三国志 ま行


麻余  夫余の王たち


麻余(まよ)
夫余の人(??~??)

夫余の単于(王)。

尉仇台(いきゅうだい)が没すると簡位居(かんいきょ)が後を継ぎ単于となった。
尉仇台との関係は記されていないが、息子ならば公孫度(こうそんど)が一族の娘を尉仇台に嫁がせたとも記されており、簡位居の母の可能性がある。

簡位居が没すると嫡子が無かったため、重臣たちは協議し庶子の麻余に後を継がせた。
麻余の甥(兄の子)の位居(いきょ)が信望を集め、魏へよしみを通じるなど大いに貢献した。

麻余も没すると6歳の子の依慮(いりょ)が後を継いだ。(『東夷伝』)

ただし尉仇台~依慮の即位まで記述に混乱が見られると「ちくま版」の訳者(今鷹真・小南一郎)は指摘している。



満偉  満寵の子


満偉(まんい)字は公衡(こうこう)
兗州山陽郡昌邑県の人(??~??)

魏の臣。
満寵(まんちょう)の子。

243年、父が没すると後を継いだ。
人品の良さで知られ衛尉まで上った。(『満寵伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に衛尉・昌邑侯として連名した。(『斉王紀』)

「世語」に曰く。
子の満長武(まんちょうぶ)は司馬昭に仕え、260年、曹髦が殺された時には門番をしていた。
そこへ司馬昭の弟で、満長武の妹婿でもある司馬幹(しばかん)が現れたが、司馬昭の家に近いため別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒った。
また257年、諸葛誕の反乱の際に満偉は病のため従軍せず、その子(満長武?)も父が心配だと反乱が片付くやさっさと離脱したことを根に持っており、とうとう満長武を問責して拷問死させ、満偉も罷免し平民に落とした。人々は同情を寄せた。

晋の元康年間(291~299)に甥(弟の子)の満奮(まんふん)は尚書令・司隷校尉に上った。
満寵・満偉・満長武・満奮はいずれも身長8尺あった。(『満寵伝』)



満長武  司馬昭に殺された満寵の孫


満長武(まんちょうぶ)字が長武か
兗州山陽郡昌邑県の人(??~260)

魏の臣。
満偉(まんい)の子。満寵(まんちょう)の孫。

「世語」に曰く。
満長武は司馬昭に仕え、260年、曹髦が殺された時には門番をしていた。
そこへ司馬昭の弟で、満長武の妹婿でもある司馬幹(しばかん)が現れたが、司馬昭の家に近いため別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒った。
また257年、諸葛誕の反乱の際に満偉は病のため従軍せず、その子(満長武?)も父が心配だと反乱が片付くやさっさと離脱したことを根に持っており、とうとう満長武を問責して拷問死させ、満偉も罷免し平民に落とした。人々は同情を寄せた。

晋の元康年間(291~299)に従兄弟の満奮(まんふん)は尚書令・司隷校尉に上った。
満寵・満偉・満長武・満奮はいずれも身長8尺あった。(『満寵伝』)



満寵  厳格なる守護者


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満奮  司隷校尉に上った満寵の孫


満奮(まんふん)字は不明
兗州山陽郡昌邑県の人(??~??)

晋の臣。
満偉(まんい)の甥(弟の子)。満寵(まんちょう)の孫。

「冀州記」に曰く、公平清潔な人柄で見識があった。
「晋諸公賛」に曰く、道理をわきまえ正しい人柄で満寵の風格があった。

晋の元康年間(291~299)に尚書令・司隷校尉に上った。
満寵・満偉・従兄弟の満長武(まんちょうぶ)・満奮はいずれも身長8尺あった。(『満寵伝』)



迷当  羌族嘘つかない


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毛掾  丁斐を告発するが却下される


毛掾(もうえん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
丁斐(ていひ)は曹操と同郷で寵愛されたが素行が悪くついに投獄された。
曹操は「東曹の毛掾がしばしば告発して処分させようとするが、私とてこいつが清廉ではないことは知っている。丁斐は鼠を捕るのが上手な盗人犬のようなもので、盗みでちょっと損はするが袋の中の貯えは守ってくれるのだ」と言い、罪に問わなかった。(『曹真伝』)

211年、潼関の戦いで曹操が窮地に陥ると、丁斐は牛馬を解き放った。馬超の兵らは牛馬を略奪しようとして足並みを乱し、曹操は無事に渡河できた。(『武帝紀』)

毛掾は名ではなく「東曹掾の毛」という意味かもしれず、あるいは毛玠(もうかい)のことだろうか。



毛嘉  毛皇后の父


毛嘉(もうか)字は不明
司隷河内郡の人(??~235)

魏の臣。
毛皇后(もうこうごう)の父。

227年、娘が曹叡の皇后に立てられたため列侯された。(『明帝紀』)

毛嘉は騎都尉に、子の毛曾(もうそう)は郎中に任命された。
さらに奉車都尉、博平郷侯、光禄大夫と昇進し、一族は手厚く寵遇された。

毛嘉はもともと車の修理をする下位役人(典虞車工)で、突如として高い身分になったため、曹叡に酒宴に招かれた時の立ち振舞いは甚だ愚かしく、一人称の「侯身」を笑いものにされた。(『明悼毛皇后伝』)

毛曾は名家の出の夏侯玄(かこうげん)と同席した時、夏侯玄はこれを恥辱に感じ不愉快さをあらわにしたため、曹叡は怒り左遷した。(『夏侯尚伝』)

特進を与えられ、235年に没し、光禄大夫を追贈された。(※2度目の任官でありどちらかが誤りと思われる)
安国侯に進み、1千戸に加増され、節侯と諡された。翌年にはすでに没していた妻の夏氏(かし)にも野王君が追贈された。

2年後、曹叡は寵愛の薄れた毛皇后へ自害を命じた。(『明悼毛皇后伝』)

当然ながら毛一族への厚遇も止み、毛曾は左遷されたが、それを見ずに没した毛嘉は幸運だったのかも知れない。



毛玠  清廉過ぎた人事担当


毛玠(もうかい)字は孝先(こうせん)
兗州陳留郡平丘県の人(??~216)

魏の臣。

若い頃は県の役人を務め清潔公正さで評判を取った。
戦乱を避けて荊州へ移ろうとしたが、荊州牧の劉表(りゅうひょう)の統治がいいかげんだと聞き、南陽郡魯陽に留まった。兗州へ勢力を伸ばした曹操に招かれ治中従事となった。
毛玠は「一年を超える蓄えが無く、人民は動揺し長く持ちこたえられません。袁紹・劉表は強大な力を持つが将来を見通す思慮は無く、基礎も固めていません。そもそも戦争は道義があるほうが勝つもので、現状維持するには財力を用います。献帝を擁し、農耕に励み軍需物資を蓄えれば、天下統一も達成できるでしょう」と進言し、感心した曹操は功曹に抜擢した。

208年、東曹掾として崔琰(さいえん)とともに官吏選抜を担当した。清潔公正さを重んじ、評判高くても心根が潔白でなければ昇進させず、毛玠自身も模範となるべく、衣食は粗末で、みなし子の甥を慈しみ、貧しい者に施し財産を残さず努力したため、人々は襟を正し清廉さを競い合うようになった。高官も節制するようになり、曹操は「人を起用するにあたりこのようにすれば、天下の人々は自ずと身を整える。私は何もする必要がなくなった」と絶賛した。
一方で曹丕の直々の斡旋すら断るなど、清廉すぎる彼を煙たがる者も多く、東曹の廃止が叫ばれた。だが事情を知る曹操は逆に西曹を廃止した。

右軍師を経て216年、魏が建国されると尚書僕射になり(※「武帝紀」の注には尚書と記される)再び人事を担った。曹丕と曹植(そうしょく)の間で後継者争いが起こると、袁紹の滅亡を例に上げ、曹操を諌めた。

しかし同年、崔琰が処刑されると毛玠は曹操を恨み、非難の言葉を吐いたと密告され、投獄された。(『毛玠伝』)
陥れた者の名は本伝に記されていないが、「何夔伝」によると曹植の腹心の丁儀(ていぎ)だったと思われる。(『何夔伝』)

鍾繇(しょうよう)に事細かにねちねちと詰問されたが、毛玠は故事を引き滔々と反論した。(『毛玠伝』)
和洽(かこう)は毛玠らの官吏選抜を「節倹を偽る者も多く、中庸を重んじるべきだ」と批判していたが、この時は「毛玠は忠義公正であり、事実を調べるべきだ」と強く諫言した。(『和洽伝』)
曹丕の腹心の桓階(かんかい)も弁護に回り、免職だけで許された。

無官のまま没し、曹操は葬儀の準備を整えてやり、子の毛機(もうき)を郎中に取り立てた。(『毛玠伝』)
(※「文帝紀」には220年、曹丕によって毛玠の子が郎中に取り立てられたとある)

陳寿は「清廉で私心なく質素を守った」と評した。

「演義」では水軍を率いたりと軍人としてあちこちに顔を出す。
「蒼天航路」では妖怪のような風貌で、屯田の専門家として登場した。



毛甘


未作成



毛暉  臧覇にかばわれ出世した反乱者B


毛暉(もうき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

曹操は兗州刺史となり、徐翕(じょきゅう)・毛暉を将軍に任命した。
(194年、呂布の反乱に際し)徐翕・毛暉は反乱した。平定されると二人は臧覇(ぞうは)のもとへ亡命した。

(199年、臧覇が曹操に降ると)曹操は劉備を通じ、臧覇に二人の首を届けるよう命じた。
だが臧覇は「私が独立できていたのは、(亡命者を殺すような)信頼を裏切らなかったからです。私は公(曹操)に降り命令には背けませんが、王者となる君主には道義を述べてもよいと聞きます。どうか将軍(劉備)からも弁明してください」と断った。
劉備から伝えられた曹操は嘆息し「亡命者をかばうことは古人のなしてきた行為だが、君がそれを行うのは私も願うところだ」と認め、徐翕・毛暉を太守に任命した。(『臧覇伝』)



毛機  毛玠の子


毛機(もうき)字は不明
兗州陳留郡平丘県の人(??~??)

魏の臣。
毛玠(もうかい)の子。

父は誹謗の罪で曹操の怒りを買って免職され、無官のまま没した。
曹操は葬儀の準備を整えてやり、子の毛機を郎中に取り立てた。(『毛玠伝』)
(※「文帝紀」には220年、曹丕によって毛玠の子が郎中に取り立てられたとある)



毛炅  陶璜に屈せず処刑される


毛炅(もうけい)字は不明
益州建寧郡の人(??~271)

晋の臣。
出身地から見るに蜀の旧臣か。

263年(『孫休伝』)、交阯太守の孫諝(そんしょ)が暴政を布いたため、郡の役人の呂興(りょこう)は孫諝を殺し、魏へ鞍替えした。呂興は晋から後任の太守に任命されたが、彼も部下に殺され、その後も次々と没し安定しなかった。(『晋書 陶璜伝』)

268年(『孫晧伝』)、南中監軍の霍弋(かくよく)は、新たな交阯太守の楊稷(ようしょく)を援護するため、益州から毛炅らと大軍を率いて出撃し、呉の大都督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)

それに対し呉は陶璜(とうこう)らが反撃し、271年、交阯を包囲した。
楊稷・毛炅らは、霍弋から「包囲され百日以内に降伏したら一族もろとも誅殺する。百日を過ぎれば降伏しても罪は私が引き受ける」と言い含められていた。だがその霍弋はすでに病没し、兵糧も尽きたため楊稷は百日経たずに降伏を申し出た。
ところが陶璜は食料を渡し籠城を続けさせた。配下の者が諌めると「百日経てば彼らは罪を免れ、我らは義を立てられる。民には教訓になり、敵国も懐柔できて素晴らしいではないか」と答えた。
百日後、楊稷・毛炅は降伏した。
以上の逸話は「漢晋春秋」と「晋書」に記されている。

「華陽国志」に異聞がある。
王約(おうやく)の寝返りにより城は落ち、楊稷と毛炅は捕虜にされた。陶璜は勇猛な毛炅を解放しようとしたが、毛炅に父の脩則を殺された脩允(しゅういん)は処刑を願った。
毛炅にも恭順する意思はなく、陶璜に「晋の盗賊め」と罵られると「呉の犬め。犬より盗賊の方がマシだ」と言い返した。
陶璜は激怒し、毛炅の腹を裂いて臓腑を取り出し「まだ盗みが働けるか」と聞いた。毛炅はひるまず「今も孫晧を斬ってやりたい。お前たちの父親は死んだ犬だ」などと罵り続けながら殺された。
楊稷は護送中に病死した。

司馬炎はこれを聞くと悲しみ、楊稷に交州刺史を追贈し、毛炅の爵位を長男に継がせ、他の三人の子は関内侯に封じた。(『孫晧伝』)

「晋書」にはさらに別の経緯が記される。
楊稷と毛炅は降伏した。脩允は毛炅の処刑を願ったが、陶璜は許可しなかった。ところが毛炅は陶璜の暗殺を企み捕まった。陶璜は拷問の末に毛炅を殺した。
楊稷は護送中に病死した。

司馬炎は呉の捕虜になるも脱走した孟幹(もうかん)から経緯を聞き、楊稷を交州刺史、毛炅を交阯太守に任じたが、印綬が届く前に二人とも没したため、楊稷に交州刺史を追贈し、毛炅の子を関内侯に封じた。(『晋書 陶璜伝』)



毛弘  梁鵠の書法を教え広める


毛弘(もうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

書家。

梁鵠(りょうこく)の弟子の毛弘がその技法を教え広めたため、隷書の八分体は現代まで残った。(『晋書 衛瓘伝』)



毛皇后  曹叡の皇后(初代)


毛皇后(もうこうごう)名は不明
司隷河内郡の人(??~237)

曹叡の2人目の正室。
毛嘉(もうか)と夏氏(かし)の娘。

黄初年間(220~226)に曹叡の側室となった。曹叡と同じ輿に乗るのを許されるほど寵愛された。
曹叡は226年に帝位につくと毛氏を貴嬪にしたが、正室の虞氏(ぐし)を皇后に立てなかった。卞太后(べんたいこう)がそれを慰めると、虞氏は「曹氏の男は下賤の女を好む」と暴言(※曹操・曹丕はともに身分の低い側室を皇后に立てた)を吐いたため、正室からも廃され、227年に毛皇后が立てられた。

曹叡は毛一族も同様に厚遇したが、父の毛嘉はもともと身分が低かったため粗野な振る舞いを笑われた。(『明悼毛皇后伝』)
弟の毛曾(もうそう)は名家の出の夏侯玄(かこうげん)と同席した時、夏侯玄はこれを恥辱に感じ不愉快さをあらわにしたため、曹叡は怒り左遷した。(『夏侯尚伝』)

235年に父が没し、翌236年にすでに亡くなっていた母へ野王君が追贈された。

やがて寵愛は郭氏(かくし)に移り、毛皇后は顧みられなくなった。
237年、曹叡は妃や女官たちと宴を開いた。郭氏は毛皇后も招くよう勧めたが、それを却下し宴があったことも知らせないよう一同に厳命した。
しかし翌日、毛皇后が「昨日は楽しかったですか」と皮肉を放つと、曹叡は密告した者がいると激怒し、侍女ら十数人を殺害し、毛皇后にも自害を命じた。
曹叡は彼女に「悼」と諡し、皇后として葬った。(『明悼毛皇后伝』)

曹叡は実母の甄姫を、実父の曹丕に殺され不遇をかこったが、皮肉にも歴史は繰り返されたのだった。

「演義」でも宴会をハブられ、皮肉を言って殺された。その後、殺された他の宮女達とともに曹叡を祟った。



毛宗  曹丕の帝位禅譲辞退の使者


毛宗(もうそう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「献帝伝」に曰く。
220年、帝位禅譲を打診された曹丕は(形式上)重ねて辞退し、行相国永寿少府の毛宗に命じて印綬を返還した。毛宗は間を何度も行き来した。(『文帝紀』)



毛曾  毛皇后の弟


毛曾(もうそう)名は不明
司隷河内郡の人(??~??)

魏の臣。
毛嘉(もうか)と夏氏(かし)の子。

227年、姉が曹叡の皇后に立てられ、毛一族は恩恵にあずかり、毛嘉は騎都尉に、毛曾は郎中に任命された。
さらに騎都尉、駙馬都尉、散騎侍郎と昇進したが、父の毛嘉はもともと身分が低かったため粗野な振る舞いを笑われた。(『明悼毛皇后伝』)

毛曾も名家の出の夏侯玄(かこうげん)と同席した時、夏侯玄はこれを恥辱に感じ不愉快さをあらわにしたため、曹叡は怒り左遷した。(『夏侯尚伝』)

235年に父が没し、曹叡の寵愛も郭氏(かくし)に移り、毛皇后は顧みられなくなった。
そして237年、曹叡は毛皇后へついに自害を命じた。
当然ながら毛一族への厚遇も止み、毛曾は散騎常侍に昇進したが、後に羽林虎賁中郎将として原武県の典農へ左遷された。(『明悼毛皇后伝』)



孟英


未作成



孟獲  南蛮王


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孟幹  呉の捕虜となるも脱走した牙門将


孟幹(もうかん)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から董元(とうげん)や毛炅(もうけい)、牙門将の孟幹、孟通(もうつう)、李松(りしょう)、王業(おうぎょう)、爨能(さんのう)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。

だが271年、呉の陶璜(とうこう)によって交阯は陥落した。
毛炅は処刑され、交阯太守の楊稷(ようしょく)は護送中に病死し、孟幹、李松、爨能は捕虜として呉の都の建業へ送られた。
孫晧は殺そうとしたが、ある人が「忠臣であり、辺境の将として使うべき」と進言したため臨海郡へ移されそうになった。孟幹らは逃亡を企て、呉軍の愛好する蜀の弩を造れると言い、建業に留まった。
そして脱走すると、李松、爨能は殺され、孟幹だけが帰国できた。

孟幹は呉の内情を知らせて討伐の計略を立て、喜んだ司馬炎は彼を日南太守に任じた。
そして死亡した楊稷に官位を追贈し、毛炅、李松、爨能の子を関内侯に封じた。(『晋書 陶璜伝』)



孟観  管寧を招聘するも間に合わずB


孟観(もうかん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

241年、永寧宮の衛尉の孟観や陶丘一(とうきゅういつ)・孫邕(そんよう)・王基(おうき)らの連名で管寧(かんねい)を招聘したが、ちょうどその時に死去した。(『管寧伝』)



孟荊州  管輅の占術―東方朔の占いを解説


孟荊州(もうけいしゅう)名は不明
荊州の人?(??~??)

魏の臣。
荊州は出身地か。

「管輅別伝」に曰く。
列人県の典農の孟荊州は、管輅(かんろ)に東方朔の占いがどういう道理でなされたか質問した。管輅は理路整然と解き明かし、孟荊州は長く嘆息し「あなたの議論を聞いていると精神がたかぶって飛散してしまいそうになる。なんと広々としているのか」と言った。(『管輅伝』)



孟建  諸葛亮の友人・孟公威


孟建(もうけん)字は公威(こうい)
豫州汝南郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
建安年間(196~220)初期、諸葛亮・石韜(せきとう)・徐庶(じょしょ)・孟建は遊学し、石韜・徐庶・孟建は学問の精密さを求めたが、諸葛亮は大要をつかもうとした。
ある時、諸葛亮は「君たち三人は仕官すれば刺史や太守にまで上るだろう」と言った。三人にそう言う自分はどうなのか聞き返されると、ただ笑うだけで何も言わなかった。
後に孟建がホームシックになり帰りたいと願うと、諸葛亮は「中原には士大夫が多く、遊楽は故郷にあるとは限らない」と引き止めた。

裴松之は「孟建のためを思っての発言ならばいいが、諸葛亮が自分の心も同じだとして言ったと考えているなら、魏略の作者は諸葛亮の心がわかっていない。諸葛亮はもし魏に仕えれば陳羣(ちんぐん)や司馬懿(しばい)が敵う人物ではなく、自身もそれをわかっていた。漢王朝の復興のために地方に割拠したのだ」と指摘する。

結局、孟建は魏に仕え高位に上った。石韜・徐庶も仕官した。(『諸葛亮伝』)

曹丕の代に温恢(おんかい)が没すると、孟建が後任の涼州刺史となり、優れた政治と称えられた。官位は征東将軍まで上った。

「魏略」に曰く。
諸葛亮は祁山へ出兵した時、司馬懿の使者の杜襲(としゅう)が豫州出身のため「孟建によろしく」と伝えさせた。(『温恢伝』)

「魏略」に曰く。
太和年間(227~232)、隴右へ出兵した諸葛亮は石韜・徐庶の官位を聞き「魏はとりわけ人材が多いのだろうか。あの二人がその程度にしか用いられないとは」と慨嘆した。(※ただし自分が以前に予言した通りの官位である)(『諸葛亮伝』)

「演義」には孟公威の名で登場。石韜とともに歌っていたところ、三顧の礼に向かう劉備に諸葛亮と間違われた。



孟光  三国時代の生き証人


孟光(もうこう)字は孝裕(こうゆう)
司隷河南郡洛陽県の人(??~??)

後漢、後に蜀の臣。

後漢の太尉の孟郁の一族で、後漢に仕え霊帝の末年(189年頃)に講部吏になった。
190年、董卓が長安に遷都した動乱から逃れ、益州に移り州牧の劉焉(りゅうえん)・劉璋(りゅうしょう)に賓客として遇された。

博学であらゆる書物を読破し、特に三史(史記・漢書・東観漢記)の研究に意を注ぎ、漢王朝の古い制度に詳しかった。
「春秋公羊伝」を好み、「春秋左氏伝」を批判したため来敏(らいびん)とは対立し、議論になるといつも大声でまくし立てた。(『孟光伝』)

214年、益州を制圧した劉備に仕え議郎となり、許慈(きょじ)・来敏らと宮中制度を制定した。(『許慈伝』・『孟光伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に議郎として連名した。(『先主伝』)

223年、劉禅が帝位につくと符節令・屯騎校尉・長楽少府となり、大司農に昇進した。

246年、恩赦が行われると孟光は反対し、百官の前で大将軍の費禕(ひい)をやり込めた。孟光が他人の弱点を突く時は常にこういう面子を失わせるやり方だったため、特に重臣たちに気に入られず、爵位は進まなかった。
常に直言してはばかることが無いため人々から嫌われ、彼よりも年若く、功績の少ない者が先に昇進していった。(『孟光伝』)

来敏は言葉に節度がなく、行動が異常だったため何度も免職や降格させられた。孟光も慎重ではなく人々に逆らったが、来敏よりはマシだった。二人とも徳望高き老学者として敬意を払われた。(『来敏伝』)

郤正(げきせい)はしばしば孟光に学問について尋ねた。ある時、孟光は太子の劉璿(りゅうせん)が学んでいる書物と、人となりについて尋ねた。郤正が当たり障りのないことを答えると、孟光は「権謀才智はどうか知りたいのだ」と言ったが、郤正は言葉を選び「それは胸のうちに秘めておくもので、いざとならなければわかりません」と返した。
孟光は彼が慎重でいいかげんな議論はしないと悟り「私は直言をはばからず、欠点を糾弾し、人々から憎まれた。あなたもよく思っていないようだが、私の言葉には論理がある。太子の勉学は問題用紙に答えるようなものではなく、もっと大切なことに努力すべきだ」と進言した。郤正も心からもっともだと思った。

孟光は後に何かの罪を得て免官となり、九十余歳で没した。(『孟光伝』)

陳寿は許慈・孟光・来敏・李譔(りせん)を「博学多識で、徳行の点で称賛を受けることはなかったが、まことにみな一代の学者である」と評した。

97歳まで生きた来敏ともども三国時代の生き証人の一人である。

「演義」では劉備の即位式を取り仕切り、北伐する諸葛亮に内政を任された。



孟康  七光から評価一変


孟康(もうこう)字は公休(こうきゅう)
司隸安平郡の人(??~??)

魏の臣。

黄初年間(220~226)、曹丕が帝位につくと郭皇后(かくこうごう)の姉の親戚だったため、九親(親族)の待遇を受け散騎侍郎となった。(『杜恕伝』)

郭皇后の姉の郭昱(かくいく)の子に同姓の孟武(もうぶ)がおり、その一族だろう。(『文徳郭皇后伝』)

当時、散騎侍郎は秀才か高名な儒者で占められ、孟康だけが縁故採用だったため人々に軽視され、字や姓名ではなく阿九(あきゅう ※親戚ちゃん、くらいの意味か)と呼ばれた。
だが頭の切れる孟康は閑職にあることを利用して勉学に励み、後に文章の才を見せ、評価を改めさせた。(『杜恕伝』)

237年、司徒・司空が空席になると孟康の推挙により、崔林(さいりん)が司空に上った。(『崔林伝』)

正始年間(240~249)、杜恕(とじょ)の後任で弘農太守となり、典農校尉を務めた。
清廉で住民には善悪問わず恩情を与え、部下は正月には家に帰し、常に4分の1は休ませた。
巡察に出る際にはあらかじめ準備を整えさせ、無理に敬意を示さないようにと命じ、十数人の部下しか連れず、馬の飼い葉も自分達で刈り、野宿した。
弘農郡は街道の要地で賓客が多く通過したが、公費外のものは支給せず、旧知の者が訪ねてきた時も自腹を切った。
はじめ人々は孟康の才を認めながらも経験が無かったため太守が務まるか半信半疑だったが、その統治を称え歌にするほどだった。

渤海太守に転じ、254年に都に戻り中書令、後に中書監となった。(『杜恕伝』)

252年、司馬師が大将軍となった。当時は鍾会・夏侯玄(かこうげん)・王粛(おうしゅく)・陳本(ちんほん)・孟康・趙鄷(ちょうほう)・張緝(ちょうしゅう)らが朝議をあずかった。(『晋書 景帝紀』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に中書令として連名した。(『斉王紀』)

「廬江何氏伝」に曰く。
曹叡の代に譙郡の人で胡康(ここう)という者がいた。神童と呼ばれ貧しい身分から出世したが、何禎(かてい)は「才能はあるが性質がまっすぐではない。失敗するに違いない」と言い的中させた。

この胡康を裴松之は孟康のことではないかと推測するが、孟康は出身地も違えば皇后の親族で貧しい身分とも言えず、失脚してもおらず、ちょっと何言ってるかわからない。(『杜摯伝』)



孟興  孟達の子


孟興(もうこう)字は不明
司隸扶風郡の人(??~??)

蜀の臣。
孟達(もうたつ)の子。

220年、父は関羽を見殺しにし、劉封(りゅうほう)と衝突したため魏へ亡命した。
孟興は蜀に残り議督軍(※護督軍?)となった。

263年、蜀が滅亡すると翌264年に晋へ移住させられ故郷の扶風郡へ帰った。(『劉封伝』)



孟思  何かの不法行為をした


孟思(もうし)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

楽人。騎都尉の王才(おうさい)と結託してなんらかの不法行為を犯し、首都を揺り動かした。

杜恕(とじょ)が「王才と孟思の罪を告発したのは小役人だった」と大臣の怠慢を批判する際の例に挙げている。(『杜畿伝』)



孟宗  タケノコすら生やす親孝行


孟宗(もうそう)字は恭武(きょうぶ)
荊州江夏郡の人(??~271)

呉の臣。
後に孫晧の字を避け孟仁(もうじん)に改名した。

若い頃、母は彼のために大きな布団を作ってやり「息子には人を引きつけるような徳は無いが、学問を志す人は貧しい方が多いので、一緒に寝られるようにすれば仲間も増えるでしょう」と言った。
李粛(りしゅく)のもとで朝から晩まで怠けずに学び「宰相の器」と認められた。

朱拠(しゅきょ)のもとで働いていた時、母とともに軍営で暮らしていたが雨漏りがして、志を果たせず低い身分のままなことを泣いて謝った。何も恥じることはないと母に励まされ、やがて朱拠にも認められると、魚の養殖を担当した。
孟宗は母のために鮒寿司を作ってやったが、母は管理する魚を私物化するとは何事だと叱った。
その後、呉県令に赴任したが、法令で家族は連れて行けなかった。旬の物が手に入ると自分では食べず、母に贈った。

ある冬のこと、母の好きなタケノコを採りに出掛けたが見つからなかった。孟宗が嘆くと、タケノコが次々と竹林から顔を出した。人々は孝行の心が通じたのだと讃えた。(※孟宗竹の語源である)(『孫晧伝』)

237年、当時は世間体を気にして、職場放棄し親の葬儀に行く者が多く、厳格に取り締まるため、次に同様のことがあれば見せしめに処刑しようと議論された。
呉県令の孟宗は母の葬儀のため職務を投げ出し、自ら処罰を請うた。陸遜は世間体ではなく、孟宗は平素から孝行であったと弁護し、孫権は特例として許したが、以後は絶対に認めないと厳命したため、職務を放棄する者は絶えた。(『呉主伝』)

258年、孫亮は専横を極める孫綝(そんちん)を暗殺しようと図ったが露見してしまった。孫綝は光禄勲の孟宗に命じて、宗廟の神々へ孫亮の廃位を報告させた。
その後、孫綝は、孫亮に代わり即位させた孫休に排除されかかっている気配を察し、都を出て武昌に駐屯したいと孟宗を通じて願い出た。(『孫綝伝』)

262年、光禄勲の孟宗は丁固(ていこ)とともに御史大夫に任じられた。(『孫休伝』)

267年、孫晧は亡父の孫和(そんか)の遺体を、守丞相の孟宗と姚信(ようしん)に命じて移葬させた。孫晧は(日頃の態度にも似ず)丁重に孟宗を送り出し、父の魂の様子を巫女に尋ねては涙した。(『孫和伝』)

孫晧の暴虐が募る中、丁固・孟宗・陸凱(りくがい)は必死に政治を支えた。(『虞翻伝』)

271年、司空の孟宗は死去した。

陸機(りくき)は「弁亡論」で呉末期のまだ健全だった時代の政治を担った一人と記した。(『孫晧伝』)

孟宗は列伝されなかったが、各所に登場するたびに徐々に官位が上昇しているのが見て取れる。
また元代には「二十四孝」の一人に数えられ、中国史を代表する親孝行として日本にも伝わった。
母の葬儀の際に職場放棄を許されたことは、特別な優遇と裴松之も記している。



孟他


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孟岱  審配の讒言に失敗


孟岱(もうたい)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

200年、官渡の戦いの敗北により審配(しんぱい)の2人の子が曹操の捕虜になった。審配と敵対する孟岱は蔣奇(しょうき)を通じて「審配の一族の兵は多く、しかも子らが人質に取られており、必ず裏切ります」と吹き込んだ。郭図(かくと)・辛評(しんひょう)も同意した。
袁紹は孟岱を監軍に任じ、鄴の守備を審配と交代させたが、日頃は審配と敵対する逢紀(ほうき)が絶対に裏切らないと弁護してやり、取りやめとなった。(『後漢書 袁紹伝』)



孟達  裏切り乗せられまた裏切って


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孟達


未作成



孟通  霍弋の指揮下で交阯を救援


孟通(もうつう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から董元(とうげん)や毛炅(もうけい)、孟幹(もうかん)、孟通、李松(りしょう)、王業(おうぎょう)、爨能(さんのう)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)



孟武  郭皇后(曹丕)の甥


孟武(もうぶ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。
曹丕の皇后の郭皇后(かくこうごう)の姉である郭昱(かくいく)の息子。

郭皇后は身分が低く、即位を群臣に反対された経緯もあったため慎み深く振る舞った。一族の劉斐(りゅうひ)が他国から嫁を娶ったと聞くと、驕って身を滅ぼすことのないよう、同郷で家格の近い嫁を選ぶよう戒めた。
甥の孟武が郷里で妾を求めようとした時も「天下に女性は少なく、軍人にめとらせるべきです。皇后の甥という立場を利用してはいけません」とたしなめた。

「王沈魏書」に曰く。
従兄で家を継いだ郭表(かくひょう)や孟武には常々、「漢王朝の皇后の親族で無事だった者が少ないのは、全て驕慢と奢侈のためです。慎重にしなくてはいけません」と言い含めた。

母の郭昱が亡くなった時も、孟武は盛大に弔おうとしたが、郭皇后は「乱世になり墳墓が盗掘されるのは、手厚く弔うからです。文帝(曹丕)の陵墓のように質素を規範にしなさい」と制した。(『文徳郭皇后伝』)



孟曜  劉表配下の音楽家


孟曜(もうよう)字は不明
出身地不明(??~??)

劉表(りゅうひょう)の臣。

動乱を避け荊州へ移住した音楽家の杜夔(とき)は、荊州牧の劉表に命じられ、孟曜とともに天子(を迎え入れる準備)のためのオーケストラを作った。完成すると劉表は庭で演奏させようとしたが、杜夔は「天子のために編成したものをあなたの庭で演奏させてよいのですか」と反対し、取りやめさせた。(『杜夔伝』)



沐雲


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沐儀


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沐並  食いそびれた男


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