三国志 歴史
01 三国志の幕開け
ここでは三国志ビギナー向けにおおまかな説明をしています。
筆者は学者でもなんでもないただの三国志ファンなので話半分で読んでいただきたいが、大体合っているはずである。
◆三国志とは
西暦200年頃の中国の歴史書を原本とした史実の物語のこと。
| 魏の曹操 |
蜀の劉備 |
呉の孫権 |
がそれぞれ国を建国したことから「三(つの)国(の)志(歴史)」と呼ばれる。
◆三国志の始まり
教科書的には後漢王朝が滅亡した220年、もしくは孫権が三ヶ国目の呉を建国した229年からになるが、
三国志の始まりといえばやはり184年の黄巾の乱からだろう。
黄巾の乱とは、太平道という新興宗教の教祖である張角
が扇動したいわゆる農民一揆で、
黄巾党を名乗って蜂起し、これが中国全土へ波及し後漢王朝に大打撃を与え、滅亡への引き金を引いたのである。
◆後漢王朝の衰退
なぜ農民一揆に過ぎない黄巾の乱が後漢王朝を滅亡させたのか。それはこの時点で既に後漢が大きく衰退していたからである。
衰退した理由は、数百年に渡って(おおむね)平和な時代が続き、国力や軍事力が衰えたことと、政治の腐敗が挙げられる。
政治の腐敗には2つの大きな要因がある。宦官と売官だ。
◆宦官とは
宦官とは去勢手術を受けた男の官吏で、主に後宮(※皇帝の妻や子らの住む宮殿。当時は一夫多妻制)で働いている。
去勢手術は当初は死罪の一等下に設けられたもので、子供を作れなくする=世襲を禁止する刑罰として用いられた。
後宮に住まう女性の最も重要な仕事は「皇帝の子供を生む」ことであり、万が一にも皇帝以外の男の子供を生むことがあってはならない。しかし後宮にも力仕事や警備など男手が必要であり、そのために物理的に子供を作れない宦官が必要とされたのだ。
ところがこの宦官がやがて権力を持ち始めた。皇后や側室(※正妻ではない妻)、後宮で育てられた皇子たちの側近として働くうちに信頼を得て、宦官が重用されるようになったのだ。そのため刑罰の結果として宦官になるのではなく、後宮に近づき権力を得るための手段として、自ら宦官になる者たちが現れ始めた。
皇后や皇子たちからしても、一族を持たず政敵や脅威となることのない宦官は、数少ない気を許せる存在であり重宝がられていった。
そしてさらに事態が動く。
曹操の義祖父である曹騰
という宦官が、皇帝の即位を助けたことにより、養子を取り世襲することを許可されたのだ。これにより一代限りで終わるはずだった宦官の権力が子孫へと受け継がれていくことになり、宦官は貴族と大差ない存在となった。
そして貴族よりもたちの悪いことに、宦官として出世するためにはライバルを蹴落とす政争の才能や、皇后・皇子らに媚びへつらう才能だけが必要なのだ。それなのに宦官は皇后や皇子ら政治に携わる地位にある人物の信頼を受けているため、しばしば(才能のない)政治に口出しすることとなる。政治に口出しできるため、ますます宦官の権力は高まり、宦官に媚びへつらい権力を得る無能な者が現れ、宦官に逆らう有能な政治家は排斥されと、政治の腐敗は留まるところを知らなくなっていった。
◆売官とは
売官とは文字通りに官位を売ることである。後漢では以前から行われていたが、
当時の皇帝の霊帝
は三公の官位まで売り始めた。
三公とは司徒・司空・太尉の3つの最高位のポストであり、それぞれ政治・司法・軍事を司り現代で言う首相が3人いると思ってもらえばいい。霊帝はこの三公まで金を積めば買えるようにしてしまった。
これによって三公になった人物には曹操の父である曹嵩
もいる。
首相を(それも3人も)ただの金持ちが務めているのである。政治の腐敗はますます加速するばかりである。
◆黄巾の乱の影響
教祖の張角
はすぐに病没し、その弟らの率いた本隊も速やかに討伐されたものの、黄巾の乱はその後20年以上に渡り各地で続いた。
最も大きな被害を受けたのが青州で、黄巾党によって制圧され実質的に国の支配から独立した。州とは国の行政単位の区分で、現代日本に当てはめると関東地方や中部地方などのくくりに当たる。たとえば中部地方がまるまる日本から独立したようなものだ。
たかが農民一揆が地方独立にまで至るほど、後漢王朝は弱体化していたことを露呈してしまい、野心の強い人物は下剋上の野望を抱いた。
そして時流に乗って一気に台頭したのが暴君・董卓
である。