三国志 新規
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華嶠  後漢書(漢書)の著者


華嶠(かきょう)字は叔駿(しゅくしゅん)
冀州平原郡高唐県の人(??~??)

晋の臣。
華表(かひょう)の三男。
華歆(かきん)の孫。
「晋書 華表伝」に附伝される。

才気と学問に秀で若くして名声があった。
司馬昭の大将軍掾に招かれ、尚書郎、車騎将軍府の従事中郎を歴任した。
泰始年間(265~275)のはじめ、関内侯に封じられた。太子中庶子に移り、安平太守に任じられたが親の高齢を理由に赴任せず、散騎常侍に任じられ、領国子博士となり、侍中に移った。

かねてから「東観漢記」が煩雑だと考えており、折よく尚書郎に任じられ宮廷の蔵書を全て閲覧できるようになったため後漢王朝の史書の編纂に着手した。
光武帝から献帝まで195年の歴史を「後漢書」97巻で著した。(※原文は「漢後書」。経籍志や裴松之の注ではいずれも「後漢書」と記す。ただし裴松之は謝承の後漢書と区別し「漢書」とも記す)
華嶠は皇帝と皇后は並び立つ存在なのに、前身の「漢書」では「外戚伝」で一まとめにされているのを疑問に思い、「帝紀」の次に「后紀」を並べた。(※陳寿も同様にした)
荀勗(じゅんきょく)、和嶠(かきょう)、張華(ちょうか)、王済(おうせい)らは「文章は質朴で事実に忠実であり、司馬遷や班固のようで風格がある」と称え、宮廷に所蔵するよう提言した。すぐに採択されなかったが、司馬亮(しばりょう)・衛瓘(えいかん)らも支持したため所蔵された。
著作は数十万言あり、上奏した政策も多く採用された。

289年、司馬炎は病気がちだったが頻繁に宴会を開いたため、華嶠が少し諫言をすると手ずから詔勅を与え感謝された。
元康年間(291~299)のはじめ、宣昌亭侯に進んだ。
291年、専権を振るう楊駿(ようしゅん)が誅殺されると楽郷侯に改封され、列曹尚書に移った。
後に博学多識で著書も称えられ秘書監に転任し、散騎常侍を加えられた。中書監と同等の待遇を受け、様々な書類を担当した。

293年に没した。
少府を追贈され、簡と諡された。

大の酒好きでしょっちゅう泥酔し(それが祟り?)編纂中の十典が完成しないまま没した。何劭(かしょう)は次男の華徹(かてつ)に引き継がせたが、またも完成前に没した。
繆徴(きゅうちょう)が再び上奏し末子の華暢(かちょう)に引き継がせようやく完成した。華暢は文才あり数万言の文章を残し、魏・晋の史書の草稿も著した。
だが永嘉の乱により多くの蔵書が失われ、華嶠の「後漢書」も30余篇しか残らなかった。(※後にさらに失われ現存しない)(『晋書 華嶠伝』)



劉陽  王朗に子孫を救われた旧友


劉陽(りゅうよう)字は不明
豫州沛国の人(??~??)

後漢の臣。

「王朗家伝」に曰く。
王朗(おうろう)は若い頃に名士の劉陽と交友を結んだ。劉陽は莒県令まで進んだが30歳で没したため著名ではない。
かつて劉陽は曹操の野心を見抜き、漢王室のために除こうとしたことがあり、曹操は高位に上ると劉陽の子を厳しく追及した。累が及ぶのを恐れた親類縁者は助けず、王朗が何年もかくまってやった。
曹操に仕えるとさらにたびたび申し開きしてやり、長年経ってようやく許してやり、一族は難を逃れた。(『王朗伝』)



張登  2人の上官を助ける


張登(ちょうとう)字は不明
冀州趙郡の人(??~??)

魏の臣。

「王朗集」に曰く。
県主簿の時、黒山賊に郡を襲われた。張登は県長の王雋(おうしゅん)とともに72人を引き連れて救援したが、敗れて散り散りになり、王雋もほとんど殺されるところだったが、張登が自ら一人の賊と格闘して助けた。
その後、夏逸(かいつ)が冤罪になった時には自ら拷問を担当して事実を暴き、助けてやった。
大理の王朗(おうろう)はこの2人の上官を助けた功績を上奏したが、多忙にかまけて顕彰されなかった。
220年、曹丕の代に鍾繇(しょうよう)とともに改めて上奏すると「忠義は顕著であり職務に功労がある」として太官令(食膳長)に任命された。(『王朗伝』)



王雋  張登に助けられた県長


王雋(おうしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王朗集」に曰く。
張登(ちょうとう)が県主簿の時、黒山賊に郡を襲われた。張登は県長の王雋とともに72人を引き連れて救援したが、敗れて散り散りになり、王雋もほとんど殺されるところだったが、張登が自ら一人の賊と格闘して助けた。
その後、夏逸(かいつ)が冤罪になった時に張登は自ら拷問を担当して事実を暴き、助けてやった。
大理の王朗(おうろう)はこの2人の上官を助けた功績を上奏したが、多忙にかまけて顕彰されなかった。
220年、曹丕の代に鍾繇(しょうよう)とともに改めて上奏すると「忠義は顕著であり職務に功労がある」として張登は太官令(食膳長)に任命された。(『王朗伝』)



夏逸  張登に助けられた守長


夏逸(かいつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王朗集」に曰く。
張登(ちょうとう)が県主簿の時、黒山賊に郡を襲われた。張登は県長の王雋(おうしゅん)とともに72人を引き連れて救援したが、敗れて散り散りになり、王雋もほとんど殺されるところだったが、張登が自ら一人の賊と格闘して助けた。
その後、守長の夏逸が冤罪になった時に張登は自ら拷問を担当して事実を暴き、助けてやった。
大理の王朗(おうろう)はこの2人の上官を助けた功績を上奏したが、多忙にかまけて顕彰されなかった。
220年、曹丕の代に鍾繇(しょうよう)とともに改めて上奏すると「忠義は顕著であり職務に功労がある」として張登は太官令(食膳長)に任命された。(『王朗伝』)



王詳  王朗の甥


王詳(おうしょう)字は不明
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏の臣。
王朗(おうろう)の甥(兄の子)。

黄初年間(220~226)、領邑を分割し王朗の子が列侯されたが、願い出て甥の王詳を代わりに列侯させた。(『王朗伝』)



王恂  王粛の後継ぎ


王恂(おうじゅん)字は良夫(りょうふ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の次男。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。

256年、父が没すると兄の王惲(おううん)が後を継いだが、早逝し後継ぎもなかったため爵位が断絶してしまった。
263年、王粛と王朗の功績を惜しみ、勅命で次男の王恂が蘭陵侯となり後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、五等の爵位制度が設けられると改めて永県の子爵に封じられた。(『王朗伝』)

王済(おうせい)は同僚の孔恂(こうじゅん)・王恂・楊済(ようせい)とともに将来を嘱望され、司馬炎は「私の左右は、恂恂済済(慎み深く、厳かで恭しい)である」と偶然ツーペアになった四人の名を並べて笑った。(『晋書 王済伝』)

後に山簡(さんかん)は人材登用を奨励し「265年、黄門侍郎の王恂と庾純(ゆうじゅん)は刑罰を論議し尚書の上奏を評定したが、人事に手を付けなかった。簡単なことから先に手を出したのです」と例に挙げた。(『晋書 山濤伝』)

任愷(じんがい)は賈充(かじゅう)の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂・華廙(かよく)が肩入れし派閥争いが起こった。
政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)

王恂はかつて賈充を批判したが、賈充は気にせず王恂を推薦し続けた。自分に背いて権力者に取り入る者とも平常心で付き合ったが、公正な節操はなく、媚びへつらう人物を好んだ。

278年、羊徽瑜(ようきゆ)が没し、夫の司馬師に合葬されると河南尹の王恂は「司馬攸(しばゆう)が詣でられなくなる」と反対したが、賈充は「礼の規定では嫡子(司馬炎)だけが詣でればよく、司馬攸は臣下として服喪すればよい」と言った。担当官は「子と臣下の双方の立場で服喪する賈充の建議は前例がない」と王恂を支持したものの、司馬炎は賈充の意見を採択した。(『晋書 賈充伝』)

「世語」に曰く。
広い見識を持ち朝廷では忠実かつ公正だった。
河南尹、侍中を歴任しいずれも評判を立てた。もっぱら公共の利益を考え自己を顧みない忠節心があった。後に汚職で失脚した袁毅(えんき)から駿馬を贈られたが、賄賂と察して受け取らなかった。
(晋の)2つの大学の建立、五経の尊重はいずれも王恂の建言によるものである。
40余歳で亡くなり、車騎将軍を追贈された。
姉妹の王元姫は司馬昭に嫁ぎ司馬炎・司馬攸を生んだ。

「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王虔(おうけん)・王愷(おうがい)が出世した。(『王朗伝』)



王虔  王恂の出世した弟


王虔(おうけん)字は恭祖(きょうそ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の子。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。

「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王恂(おうじゅん)・王愷(おうがい)が出世した。
王虔は優れた事務能力を称えられ、尚書まで上った。
子の王康(おうこう)・王隆(おうりゅう)も高位に上り重用された。(『王朗伝』)



王愷  王恂の性悪の弟


王愷(おうがい)字は君夫(くんふ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)

魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の子。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。

「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王恂(おうじゅん)・王虔(おうけん)が出世した。
若い頃から才能力量があったが品行悪かった。石崇(せきすう)と仲が良く、ともに豪奢を競い合い、後将軍まで上った。(『王朗伝』)

「冀州記」に曰く。
牽秀(けんしゅう)は優れた才能の持ち主で若くして立派な評判を得たが、黄門侍郎の王愷とは平素から軽蔑し合っていた。
王愷は司隷校尉の荀愷(じゅんがい)に「牽秀は田興(でんこう)の妻と車に同乗した」と誣告した。牽秀は即座に上奏して否定し、あわせて王愷の醜悪さを激烈な文辞で訴えた。
多数の朝臣が無実を証明してやったが、名誉は大いに損なわれた。(『牽招伝』)

牽秀は司馬炎の舅(おじ)の王愷を堂々と非難し、結局罷免された。(『晋書 牽秀伝』)

司馬炎の娘婿の王済(おうせい)は豪奢な生活を好み、王愷も同様で「八百里駁」と名付けた牛の蹄や角をいつも研いでいた。
王済はその牛と自身の一千万銭を賭けて、射的の勝負を挑んだ。王愷も腕に覚えがあり、それを受けると先に撃たせたが、王済は一発で的を射止めた。王済は悠々と座椅子に腰掛け、左右の者を叱りつけ牛の心臓を取り出させ調理させた。だがハツを一切れ食べただけで去っていった。(『晋書 王渾伝』)



田興  王愷に妻を利用された夫


田興(でんこう)字は不明
兗州高平国の人?(??~??)

晋の臣。

「冀州記」に曰く。
牽秀(けんしゅう)は優れた才能の持ち主で若くして立派な評判を得たが、王愷(おうがい)とは平素から軽蔑し合っていた。
王愷は司隷校尉の荀愷(じゅんがい)に「牽秀は高平国の守備兵の田興の妻と車に同乗した」と誣告した。牽秀は即座に上奏して否定し、あわせて王愷の醜悪さを激烈な文辞で訴えた。
多数の朝臣が無実を証明してやったが、名誉は大いに損なわれた。(『牽招伝』)

牽秀は司馬炎の舅(おじ)の王愷を堂々と非難し、結局罷免された。(『晋書 牽秀伝』)



董綏  董遇の子


董綏(とうすい)字は不明
司隷弘農郡の人(??~??)

魏の臣。
董遇(とうぐう)の子。

「世語」に曰く。
父譲りの才能学識があり秘書監まで上った。
子の董艾(とうがい)は司馬冏(しばけい)の重臣を務めた。(『王朗伝』)



賈洪  馬超に人生を狂わされる


賈洪(かこう)字は叔業(しゅくぎょう)
司隷京兆郡新豊県の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
学問好きで才能があり特に「春秋左氏伝」に詳しかった。
建安年間(196~220)のはじめ、郡に計掾に取り立てられ、州に招聘された。州には100余人の顧問がいたが、賈洪と厳苞(げんほう)だけが高い才能学識を持っていた。
3つの県令を歴任し、いずれも厩舎を改築して学舎とし自ら教鞭を執った。

211年、反乱した馬超は賈洪を脅し檄文を書かせた。鍾繇(しょうよう)はそれを読み賈洪が作ったと見抜いたという。
馬超が討伐されると曹操に軍謀掾に招かれたが、反乱者に加担し檄文を書いたために官位には就けなかった。

晩年にようやく陰泉県長に任命され、220年、曹彪(そうひょう)の白馬国相となった。
曹彪は学問好きだったため賈洪を師と仰ぎ、三卿(国の三大臣)より厚遇した。
数年で病没した。50余歳だった。人々は官位が2千石(太守クラス)に上らなかったことを惜しんだ。
「魏略」は賈洪ら7人を儒学の宗家とし、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛している。(『王朗伝』)

なお曹彪が白馬王になったのは226年のことであり矛盾している。(『楚王彪伝』)



厳苞  賈洪と学識で並ぶ


厳苞(げんほう)字は文通(ぶんつう)
司隷馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
建安年間(196~220)のはじめ、州には100余人の顧問がいたが、賈洪(かこう)と厳苞だけが高い才能学識を持っていた。
2つの県令を歴任し、優れた才能により黄初年間(220~226)に朝廷に上り秘書丞となった。
しばしば文章・賦を献上し曹丕に評価された。
西平太守に赴任し、在官のまま没した。(『王朗伝』)



薛夏  天水郡からの亡命者


薛夏(せつか)字は宣声(せんせい)
涼州天水郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
博学で才能があった。
天水郡では姜・閻・任・趙の4氏が名家として幅を利かせていたが、薛夏は貧しい家柄にも関わらず従わなかったため、4氏から命を狙われ都へ逃げた。曹操はかねてから名声を聞いていたため厚遇した。
後に4氏は刺客を送って薛夏を捕らえ、豫州潁川郡で投獄した。その時、曹操は冀州にいたがそれを聞くと「薛夏は無実だ漢陽(天水)のこわっぱが殺したがっているだけだ」と言い、潁川郡に取り調べを命じて釈放させ、軍謀掾に招いた。
曹丕も厚遇し、黄初年間(220~226)に秘書丞とし、いつも終日にわたり書物について議論した。名ではなく「薛君」と呼び、今も貧しい彼の衣服が粗末なのを気遣い、着ていた上着を脱いで与えてやった。
征西将軍の曹休(そうきゅう)が来朝した時には紹介し、一緒に相談せよと持ちかけるほどだった。
さらに重用しようとしたが、その前に曹丕が没した。
太和年間(227~232)、蘭台(書籍管理の部署)に配属されたが、部署として下位の秘書省から移るのは違反であると蘭台から警告された。薛夏は「蘭台は外、秘書は内であり内外は一体です。どうして移ってはいけないか」と反論し、蘭台は返す言葉もなく、以後の異動は恒例となった。
数年後に病没し、遺児には天水郡に棺を持ち帰らず、都に葬るよう勅令が下された。
「魏略」は賈洪ら7人を儒学の宗家とし、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛している。(『王朗伝』)



薛房  程昱の指揮で県を守った豪族


薛房(せつぼう)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

東阿県の豪族。

184年、黄巾の乱に乗じて東阿県丞の王度(おうど)は反乱し、倉庫を焼き払った。
県令は城外へ逃げ、官吏や民は山へ避難した。程昱(ていいく)は賊軍を偵察し、城を奪ったもののもてあまして場外に駐屯しているのを見ると、豪族の薛房らへ「王度には城を守れない程度の兵しかなく、金目当てで戦意もない。県令を探してきて籠城すれば勝てる」と提案した。
しかし官民は恐れて「賊は西にいる。ただ東があるだけだ」と従わず、程昱は「馬鹿どもと相談しても無駄だ」と言い、配下を東の山に登らせ、薛房に「敵が東に現れたぞ」と叫ばせた。
薛房は城へ入り、官民もあわてて後を追い、県令も探してきて籠城した。王度の攻撃をしのぐと、程昱は打って出て撃破した。(『程昱伝』)



范方  劉岱を援護した公孫瓚配下


范方(はんほう)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫瓚(こうそんさん)の臣。

初平年間(190~193)、兗州刺史の劉岱(りゅうたい)は袁紹・公孫瓚と同盟し、袁紹は妻子を預け、公孫瓚は従事の范方に騎兵を任せ援護させていた。公孫瓚は袁紹と敵対し、撃破すると劉岱へ「袁紹の妻子を渡さなければ范方を引き上げさせ、袁紹の次にお前を殺す」と脅した。
劉岱は決断できず、王彧(おういく)の進言により程昱(ていいく)に意見を求めると「袁紹という近きを捨てて公孫瓚という遠くに助けを求めるのは、溺れる子を助けるため遠国から人を呼ぶようなものです。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。一時の勝利を得ましたが結局は敗れます」と言われた。
劉岱はそれに従い、范方は引き上げたが公孫瓚は合流する前に袁紹に大敗した。(『程昱伝』)



王彧  程昱を推薦した劉岱配下


王彧(おういく)字は不明
出身地不明(??~??)

劉岱(りゅうたい)の臣。

初平年間(190~193)、兗州刺史の劉岱は袁紹・公孫瓚(こうそんさん)と同盟し、袁紹は妻子を預け、公孫瓚は従事の范方(はんほう)に騎兵を任せ援護させていた。公孫瓚は袁紹と敵対し、撃破すると劉岱へ「袁紹の妻子を渡さなければ范方を引き上げさせ、袁紹の次にお前を殺す」と脅した。
劉岱は決断できず、別駕の王彧が「程昱(ていいく)は策謀があり大事を定めます」と進言したため意見を求めると「袁紹という近きを捨てて公孫瓚という遠くに助けを求めるのは、溺れる子を助けるため遠国から人を呼ぶようなものです。そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。一時の勝利を得ましたが結局は敗れます」と言われた。
劉岱はそれに従い、范方は引き上げたが公孫瓚は合流する前に袁紹に大敗した。(『程昱伝』)



氾嶷  靳允に暗殺された呂布配下


氾嶷(はんぎょく)字は不明
出身地不明(??~194)

呂布の臣。

194年、曹操が遠征した隙に張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)が反乱し、兗州を制圧し呂布を迎え入れた。
鄄城・東阿・范の3県だけが従わなかったが、呂布軍からの降伏者が「陳宮は東阿を攻め、氾嶷に范を攻撃させるつもりだ」と伝えると官民は恐慌をきたした。
荀彧は人望ある程昱(ていいく)に3県を説得して動揺させないよう命じ、程昱は范県令の靳允(きんいん)を「君は母・弟・妻子を人質にされたが、従う主君を間違えれば一家揃って滅亡する。呂布と曹操を比べればどちらに付くべきか明らかだ。よく考慮せよ」と説き伏せた。
靳允は涙を流し「二心は抱きません」と誓い、既に県に入っていた氾嶷を刺客に殺させ、守りを固めた。
程昱は水路を断って陳宮の侵攻も防ぎ、曹操が帰還するまで3県を守り抜いた。(『程昱伝』)



靳允  程昱に説得され范県を守る


靳允(きんいん)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

194年、曹操が遠征した隙に張邈(ちょうばく)・陳宮(ちんきゅう)が反乱し、兗州を制圧し呂布を迎え入れた。
鄄城・東阿・范の3県だけが従わなかったが、呂布軍からの降伏者が「陳宮は東阿を攻め、氾嶷(はんぎょく)に范を攻撃させるつもりだ」と伝えると官民は恐慌をきたした。
荀彧は人望ある程昱(ていいく)に3県を説得して動揺させないよう命じ、程昱は范県令の靳允を「君は母・弟・妻子を人質にされたが、従う主君を間違えれば一家揃って滅亡する。呂布と曹操を比べればどちらに付くべきか明らかだ。よく考慮せよ」と説き伏せた。
靳允は涙を流し「二心は抱きません」と誓い、既に県に入っていた氾嶷を刺客に殺させ、守りを固めた。
程昱は水路を断って陳宮の侵攻も防ぎ、曹操が帰還するまで3県を守り抜いた。

後世の徐衆(じょしゅう)は「靳允は曹操にまだ仕えていたとは言えず、道義から言って母を助けるべきだった。徐庶が母を人質に取られた時、劉備は徐庶を帰らせた。曹操もそうすべきだった」と批判するが、曹操の預かり知らぬところであり例によっていちゃもんだろう。
また徐衆の言葉から察するにやはり人質は殺されたと思われる。(『程昱伝』)



程武  程昱の子


程武(ていぶ)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程昱(ていいく)の子。

父が没すると後を継いだ。
その後は子の程克(ていこく)、孫の程良(ていりょう)が順に後を継いでいった。(『程昱伝』)

「演義」では夏侯楙(かこうぼう)の軍師として登場。珍しく功を急いだ趙雲を包囲する策を立て、あわや討ち取りかけた。
そのためSLGでは知力が高めに設定されがちである。



程克  程昱の孫


程克(ていこく)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程武(ていぶ)の子。程昱(ていいく)の孫。

父が没すると後を継いだ。
その後は子の程良(ていりょう)が順に後を継いでいった。(『程昱伝』)



程良  程昱の曾孫


程良(ていりょう)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

魏の臣。
程克(ていこく)の子。
程武(ていぶ)の孫。程昱(ていいく)の曾孫。

父が没すると後を継いだ。(『程昱伝』)



郭奕  王昶に非難された郭嘉の子


郭奕(かくえき)字は伯益(はくえき)
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭嘉の子。

207年、父が没すると後を継いだ。
「王沈魏書」に曰く、物の道理に通暁していた。(『郭嘉伝』)

王昶(おうちょう)の「家誠」に曰く。
洒脱で理解が早く物知りだった。しかし度量は狭く、他者を軽蔑したり尊敬する様が極端で、気に入れば山のように重んじ、気に入らなければ草のように軽んじた。私(王昶)は親しく付き合ったが、子らが郭奕のようになって欲しいとは思わない。
(※裴松之は「郭奕らは既に評価の定まった過去の人物だが、友人をけなし、ましてやそれを家訓として長く後世に伝えるのは、私なら絶対にしない」と非難する)(『王昶伝』)

太子文学となったが早逝した。
子の郭深(かくしん)が後を継いだ。(『郭嘉伝』)

「演義」では郭嘉の死後、幼かったため曹操の家に引き取られた。曹操の郭嘉への格別な思いが垣間見られる好アレンジである。
またSLGでは郭嘉の子というだけで知力が高めに設定されがちである。



郭深  郭嘉の孫


郭深(かくしん)字は不明
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭奕(かくえき)の子。郭嘉の孫。

父が早逝すると後を継いだ。
その後は子の郭猟(かくりょう)が後を継いだ。(『郭嘉伝』)



郭猟  郭嘉の曾孫


郭猟(かくりょう)字は不明
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭深(かくしん)の子
郭奕(かくえき)の孫。郭嘉の曾孫。

父が没すると後を継いだ。(『郭嘉伝』)



郭敞  郭嘉の出世した孫


郭敞(かくしょう)字は泰中(たいちゅう)
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

魏の臣。
郭嘉の孫。

「世語」に曰く。
才能・見識があり散騎常侍まで上った。(『郭嘉伝』)

書きぶりから見て郭奕(かくえき)の子ではないと思われる。



李邵  司馬朗と袁紹に逆らいふらふらする


李邵(りしょう)字は不明
司隸河内郡野王県の人?(??~??)

後漢の臣。

冀州刺史を務めた。
野王県に住んでいたが関中で(董卓らの)兵乱が起こり、温県に移住したいと考えた。司馬朗(しばろう)は「唇亡びて歯寒しの故事は温県と野王県にも当てはまります。移住しても朝の滅亡を夕方まで避けるだけです。それにあなたは高名で人々の期待を担っている方ですから、あなたが逃げてくれば人々は動揺し、かえって悪事を招くでしょう」と反対したが、聞き入れなかった。
はたして李邵の亡命に驚いた人々は混乱し、逆に内地へ逃げ野盗となる者もいた。(『司馬朗伝』)

191年、界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵らは袁紹が敗れると考え公孫瓚(こうそんさん)方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、方策を尋ねた。董昭は「一人の力では多数の企みを消せません。反乱者に同調したふりで心を引きつけ、内情をつかんでから適切な処置をするだけです。今は何も言えません」と答えた。
董昭は赴任すると豪族の孫伉(そんこう)が反乱の中心人物だと突き止め、袁紹の命令と偽り「賊の斥候の張吉(ちょうきつ)を捕らえ、彼は孫伉らと同調していると吐いた。すぐに処刑せよ。妻子は連座させるな」と言い、孫伉ら首謀者数十人を殺した。郡は震え上がり、反乱は未然に防がれ袁紹は見事と称えた。(『董昭伝』)



孫伉  公孫瓚に寝返ろうとした鉅鹿郡の豪族


孫伉(そんこう)字は不明
冀州鉅鹿郡の人(??~191)

袁紹の臣。

191年、界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵(りしょう)らは袁紹が敗れると考え公孫瓚(こうそんさん)方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、方策を尋ねた。董昭は「一人の力では多数の企みを消せません。反乱者に同調したふりで心を引きつけ、内情をつかんでから適切な処置をするだけです。今は何も言えません」と答えた。
董昭は赴任すると豪族の孫伉が反乱の中心人物だと突き止め、袁紹の命令と偽り「賊の斥候の張吉(ちょうきつ)を捕らえ、彼は孫伉らと同調していると吐いた。すぐに処刑せよ。妻子は連座させるな」と言い、孫伉ら首謀者数十人を殺した。郡は震え上がり、反乱は未然に防がれ袁紹は見事と称えた。
また孫伉は「かつて孝廉に挙げられた」と記され、相当の名士である。(『董昭伝』)



張吉  公孫瓚に寝返ろうとした賊の斥候


張吉(ちょうきつ)字は不明
冀州安平郡の人(??~??)

袁紹の臣。

191年、界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵(りしょう)らは袁紹が敗れると考え公孫瓚(こうそんさん)方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、方策を尋ねた。董昭は「一人の力では多数の企みを消せません。反乱者に同調したふりで心を引きつけ、内情をつかんでから適切な処置をするだけです。今は何も言えません」と答えた。
董昭は赴任すると豪族の孫伉(そんこう)が反乱の中心人物だと突き止め、袁紹の命令と偽り「賊の斥候の張吉を捕らえ、彼は孫伉らと同調していると吐いた。すぐに処刑せよ。妻子は連座させるな」と言い、孫伉ら首謀者数十人を殺した。郡は震え上がり、反乱は未然に防がれ袁紹は見事と称えた。(『董昭伝』)



栗攀  兵隊に殺された魏郡太守


栗攀(りつはん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

魏郡太守を務めたが兵隊に殺された。
郡は乱れ万単位の賊がはびこり勝手に交易までしていたが、後任の董昭(とうしょう)は巧みに賊軍をあるいは仲間割れさせ、あるいは急襲して討伐し、2日に3度も勝利の急報が袁紹のもとへ届くほどだった。(『董昭伝』)

同時期に黒山賊の于毒(うどく)に殺された魏郡太守の栗成(りつせい)という人物がおり、同一人物だろうか。(『袁紹伝』)



董訪  董昭の弟


董訪(とうほう)字は不明
兗州済陰郡定陶県の人(??~??)

魏の臣。
董昭(とうしょう)の弟。

董昭は袁紹に仕えたびたび功績を立てたが、董訪の仕える張邈(ちょうばく)が袁紹と険悪だったため(内通の)讒言をされ、それを信じた袁紹に処罰されそうになり出奔した。

董昭はその後、曹操に仕え大いに昇進した。
221年、董昭の領邑から100戸を分割し、董訪も関内侯に封じられた。(『董昭伝』)