王恂 王粛の後継ぎ
王恂(おうじゅん)字は良夫(りょうふ)
徐州東海郡郯県の人(??~??)
魏・晋の臣。
王粛(おうしゅく)の次男。
王朗(おうろう)の孫。王元姫の兄弟。
256年、父が没すると兄の王惲(おううん)が後を継いだが、早逝し後継ぎもなかったため爵位が断絶してしまった。
263年、王粛と王朗の功績を惜しみ、勅命で次男の王恂が蘭陵侯となり後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、五等の爵位制度が設けられると改めて永県の子爵に封じられた。(『王朗伝』)
王済(おうせい)は同僚の孔恂(こうじゅん)・王恂・楊済(ようせい)とともに将来を嘱望され、司馬炎は「私の左右は、恂恂済済(慎み深く、厳かで恭しい)である」と偶然ツーペアになった四人の名を並べて笑った。(『晋書 王済伝』)
後に山簡(さんかん)は人材登用を奨励し「265年、黄門侍郎の王恂と庾純(ゆうじゅん)は刑罰を論議し尚書の上奏を評定したが、人事に手を付けなかった。簡単なことから先に手を出したのです」と例に挙げた。(『晋書 山濤伝』)
任愷(じんがい)は賈充(かじゅう)の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。
任愷には庾純・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂・華廙(かよく)が肩入れし派閥争いが起こった。
政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)
王恂はかつて賈充を批判したが、賈充は気にせず王恂を推薦し続けた。自分に背いて権力者に取り入る者とも平常心で付き合ったが、公正な節操はなく、媚びへつらう人物を好んだ。
278年、羊徽瑜(ようきゆ)が没し、夫の司馬師に合葬されると河南尹の王恂は「司馬攸(しばゆう)が詣でられなくなる」と反対したが、賈充は「礼の規定では嫡子(司馬炎)だけが詣でればよく、司馬攸は臣下として服喪すればよい」と言った。担当官は「子と臣下の双方の立場で服喪する賈充の建議は前例がない」と王恂を支持したものの、司馬炎は賈充の意見を採択した。(『晋書 賈充伝』)
「世語」に曰く。
広い見識を持ち朝廷では忠実かつ公正だった。
河南尹、侍中を歴任しいずれも評判を立てた。もっぱら公共の利益を考え自己を顧みない忠節心があった。後に汚職で失脚した袁毅(えんき)から駿馬を贈られたが、賄賂と察して受け取らなかった。
(晋の)2つの大学の建立、五経の尊重はいずれも王恂の建言によるものである。
40余歳で亡くなり、車騎将軍を追贈された。
姉妹の王元姫は司馬昭に嫁ぎ司馬炎・司馬攸を生んだ。
「晋諸公賛」に曰く。
8人兄弟で他に王虔(おうけん)・王愷(おうがい)が出世した。(『王朗伝』)
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