三国志 新規
12月分

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扈累  青牛先生の弟子


扈累(こるい)字は伯重(はくちょう)
司隸京兆郡の人(??~??)

隠者。

「魏略」に曰く。
40余歳の時、青牛先生(せいぎゅうせんせい)に師事し天文・暦・占術を習得した。妻はいたが子は無かった。
211年、三輔が動乱に巻き込まれたため青牛先生とともに漢中へ移った。
215年、曹操が漢中を制圧すると青牛先生は益州へ移ったが、扈累ははぐれ、流民とともに鄴へ行き、疫病で妻を失った。
220年、洛陽へ移った。
生涯再婚せず、ひとり道端に敷瓦で塀を作り、台所と寝所兼用の床を設えた。日中は潜んで思索し、夜は星を見ながら内書(方術の書)を吟誦した。何か聞かれても口を閉ざし答えなかった。
嘉平年間(249~254)、80~90歳になったが青牛先生と同じく若々しく40~50歳のようだった。
身寄りがないため国から日に5升の米を支給されたが、不足すると日雇い労働で日銭を稼ぎ、ひとに恵まれた物は受け取らなかった。
食事は質素で破れた綿入りを着込み、1~2年して病没した。(『管寧伝』)



青牛先生  扈累の師


青牛先生(せいぎゅうせんせい)字は正方(せいほう)
青州の人(??~??)

隠者。
姓名は不明。

「魏略」に曰く。
初平年間(190~193)、三輔に居住し天文・暦・風角(風占い)・鳥情(鳥占い?)に詳しく、常に青葙・芫花(生薬)を食した。
50~60歳の外見だが面識ある者は100歳を過ぎていると言っていた。
扈累(こるい)は40余歳の時、青牛先生に師事し術を習得した。
211年、三輔が動乱に巻き込まれたため扈累とともに漢中へ移った。
215年、曹操が漢中を制圧すると青牛先生は益州へ移ったが、扈累ははぐれ、流民とともに鄴へ移った。
扈累も80~90歳になっても青牛先生と同じく若々しく40~50歳のようだった。(『管寧伝』)



欒文博  石徳林の師


欒文博(らんぶんはく)字が文博か
出身地不明(??~??)

学者。

「魏略」に曰く。
建安年間(196~220)、石徳林(せきとくりん)は三輔に居住した。
当時、長安に欒文博という高齢の学者がおり、数千人の門弟を抱えていた。石徳林は師事し、はじめ「詩経」・「尚書」を学び、後に内事(方術)を愛好した。(『管寧伝』)



公孫方  崔琰の友人A


公孫方(こうそんほう)字は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

191年、崔琰(さいえん)とともに鄭玄(じょうげん)に師事した。1年も経たない内に黄巾賊が北海郡へ攻め寄せ、師弟は山へ逃げた。食料が不足したため鄭玄は弟子を断り、退学した。

公孫方と宋階(そうかい)は早逝したが、崔琰は彼らの遺児を我が子のようにかわいがった。(『崔琰伝』)



宋階  崔琰の友人B


宋階(そうかい)字は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

崔琰(さいえん)の友人の公孫方(こうそんほう)と宋階は早逝したが、崔琰は彼らの遺児を我が子のようにかわいがった。(『崔琰伝』)



楊訓  崔琰の死を招く


楊訓(ようくん)字は不明
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。

崔琰(さいえん)に「才器は不足するが清潔誠実で道義を守る」と推挙され、すぐさま曹操に招聘された。

216年、曹操が魏王に即位した際に楊訓はおもねった上奏をし、人々に嘲笑され、崔琰の推挙は誤りだったとささやかれた。
崔琰はその上奏を読むと「内容が良いだけだ。時よ時よ。必ず時代は変化する」と返信した。あれこれ言う者は咎めだてしたいだけで、情理を考えていないと非難したつもりだったが、世間を恨み誹謗中傷する意味だと受け取る者がおり、曹操も不遜だと激怒した。
処罰し懲役刑を命じたが、崔琰の言動も態度も変わらず、曹操は「罪人でありながら家に賓客を招き、門前は商人のように賑わい、ミズチのような髭で客を威嚇している」といよいよ腹を立て、ついに死を命じた。(『崔琰伝』)



甄子然  孔融に祀られた孝子


甄子然(しんしぜん)字が子然か
青州北海郡の人(??~??)

素性不明。

「続漢書」に曰く。
孝行で評判を取ったが早逝した。
190年、北海国相に赴任した孔融は、甄子然に会えなかったことを残念に思い、県の鎮守の社に祀った。(『孔融伝』)



劉孔慈  孔融の無能な配下B


劉孔慈(りゅうこうじ)字が孔慈か
出身地不明(??~??)

孔融(こうゆう)の臣。

「九州春秋」に曰く。
青州刺史の孔融は兵も米もろくに集めず、王子法(おうしほう)・劉孔慈ら机上の空論をするだけの無能を信任し、左丞祖(さじょうそ)・劉義遜(りゅうぎそん)ら有能な人物を飼い殺しにした。左丞祖を殺すと劉義遜に見捨てられた。
袁譚(えんたん)に連敗しても悠然と過ごし、城が落ちると家族を残し身一つで逃亡した。(『孔融伝』)



左丞祖  孔融に殺された有能な配下


左丞祖(さじょうそ)字が丞祖か
出身地不明(??~??)

孔融(こうゆう)の臣。

孔融が北海国相を務めた当時、袁紹・曹操が頭角を現したが孔融はどちらにも与しなかった。左丞祖はいずれかと手を結ぶよう勧めたが、袁紹・曹操は朝廷を滅ぼす者だと怒り、孔融は殺してしまった。(『後漢書 孔融伝』)

「九州春秋」に曰く。
青州刺史の孔融は兵も米もろくに集めず、王子法(おうしほう)・劉孔慈(りゅうこうじ)ら机上の空論をするだけの無能を信任し、左丞祖・劉義遜(りゅうぎそん)ら有能な人物を飼い殺しにした。左丞祖を殺すと劉義遜に見捨てられた。
袁譚(えんたん)に連敗しても悠然と過ごし、城が落ちると家族を残し身一つで逃亡した。(『孔融伝』)



劉義遜  孔融を見捨てた有能な配下


劉義遜(りゅうぎそん)字が義遜か
出身地不明(??~??)

孔融(こうゆう)の臣。

「九州春秋」に曰く。
青州刺史の孔融は兵も米もろくに集めず、王子法(おうしほう)・劉孔慈(りゅうこうじ)ら机上の空論をするだけの無能を信任し、左丞祖(さじょうそ)・劉義遜ら有能な人物を飼い殺しにした。左丞祖を殺すと劉義遜に見捨てられた。
袁譚(えんたん)に連敗しても悠然と過ごし、城が落ちると家族を残し身一つで逃亡した。(『孔融伝』)



習授  婁圭の暴言を告げ口する


習授(しゅうじゅ)字は不明
荊州南郡の人(??~??)

魏の臣。

「呉書」に曰く。
婁圭(ろうけい)と車に同乗していた時、曹操父子と行き合った。
習授が「父子揃ってこのよう(絢爛豪華?)だとは、なんと素晴らしいことか」と感嘆すると、婁圭は「(うらやましければ)自分もそうすればよい。ただ眺めているだけとは」と皮肉った。
習授が叛心を疑わせるこの不遜な言葉を言上したため、婁圭は処刑された。(『孔融伝』)



鮑丹  鮑信の父


鮑丹(ほうたん)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

後漢の臣。
鮑信(ほうしん)の父。
鮑勛(ほうくん)の祖父。

「王沈魏書」に曰く。
少府侍中まで上り、一族は代々、儒学の教養で有名だった。(『鮑勛伝』)



鮑韜  鮑信の弟


鮑韜(ほうとう)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~190)

後漢の臣。
鮑信(ほうしん)の弟。
鮑勛(ほうくん)の叔父。

「王沈魏書」に曰く。
190年、曹操が挙兵すると兄とともにそれに応じた。曹操は袁紹とともに鮑信を行破虜将軍に、鮑韜を裨将軍に任命した。
董卓軍に敗れ、鮑信は負傷し鮑韜は戦死した。(『鮑勛伝』)

「演義」には鮑信の架空の弟の鮑忠(ほうちゅう)が登場し、華雄(かゆう)に斬られる。



司馬肇  司馬岐の子


司馬肇(しばちょう)字は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬岐(しばき)の子。
司馬芝(しばし)の孫。

父が没すると爵位を継いだ。(『司馬芝伝』)

273年、使持節・洛陽県令の司馬肇が使者となり、胡芳(こほう)を貴嬪に、諸葛婉(しょかつえん)を夫人に任命した。(『晋書 胡貴嬪伝』・『晋書 諸葛夫人伝』)

「百官名」に曰く。
太康年間(280~289)に冀州刺史・尚書となった。(『司馬芝伝』)



胡芳  司馬炎の武門の側室


胡芳(こほう)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

司馬炎の側室。
胡奮(こふん)の娘。

273年、司馬炎は後宮を良家の子女で満たすと、特に美しい娘の腕に赤い絹を巻き、目印とした。胡芳は選ばれると泣き崩れ、側の者が「陛下に聞かれます」と注意すると「死をも恐れぬのになぜ陛下を恐れましょう」と言った。
司馬肇(しばちょう)が使者となり、貴嬪に任命された。

司馬炎に何か聞かれると、言葉を飾らず即座に答え、風雅な趣があった。
280年、三国統一すると呉の後宮から3千人を迎え入れ、1万人に届きそうになった。司馬炎は誰のもとで夜を過ごすか決めず、羊に車を牽かせ止まった所にいた宮女を選んだ。宮女たちは竹の葉を戸に挿し、塩水を地面に垂らし、羊に舐めさせて止めようとした。(※盛り塩の起源とされる)
しかし胡芳が特に寵愛を受け、結局はほとんど彼女のもとへ通った。侍女や衣装の数は皇后に次いだ。(『晋書 胡貴嬪伝』)

父の胡奮もその恩恵により太康年間(280~289)に尚書僕射に取り立てられ、鎮東大将軍・開府を加えられた。胡奮の兄弟も高位に上った。(『鍾会伝』)

ある時、すごろくに熱中して矢を取り合い、司馬炎の手を傷つけてしまった。司馬炎は怒り「さすが将軍の娘だ」と皮肉ると、胡芳は「公孫淵(こうそんえん)を討ち、諸葛亮を防いだ(司馬懿の)血は将軍ではないのですか」と返し、司馬炎は恥じ入った。
武安公主(ぶあんこうしゅ)を生んだ。(『晋書 胡貴嬪伝』)



諸葛婉  司馬炎の側室(諸葛緒の孫)


諸葛婉(しょかつえん)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

司馬炎の側室。
諸葛沖(しょかつちゅう)の娘。
諸葛緒(しょかつしょ)の孫。

273年、司馬肇(しばちょう)が使者となり、夫人に任命された。(『晋書 諸葛夫人伝』)



鍾瑜  鍾繇を援助した族父


鍾瑜(しょうゆ)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

鍾繇(しょうよう)の族父。

鍾繇と洛陽へ向かった時、途中で会った人相見に「この子は出世するが、水難に気をつけなさい」と言われた。
10里も進まないうちに鍾繇は川へ落ちて死にかけ、鍾瑜は占いを信じ学費を出してやった。(『鍾繇伝』)



韓斌  鍾繇とともに献帝を守った尚書郎


韓斌(かんひん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

鍾繇(しょうよう)は尚書郎の韓斌とともに策略をめぐらせ献帝を守り、長安からの脱出に貢献した。(『鍾繇伝』)



宗恵叔  鍾繇の玉玦を曹丕に教える


宗恵叔(そうけいしゅく)字が恵叔か
荊州南陽郡の人(??~??)

魏の臣?

「魏略」に曰く。
曹丕は鍾繇(しょうよう)が珍貴な玉玦(飾り玉)を持っていると宗恵叔に聞いて欲しくなり、弟の曹植(そうしょく)らを通じて伝えさせると、鍾繇はすぐさま贈った。(『鍾繇伝』)



鍾演  鍾繇の弟


鍾演(しょうえん)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の弟。

黄初年間(220~226)、鍾繇の領邑を分割して弟の鍾演、子の鍾劭(しょうしょう)、孫の鍾豫(しょうよ)らに与え列侯した。(『鍾繇伝』)

余談だが「演義」には鍾繇の架空の弟の鍾進(しょうしん)が登場し龐悳に斬られる。



鍾劭  鍾繇の事績の無い子


鍾劭(しょうしょう)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の子。

黄初年間(220~226)、鍾繇の領邑を分割して弟の鍾演(しょうえん)、子の鍾劭、孫の鍾豫(しょうよ)らに与え列侯した。(『鍾繇伝』)



鍾豫  鍾繇の孫


鍾豫(しょうよ)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の孫。

黄初年間(220~226)、鍾繇の領邑を分割して弟の鍾演(しょうえん)、子の鍾劭(しょうしょう)、孫の鍾豫らに与え列侯した。(『鍾繇伝』)



鍾駿  鍾毓の子


鍾駿(しょうしゅん)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾毓(しょういく)の子。
鍾繇(しょうよう)の孫。

263年、父が没すると後を継いだ。(『鍾繇伝』)



劉壱  華歆を説き伏せた功曹


劉壱(りゅういつ)字は不明
出身地不明(??~??)

豫章郡の功曹。

「江表伝」に曰く。
孫策は豫章太守の華歆(かきん)に降伏勧告した。
華歆が功曹の劉壱に相談するとやはり降伏を勧められたが、「私は揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に任命されたが、朝廷が追認したから正式に任命されたのと同じだ。降伏すれば後世まで咎が残る」と渋った。
劉壱は「先に会稽太守の王朗(おうろう)が降伏しましたが、彼も今は朝廷に仕えています。しかも会稽郡は(この豫章郡より)兵も勢いも盛んでしたが、罪に問われませんでした。何を気になさるのですか」と説いた。
華歆は降伏を決意し、孫策に丁重に迎えられた。

後世の孫盛は「華歆には風格も節操もなく、邪悪な学者(劉壱)の説に心を曲げ、放埒な連中(孫策)と手を握った」と非難した。(『華歆伝』)



華緝  華歆の弟


華緝(かしゅう)字は不明
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

魏の臣。
華歆(かきん)の弟。

黄初年間(220~226)、華歆の領邑から分割し列侯された。(『華歆伝』)



華表  華歆の清廉な後継ぎ


華表(かひょう)字は偉容(いよう)
冀州平原郡高唐県の人(204~275)

魏・晋の臣。
華歆(かきん)の長子。

20歳で散騎郎、次いで黄門郎となり昇進を重ね侍中に上った。(『晋書 華表伝』)

子の華嶠(かきょう)の「譜叙」に曰く。
20余歳で散騎常侍となった。尚書の事務を担当し、同僚は若く名声栄誉を求め、文書に誤りを見つけてもわざと見過ごし、後からそれをつついたが、華表だけは見過ごさずにすぐさま議論した。相手が話を聞かないと共同で意見を具申し、その姿勢を陳羣(ちんぐん)らは称えた。

231年、父が没すると後を継いだ。(『華歆伝』)

清河太守の時、高名な占術師の管輅(かんろ)を文学掾に招いた。
「管輅別伝」に曰く。
趙孔曜(ちょうこうよう)は「あなたは古の賢者にも並ぶ才能を持つのに、どうして郡で留まっているのか。冀州刺史の裴徽(はいき)殿は聡明で、老荘にも詳しい。私も目を掛けられているから、あなたを推挙しよう」と申し出て、管輅は裴徽に招聘された。(『管輅伝』)

「王沈魏書」に曰く。
254年、曹芳の廃位を求める上奏に博平侯として連名した。
廃位されると侍中の華表らが使者となり、曹髦を帝位に迎え入れた。(『斉王紀』)

正元年間(254~256)のはじめ、石苞(せきほう)が曹髦を「曹操の生まれ変わり」と称えるのを聞き、災禍を察知して汗をかいた。病と称して官を辞したため、曹髦殺害の難を逃れた。
後に列曹尚書となり、五等爵が設立されると観陽伯に封じられた。皇帝の葬儀で不手際があり罷免された。

泰始年間(265~275)、太子少傅、光禄勲、太常を歴任した。数年後に高齢と病を理由に引退を申し出ると、司馬炎は「清廉貞節、純真で老成である。長く職務に怠ることなく励み、上奏文はこの上なく心がこもっている」と称え、太中大夫に任じ引退を認めた。
節操を曲げないことで名声を得た。(『晋書 華表伝』)

「譜叙」に曰く。
清潔淡泊で名声を求めず、常に身の引き際を考え、李胤(りいん)・王弘(おうこう)らは「華表のような人物は貴い身分にも卑しい身分にもできない。親しくも疎遠にもなれない」と称賛した。(『華歆伝』)

275年に没した。享年72。
康と諡された。(『晋書 華表伝』)

「譜叙」に曰く。
華廙(かよく)・華嶠・華澹(かたん)ら3人の子はいずれも高名だった。(『華歆伝』)

6人の子がおり華廙・華嶠は「華表伝」に附伝される。(『晋書 華表伝』)



華博  華歆の次男


華博(かはく)字は不明
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

魏の臣。
華歆(かきん)の次男。

甥の華嶠(かきょう)の「譜叙」に曰く。
3県の内史を歴任し優れた治績を上げた。(『華歆伝』)



華周  華歆の三男


華周(かしゅう)字は不明
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

魏の臣。
華歆(かきん)の三男。

甥の華嶠(かきょう)の「譜叙」に曰く。
黄門侍郎、常山太守を務めた。
博学で文学的なひらめきがあったが、中年で病にかかり、官を辞して家で没した。(『華歆伝』)



王弘  王宏の別名か誤記?


王弘(おうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

「譜叙」に曰く。
華表(かひょう)は清潔淡泊で名声を求めず、常に身の引き際を考え、司徒の李胤(りいん)・司隷校尉の王弘らは「華表のような人物は貴い身分にも卑しい身分にもできない。親しくも疎遠にもなれない」と称賛した。(『華歆伝』)

原文で名は王密(おうみつ)と記されるが「ちくま版」は陳景雲の説に従い王弘と記す。
しかし王弘という人物は他に見えず、日本語読みの同じ司隷校尉の王宏(おうこう)の別名もしくは誤記ではなかろうか? いちおう項目は分ける。
また司隷校尉ではなく司隸出身とする記述も見るが、「司徒の李胤・司隷の王弘」と並べており役職と見るべきだろう。



華廙  華歆の政争に巻き込まれた孫


華廙(かよく)字は長駿(ちょうしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

晋の臣。
華表(かひょう)の長子。
華歆(かきん)の孫。
「晋書 華表伝」に附伝される。

「晋諸公賛」に曰く。
文筆の才能があり、尚書令・太子少傅を歴任した。(『華歆伝』)

温厚かつ鋭敏で学問と道徳を具えていた。岳父の盧毓(ろいく)が人事を担当していたため縁戚の華廙は35歳になっても登用されず、さらに歳を重ねようやく(盧毓が没した257年を過ぎ?)中書通事郎になった。(『晋書 華廙伝』)

「管輅別伝」に曰く。
占術師の管輅(かんろ)とは年若く同郷でもあり親密で、華廙は陳承祐(ちんしょうゆう)に「管輅の占術の一例を弟の管辰(かんしん)が列伝に著したが、重要なものだけでもその3倍はある。管辰は文才がなく、若いし田舎にずっと住んでいたからよく知らないのだ」と語った。
また「管輅の占いは百発百中ではなく当たるのは7~8割だった。その理由を問うと、道理としては間違わないが、依頼者が事実を全て伝えないから外れるのだと言っていた」と伝えた。
さらに華廙の妻(盧毓の娘)が病に何年も倒れた時、管輅は「東方から医者がやって来る。治療ができると言うから任せなさい」と占った。間もなく家の近くにある厩舎に役人が赴任し、盧毓を訪ね「お嬢様を治せます」と言った。彼は医術の心得があり妻を治したという体験談や、他の逸話を教えた。(『管輅伝』)

泰始年間(265~275)のはじめ、冗従僕射に移った。若い頃から司馬炎に礼遇され、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将、都督河北諸軍事を歴任した。

父の華表の病が篤くなると無断で家に帰って看病し、275年に没すると埋葬が終われば職務復帰する規定を無視して慣例通りに服喪を行った。
華表は生前、華廙や鬲県令の袁毅(えんき)と結託し、鬲県に住まわせた賓客の登録違反を犯した。袁毅は後に贈賄で逮捕されたが同じ盧毓の縁戚だったため、この件については自分の独断だと主張した。
しかし荀勗(じゅんきょく)はかつて華廙の娘をめとろうとしたのを断られた恨みから、服喪違反と登録違反を合わせて問題とし、「袁毅の贈賄を受けた者は数多く全員を処罰できないから、最も親しかった華廙のみを見せしめで処罰すべきだ」と提言した。
かくて華廙は罷免され封邑も削られた。

何遵(かじゅん)は爵位も奪い、華廙の子の華混(かこん)に後を継がせるべきだと訴えたが、封邑を削った上にさらに奪えば二重処罰に当たると反論された。
司馬炎は「華廙はまだ(服喪中で)爵位を継いでおらず二重処罰には当たらない。私は汚職を罰しただけなのに諸君は意図を理解できず無駄に議論している」と言い、華廙の廃嫡を裁定した。爵位継承を支持した者は罷免は逃れたが罰金刑となった。
華混は狂い、口が利けなくなったふりをして爵位を受け継がず、人々に称えられた。

華廙は隠棲し、10年に渡り子や孫を教育した。経書を講義し「善文」を著し広く世に伝わった。
陳勰(ちんきょう)とともに豚を育てているのを偶然見かけた司馬炎はひどく哀れみ、華廙が丁寧に手入れした田畑を見ると、現役時の手腕を思い出した。

太康年間(280~289)のはじめ、大赦により爵位を継いだ。
城門校尉、左衛将軍を歴任し数年後に中書監となった。(『晋書 華廙伝』)

任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純(ゆうじゅん)・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂(おうじゅん)・華廙が肩入れし派閥争いが起こった。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)

290年、司馬炎は危篤に陥ると、楊駿(ようしゅん)と司馬亮(しばりょう)に後事を託そうとした。だが楊駿は中書監の華廙を通じて詔勅を手に入れると、それを秘匿した。
華廙は恐れおののき返還を要求したが、楊駿は拒絶し、娘で皇后の楊芷(ようし)に、楊駿へ後事を託すよう司馬炎へ勧めさせた。
そして華廙・何劭(かしょう)に遺詔を作らせ、一人で実権を握った。(『晋書 司馬亮伝』・『晋書 楊駿伝』)

同年、司馬衷が帝位につくと侍中・光禄大夫を加えられ、尚書令となり爵位が公に進んだ。
楊駿に招聘されたが時間内に戻れず罷免された。
太子少傅に移り、散騎常侍を加えられた。常に礼典を遵守し人々を教導した。高齢で病が重くなると医者を遣わされ、光禄大夫・開府・儀同三司に上った。
韓寿(かんじゅ)が義姉の賈南風(かなんぷう)皇后に仲介を頼み、華廙の孫の華陶(かとう)に娘を嫁がせようとしたが断ったため、賈南風に恨まれ三公には上れなかった。

75歳で没し元公と諡された。(『晋書 華廙伝』)



華澹  華歆の最も有名な(?)孫


華澹(かたん)字は玄駿(げんしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

晋の臣。
華表(かひょう)の五男。
華歆(かきん)の孫。

「晋諸公賛」に曰く。
兄弟で最も有名で河南尹に上った。(『華歆伝』)

「最も有名」と記されるが兄の華廙(かよく)・華嶠(かきょう)が「晋書 華表伝」に附伝される一方で華澹の記述は格段に少ない。
子の華軼(かいつ)も晋書に列伝される。