華廙 華歆の政争に巻き込まれた孫
華廙(かよく)字は長駿(ちょうしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)
晋の臣。
華表(かひょう)の長子。
華歆(かきん)の孫。
「晋書 華表伝」に附伝される。
「晋諸公賛」に曰く。
文筆の才能があり、尚書令・太子少傅を歴任した。(『華歆伝』)
温厚かつ鋭敏で学問と道徳を具えていた。岳父の盧毓(ろいく)が人事を担当していたため縁戚の華廙は35歳になっても登用されず、さらに歳を重ねようやく(盧毓が没した257年を過ぎ?)中書通事郎になった。(『晋書 華廙伝』)
「管輅別伝」に曰く。
占術師の管輅(かんろ)とは年若く同郷でもあり親密で、華廙は陳承祐(ちんしょうゆう)に「管輅の占術の一例を弟の管辰(かんしん)が列伝に著したが、重要なものだけでもその3倍はある。管辰は文才がなく、若いし田舎にずっと住んでいたからよく知らないのだ」と語った。
また「管輅の占いは百発百中ではなく当たるのは7~8割だった。その理由を問うと、道理としては間違わないが、依頼者が事実を全て伝えないから外れるのだと言っていた」と伝えた。
さらに華廙の妻(盧毓の娘)が病に何年も倒れた時、管輅は「東方から医者がやって来る。治療ができると言うから任せなさい」と占った。間もなく家の近くにある厩舎に役人が赴任し、盧毓を訪ね「お嬢様を治せます」と言った。彼は医術の心得があり妻を治したという体験談や、他の逸話を教えた。(『管輅伝』)
泰始年間(265~275)のはじめ、冗従僕射に移った。若い頃から司馬炎に礼遇され、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将、都督河北諸軍事を歴任した。
父の華表の病が篤くなると無断で家に帰って看病し、275年に没すると埋葬が終われば職務復帰する規定を無視して慣例通りに服喪を行った。
華表は生前、華廙や鬲県令の袁毅(えんき)と結託し、鬲県に住まわせた賓客の登録違反を犯した。袁毅は後に贈賄で逮捕されたが同じ盧毓の縁戚だったため、この件については自分の独断だと主張した。
しかし荀勗(じゅんきょく)はかつて華廙の娘をめとろうとしたのを断られた恨みから、服喪違反と登録違反を合わせて問題とし、「袁毅の贈賄を受けた者は数多く全員を処罰できないから、最も親しかった華廙のみを見せしめで処罰すべきだ」と提言した。
かくて華廙は罷免され封邑も削られた。
何遵(かじゅん)は爵位も奪い、華廙の子の華混(かこん)に後を継がせるべきだと訴えたが、封邑を削った上にさらに奪えば二重処罰に当たると反論された。
司馬炎は「華廙はまだ(服喪中で)爵位を継いでおらず二重処罰には当たらない。私は汚職を罰しただけなのに諸君は意図を理解できず無駄に議論している」と言い、華廙の廃嫡を裁定した。爵位継承を支持した者は罷免は逃れたが罰金刑となった。
華混は狂い、口が利けなくなったふりをして爵位を受け継がず、人々に称えられた。
華廙は隠棲し、10年に渡り子や孫を教育した。経書を講義し「善文」を著し広く世に伝わった。
陳勰(ちんきょう)とともに豚を育てているのを偶然見かけた司馬炎はひどく哀れみ、華廙が丁寧に手入れした田畑を見ると、現役時の手腕を思い出した。
太康年間(280~289)のはじめ、大赦により爵位を継いだ。
城門校尉、左衛将軍を歴任し数年後に中書監となった。(『晋書 華廙伝』)
任愷(じんがい)は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純(ゆうじゅん)・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂(おうじゅん)・華廙が肩入れし派閥争いが起こった。
政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)
290年、司馬炎は危篤に陥ると、楊駿(ようしゅん)と司馬亮(しばりょう)に後事を託そうとした。だが楊駿は中書監の華廙を通じて詔勅を手に入れると、それを秘匿した。
華廙は恐れおののき返還を要求したが、楊駿は拒絶し、娘で皇后の楊芷(ようし)に、楊駿へ後事を託すよう司馬炎へ勧めさせた。
そして華廙・何劭(かしょう)に遺詔を作らせ、一人で実権を握った。(『晋書 司馬亮伝』・『晋書 楊駿伝』)
同年、司馬衷が帝位につくと侍中・光禄大夫を加えられ、尚書令となり爵位が公に進んだ。
楊駿に招聘されたが時間内に戻れず罷免された。
太子少傅に移り、散騎常侍を加えられた。常に礼典を遵守し人々を教導した。高齢で病が重くなると医者を遣わされ、光禄大夫・開府・儀同三司に上った。
韓寿(かんじゅ)が義姉の賈南風(かなんぷう)皇后に仲介を頼み、華廙の孫の華陶(かとう)に娘を嫁がせようとしたが断ったため、賈南風に恨まれ三公には上れなかった。
75歳で没し元公と諡された。(『晋書 華廙伝』)
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