貧しく、母とともにわらじやむしろを売って生計を立てた。
庭の隅に桑の大樹があり、遠くから眺めると車蓋のように見え、ある人は「この家からは貴人が出る」と予言した。幼い劉備は「いつかこの樹のような車蓋の付いた(天子の)車に乗る」と言い、叔父に「めったなことを言ったら一族を滅ぼされるぞ」と叱られた。
15歳の時、母に遊学させられ一族の劉徳然(りゅうとくぜん)や公孫瓚(こうそんさん)とともに同郷の盧植(ろしょく)に師事した。劉徳然の父の劉元起(りゅうげんき)はいつも劉備を息子と同等に扱って学費を出してやり、妻に苦言を呈されると「この子は並の人間ではない」と答えた。
劉備は公孫瓚とは親密で、年上の彼を兄事した。読書を好まず犬や馬や音楽を好み、衣服を美しく整えた。7尺5寸の長身で手を下げると膝に届き、横目で見えるほど耳が大きい異相で、口数は少なく、人にへりくだることをなんとも思わず、喜怒を顔に出さなかった。
天下の豪傑と付き合ったため若者は争うように親交を求め、大商人の張世平(ちょうせいへい)・蘇双(そそう)は馬を買いに涿郡に来て劉備と知り合い、傑物と考えて多くの援助をし、かくして劉備は多くの仲間を得た。
184年、黄巾の乱が起こると義勇軍を率いて官軍の鄒靖(すうせい)に従い、手柄により安喜県の尉に任じられた。だが督郵(視察官)が訪れた時、面会を拒否されたのに怒り、縛って2百回も杖で殴り、尉の官印を督郵の首に掛け、柱にくくりつけて逃亡した。
その後、毌丘毅(かんきゅうき)が揚州丹陽郡で徴兵するのに同行し、徐州下邳郡で賊軍に襲われ、奮戦した功績により下密県丞になったが、またも官を棄てた。
高唐県の尉から県令になったが賊軍に敗れて逃げ、親密な公孫瓚を頼り、上表されて別部司馬となり、公孫瓚麾下の田楷(でんかい)とともに袁紹と対峙した。
たびたび戦功を立てたため試しに平原国の県令代行を命じられ、やがて平原国相に上った。
郡民の劉平(りゅうへい)はかねてから劉備を軽んじ、配下となるのをよしとせず刺客を送り殺そうとしたが、劉備を慕う刺客は事情を話して去った。これほど劉備は人心を得ていた。(『先主伝』)
関羽は幽州涿郡へ出奔し、同地出身の劉備が挙兵すると張飛とともに近侍した。張飛は数歳上の関羽に兄事した。
劉備が平原国相となると、張飛とともに別部司馬になりそれぞれ部隊を指揮した。劉備・関羽・張飛は同じ寝台で休み兄弟のように恩愛を掛けられたが、公の席では一日中そばに立って護衛し、劉備のために苦難をいとわなかった。(『関羽伝』・『張飛伝』)
孔融(こうゆう)が黄巾賊に包囲されると太史慈は平原国相の劉備へ救援を求める連絡役を買って出て、一計を案じ城を脱出すると劉備を「私は孔融殿と親戚でも同郷でもない立場ながら厚遇されています。孔融殿はあなたの仁義を慕い私を遣わされました」と説得した。劉備は「孔融殿はこの広い世界に私がいることを知っていてくださったのか」と喜び、援軍を送り救援した。(『太史慈伝』)
192年、袁術・袁紹が敵対し、袁術は公孫瓚と同盟した。公孫瓚は劉備・陶謙(とうけん)らを進撃させたが、袁紹は曹操と同盟し全て撃退した。(『武帝紀』)
194年、曹操が徐州牧の陶謙を攻めると、劉備は田楷とともに救援した。この時、劉備は私兵1千と烏丸の騎兵を率いており、さらに飢饉に苦しむ民衆を数千人むりやり配下にし、陶謙に屈強な丹陽兵4千を与えられると鞍替えして田楷と別れた。(『先主伝』)
曹操は劉備・曹豹(そうひょう)を撃破し虐殺を働いた。(『武帝紀』)
陶謙は上表して劉備を豫州刺史にしてやり、さらに重病にかかると糜竺(びじく)の助言で後を任せようとした。劉備は断ったが陳登(ちんとう)に「漢王朝は衰えて天下は覆り、功業を立てる好機です。そこへ百万の民を持つ豊かな徐州の州牧が頭を下げて来ているのですよ」と言われた。
劉備はなおも「隣の揚州にいる袁術は名門で天下の人望を集めているから、彼に任せるべきだ」と遠慮したが、陳登に「袁術は驕慢で(天下の)混乱を治められません。徐州は10万の兵を集められ(袁術に対抗でき)ます。公的には天子と民を助け、私的には領地と栄誉が得られます。これでも聞き届けてくれないなら私もあなたに従えません」と説き、北海国相の孔融も「袁術は国を憂えて家を忘れる男だろうか。墓の中の骸骨同然で意に介す必要もない。民衆は有能な人物を求めている。天が与えた物を受け取らず後悔しても遅い」と促し、劉備は徐州の支配を受け継いだ。(『先主伝』)
劉備の配下にいた陳羣(ちんぐん)は「袁術は強力で必ず戦争となり、呂布に背後を襲われれば徐州も失う」と反対した。劉備は聞き入れず刺史となったが陳羣の予見した通りになり、後悔した。(『陳羣伝』)
田豫(でんよ)は幼少の頃から劉備に高く評価されたが、豫州刺史に任じられた際に母が老齢のため帰郷することになった。劉備は涙を流し「君とともに大事を成就できなくなり残念だ」と別れを惜しんだ。(『田豫伝』)
はたして袁術が攻め寄せたが撃退し、(※呂布に背後を襲われ徐州から撤退した)曹操は196年、上表して劉備を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じさせた。(『先主伝』)
曹操に敗れた呂布は劉備を頼った。(『呂布伝』)
劉備と袁術が対峙すること1月、呂布が下邳郡を攻めると守将の曹豹が寝返って迎え入れ、劉備の妻子は捕らえられた。(『先主伝』)
陶謙の旧臣で莫大な資産を持つ糜竺(びじく)は妹の糜夫人(びふじん)を劉備の側室とし、奴僕2千人と軍資金を提供したため勢いを盛り返した。
曹操は糜竺と弟の糜芳(びほう)を太守に任じ懐柔したが、兄弟は官位と先祖代々の土地を捨てて劉備とともに流浪した。(『糜竺伝』)
劉備は曹操を頼り、程昱(ていいく)は「劉備はずば抜けた才を持つ上に人心をつかんでおり、いつまでも他人の下にいる人物ではありません。早く始末すべきです」と勧めたが、曹操は「今は英雄を集めるべき時機で、一人を殺して天下の人心を失ってはいかん」と却下した。(『武帝紀』)
劉備は戻って呂布配下の楊奉(ようほう)・韓暹(かんせん)を討ち取り、呂布と和睦して妻子を返還された。(『先主伝』)
劉備は呂布に降り、小沛に駐屯した。袁術が3万の兵で攻めると呂布の臣下は「あなたは常々劉備を殺そうとしていたから袁術に協力すべきです」と言ったが、呂布は「劉備が敗れたら袁術は泰山の臧覇(ぞうは)らと連携して我々を包囲する。救援しないわけにはいかない」と退け、自ら救援した。
袁術軍を率いる紀霊(きれい)は呂布を警戒し進軍を止めた。呂布は紀霊・劉備らを会食に誘い「劉備は私の弟だ。弟を助けに来たが私はもともと争いが嫌いで、揉め事の仲裁が大好きだ」と言い、兵に門前に戟を掲げさせると「あの小枝(小さい方の刃)に弓を射るから、一発で命中したら撤退してくれ。外れたら好きに攻めよ」と告げた。矢は命中し一同は「将軍は天の威光を具えておいでだ」と称え、翌日も宴会してから双方ともに撤退した。(『呂布伝』)
だが兵を1万に増強すると呂布に再び攻められ、曹操に身を寄せた。豫州牧に任じられ、兵と兵糧を分け与えられ夏侯惇とともに呂布を攻めたが、高順(こうじゅん)に撃破されまたも妻子を奪われた。(『先主伝』)
呂布は袁渙(えんかん)に劉備を罵る書簡を書かせようとしたが、何度命じられても断った。呂布は激怒し武器をちらつかせ「書けば生、書かねば死だ」と迫ったが、袁渙は平然と笑いながら「徳だけが人に恥辱を感じさせると聞いています。劉備が(徳のある)君子ならば罵られても恥と思わず、(徳のない)小人なら言い返すでしょう。そうすれば恥を与えられるのはあなたです。それに私は以前に劉備に仕え、今はあなたに仕えています。私が別の人に仕えたら、あなたを罵ってもよろしいのですね」と言った。呂布は恥を知り取りやめた。
後に劉備が死んだという報告(※誤報)が届くと、曹操の臣下はみな祝ったが、袁渙はかつて茂才に推挙された恩から、ただ一人喜ばなかった。(『袁渙伝』)
199年、曹操は自ら呂布を攻めて捕らえ、妻子を取り戻した劉備は曹操に従い許都へ帰った。(『先主伝』)
捕らえられた呂布は縄がきつすぎるから緩めてくれと頼んだが、曹操は「虎を縛るのだからきつくしないわけにはいかない」と断った。呂布は「あなたが気に病んでいるのは私一人だけです。もう天下に心配することはありません。あなたが歩兵を、私が騎兵を率いれば天下を平定するのはわけのないことです」と言い、曹操も心を動かしかけたが、劉備が「彼が丁原(ていげん)・董卓に仕えながら何をしたかお忘れか」と指摘すると、曹操はうなずいた。
呂布は劉備を指差し「この男が一番信用できないのだぞ」と罵り、処刑された。(『呂布伝』)
呂布と共闘していた臧覇(ぞうは)が曹操に降ると、曹操は劉備を通じ、臧覇のもとに亡命していた徐翕(じょきゅう)・毛暉(もうき)の首を届けるよう命じた。
だが臧覇は「私が独立できていたのは、(亡命者を殺すような)信頼を裏切らなかったからです。私は公(曹操)に降り命令には背けませんが、王者となる君主には道義を述べてもよいと聞きます。どうか将軍(劉備)からも弁明してください」と断った。
劉備から伝えられた曹操は嘆息し「亡命者をかばうことは古人のなしてきた行為だが、君がそれを行うのは私も願うところだ」と認め、徐翕・毛暉を太守に任命した。(『臧覇伝』)
劉琰(りゅうえん)は豫州従事に招かれた。劉備と同姓で雅な心があり、談論を愛好したため厚遇され、常に賓客として側近くに仕えた。
(※後に劉禅と妻の密通を疑い、劉禅に処刑された)(『劉琰伝』)
曹操は上表して左将軍にしてやり、丁重にもてなし同じ輿に乗せ、席も同じくした。
衰退した袁術が袁紹のもとへ落ち延びようとすると、劉備は朱霊(しゅれい)らとともに阻止を命じられたが、到着前に袁術は病死した。
その前、劉備は献帝から曹操誅殺の勅命を受け、董承(とうしょう)らと密議を凝らしていた。曹操と会食していると「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹など物の数にも入らない」と言われ、動揺して箸を落とした。決行前に袁術討伐を命じられ、その進軍中に勅命が発覚し董承らは処刑された。
劉備は下邳郡を本拠地とし、朱霊らを帰還させ、徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺して独立した。(『先主伝』)
程昱・郭嘉は劉備が派遣されたと聞くと反乱を危惧し、曹操も後悔して追わせたが間に合わず、劉備は独立した。(『武帝紀』)
董昭(とうしょう)は劉備を袁術討伐に出したと聞くと「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち、関羽・張飛は羽翼となってそれを助けています。劉備が何を企んでいるかわかりません」と危惧した。(『董昭伝』)
東海郡で反乱した昌豨(しょうき)と連合して数万の軍勢に膨れ上がり、袁紹とも協力した。曹操が差し向けた劉岱(りゅうたい)・王忠(おうちゅう)を撃破したが200年、曹操自ら討伐されて大敗し、全ての兵を失い三度妻子を奪われ、孤立した関羽も捕らえられた。(『先主伝』)
曹操が自ら劉備の討伐に向かおうとすると諸将は袁紹に背後を襲われることを危惧したが、「劉備は傑物で今討伐しなければ後の災いとなる。袁紹は大きな志を持っているが機を見るに敏ではない。きっと動かないだろう」と言い、郭嘉も同意した。
読み通りに袁紹は動かず、敗れた劉備は袁紹のもとへ逃げた。(『武帝紀』)
田豊(でんほう)は曹操の背後を襲うよう進言したが、袁紹は生まれたばかりの息子が病気で心配だと却下した。田豊は杖で地面を叩き憤慨した。(『袁紹伝』)
関羽は捕虜となったが、曹操は偏将軍に任じ手厚く礼遇した。
しかし心服はさせられないと感じ、張遼に確かめさせると関羽は「曹公の厚遇はありがたいが、私は劉備に厚い恩誼を受け、ともに死のうと誓った仲で絶対に裏切りません。しかし手柄を立て曹公に恩返ししてから去ります」と答えた。(『関羽伝』)
青州刺史で袁紹の長子の袁譚(えんたん)のもとへ落ち延びた。かつて袁譚を茂才に推挙した恩があるため歓迎され、袁紹も喜び本拠地の鄴から200里先まで出迎えた。(『先主伝』)
文醜(ぶんしゅう)とともに曹操を攻めたが敗北し文醜は戦死した。(『袁紹伝』)
四散していた配下も徐々に戻り、官渡の戦いが始まると汝南郡で反乱した黄巾賊の劉辟(りゅうへき)との連携を命じられた。
関羽も逃げ帰って来たが、劉備は曹仁に敗れ袁紹のもとへ戻った。密かに(袁紹を見捨て)荊州牧の劉表(りゅうひょう)を頼ろうと考え、連合を提案して汝南郡へ戻った。
蔡陽(さいよう)を討ち取ったものの袁紹は官渡で大敗し、曹操に攻められて荊州へ逃げた。(『先主伝』)
袁紹が劉備に後方撹乱させ許昌以南を動揺させると、曹仁は「我々は袁紹と対峙し救援できないと南方は判断しているところに劉備が攻めてきたから、寝返るのは当然です。しかし劉備は袁紹傘下になって日が浅く、まだ思いのままに指揮できないから撃破できます」と言い、騎兵を率いて劉備を撃破し、寝返った諸県を全て取り戻した。(『曹仁伝』)
劉備は曹操が自ら来たと聞くや劉表のもとへ逃げた。(『武帝紀』)
糜竺・孫乾(そんけん)を先に劉表のもとへ送り説得させた。
後に劉表は袁尚(えんしょう)へ手紙を送り、兄の袁譚との骨肉の争いを、いつも劉備・孫乾と話し合って悲しんでいると述べた。(『孫乾伝』)
呂布配下の許汜(きょし)は以前に裏切った曹操に降伏することもできず、荊州の劉表のもとへ落ち延びた。
数年後、同じく曹操に反乱し、落ち延びてきた劉備と同席し、劉表ら3人で人物評を論じ合った。
許汜は陳登(ちんとう)を傲慢と非難した。劉表は「許汜は立派な人で嘘は言わないだろうが、陳登の名声も天下に鳴り響いている」と判断に困った。劉備になぜ傲慢と思うのかその理由を聞かれ「ろくに口を利かず、自分は寝台で寝て、私は床に寝かされた」と許汜は言った。
すると劉備は「君は国家的な人物だと名声がありながら、天子や国のことを憂えず、富貴を求めるだけで、言葉にはなんの取り柄もない。それは陳登が最も嫌うところで、だから話すことなど無かっただけだ。私なら寝台どころか百尺の楼上に寝て、君は地べたに寝かせるだろう」とやり込め、劉表は大笑いした。(『呂布伝』)
陳登は自分が驕慢だと噂されていると聞くと「傑出した勇姿を持ち王覇の才略を具えた劉備を尊敬している」と尊敬している名士たちを列挙し、そんな自分が驕慢なわけがないと否定した。(『陳矯伝』)
後継ぎのなかった劉備は劉封(りゅうほう)を養子に迎えた。(『劉封伝』)
劉表は上客の礼でもてなし兵も与え新野へ駐屯させたが、劉備を慕い天下の豪傑が日ごとに集まってきたため警戒し、密かに防備を固めるとともに曹操と対峙させた。夏侯惇・于禁が攻めて来たが劉備は屯営を焼き払って撤退するふりでおびき寄せ、伏兵で撃破した。(『先主伝』)
李典(りてん)が救援に駆けつけると劉備は散り散りになって逃げた。(『李典伝』)
207年、曹操が烏丸討伐のため北方へ向かい、劉備はその隙に許都を襲うよう説いたが劉表は決断できなかった。(『先主伝』)
劉表は劉備を手厚くもてなしたが任用できなかった。(『劉表伝』)
曹操の臣下は烏丸を攻めれば背後を劉表・劉備に襲われると危惧したが、郭嘉だけは「劉表は劉備を用いられない」と賛成した。かくて遠征が始まった。(『武帝紀』)
伊籍(いせき)は若い頃から同郷の劉表に仕え、劉備が荊州に身を寄せると親交を深め、劉表が没すると劉備に従うようになった。
後に孫権のもとへ使者として赴いた時、弁舌家で知られる彼を試そうと、拝礼されるなり孫権は「無道な君主に仕えるのは苦労するか」といきなり切り込んだ。しかし伊籍はすぐさま「一度拝礼してまた立つだけで、苦労というほどのことはありません」と(※劉備のことを聞かれたのに孫権のことにすり替え)やり返した。伊籍の機智は全てこういうふうで、孫権はいたく感心した。(『伊籍伝』)
後に昭文将軍に上り、諸葛亮、法正(ほうせい)、李厳(りげん)、劉巴(りゅうは)らと五人で蜀の法律「蜀科」を作り上げた。(『伊籍伝』)
劉表の客将の劉備と会見した徐庶(じょしょ)は意気投合し、諸葛亮を臥龍(寝ている龍)だと紹介した。連れてくるよう言われたが徐庶は「行けば会えますが、無理に連れてくることはできません。将軍(劉備)が来訪されると良いでしょう」と助言した。
劉備は三度目の訪問でやっと会え(※三顧の礼)、「漢王朝を復興させ天下に大義を浸透させるには力不足だが、志を捨てきれない。どうすれば良いか」と尋ねた。
諸葛亮は「袁紹より名声も兵も少なかった曹操が勝ったのは、天が与えた時節だけではなく人間の計略によるものです。曹操は百万の兵と天子を擁し、対等に戦える相手ではありません。江東の孫権は三代に渡る支配で民はなつき人材を集め、これは味方とすべき相手です。ここ荊州は四方に通じる要衝ですが、領主(劉表)はとても保持できません。これこそ天があなたに与えたものです。そして益州は険阻かつ肥沃で、高祖(劉邦)が帝業を始めた地です。益州を治める劉璋(りゅうしょう)も暗愚で、智能ある人士は明君を迎えたいと願っています。あなたは皇帝の末裔で信義が天下に聞こえ、英雄(関羽・張飛)を掌握し、賢者を渇望しています。もし荊州・益州を支配し、西と南の異民族をなつけ、孫権と同盟すれば、天下に変事あらば荊州と益州から北上し、万民に歓迎され、覇業を成し漢王朝は復興するでしょう」と答えた。(※隆中対・天下三分の計)
劉備は大いに喜び、諸葛亮と日に日に親密になった。古参の関羽・張飛は不機嫌だったが、劉備に「私に孔明が必要なのは魚に水が必要なのと同じだ。二度と文句を言わないで欲しい」となだめられ、何も言わなくなった。(※水魚の交わり)(『諸葛亮伝』)
208年、曹操が荊州討伐へ向かうとちょうど劉表は病死し、子の劉琮(りゅうそう)はすぐに降伏した。劉備は曹操の侵攻すら知らされず、宛城まで迫ったところでようやく気づき逃走した。(『先主伝』)
曹操の大軍が迫っても劉琮は降伏を渋ったが傅巽(ふそん)は道理を説き、客将の劉備と劉琮のどちらの器量が勝るか問い、劉備が上回るという言質を取ると、劉備でさえ曹操には敵わず、もし敵うなら客将の地位に甘んじはしないだろうと半ば脅して説き伏せた。(『劉表伝』)
劉琮の本拠地の襄陽を通る際に諸葛亮は「今なら劉琮を攻めれば荊州を制圧できる」と勧めたが、劉備は「それは忍びない」と言い、劉琮を呼んだ(弔辞を述べようとした?)が恐れて現れなかった。劉琮の側近や荊州の民の多くが劉備に帰順した。
10万の人々と数千台の荷車が付き従い、日に10里も進めなかった。関羽に水路で先行させて江陵で落ち合うこととし、ある人は「民を捨てすぐに江陵を確保するべきです。10万人いるが武装した者はわずかで曹操に追いつかれたら抵抗できません」と言ったが、劉備は「そもそも大事を成し遂げるには必ず人間を基本としなければならない。私に身を寄せてくれた人々を見捨てるのは忍びない」と退けた。
曹操は軍需物資の蓄えられた江陵に入られたら厄介だと考え、輜重隊を置いて急行した。既に襄陽を通過されたと聞くと騎兵5千で自ら追撃し、一昼夜に3百里を駆けて長坂坡で追いついた。
劉備は四度妻子を捨てて数十人の腹心らと逃げ、曹操に民と荷車を奪われた。逃げ回るうちに関羽と合流でき、劉表の長子だが後を継げなかった江夏太守の劉琦(りゅうき)の兵1万に迎えられた。(『先主伝』)
劉備は長江を渡って逃げる計画を立て、関羽に船で先行させ江陵で落ち合うよう命じた。長坂坡で曹操軍に追いつかれたが、脇道を通って逃げ、関羽と合流し夏口に着いた。(『関羽伝』)
甘夫人(かんふじん)は劉備の側室だがたびたび正室を失ったため奥向きのことを取り仕切った。長坂の戦いで子の劉禅とともに置き去りにされ、趙雲に守られ難を逃れたがその後没した。(『甘皇后伝』)
劉備は張飛に20騎で殿軍を任せた。川を盾にして橋を切り落とすと、目を怒らせて矛を小脇に抱え「吾輩が張益徳だ。掛かってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。曹操軍は恐れて近づけず、劉備は無事に逃げ延びた。(『張飛伝』)
曹純(そうじゅん)は劉備の娘を2人捕らえた。(『曹仁伝』)
徐庶の母が捕虜となった。徐庶は「あなたと覇業を行おうとこの一寸四方の場所(心臓)で思っていましたが、母を失い一寸四方は混乱し、(今の私では)事態に対処できません。ここでお別れです」と言い、曹操に降伏した。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮を使者として孫権と同盟し、赤壁の戦いで曹操を大破した。追撃して南郡(江陵)まで迫ると、疫病が大流行していたこともあり、曹操は全軍撤退した。(『先主伝』)
魯粛は劉表の死を聞くと「劉表の息子らは反目していますが、劉備という一筋縄ではいかない英傑が息子らをまとめられたら同盟し、無理だったらそれに乗じます。劉備には劉表の配下と共同するよう説き伏せます。喜んで従うでしょう」と孫権に進言した。劉琮がすぐに曹操に降ってしまい、敗走する劉備に同盟を持ちかけた。(『魯粛伝』)
諸葛亮は孫権との同盟を進言し、自ら説得に赴き「もし曹操に対抗できないとお考えなら、すぐに服従すべきです。服従する素振りをしながら引き伸ばしていたら、災禍が訪れます」と言った。
孫権が「それならなぜ劉備は降伏しないのか」と聞くと、諸葛亮は「劉備は王室の後裔で、英才は世に卓絶し、水が海へ流れるように多くの人々に敬慕されています。事が(漢王朝の復興)成就しなければそれは天命であり、どうして曹操に降伏などできましょう」と答えた。
孫権はむっとし「私は呉の土地と10万の兵を持ち他人に左右されない。しかし敗れたばかりの劉備がまだ戦えるのか」と聞き、諸葛亮は「劉備はいまだ1万の兵を持ち、味方する劉琦も1万の兵を持っています。しかも曹操軍は遠征で疲れ果て、水戦にも不慣れで、荊州の民も服従していません。あなたが劉備と力を合わせれば間違いなく勝てます。そうなれば曹操・孫権・劉備は三者鼎立できます。事の成否が決するのはたった今です」と言った。
孫権は大いに喜び、周瑜らに3万の兵を率いさせ、劉備とともに赤壁で曹操軍を撃破した。(『諸葛亮伝』)
孫権は劉備と同盟し合肥を攻めた。張熹(ちょうき)を派遣すると孫権は撤退したが、曹操本隊は赤壁で劉備に敗れた。疫病が蔓延し多くの死者が出たため撤退し、劉備が荊州の江南を制圧した。(『武帝紀』)
劉備が荊州の貸与を願い出ると魯粛だけが賛成し許可された。曹操はそれを聞くと驚き筆を落とした。(『魯粛伝』)
孫権は後に振り返り「荊州の貸与は失策だったが、私に覇道を語ったことと赤壁の戦いで勝利に導いたこと、2つの立派な行いを損ずるほどではない」と評価した。(『呂蒙伝』)
劉備が孫権を頼った時、群臣は孫権は劉備を殺すだろうと予測したが、程昱(ていいく)は「孫権は策謀に優れ一人で抵抗しない。劉備は英名があり関羽・張飛は一人で一万人と戦える。協力して我々に抵抗するだろう。そして危難が去れば分裂し、劉備はそれを利用して力を蓄え、もう殺せなくなる」と言い、その通りになった。(『程昱伝』)
劉表に仕えていた裴潜(はいせん)は曹操に劉備の人物を聞かれ「中央では世を乱すだけですが、要害を守れば地方の主にはなれるでしょう」と答えており、後の蜀建国を予見したとも言える。(『裴潜伝』)
上表して劉琦を荊州刺史とし、荊州南部の4郡を制圧した。廬江郡で反乱した雷緒(らいしょ)が数万人を率いて帰属した。(『先主伝』)
劉備・周瑜は曹仁を包囲したが李通(りつう)に突破され救出された。(『李通伝』)
荊州の士人の多くが劉備に仕えたが、劉巴(りゅうは)は曹操に仕えた。南部3郡を帰順させるよう命じられたが、劉備に先に制圧されたため交州へ逃げ、劉備は非常に残念がった。(『劉巴伝』)
209年、劉琦が病没し、劉備が荊州牧となった。
孫権は警戒を強め、妹の孫夫人(いわゆる孫尚香)を嫁がせ、城に招いて極めて親密になると益州を制圧しようと持ちかけた。
群臣は(劉備支配下の)荊州を越えて孫権が益州を支配することは不可能であり、好都合だと賛成した。
だが殷観(いんかん)は「益州を制圧できなければ孫権と挟み撃ちにされます。今は賛成だけしておいて、荊州南部を制圧したばかりだから動けないと答えましょう。孫権は我が領土を越えて益州に攻め込みはしません。これで益州や孫権よりも利益を得られます」と言った。
劉備も同意し、はたして孫権は計画を取りやめた。 殷観を別駕従事に昇進させた。(『先主伝』)
劉備の上表により孫権は車騎将軍・兼徐州刺史に任じられた。(『呉主伝』)
孫夫人は孫策・孫権に似て才気と剛勇があり、100人の侍女に刀を持たせていたため、劉備はいつも心底から恐怖しびくびくしていた。(『法正伝』)
周瑜は「劉備は梟雄であり、勇猛無比な関羽・張飛が配下にいるからいつまでも他人の下にいません。劉備のために宮殿を建てて手厚くもてなして骨抜きにし、関羽・張飛は別々の地へ赴任させ私が指揮すれば、天下統一も可能です。劉備・関羽・張飛を一緒にしておけば、龍が天に昇るようにいつまでも池の中に留まっていません」と進言した。
だが孫権は曹操に対抗するため多くの英雄が必要であり、劉備を引き止めるのも無理だろうと考え却下した。(『周瑜伝』)
呂範(りょはん)も劉備を帰さないよう進言した。後に(※219年)孫権は関羽の討伐に向かう際に「あなたの言う通りにしておけばこんな苦労はなかった」と呂範にぼやき留守を頼んだ。(『呂範伝』)
江南の諸郡を手に入れると、関羽を襄陽太守・盪寇将軍に任じ、長江の北に駐屯させた。(『関羽伝』)
劉備・周瑜は江陵を守る曹仁を包囲し、関羽に北道を断ち切らせた。李通(りつう)はそれを攻め、包囲陣を破り曹仁を救出した。(『李通伝』)
周瑜は遺言で「曹操と敵対している上に劉備は近辺におり民もなついていない」と警戒を怠らないよう促した。(『周瑜伝』)
龐統は県令に任じられたが治績が上がらず罷免された。魯粛は劉備に「龐統は県を治めるようなケチな才能ではなく、州郡を治めさせ初めて駿足を伸ばします」と忠告してやり、諸葛亮も取りなした。
劉備は引見すると龐統を大いに評価し、諸葛亮に次ぐ親愛ぶりを示し、ともに軍師中郎将に任じた。益州討伐では諸葛亮が荊州の抑えに残り、龐統が劉備に付き従った。(『龐統伝』)
211年、益州牧の劉璋(りゅうしょう)は曹操が漢中を攻めると聞き、制圧されれば次は益州の番だと恐れおののいた。
張松(ちょうしょう)はその不安に付け込み、劉備を招いて漢中を制圧させて盾とするよう献策した。劉璋は同意し法正(ほうせい)に4千の兵と莫大な贈り物を劉備に届けさせた。張松・法正は劉備に益州を制圧させようと企んでおり、密かに結託した。
劉備は荊州を諸葛亮・関羽らに任せ、数万の兵を率いて益州に入り、劉璋に歓待された。張松はその場で劉璋を殺すよう勧めたが、劉備は「事は重大であり慌てるべきではない」と却下した。(『先主伝』)
龐統も同じことを勧めた。(『龐統伝』)
黄権(こうけん)・王累(おうるい)らは反対したが劉璋は全く受け入れず、劉備はまるで故郷へ帰るようにやすやすと国境を超えた。劉璋は3万の兵を率いて迎え、将兵を代わる代わる百日を超えて歓待した。(『劉璋伝』)
黄権は「劉備は勇名を馳せており、客将として遇すれば満足せず、賓客として遇すれば一国に二人の君主がいることになります。客が泰山のごとく万全なら、主人は累卵の上に立つような危うい状況になります。国境を閉鎖し様子を見るべきです」と諌めた。(『黄権伝』)
劉璋は劉備を行大司馬兼司隷校尉に、劉備は劉璋を行鎮西大将軍兼益州牧に推挙し合った。兵を増強され3万の兵力を持った劉備は漢中の張魯(ちょうろ)と対峙したが戦おうとせず、恩徳を施して人心を集めた。
212年、曹操に攻められた孫権は劉備に救援要請した。
劉備は「このままでは関羽が楽進(がくしん)に敗れ、張魯より脅威になってしまう」と言い、劉璋に1万の増兵と軍需物資を求め、荊州へ帰ろうとした。
だが劉璋は4千の兵と要求の半分にも満たない物資しか与えず、劉備の帰還に泡を食ってうかつに動いた張松との結託も露見し、張松は処刑された。
劉璋は劉備との断絶を宣言し、劉備は激怒して楊懐(ようかい)を暗殺すると、益州兵の妻子を人質に取って配下とし、州都の成都へ進軍した。(『先主伝』)
龐統は「3つの策があります。上策は成都へ急行し決戦を挑むこと。中策は帰還する構えを見せて楊懐らをおびき寄せ、兵を奪ってから進軍すること。下策は荊州まで戻り兵を立て直すことです」と献策し、劉備は中策を選んだ。
快進撃が続き、戦勝会を開いた劉備が「今日は実に楽しい」と言うと、龐統は「他人の国に攻め込んでおきながらそれを喜ぶのは仁者の戦ではありません」と諌めた。劉備は酔っていたため怒り「周の武王が殷の紂王を討伐した時も歌い踊ったという。あれは仁者の戦ではなかったのか。的外れな意見だ」と言い退室させたが、すぐに後悔して呼び戻した。
龐統は素知らぬ顔で謝りもせず飲み食いを続け、劉備に「さっきの議論はどちらが間違っていたか」と尋ねられると「ともに間違っていました」と答え、劉備は大笑いした。
その後、龐統は戦死した。劉備ははなはだ悲しみ、彼の話をするたびに涙した。父を栄転させて功に報いた。(『龐統伝』)
張存(ちょうそん)はかねてから龐統を買っていなかったため、悲しむ劉備に「忠義を尽くした惜しむべき人物ですが、君子の道に反していました」と言った。
劉備は「身を殺して仁をなしたのにそれをいかんと言うのか」と怒り罷免した。(『楊戯伝』)
劉璝(りゅうかい)らを撃破し、李厳(りげん)は軍勢を率いて降伏した。諸葛亮・張飛・趙雲らも荊州から別ルートで侵攻し、1年で成都へ迫った。(『先主伝』)
馬良(ばりょう)は出陣前の諸葛亮に手紙を送り劉備を称賛した。(『馬良伝』)
鄭度(ていど)は民を移住させた後に穀物を焼き払い、劉備軍の補給を断つよう献策した。
それを聞き知った劉備は不安に思い法正に相談したが「どうせ劉璋は採用しません」と言われ、その通りになった。(『法正伝』)
王連(おうれん)は降伏せず籠城し、劉備はその義心を認め無理に攻撃しなかった。益州の制圧後、県令に任じた。(『王連伝』)
李恢(りかい)は劉備が必ず勝つと考え進んで降伏し、馬超を説得する役目を果たした。
後に謀叛を企んでいると讒言され逮捕されたが、劉備は事実無根と調べ上げると昇進させた。(『李恢伝』)
劉備が益州に侵攻すると風気(風占い)の名手の呉範(ごはん)は「2年後に制圧する」と占った。
益州へ行っていた呂岱(りょたい)は劉備と話し、「配下は散り散りになり、兵も半数を失っており失敗するでしょう」と孫権へ報告した。
孫権が呉範を難詰すると「私は天道について話しましたが、呂岱は人事を見てきただけです」と言った。
はたして214年に劉備は益州を制圧した。(『呉範伝』)
214年、成都を数十日に渡り包囲された劉璋はついに降伏した。
劉備は酒宴を催して将兵をねぎらい、城に蓄えられた金銀を分け与えた。
益州牧を兼務し、諸葛亮や関羽・張飛ら古参の配下を重職につけた。さらに劉璋に重用されていた董和(とうか)・黄権・李厳、劉璋の縁戚の呉懿(ごい)・費観(ひかん)、逆に排斥されていた彭羕(ほうよう)、劉備に反目し益州まで逃れてきていた劉巴らをこぞって高位につけたため、志ある者はみな忠勤に励んだ。(『先主伝』)
許靖(きょせい)は城壁を乗り越えて投降しようとしたが失敗し捕らえられた。劉璋は緊急時であるため処刑しなかった。
劉璋が降伏すると劉備はこのことから許靖を軽んじたが、法正(ほうせい)に「天下には虚名を博しながら実質が伴わない者がおり、許靖がまさにその人です。しかしあなたは大業を始めたばかりで、天下の人々に一人ずつ虚名を説明することは不可能です。許靖の虚名は四海に広く伝わっており、登用しなければあなたが賢者をないがしろにしたと思われるでしょう。「まず隗より始めよ」を真似て、許靖を厚遇してください」と進言され劉備はその通りにした。(『法正伝』)
正室の孫夫人(孫尚香)が帰国したため、群臣は穆皇后(ぼくこうごう)をめとるよう勧めた。劉備は前夫が同族なのを渋ったが、法正の説得もあり正室に迎え、帝位につくと皇后に立てられた。(『穆皇后伝』)
諸葛亮は軍師将軍・左将軍府(※当時の劉備の官位は左将軍)となり、劉備が遠征する際には兵站を担った。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮・法正・関羽・張飛に同等の恩賞が贈られた。(『張飛伝』)
劉巴は荊州を制圧された際に曹操に降ったことを陳謝したが劉備は咎めず、諸葛亮にもたびたび称賛されたため厚遇した。
後に劉備が帝位についた際に神へ祀った文書は全て劉巴が記したものである。(『劉巴伝』)
法正は地位を利用して昔のわずかな恩恵に報い、わずかな恨みに報復したためある人が諸葛亮に苦言を呈したが、劉備が法正を信頼していたため「主君(劉備)は曹操・孫権・孫夫人(孫尚香)に怯え進退もままならぬ時に、法正のおかげで空高く舞い上がり制約を免れたのだ。どうして法正に思いのままに振る舞うなと言えようか」と諸葛亮は却下した。
諸葛亮と法正は全く性格が異なったが、互いを認め合い、諸葛亮はその智略を高く買っていた。(『法正伝』)
宿老の簡雍(かんよう)は傲慢・無頓着で、劉備の前でも足を投げ出して脇息にもたれ、だらしなく振る舞った。諸葛亮以下が相手の時には長椅子を占領して寝そべったまま話し、決して意見を曲げなかった。
旱魃により禁酒令が出され、酒を造っただけでも処罰された時、簡雍は劉備と散策に出ると、通りがかった男女を見て「これから淫行に及ぶのに逮捕しないのですか」と言った。なぜわかるのかと不思議がる劉備へ「淫行に使う道具を持っています。酒造りと同じです」と答え、大笑いした劉備は処罰を取りやめさせた。
簡雍の機智はいつもこのようだった。(『簡雍伝』)
彭羕(ほうよう)は劉備にも高く評価されたが厚遇を鼻にかけて増長した。諸葛亮は表向きはもてなしたが内心では良く思わず、劉備に内密で彭羕は野心高く従属させるのは難しいと述べた。劉備は諸葛亮を信頼しており、自らも行状を観察した結果、彭羕を左遷させた。
彭羕は馬超を訪ね「君は諸葛亮や法正と並んで活躍すべきと考えていたが、小さな郡の太守では希望に外れているだろうな」と聞かれると「あの老いぼれ(劉備)は耄碌して話にならん」と言い、馬超に反乱への加担を持ちかけた。
馬超はそれを上奏し、彭羕は投獄された。 獄中から手紙で諸葛亮に取りなしを頼んだが処刑された。(『彭羕伝』)
蔣琬(しょうえん)は広都県長の時、たまたま劉備が訪れると仕事を放置し泥酔していた。劉備は激怒し処罰しようとしたが、敬愛する諸葛亮に「蔣琬は国家を背負う大器で、県を治めるような小人物ではありません。民の安定を根本とし、外見を気にしないのです。それをご推察ください」と取りなされ罷免に留めた。(『蔣琬伝』)
魏の荊州刺史の傅羣(ふぐん)配下の楊儀(ようぎ)は関羽へ寝返った。功曹に任じられ、益州の劉備のもとへ使者として派遣されると大いに気に入られ、召し抱えられた。漢中王に即位した際には尚書に抜擢された。(『楊儀伝』)
許慈(きょじ)・胡潜(こせん)らに古代の慣例制度の復興を担当させた。しかし二人はきわめて仲が悪く、書物の貸し借りはせず(職務に支障をきたし)、感情をむき出しにして罵り合い、鞭で脅しつけるほどだった。
見かねた劉備は宴席で、役者たちに許慈と胡潜の争いをオーバーに再現させ、彼らを反省させた。(『許慈伝』)
鄧芝(とうし)ははじめ食料庫の守備をしていたが、たまたま語り合った劉備は非常に高く評価し県令・太守に抜擢した。(『鄧芝伝』)
215年、孫権は益州を制圧したのだから荊州を返還するよう要求したが、劉備は「涼州を制圧したら返す」とそれを拒否した。
孫権は返すつもりはないと思い南の3郡へ長官を送ったが全て関羽に追い払われた。立腹した孫権は呂蒙に命じて3郡を制圧させ、魯粛に1万の兵で関羽を牽制させ、自ら前線で指揮を取った。
劉備自ら5万の兵を率い南下し、関羽には3万の兵で益陽に入らせた。孫権は呂蒙・魯粛と合流し関羽と対峙したが、曹操が漢中へ侵攻したため、劉備は孫権と荊州を東西に分割して統治する案を出して和睦した。(『先主伝』・『呉主伝』)
廖立(りょうりつ)は20代の若さで劉備に長沙太守に抜擢された。孫権に攻撃されて逃亡したが、劉備は深く責めず巴郡太守に任じた。(『廖立伝』)
曹操が漢中を制圧すると、劉曄(りゅうよう)は「劉備は英傑ですが度量はあるもののグズで、益州は制圧されたばかりで安定していません。政治に明るい諸葛亮が丞相を、関羽・張飛が三軍に冠たる武勇で将軍を務め安定させる前に攻略すべきです」と進言したが却下された。(『劉曄伝』)
黄権は張魯が曹操に撃破されると「漢中を失えば益州は手足をもぎ取られるのに等しい」と救援するよう進言した。劉備は黄権を護軍に任じ出撃したが、既に張魯は降伏してしまった。
しかしその後、異民族の杜濩(とこ)・朴胡(ふこ)を撃破し、夏侯淵を討ち取り漢中を制圧できたのは、全て黄権の計略によるものである。(『黄権伝』)
夏侯淵・張郃らが益州へたびたび攻め入り、張飛に命じて張郃を撃破させた。(『先主伝』)
216年、霍峻(かくしゅん)が没すると劉備は大いに哀惜し、遺体を成都に迎え、諸葛亮に詔勅を下し自ら群臣を率いて祭祀を行い、墓の上で宿泊した。人々は名誉と称えた。(『霍峻伝』)
217年、法正は「曹操は漢中を制圧した勢いで益州へ攻め込まず帰還しました。これは内部に差し迫った(反乱の)懸念があるからでしょう。漢中を守る夏侯淵・張郃に国家を担える才略はなく、必ず勝てます。これは天が与えた好機です」と侵攻を勧め劉備も同意した。(『法正伝』)
218年、劉備は漢中へ侵攻したが迎撃され呉蘭(ごらん)・雷銅(らいどう)が戦死した。自ら陽平関に駐屯し対峙した。(『先主伝』)
劉備が漢中を攻めたが、背後を絶とうとした陳式(ちんしき)を徐晃が撃破した。曹操は大いに喜び、徐晃に節を与え「漢中の喉にあたる要害を絶とうとする劉備の計画を、将軍は一度の行動で失敗させた。善のうちの善なるものである」と称えた。(『徐晃伝』)
漢中を攻める劉備は、兵を徴発して送るよう諸葛亮に命じた。
相談された楊洪(ようこう)は「漢中は益州の喉元で、もし失えば蜀は存在できません。何をためらうことがありましょう」と言った。
蜀郡太守の法正が従軍していたため、楊洪に代行させ、上手く行ったので本任とした。(『楊洪伝』)
219年、南下して定軍山に布陣し、夏侯淵を破り黄忠が討ち取った。(『先主伝』)
劉備は夜中に夏侯淵の陣の逆茂木(防壁)に火を放った。夏侯淵は張郃に東を守らせ、自身は南へ向かった。劉備は張郃を撃破し、夏侯淵が半数の兵を救援に送った隙をついて襲撃し、討ち取った。(『夏侯淵伝』)
軍中は混乱したが郭淮は張郃を「魏の名将で劉備に恐れられている」と主将に推し、ようやく落ち着いた。翌日、劉備が攻め寄せると諸将は河を盾に陣営を作り防戦しようと意見したが、郭淮は「弱く見せかけても得は無い。河から遠ざかって陣を築き、敵が河を半分渡ったところで攻撃すればよい」と言った。劉備は警戒して河を渡らず、魏軍は撤退せず踏みとどまれた。曹操もその判断を称えた。(『張郃伝』・『郭淮伝』)
曹操が劉備を攻めようとすると劉廙(りゅうよく)は「劉備・孫権の事績は袁紹にも及ばない(※自ら討伐するほどの脅威ではない)」と反対したが却下された。(『劉廙伝』)
曹操が自ら侵攻してきたが「曹操が来ても手も足も出ない。必ずや守り通して見せる」と豪語し、要害に立て籠もって防戦に徹した。曹操は数ヶ月に渡って攻めたが攻略できず、被害が増すばかりでついに諦めて撤退した。
かくして劉備は漢中を制圧し、さらに上庸郡へ侵攻させた。
同年秋、諸葛亮らの推挙により漢中王を名乗り、「曹操はまっすぐを憎み正しきを嫌い、多くの仲間を集め隠していても帝位簒奪の意図は明らか」と非難した。
左将軍・宜城亭侯の印綬を朝廷へ返還した。魏延を抜擢し漢中を守らせた。(『先主伝』)
方策を問われた魏延は「曹操が天下の兵を集めて攻め寄せればこれを防ぎ、配下に10万の兵を与えて攻めさせれば併呑してみせます」と答え人々を感嘆させた。(『魏延伝』)
劉備は魏延に漢中を任せ諸陣営に十分な兵を配備しておき、この制度が続いていたため、(魏延死後の)244年の興勢の戦いでも勝利を得た。
後に姜維が「防御にはふさわしいが大勝は得られない」として2つの城に兵をまとめたが、魏軍はその2城を包囲だけさせて進軍し、裏目に出た。(『姜維伝』)
曹操は法正の活躍を聞くと「劉備にこんな策を考えつくことはできない。誰かに教えられたに違いないとにらんでいた」と悔し紛れに言った。(『法正伝』)
劉備は漢中への侵攻を考え、図讖(予言術)に優れた周羣(しゅうぐん)に諮問すると「土地は手に入りますが、民は手に入りません。一部隊だけを出せば必ず負けます。それを警戒し慎重を期してください」と答えた。
当時、張裕(ちょうゆう)も自然現象をもとにした予言術に優れ、天賦の才では周羣を上回っていた。
張裕は「漢中を攻めれば必ず負けます」と予言した。
劉備は漢中を制圧したが、民は魏へ接収された。一部隊で侵攻した呉蘭・雷銅は全滅し、全て周羣の予言通りになった。これにより茂才に推挙された。
また張裕は「220年に後漢は滅びる。主君(劉備)は益州を手に入れてから9年後、つまり222~223年の間に亡くなるだろう」と予言し、密かにひとに話していた。これが劉備に密告され、先の予言が外れたことと合わせて逆鱗に触れ処刑を命じられた。
諸葛亮が助命嘆願したが、劉備は「かぐわしい蘭の花も、門に生えれば刈り取らないわけにはいかない」と言い、処刑させた。(『周羣伝』)
漢中王に即位した劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取った黄忠を後将軍に起用しようとした。
諸葛亮は「黄忠の名声人望はもともと関羽・馬超に及ばないのに急に同列にしたら、戦功を間近で見た馬超・張飛はまだしも関羽は納得しないでしょう」と諌めたが、劉備は自ら関羽に説明すると言いそれを退けた。(『黄忠伝』)
関羽も前将軍に任じられたが黄忠が後将軍だと聞くと「大の男が老兵と同列になるものか」と怒った。
使者の費詩(ひし)は「王業は一人では樹立できません。一時の功績で黄忠が高位になったとしても、王(劉備)の心中であなたが黄忠と同等のはずがありません。そもそもあなたと王は一心同体で喜びも悲しみも、災いも幸いもともにされる間柄です。官位や爵位の多少を気にすることはないでしょう。私は一介の使者ですから辞退されるならこのまま帰りますが、残念に思います。おそらく後悔されるでしょう」と諌めた。関羽は大いに反省し、任命を受けた。(『費詩伝』)
関羽が北上して曹仁を包囲し、于禁(うきん)を捕虜としたが、孫権が裏切って背後を襲い、関羽は殺され荊州が陥落した。(『先主伝』)
関羽が于禁を捕虜にし、曹仁を包囲すると、曹操は都が近いため遷都を考えた。
司馬懿と蔣済(しょうせい)は「于禁は洪水に遭っただけで敗北したわけではありません。劉備と孫権は外見は親密ながら内実は疎遠です。孫権に関羽の背後を襲わせましょう」と進言し、孫権に敗れた関羽は戦死した。(『蔣済伝』)
関羽に捕らえられた龐悳は降伏を勧められたが「わっぱめ何が降伏だ。魏王(曹操)の威光は天下に轟き、凡才の劉備は敵対すらできない。私は国家の鬼となっても賊の将になどならぬ」と言い返し、殺された。(『龐悳伝』)
関羽は上庸郡を制圧した劉封・孟達(もうたつ)にたびたび救援要請したが、制圧したばかりで安定していないとして断られていた。関羽が敗死すると劉備はそれを恨み、孟達は報復を恐れ魏へ寝返り上庸を奪った。諸葛亮は剛勇な劉封が後の災いになると考え、死罪にするよう進言し認められた。
劉備は涙し悲しんだ。(『劉封伝』)
糜芳は関羽と仲違いし孫権の軍を迎え入れ関羽の死を招いた。兄の糜竺は自らを縛り処罰を請うたが、劉備は兄弟の罪に連座することはないと厚遇を続けた。
糜竺は恥と怒りから1年余りで没した。(『糜竺伝』)
220年、曹丕が禅譲により帝位につき漢王朝は滅亡した。
はじめ献帝が殺害されたとの誤報が届き、劉備は喪に服し献帝に諡号を贈った。(『先主伝』)
即位した曹丕が賈詡に蜀・呉のどちらを先に討伐すべきか諮問すると「両国ともに天険の要害で、劉備は優れた才略を持ち、諸葛亮はよく国を治め、孫権は真偽を見抜く見識を持ち、陸遜が軍事情勢を見守っている」と討伐自体に反対された。曹丕は承知せず呉を攻めたが大敗した。(『賈詡伝』)
221年、多くの瑞祥と推挙を受けて(漢王朝の)帝位についた。 大赦を行い、年号を改め、百官を置き、宗廟を建てた。
穆皇后を立て、劉禅を太子とし、二人の子を王とした。(『先主伝』)
はじめ帝位につくのを渋ったが諸葛亮に「曹氏が帝位を簒奪し、天下に主がいません。あなたは後漢王朝の末裔で帝位につくのは当然です。士大夫があなたに従うのは恩賞が目当て(即位しなければ離反するだけ)です」と説得され即位した。(『諸葛亮伝』)
費詩は即位に反対したため左遷された。(『費詩伝』)
尹黙(いんもく)を太子僕に任じ「春秋左氏伝」を教えさせた。(『尹黙伝』)
同年、庲降都督の鄧方(とうほう)が没し、劉備は李恢に後任を誰にすべきか尋ねた。李恢は故事を引きつつ自薦し、劉備は「わしも本心でそう思っていた」と笑った。(『李恢伝』)
関羽の仇討ちのため自ら孫権討伐に向かったが、張飛が配下に暗殺された。
孫権は和睦を求めたが激怒して許さず、陸遜らと交戦し李異(りい)らを撃破した。武陵・五谿の蛮族が呼応した。(『先主伝』)
張飛は身分の高い相手を敬愛したが、低い相手には非情だった。劉備はいつも「君は余りにも刑罰で人を殺しすぎるし、毎日兵士を鞭で叩き、しかもその後も平気で側近として使っている。災いを招くやり方だ」と戒めたが、張飛は改めなかった。
張飛の死の報告が届くと、劉備は読む前に「ああ、張飛が死んだ」と察した。(『張飛伝』)
曹丕が群臣に劉備が報復の兵を挙げるか討議させると「蜀は小国で名将は関羽だけです。関羽が敗死し動揺しているから二度と出撃しないでしょう」と誰もが言う中、劉曄は「劉備は国威発揚のために武力を示したいし、劉備・関羽の間柄は道義では君臣ですが、恩愛では父子です。関羽の報復をしなければ恩愛を貫けません」と言い、的中した。(『劉曄伝』)
秦宓(しんふく)は天の機に背き必ず敗れると説いたため投獄されたが、後に釈放された。(『秦宓伝』)
劉備が関羽の報復に向かうと孫権は諸葛瑾(しょかつきん)に手紙を送らせ「関羽の仇討ちという小事にかまけ大局を忘れていませんか。あなた(劉備)と関羽の関係は孫策との親しさに勝るでしょうか。荊州は中原より小さく制圧しても利益は少なく、呉は魏よりも先に戦う相手ではありません」となだめさせたが聞き入れられなかった。
(※裴松之は「中原に蜀の威声を届けるという関羽の軍事行動は、成否はともかく適切な計略だった。ところが孫権は邪悪な意図で曹操を助け、漢王室を守るという大義名分を失った。討伐されるべきは孫権である。諸葛瑾は大義を説いたが、劉備と関羽は一人の人間のようなもので、手足を無理やりもぎ取られた憤りと悲痛が、そんな言葉で止められるものだろうか。こんな手紙を本文に載せたのは全くの無駄である」と批判する)
当時、諸葛瑾が劉備と内通していると言う者がいたが、孫権は「私は諸葛瑾と死生を越えて心を変えないという誓いを結んでいる。諸葛瑾が決して私を裏切らないのは、私が諸葛瑾を決して裏切らないのと同じだ」と退けた。(『諸葛瑾伝』)
廖化(りょうか)は関羽が戦死した際に孫権の捕虜になっていたが、劉備のもとに戻りたい一心で死んだと偽り、老母を背負って脱走した。ちょうど孫権討伐に赴いた劉備と合流し、大いに喜んだ劉備は宜都太守に任じた。(『廖化伝』)
222年、夷陵に駐屯し、馬良を送り武陵・五谿の蛮族と連携した。
6月、黄色の霊気がにわかに現れ広さ数十丈に及んだ。それから10日余り後、陸遜に大敗し多くの将が戦死した。
劉備は船を捨て魚腹県まで逃げ、永安と改名し駐屯した。 成都の諸葛亮に命じて祭祀の準備をさせた。(『先主伝』)
劉備は呉班(ごはん)に陽動作戦を仕掛けさせたが陸遜は見抜いて掛からなかった。
陸遜は「劉備のこれまでの用兵を見ると敗北ばかりで勝利はめったになく心配することはない。水陸両面で攻めてくるかと思ったが船を捨てて陸に上がり裏に策略もない。枕を高くして寝てください」と孫権へ報告した。
古参の諸将は年若い陸遜を侮り勝手に動いていたが「劉備は天下に名を知られ曹操さえ恐れはばかっている容易ならぬ敵だ。心を合わせなければ勝てない」と戒められた。
8ヶ月に渡り蜀軍と対峙し、諸将は守りを固められ攻撃できないと危ぶんだが陸遜は「劉備は狡猾で経験豊富だから当初は集中して計略をめぐらせるから手出しできない。しかし戦線が膠着し疲弊した今こそ攻めどきだ」と言い、火攻めで大勝した。
劉備は「この私が陸遜ごときに辱められるとは天の定めた運命ではなかろうか」と恥じ入り憤った。
徐盛(じょせい)らは追撃すれば劉備を捕らえられると主張したが、陸遜・朱然(しゅぜん)らは魏が攻めてくると予見しそれを退けた。的中した。(『陸遜伝』)
諸葛亮は敗戦を聞くと「法正が健在なら(※220年没)出征を辞めさせたし、たとえ出征しても危難を避けられただろう」と嘆息した。(『法正伝』)
劉備は配下の中で法正にのみ諡号を与えた。(『趙雲伝』)
曹丕は蜀軍が700里に渡って陣営を連ねていると聞き「劉備は戦を理解していない。700里の陣営で敵と渡り合える者はいない。高原・湿地・険阻の地を包んで陣を構築する者は撃破される。これは戦の禁忌だ。孫権から勝利の上奏が今にも届くだろう」と予見し、7日後に上奏が届いた。(『文帝紀』)
黄権は「呉軍は勇敢な上、我々の水軍は下流に向かって進むため撤退が難しい。私が先陣を務め呉軍の力を試すので、陛下は後詰めをしてください」と進言したが、劉備は自ら前線で指揮を取り、黄権は鎮北将軍として長江の北で魏軍に備えさせた。
本隊が敗れ退路を断たれた黄権は孤立し、やむなく魏に降伏した。法をもとに黄権の妻子を処刑するよう進言されたが、劉備は「私が黄権を裏切ったのだ。黄権が私を裏切ったのではない」と言い、妻子を元のまま厚遇した。
(※裴松之は劉備の判断を「これぞ劉主(王者)の行為」と絶賛した)(『黄権伝』)
敗走する劉備を馬忠(ばちゅう)が迎え入れると、劉備はその才能を見抜き「黄権を失ったが代わりに馬忠を得た。世の中に賢者は少なくない」と言った。(『馬忠伝』)
黄権を曹丕が引見し「逆臣の立場を捨てて良臣となったのは、陳平・韓信(※項羽から劉邦へ寝返った名臣)を真似したのか」とからかうと、黄権は「私は劉備に厚遇され、呉に降伏することはできず、退路を断たれたため魏へ帰順しただけです。死を免れるために懸命で、古人のことを考える余裕はありませんでした」と答えた。曹丕は感心し鎮南将軍に任じ、育陽侯に封じ、侍中を加官し、車に同乗させた。
同じく降伏した蜀の人は「黄権の妻子が処刑された」と言ったが黄権は信じず、はたして誤報だった。(『黄権伝』)
孫桓(そんかん)は陸孫とともに主力を担い、敗走する劉備を追い要所を閉鎖した。劉備は山中をたどって険阻な道を乗り越えてやっと脱出し「私が孫権と会った時には孫桓はまだ子供だったのに、今やここまで追い詰めよった」と嘆息した。(『孫桓伝』)
同年、馬超が没し「私の一門200人あまりは曹操によってほぼ全員が誅殺され、従弟の馬岱だけが残っています。彼に祭祀を継がせて欲しいと陛下にくれぐれもお願いしたい。他に言い遺すことはありません」と遺言した。(『馬超伝』)
馬良も戦死し、劉備は子の馬秉(ばへい)を取り立てた。
弟の馬謖(ばしょく)を諸葛亮は高く評価していたが、劉備は臨終の床で「口先ばかりで重要な仕事を任せられない。君もよく覚えておけ」と伝えた。
諸葛亮は聞き入れず後に街亭の戦いで抜擢し、大敗を招いた。(『馬良伝』)
孫権は劉備が前線に踏みとどまっているのを警戒して和睦を求め、重病にかかった劉備も応じた。
漢嘉太守の黄元(こうげん)が劉備が危篤と聞いて反乱した。
223年、諸葛亮は永安に赴いた。黄元は撃破され処刑された。
劉備は劉禅ら子を諸葛亮に託し、李厳を補佐とした。 4月、永安で没した。享年63。(『先主伝』)
諸葛亮に後事を託し「君の才能は曹丕の十倍あり、きっと国家を安んじ大業を成し遂げるだろう。後継ぎに補佐すべき才能があれば補佐し、なければ君が国を奪うとよい」と言った。諸葛亮は涙を流し「私は心から股肱として力を尽くし忠誠を捧げます。最後には命を捨てます」と誓った。
劉備は後継ぎの劉禅に「お前は丞相(諸葛亮)とともに働き、父と思って仕えよ」と言い遺して没した。(『諸葛亮伝』)
李厳を呼び寄せて尚書令に任じ、諸葛亮とともに後事を託し、中都護として永安に駐屯し内外の軍事を統括するよう遺言した。(『李厳伝』)
喪に服すのは3日で辞めるよう遺言した。 5月、棺が成都に戻り、昭烈皇帝と諡された。8月、陵墓に埋葬された。(『先主伝』)
甘夫人の遺体が蜀へ移葬される前に、劉備は没した。諸葛亮は頼恭(らいきょう)らと相談し、皇后に追尊し劉備と合葬するよう上言し許可された。(『甘皇后伝』)
諸葛亮は劉備の死を聞けば孫権が異心を抱くと心配したが、どう対策すべきか悩んでいた。
鄧芝が呉との同盟を勧めると、「ずっとそれを考えていたが、使者に適任の者が見つからなかった。だが今日見つかった」と言い、鄧芝を抜擢した。(『鄧芝伝』)
劉備が没すると魏の群臣はみな祝賀を述べたが、黄権だけはそれに加わらなかった。(『黄権伝』)
廖立は才能・名声が諸葛亮に次ぐと自負していたのに評価されなかったのを恨み、「先帝(劉備)は益州の制圧後、漢中を攻めなかったどころか孫権に荊州南部の3郡を奪われた。夏侯淵・張郃に益州も奪われるところだった。関羽は剛勇を頼んででたらめに進軍して荊州を失った」など劉備や重臣を激しく罵り流刑になった。(『廖立伝』)
公孫淵(こうそんえん)が呉に背くと孫権は自ら討伐すると息巻き、陸遜に「陛下は曹操・劉備・関羽という三人の当代の英傑を破ったのに、公孫淵ごときにかまける必要はありません」となだめられた。(『陸遜伝』)
青龍年間(233~237)、陳羣は宮殿造営に勤しむ曹叡に諫言し「かつて劉備が成都から白水まで交通整備をしたことを聞き、太祖(曹操)は民に負担を掛けていることを知りました」と例に上げた。(『陳羣伝』)
263年、蜀征伐に出た鍾会は降伏勧告の中で「劉備は一世を風靡する英才だが袁紹・呂布に命運を握られ、曹操が面倒を見てやったから隆盛になれた」と述べた。
翌264年に反乱した際には側近に「成功すれば天下を手に入れ、失敗しても蜀に割拠し劉備くらいにはなれる」と(甘い)見通しを語った。(『鍾会伝』)
陳寿は「度量が広く意志が強く心が大きくて親切で、人物を見分け士人を待遇した。高祖(劉邦)の面影があり英雄の器だった。国と遺児を諸葛亮に託し、心に(反乱される)疑惑を全く持たなかったことは君臣の私心なき有り様として最高の物であり、古今を通じての盛事である。だが権謀と才能では曹操に及ばなかったため国土は狭かった。しかし敗れても屈服せず、最後まで臣下とならなかったのは、曹操の度量では絶対に受け入れられないと考えたからで、利益を争ったのではなく害悪を避けるためだった」と評した。
また蜀の旧臣として劉備・劉禅に敬意を払い、一貫して名を呼ばず先主・後主と記している。
また「陸遜伝」でも「劉備は広く天下に英雄として知られ人々は恐れはばかっていた」と評し、その劉備を破った陸遜と抜擢した孫権を称えた。
「演義」では実質的に主人公として活躍。史実通り戦にはよく負けているが人徳ある姿を随所に見せる。
一族間ですら裏切りの絶えなかった時代に、血のつながらない関羽、張飛そして諸葛亮らと俠気で結ばれ、最期まで(諸葛亮にいたっては、望めば帝位を奪えるお墨付きまで得ながら、劉備の死後も臣下として一生をまっとうした)信頼の薄れなかったこともまた、古今に類を見ないことである。
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