三国志 歴史
02 董卓の台頭

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ここでは三国志ビギナー向けにおおまかな説明をしています。
筆者は学者でもなんでもないただの三国志ファンなので話半分で読んでいただきたいが、大体合っているはずである。


◆霊帝死後の混乱

189年、霊帝  が没し、子の少帝  が即位した。

少帝の母の何太后  は低い身分から宦官に引き立てられて皇后まで上り詰めたこともあり、宦官とは親密だった。

しかし何太后の兄で大将軍(※軍事の現場最高指揮官)の何進  にとって宦官はただの邪魔な存在であり、宦官の一掃を企んだ。

だが何進はここで愚策を打ってしまう。董卓  ら地方の有力豪族を呼び、軍事力で宦官を脅迫しようとしたのだ。

しかも宦官の権力者の十常侍  らは先手を打って
何進を殺してしまった。

何進の部下の
袁紹  袁術  らはすかさず報復に乗り出し、宦官を皆殺しにした。

一部の宦官は
少帝を連れて逃げたが、董卓  に追いつかれて殺され、少帝も無事に奪回された。
主を失った
何進の部下はことごとく董卓に仕えるようになり、少帝を助けた董卓は英雄として都に入り、強大な軍事力を盾に後漢王朝の実権を握ってしまったのだ。
何進がこうしたリスクを考えずみすみす董卓に付け入る隙を与えてしまった結果でもある。


◆董卓追討軍の結成

董卓  は何太后  を殺し、少帝  を廃位し、献帝  を即位させ実権を握った。
地方豪族の
董卓が権力を手に入れたこの時点で、後漢王朝は滅亡したと言うこともできるだろう。

董卓配下にいた袁紹  袁術  曹操  らは都を脱出し、各地で兵を集めた。

そして
袁紹を盟主に
董卓追討軍 
 が結成された。

董卓  は追討軍に担ぎ上げられないよう少帝を殺し、本拠地に近い長安へと遷都した
追討軍はさしたる戦果を得られず、兵糧も尽きたため、焼け野原となった洛陽の都を前に解散した。
だが董卓と果敢に戦い名を上げた人物が二人いる。

後に三国の一つを建国する曹操  と、

後に三国の一つを建国する孫権  の父の、孫堅  である。


◆群雄割拠

解散した董卓追討軍は土地や権力をめぐってすぐさま仲間割れを始めた。
袁紹  は韓馥  から広大な冀州と刺史(※州の統治者)の座を奪い、

袁術  は一族の袁遺  を死に追いやり、

劉岱  は橋瑁  を殺した。

いわゆる乱世が訪れ、各地の統治者たちが私欲のために争い始めたのであり、ここでも後漢王朝の支配力がほぼ無くなったのが見て取れる。

たちまち一大勢力となったのが名家出身の袁紹  袁術  で、群雄は両者のどちらかに与し激しく争った。

曹操  袁紹に、孫堅  袁術の派閥について戦いつつ力を蓄えていたが(※曹操と孫堅が直接戦ったことはない)、

孫堅  派の劉表  との戦いで命を落としてしまった。

一方、長安の都でも大事件が起こった。
董卓  が部下の
呂布  に暗殺されたのである。


◆董卓死後も続く戦乱

董卓  が政治を任せていた司徒の王允  は、

密かに
董卓配下で不満を抱いていた呂布  を味方にし、暗殺させることに成功した。

だが
董卓残党  らはすぐさま都を襲撃し、

王允  を殺し、
呂布  を都から追い出した。
そしてそのまま
董卓の後釜として都を支配してしまった。せっかく董卓を暗殺できたのに、首のすげ替えしかできなかったのである。
まだしも刺史(統治者)として実績のあった
董卓とは異なり、残党らは董卓に勝るとも劣らない暴政を行い、都と周辺では人々が共食いを始めるほどの大飢饉が起こった。

そして即位当時は幼かった献帝  が成長し、ここで決断を下す。
董卓残党の支配を逃れるため、長安から脱出し旧都の洛陽へと向かったのである。

それを助けたのが、着々と力を蓄えていた曹操  だった。

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