毛玠 清廉過ぎた人事担当
毛玠(もうかい)字は孝先(こうせん)
兗州陳留郡平丘県の人(??~216)
魏の臣。
若い頃は県の役人を務め清潔公正さで評判を取った。
戦乱を避けて荊州へ移ろうとしたが、荊州牧の劉表(りゅうひょう)の統治がいいかげんだと聞き、南陽郡魯陽に留まった。兗州へ勢力を伸ばした曹操に招かれ治中従事となった。
毛玠は「一年を超える蓄えが無く、人民は動揺し長く持ちこたえられません。袁紹・劉表は強大な力を持つが将来を見通す思慮は無く、基礎も固めていません。そもそも戦争は道義があるほうが勝つもので、現状維持するには財力を用います。献帝を擁し、農耕に励み軍需物資を蓄えれば、天下統一も達成できるでしょう」と進言し、感心した曹操は功曹に抜擢した。
208年、東曹掾として崔琰(さいえん)とともに官吏選抜を担当した。清潔公正さを重んじ、評判高くても心根が潔白でなければ昇進させず、毛玠自身も模範となるべく、衣食は粗末で、みなし子の甥を慈しみ、貧しい者に施し財産を残さず努力したため、人々は襟を正し清廉さを競い合うようになった。高官も節制するようになり、曹操は「人を起用するにあたりこのようにすれば、天下の人々は自ずと身を整える。私は何もする必要がなくなった」と絶賛した。
一方で曹丕の直々の斡旋すら断るなど、清廉すぎる彼を煙たがる者も多く、東曹の廃止が叫ばれた。だが事情を知る曹操は逆に西曹を廃止した。
右軍師を経て216年、魏が建国されると尚書僕射になり(※「武帝紀」の注には尚書と記される)再び人事を担った。曹丕と曹植(そうしょく)の間で後継者争いが起こると、袁紹の滅亡を例に上げ、曹操を諌めた。
しかし同年、崔琰が処刑されると毛玠は曹操を恨み、非難の言葉を吐いたと密告され、投獄された。(『毛玠伝』)
陥れた者の名は本伝に記されていないが、「何夔伝」によると曹植の腹心の丁儀(ていぎ)だったと思われる。(『何夔伝』)
鍾繇(しょうよう)に事細かにねちねちと詰問されたが、毛玠は故事を引き滔々と反論した。(『毛玠伝』)
和洽(かこう)は毛玠らの官吏選抜を「節倹を偽る者も多く、中庸を重んじるべきだ」と批判していたが、この時は「毛玠は忠義公正であり、事実を調べるべきだ」と強く諫言した。(『和洽伝』)
曹丕の腹心の桓階(かんかい)も弁護に回り、免職だけで許された。
無官のまま没し、曹操は葬儀の準備を整えてやり、子の毛機(もうき)を郎中に取り立てた。(『毛玠伝』)
(※「文帝紀」には220年、曹丕によって毛玠の子が郎中に取り立てられたとある)
陳寿は「清廉で私心なく質素を守った」と評した。
「演義」では水軍を率いたりと軍人としてあちこちに顔を出す。
「蒼天航路」では妖怪のような風貌で、屯田の専門家として登場した。
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