曹操  乱世の奸雄

  

曹操(そうそう)字は孟徳(もうとく)
豫州沛国譙県の人(155~220)

※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す

魏を興した英雄。

宦官の曹騰(そうとう)が養子に取り爵位を継がせた曹嵩(そうすう)の子で、曹嵩の出自は明確でない。
若い頃から機智と権謀に富み、男伊達を気取って勝手放題で品行を整えなかったためほとんど評価されなかった。何顒(かぎょう)と橋玄(きょうげん)だけが注目し、橋玄は「天下は今まさに乱れようとしている。一世を風靡する才能がなければ救えず、乱世を鎮められるのは君だろうか」と評した。(『武帝紀』)

夏侯淵は曹操が若い頃、代わりに重罪をかぶり、後に救出された。(『夏侯淵伝』)

20歳で孝廉に推挙され郎となり、洛陽北部尉、頓丘県令を歴任し、都に戻り議郎に任じられた。
184年、黄巾の乱が起こると騎都尉となり、潁川郡の黄巾賊を討伐し、済南国相に上った。傘下10余りの県では貴族に迎合する長史が多く汚職がはびこっていたため、8割を免職とし、淫祠邪教を禁じ風紀を正した。
東郡太守に任じられたが就任せず、病気にかこつけて郷里へ帰った。
王芬(おうふん)・許攸(きょゆう)らが霊帝の廃位を企み曹操を抱き込もうとしたが拒否し、計画も失敗に終わった。

涼州で韓遂(かんすい)・辺章(へんしょう)らが反乱すると、召し出され典軍校尉となった。(※西園八校尉)
189年、霊帝が崩御し、混乱の末に董卓が実権を握り、献帝を擁立した。董卓は驍騎校尉に任じて曹操を用いようとしたが、姓名を変えて間道を通り郷里へ逃げようとした。途中で不審に思った役人に捕まったが、居合わせた知人に助けられた。
家財を投じて兵を集め、12月に挙兵した。(『武帝紀』)

袁術は(董卓のもとにいた)曹操が死んだと知らせ、配下らは浮足立ったが、側室の卞氏(べんし)が「まだ死んだと決まったわけではありません。あわてて逃げ出し、無事だったら合わせる顔がありません。もし本当だったらその時に一緒に死ねばいいでしょう」と引き止めた。帰還した曹操はその判断を愛でた。(『武宣卞皇后伝』)

曹操は初めて陳留を訪れた時に衛茲(えいじ)に出会い「天下を平定するのはこの人に違いない」と見込まれ、曹操も彼を優れた人物と認め、重大事を相談し合った。(『衛臻伝』)

190年正月、袁紹を盟主に張邈(ちょうばく)・橋瑁(きょうぼう)・韓馥(かんふく)・劉岱(りゅうたい)・鮑信(ほうしん)らが董卓追討軍を結成し、曹操は奮武将軍を兼務した。
董卓は長安に遷都し洛陽に陣取ったが、結局は焼き払い撤退した。袁紹らは怖気づいて進軍しようとせず、曹操は「大軍が揃っているのに何を恐れているのか。董卓は都を焼き払い、無理やり天子を動かし、四海は動揺している。一度の戦いで天下を定める好機だ」と勧め(たが袁紹らは動かず)単身で追撃を掛けた。
董卓配下の徐栄(じょえい)に大敗し、自身も矢傷を負い馬を失ったが、従弟の曹洪(そうこう)に馬を譲られ逃げ延びた。徐栄は寡兵で一日中戦った曹操を警戒し、追撃しなかった。(『武帝紀』)

曹洪ははじめ断った曹操に「天下に私がいなくとも差し支えないが、あなたがいないわけにはいきません」と馬を譲り、船を探して河を渡って無事に逃げ切った。
親しくしていた揚州刺史の陳温(ちんおん)の協力で徴兵し、数千人を集め軍を再編した。(『曹洪伝』)

曹邵(そうしょう)は曹操の挙兵に応じて配下となり、戦死した。遺児の曹真(そうしん)を哀れみ、曹丕とともに起居させ我が子のように扱った。(『曹真伝』)

衛茲もこの時に戦死した。その後、曹操は郡を通過するたびに使者を送り、衛茲の霊を祀らせた。
子の衛臻(えいしん)が謀叛の嫌疑をかけられた時も曹操は「衛臻の父には助けられたから、そんな話は信じない」と謀叛を疑わなかった。(『衛臻伝』)

曹操の軍が県境に入って来ると、任峻(じんしゅん)は郡を挙げて迎えるとともに、一族と食客を数百人集めて合流した。曹操は大いに喜び、任峻を騎都尉に任じるよう上表し、さらに従妹をめとらせた。
その後は曹操が討伐に出ると、留守と兵站を任された。(『任峻伝』)

劉岱は険悪だった橋瑁を殺し、後任の東郡太守に王肱(おうこう)を任命した。
袁紹は韓馥とともに献帝の廃位を企んだが、曹操は協力を拒否した。袁紹は玉印を手に入れて喜び、曹操にたわむれて見せ、笑い返したが内心では憎悪した。

191年、袁紹は韓馥を脅し冀州牧の地位を奪った。
黒山賊が魏郡を襲い、王肱は防ぎ切れず曹操が救援し、袁紹は曹操を東郡太守に任じた。(『武帝紀』)

同191年、仕官した荀彧を「我が子房(張良)だ」と評し司馬に任命した。
董卓への対策を尋ねられた荀彧は「暴虐はあまりに酷すぎ、必ず災いを招いて命を落とし、何もできません」と答えた。(『荀彧伝』)

192年、かつて県令を務めた頓丘に布陣し、黒山賊の于毒(うどく)・眭固(すいこ)・白波黄巾賊に協力する於夫羅(おふら)を撃破した。
4月、董卓が呂布らに暗殺されたが、董卓残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが呂布を撃破して長安を奪い、実権を握った。
青州の黄巾賊100万が兗州へ侵攻し、兗州牧の劉岱を殺した。鮑信は曹操を後任の兗州牧に任命させた。
青州黄巾賊を降伏させ、兵30万と民100万を傘下にし青州兵と名付けた。戦死した鮑信の遺体を探したが見つからず、代わりに木像を造らせ弔った。
袁術・袁紹が敵対し、袁術は公孫瓚(こうそんさん)と同盟した。公孫瓚は劉備・陶謙(とうけん)らを進撃させたが、袁紹は曹操と同盟し全て撃退した。(『武帝紀』)

当時、董卓残党に長安の都を牛耳られ、関東とは隔絶されていた。曹操は兗州牧になると、初めて都へ使者を送った。李傕・郭汜は「関東では別に天子を立てようとしており、何か裏があるに違いない」と疑い、使者を受け入れなかったが、鍾繇(しょうよう)は「各地で群雄が勝手に詔勅を偽造しているのに、曹操はきちんと朝廷に心を寄せています」と取り成してやり、使者の往来を認めさせた。
曹操は荀彧がたびたび鍾繇を称えているのを聞いており、この件でますます気に入って後に抜擢した。(『鍾繇伝』)

曹操は長安の朝廷へ使者を送るため河内太守の張楊(ちょうよう)に通行許可を求めたが断られた。
だが董昭(とうしょう)が「袁紹・曹操はいずれ敵対します。曹操は今は弱いが天下の英雄であり、便宜を図ってやり手を握るべきです」と進言し許可させた。(『董昭伝』)

曹操は兗州牧になると程昱(ていいく)を召し寄せた。先に袁紹の誘いを断った程昱が応じたのを郷里の人々はいぶかったが笑って取り合わず、曹操は語り合うと気に入り寿張県令を代行させた。
強情で他人と衝突することが多く、謀叛を企んでいると讒言されても曹操は意に介さなかった。(『程昱伝』)

193年、荊州牧の劉表(りゅうひょう)に糧道を断たれた袁術は陳留郡へ侵攻し、黒山賊・於夫羅と連携した。曹操は袁術を何度も撃破し、九江郡へ逃亡させた。
徐州牧の陶謙が天子を自称した闕宣(けつせん)と結託し泰山郡・任城国へ侵攻したため、曹操は反撃し10余りの城を落とした。陶謙は防戦に徹し出撃しなかった。(『武帝紀』)

袁紹は朱霊(しゅれい)に3陣営の兵を指揮させ援軍として送った。そこで曹操に心酔し「多くの人物を観察してきたが曹操のような方はいなかった。これぞ真の明君である。こうして出会ったからにはもうどこにも行かない」と言い鞍替えした。士卒も朱霊を慕っていたため全員がそれに従った。(『朱霊伝』)

194年、徐州から撤退したが、父の曹嵩が陶謙に殺され、報復で再び侵攻した。陶謙の傘下にいた劉備を撃破し、通過した地域で大虐殺を働いた。
張邈が陳宮(ちんきゅう)と共謀して呂布を擁立し、兗州で反乱した。留守を任された荀彧・程昱は2県だけを固守し、曹操は引き返した。(『武帝紀』)

帰還した曹操は程昱の手を取り「君の力がなければ帰る場所がなかったところだ」と称え東平国相に昇進させた。(『程昱伝』)

袁紹・曹操・張邈は友人だったが、董卓討伐の際に盟主となり増長した袁紹は張邈に責められたのを怒り、曹操に命じて殺させようとしたが、「彼は私の親友です。正邪を見極めて許すべきです。天下は乱れ内輪揉めしている場合ではない」と非難されたことがあった。
曹操ははじめに陶謙の討伐に赴いた際には家族に「もし帰ってこなかったら張邈に身を寄せろ」と言い置き、帰還すると泣いて無事を喜び合うほど親密だった。
だが張邈は袁紹に恨まれた呂布を助ければ、曹操を怒らせるのではないかと疑心暗鬼を起こし、反乱を起こした。(『呂布伝』)

夏侯惇は曹操の家族を保護に向かって呂布軍に出くわし、撤退させたものの偽装投降に引っ掛かり捕縛されてしまった。
配下の韓浩が兵を率い、人質に取った兵を怒鳴りつけ、夏侯惇に「国法ですからどうしようもありません」と涙ながらに告げ、夏侯惇もろとも殺そうとした。金目当てだった兵は人質を解放したが、韓浩は許さず斬り捨て、夏侯惇は助かった。
報告を受けた曹操は「万世の法律とすべきだ」と韓浩の判断を称賛し、人質を取られても構わず皆殺しにするよう法に記させた。
これにより人質を取る者は絶えた。(※前漢から同じ法律があったが形骸化していた)(『夏侯惇伝』)

呂布が濮陽に駐屯すると、曹操は「呂布はわずかの間に一州を手に入れながら、要害を確保して迎撃せず、なんと濮陽に駐屯した。私には彼が無能だとわかる」と言ったが、呂布は青州兵を撃破し、曹操も落馬して手を火傷し、配下に救出された。諸将が曹操の顔が見えないと恐慌をきたしたため、負傷を押して督戦した。
100日余り対峙した後、蝗害によって飢饉が起こり、兵糧を失った両軍は引き上げた。
袁紹が和睦を持ち掛け、兗州と兵糧を失った曹操は応じようとしたが、程昱に反対され断った。
陶謙が病死し、徐州牧を劉備に譲った。(『武帝紀』)

曹操は袁紹と同盟しようとしたが、程昱は「あなたの才は袁紹に勝り、兗州には3つの城があり兵は1万を下らず、荀彧や私もいるのに何を気後れされるのか」と諌め翻意させた。(『程昱伝』)

195年、兗州に侵攻し呂布配下の薛蘭(せつらん)を討ち取った。何度も撃破し定陶を陥落させると、呂布は劉備のもとへ落ち延びた。
曹操は正式に兗州牧に任命され、張邈も逃亡中に殺され、兗州を奪回した。(『武帝紀』)

陶謙が没すると、曹操は徐州の制圧を考えたが、荀彧に「兗州の安定が先決です」と諌められて考え直し、呂布を撃破し兗州を平定した。(『荀彧伝』)

196年、陳国を攻略した。
長安から脱出した献帝を迎え入れようとすると群臣は反対したが、荀彧・程昱は賛成し、曹洪を迎えに行かせたが董承(とうしょう)に阻まれた。
汝南郡の黄巾賊を討伐し、劉辟(りゅうへき)を降伏させ(※討ち取ったと誤記される)、建徳将軍に任命された。
6月、鎮東将軍に上り、費亭侯に封じられた。
7月、献帝が楊奉(ようほう)らに守られ洛陽に帰り、曹操は進軍しそれを保護した。節鉞を与えられ録尚書事となった。洛陽は荒廃していたため、董昭(とうしょう)の勧めで許昌へ遷都した。大将軍となり武平侯に進んだ。長安への遷都以来、朝廷は機能していなかったが、ようやく整えられた。
楊奉は遷都を阻もうとして撃破され、袁術のもとへ逃げた。
袁紹は太尉に任じられたが、曹操の下位につくのを恥辱と思い、そこで曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空となり車騎将軍を兼務した。(『武帝紀』)

袁紹は献帝を迎える計画を却下したのを後悔し、兗州済陰郡鄄城県へ遷都するよう要求したが曹操は断った。(『袁紹伝』)

荀彧の説得により献帝の推戴を決めた。
常に厳正な態度を保ち、曹操は遠征に出ていても軍事・政治に関する全てのことを荀彧に相談した。
戯志才(ぎしさい)・郭嘉・荀攸(じゅんゆう)・鍾繇らを推挙し、みな適任だった。
曹操に「君に代わり策謀を立てられる人物は誰か」と尋ねられた荀彧は、荀攸・鍾繇を推薦した。(『荀彧伝』)

荀攸は戦乱を避け益州へ赴任しようとしていたが、曹操に「天下は大いに乱れ、智謀の士が心を働かせる時である。それなのに益州で様子見したまま随分長くなるではないか」と招かれ仕官した。
曹操はかねてから名声を聞いていたが、実際に話し合うと大満悦で「並々ならぬ人物だ。彼と事を計ることができれば、天下に何を憂えることがあろうか」と荀彧・鍾繇に語り、軍師に任命した。(『荀攸伝』)

参謀の戯志才を亡くした曹操は「計略を相談できる相手がいない。汝南・潁川郡は人材の宝庫だが、戯志才の後を継いでくれる者はいないか」とぼやき、荀彧は郭嘉を推薦した。引見すると「私に大事を完成させてくれるのはこの男だ」と惚れ込み、郭嘉も「まことに我が主君だ」と喜び、司空軍祭酒に任じられた。(『郭嘉伝』)

曹操が淮・汝南へ勢力を伸ばすと許楮は兵を引き連れ帰伏した。曹操はその勇壮さに感心し「私の樊噲だ」と言い、即座に都尉に任じて配下とともに自身の近衛兵に抜擢した。(『許楮伝』)

趙儼(ちょうげん)は曹操が献帝を迎え入れたと聞くと、曹操こそ中華を救う者だと確信し、197年に一族を率いて許都へ移住した。(『趙儼伝』)

韓浩(かんこう)らの進言により屯田制を実施した。
呂布に徐州を奪われた劉備が落ち延びてくると、程昱は「劉備はずば抜けた才を持つ上に人心をつかんでおり、いつまでも他人の下にいる人物ではありません。早く始末すべきです」と勧めたが、曹操は「今は英雄を集めるべき時機で、一人を殺して天下の人心を失ってはいかん」と却下した。(『武帝紀』)

献帝を擁立した曹操に善後策を尋ねられた董昭は「献帝の周囲の将はまだ服従せず洛陽に留まるのは危険です。落ち着いたばかりで遷都をするのは不満を招きますが、普通でないことを行って初めて普通でない功績があるのです」と進言した。
曹操がさらに楊奉(ようほう)の兵が手強く警戒していると話すと、「楊奉は味方が少なくあなたに屈服し思慮も足りないから、懐柔すれば簡単に騙せます」と言い、上手く孤立させた。(『董昭伝』)

建安初年(196年)、正室の丁夫人(ていふじん)を廃し、卞氏を正室とした。子の中で母のない者を全て卞氏に養育させた。(『武宣卞皇后伝』)

197年、張繡(ちょうしゅう)を降伏させたが、反逆されて矢傷を負い、庶長子の曹昂(そうこう)と甥の曹安民(そうあんみん)が戦死した。追撃を退けると張繡は劉表と同盟した。
曹操は「降伏させた張繡から人質を取るのをまずいと考えたが失敗だった。諸君、見ていてくれ。二度とこんな敗戦はしない」と言った。
袁術は帝位を僭称しようとし呂布に協力を持ち掛けたが断られ、報復の兵も撃破された。(『武帝紀』)

敗走のさなかに青州兵が略奪を働き、于禁(うきん)がそれを成敗すると青州兵は曹操に訴え出た。部下は于禁へすぐ釈明するよう勧めたが、「敵軍が背後に迫っているのだからまずそれに対処すべきだ。それに公(曹操)は聡明だからでたらめな訴えになど惑わされない」と意に介さず、塹壕を掘り陣営を固めた。それらを終えてから曹操に会うと、「この危急の事態に将軍(于禁)は混乱にありながら乱れず防備まで固めた。不動の節義を備え、古代の名将でもこれ以上ではないだろう」と絶賛され、益寿亭侯に封じられた。(『于禁伝』)

典韋は極めて忠義で慎み深く、昼は一日中、曹操のそばに立って護衛し、夜は天幕のそばに泊まり寝所に帰るのは稀だった。飲み食いの量は常人の2倍で、数人がかりで給仕してやっと間に合うほどで、曹操はそれを見事だと感心した。
張繡が降伏した時、曹操は喜んで宴会を開き、自ら酒を注いで回ったが、必ず後ろに典韋がつき威嚇したため、張繡らはうつむき目も上げられなかった。
張繡が反乱すると、典韋は門を守って曹操を逃がし戦死した。曹操は涙を流し、遺体を盗んでくる者を募った。葬儀でも泣いて哀悼し、子の典満(てんまん)を引き立てて身近に置き、典韋が戦死した地を通るたびに祭祀を行った。(『典韋伝』)

袁術は息子の嫁に呂布の娘を迎えようとしたが、陳珪(ちんけい)は袁術・呂布が連携すれば脅威になると考え、「曹公は天使を推戴し国政を支え、輝かしい威光は当代を風靡し四海を征伐されようとしています。あなたは計画をともにされ泰山のような安定を得るべきです。袁術と縁組すれば天下から不義の汚名を着せられ、まさに累卵の危うきを招きます」と説得すると呂布も先に袁術に拒絶された恨みを思い出し、使者を捕らえた。
陳珪は子の陳登(ちんとう)を送り曹操に「呂布は武勇はあるが無計画で、軽々しく人に付いたり離れたりするから早く滅ぼすべきです」と伝えた。
曹操は「呂布は野蛮な狼の子でいつまでも養えない。君しか内情を報告してくれる者はいない」と言い、陳珪・陳登を昇進させ、陳登の手を握り「東方(徐州)のことは任せたぞ」と命じた。

呂布は徐州牧の地位を要求したが退けられたのを激怒し「お前たち父子は昇進したのに私の望む物は手に入らない。私を曹操に売ったのか。何と伝えたのだ」と迫った。陳登は「将軍(呂布)を扱うのは虎を飼うのと同じで、満腹にしなければ人を喰らいます。たらふく肉(徐州牧)をお与えくださいと伝えました。しかし曹公は、虎ではなく鷹を飼うようにすべきだ。満腹になれば飛んでいってしまうと言い、断られました」と答え、呂布の気はほぐれた。(『呂布伝』)

袁紹は河北を制圧して強大な勢力を獲得し、一方で曹操は呂布・張繡に挟まれ、しかも宛城の戦いで張繡に大敗したばかりで、つけあがった袁紹は曹操へ非礼な手紙を送った。
曹操は激怒したが手紙を伏せたため、人々は曹操の態度が変わったのは宛城の敗戦を引きずっているのだろうと考えたが、荀彧は「公(曹操)は済んだことを後からくよくよしない。何か他に理由があるのだ」と言い、自ら尋ねると、曹操は手紙を見せ「しかし袁紹の勢力には敵わない。どうすればよいか」と方策を聞いた。
荀彧は袁紹と曹操の人物を比較し「4つの点で勝り、しかも天子を推戴し正義があるのだから、袁紹の強大さなど何の役にも立ちません」と答えた。
曹操がさらに「袁紹が関中へ勢力を伸ばし、益州も制圧したら、私は天下の5/6と戦うことになる」と問うと、それにも「関中の勢力は一つにまとまらず、韓遂・馬超は我々が戦っても様子見をします。彼らと同盟を結べば長期間の安定はできなくても、袁紹と戦っている間ぐらいは動かないでしょう。西方は鍾繇に任せれば心配ありません」と献策した。(『荀彧伝』)

曹洪の食客は主君が一族の重鎮として高位にあるのをいいことにたびたび法を犯した。満寵(まんちょう)が構わずそれを逮捕すると、曹洪は内々に許すよう相談したが聞き入れられなかった。曹洪が曹操に泣きつくと、満寵は赦免される前に食客を処刑した。曹操は「事の処理はこのようにすべきだ」と喜んだ。
後に楊彪(ようひょう)が謀叛を疑われた時も容赦なく拷問し「拷問しても弁明は変わりませんでした。名声高い人物なので罪が明確でないなら慎重になるべきです」と報告した。
曹操は即日釈放し、はじめ拷問に腹を立てた荀彧・孔融(こうゆう)も納得し感謝した。(『満寵伝』)

袁術は陳国に侵攻したが曹操が迎撃に出ると4将を残して逃走し、全員が戦死した。
南陽・章陵郡が張繡に寝返り、曹洪が攻めたが勝てず、張繡・劉表にたびたび侵攻された。曹操は自ら攻撃し、劉表配下の鄧済(とうせい)を捕らえ湖陽・舞陰を攻略した。(『武帝紀』)

袁術軍が混乱に陥っているという情報が届き、袁術の親族でかつて仕えていた何夔(かき)は意見を求められると「天が助ける者は順、人が助ける者は信です。袁術は順も信も無いのに天と人の助けを望んでいます。道義に背いた主君は親戚にも見捨てられます。ましてや臣下はなおさらです。混乱するのは必定です」と答えた。
曹操も「賢者を逃せば国は滅びる。袁術は君を用いられなかったのだから当然だ」と同意した。
司空掾は職務でミスを犯すと曹操に杖で殴られることがたびたびあった。何夔は恥辱を受けまいと、殴られたら服毒死しようと常に毒薬を携帯していたため殴られなかった。
当時、劉備に連動して東南の諸県が不穏な動きを見せたため、曹操は名家の出の何夔や陳羣(ちんぐん)を県令に任じて鎮撫した。
曹操は新たに条例を制定し州郡を取り締まろうとした。何夔は平定したばかりで飢饉もあったため、急に法で縛れば反乱されると考え、3年ほどの猶予を見るよう訴え、認められた。(『何夔伝』)

198年、初めて軍師祭酒を設置した。
張繡を攻めたが劉表に背後を断たれ、撤退した。張繡が追撃して包囲され、陣営を連ねて少しずつ進んだ。荀彧に手紙を送り「一日に数里しか進めないが、安衆に到着すれば間違いなく勝てる」と言い、到着すると夜中に地下道を掘って輜重車を逃がし、伏兵を置いた。張繡・劉表は曹操が逃げたと思い込んだところを伏兵に叩かれ大敗した。
荀彧が帰還した曹操に「なぜ必ず勝てると考えたのですか」と尋ねると「敵が我々を必死に戦わねばならない状況に追い込んだからだ」と答えた。(『武帝紀』)

荀攸は「張繡と劉表は互いに助け合っているから強力なのです。しかし張繡は兵站を劉表に頼っており、それが途絶えれば離反します。その機会を待ち、誘いを掛ければ寝返ります。攻撃すれば成り行きから助け合うに違いありません」と献策したが、曹操は却下して攻撃し、大敗した。
曹操は「君の意見を用いなかったからこんな羽目にあった」と言い、次は奇襲部隊を使って大勝した。(『荀攸伝』)

張繡軍との戦いのさなか、曹操軍が撤退を始めた。賈詡は追撃を止めたが、張繡は従わず大敗した。賈詡はすぐさま再び追撃すれば今度は勝てると言い、張繡は不思議がったがその通りにすると大勝した。
賈詡は「あなたは戦上手だが曹操ほどではない。撤退となれば必ず曹操が殿軍を務め、あなたでは敵わない。だが突然撤退したなら後方で異変があったに違いなく、追撃を退ければ全力で帰るために曹操は先頭に立つ。殿軍が曹操でなければあなたなら敗残兵でも勝てる」と解説し張繡を感服させた。(『賈詡伝』)

呂布は袁術と和睦し高順(こうじゅん)に劉備を攻めさせた。夏侯惇が救援に向かったが勝てず、劉備は撃破された。
曹操は彭城国を落とし、呂布の本拠地の下邳に迫った。呂布は恐れて降伏しようとしたが、陳宮らは抗戦を勧め袁術に援軍を求めた。(『武帝紀』)

曹操は自分と袁術のどちらに付くべきか利害を説き、呂布は降伏を考えたが、陳宮らは反乱した罪を問われるのを恐れ阻止した。(『呂布伝』)

曹操は城を落とせず、連戦で兵も疲弊していたため撤退を考えたが、荀攸(じゅんゆう)・郭嘉が水攻めを献策した。1月後、反乱によって陳宮が捕らえられて開城し、呂布・陳宮・高順を処刑した。(『武帝紀』)

捕らえられた呂布は縄がきつすぎるから緩めてくれと頼んだが、曹操は「虎を縛るのだからきつくしないわけにはいかない」と断った。呂布は「あなたが気に病んでいるのは私一人だけです。もう天下に心配することはありません。あなたが歩兵を、私が騎兵を率いれば天下を平定するのはわけのないことです」と言い、曹操も心を動かしかけたが、劉備が「彼が丁原(ていげん)・董卓に仕えながら何をしたかお忘れか」と指摘すると、曹操はうなずいた。
呂布は劉備を指差し「この男が一番信用できないのだぞ」と罵り、処刑された。

曹操は陳宮に「母と娘を助けたいか」と聞いた。陳宮は「孝なる者は他人の親を害さず、仁なる者は他家の祭祀を絶やさない(※後継ぎを殺さない)と聞きます。母らの命はあなたの手にあり、私の手にはない」と答えた。
陳宮は処刑されたが、曹操はその母を死ぬまで世話し、娘は嫁入り先を探してやった。(『呂布伝』)

太山の賊徒の臧覇(ぞうは)らは呂布に協力していたが、捕らえた彼らを曹操は厚遇し、青州・徐州の守りを任せた。
呂布・張邈の反乱の際に裏切って逃走した畢諶(ひつしん)も捕らえられたが、彼が老母のために逃げたことから「親孝行な人間は主君に忠義なものだ」と言って赦し、魯国相に抜擢した。(『武帝紀』)

曹操は臧覇に懸賞金を掛けたが捕らえて引見すると気に入り、一味に守りを任せた。
後に反乱した徐翕(じょきゅう)・毛暉(もうき)が臧覇のもとへ逃げ、曹操は首を送るよう命じたが、臧覇は劉備に仲介を頼んで助命させた。曹操は「私も実はそれを希望していた」と嘆息し、徐翕・毛暉を太守に任じた。(『臧覇伝』)

袁渙(えんかん)は「武力よりも徳をもって統治すべきです。あなたはそれを熟知しているから、民に教え諭すべきです」と言い、また当時、屯田を嫌がり逃亡する民が多かったため、無理強いをしないよう進言し、曹操はそれらを受け入れた。(『袁渙伝』)

陳羣は登用された王模(おうぼ)・周逵(しゅうき)を「道徳を汚す人物だから必ず最後は失敗する」と評価したが、曹操は聞き入れなかった。後に二人とも悪事を犯して処刑され、曹操は陳羣に謝った。(『陳羣伝』)

曹操が袁紹と戦い始めると、袁術は兵力差で負けると言ったが、張承(ちょうしょう)は「曹操は天子を擁しています。漢の徳は衰えたとはいえ天命は定まらず、百万の軍勢が相手でも勝つでしょう」と正論を言った。袁術は顔色を変え、張承は危険を悟り辞去した。
後に袁紹を破ると曹操は張承の兄の張範(ちょうはん)を招聘し、病のため代わりに張承が出仕した。(『張範伝』)

199年、袁紹の傘下に入った眭固を曹仁らに攻めさせ討ち取った。
魏种(ぎちゅう)は呂布・張邈の反乱の際に曹操が「彼だけは私を見捨てない」と言ったが逃亡し「南か北の果てまで逃げなければ諦めない」と恨まれた人物だったが、捕らえると才能に免じて許し登用した。
当時、袁紹は公孫瓚を破って河北4州を制圧し、十数万の兵を擁し曹操と戦おうとした。諸将は勝ち目がないと恐れたが、曹操は「私は袁紹の人柄を知っている。志は大きいが知恵は小さく、顔つきは厳しいが肝は細く、人を妬んで上に出ようとするから威厳がない。兵は多いがけじめが無く、将は威張りくさり、政治は一貫性がない。土地は広く糧食が豊かでも、私への捧げ物となるだけだ」と言った。
自ら黎陽へ進軍し、臧覇に青州を攻めさせ、于禁を黄河の岸に駐屯させた。
張繡が降伏し、列侯された。(『武帝紀』)

袁紹は張繡・賈詡にともに手紙を送り味方につくよう迫った。張繡は承諾しようとしたが賈詡は「袁紹は兄弟(袁術)さえ受け入れないのに天下を受け入れられはしない」と使者を追い返した。
驚きおののく張繡へ、賈詡は「曹操に従えば良い」と言った。張繡が「曹操は袁紹より弱く、しかも我々は仇敵である」といぶかると、賈詡は「それこそ曹操に従う3つの理由のうちの2つです。1つは曹操は献帝を推戴し義は彼にあります。2つは強大な袁紹は我々を侮るが、弱小の曹操は必ず厚遇します。3つは仇敵の我々を厚遇することで徳義を示そうとします」と答え、納得した張繡は曹操へ帰順した。
曹操は賈詡の手を握り「私に天下の人々の信頼と尊重を与えてくれるのは君だ」と言い、計略を任せた。(『賈詡伝』)

曹操は張繡の手を取って喜び、その娘を子の曹均(そうきん)の嫁に迎えた。(『張繡伝』)
後年、曹昂の後を曹均の子が継いだ。(『豊愍王昂伝』)
曹昂を殺した張繍の孫が曹昂の後を継いでいることになり、「集解」で「顛倒錯乱」と評されている。(『三国志集解』)

曹操は孫策を懐柔しようと図り、姪(弟の娘)を孫策の弟の孫匡(そんきょう)に嫁がせ、孫賁(そんふん)の娘を子の曹章(そうしょう)にめとらせ、孫権・孫翊(そんよく)に官位を与え、孫権を茂才に推挙させた。(『孫策伝』)

袁紹・劉表は汝南郡の都尉の李通(りつう)を味方につけようとしたが、どちらも断られた。
親族は早く袁紹に従うよう懇願したが、李通は「曹操は賢明で必ず天下を平定する。袁紹は強く威勢は良いが、(人材の)任命も使用もでたらめで最後は曹操に捕らえられる」と言い、袁紹の使者を殺し曹操に仕えた。(『李通伝』)

楊阜(ようふ)は「曹操は雄大な才能と遠大な知略を持ち、機を逃さず決断してためらわず、法令は一貫して軍兵は精鋭、考えも及ばない人物をよく起用するが十分に力を発揮する。必ずや大事を成し遂げる」と曹操の勝利を予見した。(『楊阜伝』)

曹操は袁紹との戦いに先立ち荊州の劉表を牽制するため、益州の劉璋(りゅうしょう)に兵を出させようと考え、衛覬(えいき)を使者に出した。
しかし長安まで進んだところで交通が遮断されているのを知り、関中に留まった。衛覬は戦乱を避けて荊州へ逃れていた流民たちが、関中へ戻っても生業が無く、馬超らに徴兵されている現状に気づき、塩の専売で利益を上げて民衆を助け、鍾繇に統治させるべきだと荀彧に進言した。曹操も同意してその通りにし、関中は安定した。(『衛覬伝』)

曹操・袁紹は官渡で対峙した。
袁術は行き詰まって袁紹のもとへ落ち延びようとしたが、曹操は劉備・朱霊(しゅれい)にそれを阻止させ、袁術は病没した。
程昱・郭嘉は劉備が派遣されたと聞くと反乱を危惧し、曹操も後悔して追わせたが間に合わず、劉備は徐州刺史の車冑(しゃちゅう)を殺して独立した。(『武帝紀』)

董昭は劉備を袁術討伐に出したと聞くと「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち、関羽・張飛は羽翼となってそれを助けています。劉備が何を企んでいるかわかりません」と危惧したが、曹操は「もう許可を出したのだ」と言った。(『董昭伝』)

揚州が乱れると劉馥(りゅうふく)なら東南のことを任せられると考え、揚州刺史に任命した。劉馥は期待に応え数年で平定し、空城だった合肥を後に孫権の侵攻を何度も跳ね返すほどの要害に仕立て上げた。(『劉馥伝』)

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