曹操 乱世の奸雄

曹操(そうそう)字は孟徳(もうとく)
豫州沛国譙県の人(155~220)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
~199年へ 200~208年へ
209年、水軍を訓練し直し、再び合肥に陣取ると、主の戦死した家を手厚くいたわるよう布告し、揚州の郡県に長史を置き、屯田も開始させて引き上げた。(『武帝紀』)
臧覇・張遼は孫権との戦いのさなかに大雨に襲われ孤立した。敵軍が迫り張遼は撤退しようとしたが、臧覇は「公(曹操)は事態への対処に賢明で我々を見捨てはしない(から命令を待つべきだ)」と止めた。はたして翌日に命令が下った。
張遼がこれを伝えると曹操は臧覇を称え、昇進の上に節を与えた。(『臧覇伝』)
陳登は孫権に包囲され、陳矯(ちんきょう)を曹操のもとへ送り救援要請した。曹操は陳矯を気に入りそのまま留め置こうとしたが陳矯は故事を引いて義心を忘れないと述べ辞退した。
(陳登の死後に)曹操に招聘された。(『陳矯伝』)
曹操は「官渡の戦いの際に、国境の住民を領内へ移住させたら、彼らは逃亡せず、袁紹も略奪しなかった。それにならい淮南でも同様のことをしたいがどう思う」と蔣済(しょうせい)に尋ねた。
蔣済は「官渡の戦いの際はあなたよりも袁紹が強大で、移住させなければ確実に奪われていました。しかし今やあなたの威勢は天下に轟き、住民は服従しています。民は郷里を懐かしむもので、それを無理に移住させたら落ち着かないのではと心配です」と反対した。
曹操は従わず、10万の民が孫権のもとへ逃げた。後に曹操は蔣済に会うと「そもそも孫権の手から避難させようとしたのに、かえって向こうへ駆り立ててしまった」と大笑いした。 温恢(おんかい)が揚州刺史になるとその別駕に任命され、曹操は「君がいれば心配ない」と辞令を下した。
後に蔣済が謀叛を企んでいると誣告されると、曹操はその辞令を于禁らに示し「謀叛が事実なら私は人を知らないことになる。これは愚民が騒乱を楽しんでいるだけだ」と言い、すぐに釈放させ、召し寄せて丞相主簿西曹属に取り立てた。(『蔣済伝』)
曹操は温恢を刺史に任命するにあたり「あなたをそばに置いておきたいが、揚州の政治の重大さには比べられない。蔣済を治中にしともに任務に当たってくれ」と命じ、丹陽太守の蔣済を呼び寄せた。そして合肥に駐屯する張遼・楽進(がくしん)らに「温恢は軍事に通達しているから、よく相談せよ」と命じた。(『温恢伝』)
蔣済が使者として曹操のもとを訪ねた際に、胡敏(こびん)に子はいるかと聞かれ「品行と智謀では及ばないが、父よりも精密忠実に事を処理できる息子がいます」と胡質(こしつ)を紹介し、即座に胡質は頓丘県令に命じられた。(『胡質伝』)
210年、兄嫁を寝取り賄賂を好む者でも才能あれば推挙せよと布告した。(※求賢令)
銅雀台を築いた。(『武帝紀』)
曹植(そうしょく)は10歳あまりで数十万字の書物を暗唱し巧みに文章を書いた。曹操はそれを読み「誰かに頼んで書いてもらったのか」と驚くほどだった。
銅雀台が完成すると全ての子を集め賦を作らせた。曹植は筆を執るやたちまち立派な作品を書き上げ、曹操はたいそう感心した。(『陳思王植伝』)
210年頃、王脩(おうしゅう)が御恩に報いられず恐縮だと上奏すると、曹操は「私の君への理解は目と耳だけではなく心底からの物だ。初めて司金中郎将を設置した時、適任者は他にないと考えた。私は何度も君をもっと高位に据えようとしたが、そのたびに袁渙らに反対された。君を優遇する気がないという誤解をしないでくれ」と言い、魏郡太守に昇進させた。(『王脩伝』)
廬江郡の山賊の陳策(ちんさく)を攻めあぐね、諸将は「険阻な土地で攻略は難しく、討伐しても利益も少ない」と撤退を進言したが、劉曄(りゅうよう)は「部隊長を差し向けたから抵抗し、後から降伏すれば処罰されると恐れているのです。勇将を差し向け降伏を呼びかければその日のうちに自壊します」と言い、曹操も「君の発言は適切だ」と同意し、はたしてその通りになった。(『劉曄伝』)
211年、曹丕を五官中郎将に任じ丞相補佐とした。
涼州太原郡で反乱した商曜(しょうよう)を夏侯淵・徐晃に、漢中を制圧した張魯(ちょうろ)を鍾繇に攻めさせ、両軍を合流させた。馬超・韓遂ら関中の諸将はこれを関中討伐への動きと疑い、自ら挙兵した。
曹操は曹仁を送り戦いを禁じると、自ら討伐に赴いた。徐晃・朱霊を密かに西へ送り、自らは北へ渡河しようとしたところを馬超に襲撃された。丁斐(ていひ)が牛馬を解き放ち、関中の将兵がそれを略奪しようと混乱したためなんとか渡河できた。(『武帝紀』)
曹操は黄河を渡ろうとし、兵を先行させ許褚ら近衛兵100人だけで岸に残った。そこを馬超が1万の兵で襲撃し矢の雨を降らせた。許褚は曹操を船に乗せたが敵が殺到し沈みそうになり、船頭も射殺された。許褚はよじ登る敵兵を斬り捨て、左手で馬の鞍を掲げて矢の雨から曹操を守りつつ、右手で櫂を漕いで無事に逃げ延びた。(『許褚伝』)
馬超らは渭水に陣営を築き、夜襲を掛けたが伏兵に撃破された。黄河以西の割譲を条件に講和を願い出たが、曹操は拒否した。馬超らが人質を出すと軟化すると、賈詡の策略によりこれを受け入れた。
曹操は旧知の韓遂と会見し、軍事のことは何も言わず昔話だけして大いに笑った。馬超に(軍事の)何を話したのか聞かれた韓遂は正直に「何も」と答えたが馬超は疑った。
さらに曹操はところどころ消したり書き改めた書簡を韓遂に送った。都合の悪いところを添削したといよいよ馬超は疑惑を募らせ、その動揺を突いた曹操は大勝した。これらは賈詡の計略である。
諸将が「なぜ潼関で対峙した時にすぐ北へ渡河せず、しばらく経ってから渡河したのか」と質問すると、曹操は「すぐ渡河し河東郡へ入れば、馬超らは必ず引き上げて黄河の渡しを占拠する。だから大軍で潼関を攻めた隙に徐晃・朱霊を西へ送った。北へ渡河する間に西を占拠されないためだ。他にもわざと弱みを見せて油断させ兵力を蓄えてから一気に撃破した。急な雷鳴は耳を覆う暇がないと言う通りだ」と答えた。
戦いの初めに敵軍が増えるたびに喜んだのはなぜかとも質問され「関中は遠く敵がちらばれば討伐に1~2年は費やすことになるが、こうして一ヶ所に集まってくれた。しかも兵は多いがまとめる大将がいないから一挙に討ち滅ぼせ、仕事がいささかやりやすくなるから喜んだのだ」と解説した。
残党の楊秋(ようしゅう)を降伏させ、夏侯淵を守りに残し帰還した。(『武帝紀』)
曹操と馬超・韓遂が兵を連れず会見することになり、許褚が同行した。馬超は曹操を殺すつもりだったが、これが許褚ではないかと思い「虎侯という者はどこにいる」と尋ねると、曹操に指さされた許褚は目を怒らせて馬超を睨んだ。警戒し手出ししなかった。
数日後に曹操は大勝し、許褚も自ら首級を上げ武衛中郎将に昇進した。「武衛」という称号はここから始まった。(『許褚伝』)
曹操は関中の討伐へ向かうにあたり国淵(こくえん)を居府長史とし留守を統括させた。
河間郡で田銀(でんぎん)・蘇伯(そはく)が反乱したが討伐され、法に照らせば残党はみな処刑されることになっていたが、国淵は首謀者だけを処刑するよう言い、曹操も同意した。千人以上が助かった。
当時は挙げた首級などの戦果を10倍で報告する慣習だったが、国淵は実数のまま記した。曹操に理由を聞かれ「戦果を実数より多くするのは民に誇示するためです。しかし田銀らは領内で反乱したのであり、手柄を立てたとしても私はそれを恥だと考えます」と答えた。曹操は上機嫌になり魏郡太守に昇進させた。
また当時、政治を非難する投書が出され、曹操は犯人を突き止めたいと考えた。国淵は一計を案じ犯人をあぶり出した。(『国淵伝』)
馬超の討伐に向かう曹操は弘農郡に差し掛かると「ここは西方への街道の要所だ」と言い、賈逵(かき)に弘農太守を代行させ、引見すると非常に気に入り「天下の二千石(※太守)が全て賈逵なら何も心配することはない」と語った。
後に越権行為で罷免されると丞相主簿に取り立てられた。(『賈逵伝』)
討伐後、楊阜は馬超は必ずやまた反逆すると進言し曹操ももっともだと思ったが、慌ただしく帰還したため充分な備えをできず、はたして馬超は反逆した。(『楊阜伝』)
河東郡は馬超・韓遂らと境を接していたが一人も寝返らなかった。遠征軍の兵糧を全てまかない、終戦時にもなお20万石以上が余った。曹操は太守の杜畿(とき)を「論語に言う「禹について私は非を打つ所がない」とはこのことだ」と称え、2千石に封禄を上げた。
後に尚書に取り立てたが「蕭何・寇恂に功績が並ぶ。尚書に任じたが河東郡は私の手足と呼ぶべき郡で、天下を制圧するために必要だ。あなたには面倒を掛けるが、寝そべりながらでいいから治めてくれ」と命じ、太守を続けさせた。(『杜畿伝』)
徐晃の故郷の河東郡を通過した際に、曹操は牛と酒を贈り徐晃の先祖を祀らせた。黄河を渡る手段を問われた徐晃は「我々が迫っているのに敵軍は兵を分けて蒲阪を守っており、思慮のなさがわかります。私が精鋭を率いて蒲阪を突破し、背後に回って陣営を築きます」と答えた。
これにより曹操の本隊は無事に黄河を渡り、勝利につながった。(『徐晃伝』)
曹操は「ここ寿春はまだ安定せず、頭痛の種になるだろう。清潔・公正で大きな徳を持った人物に任せたい」と言い、徐宣(じょせん)を左護軍に任じ、後を任せ馬超の討伐に向かった。(『徐宣伝』)
曹操は程昱の背中を叩き「兗州の敗北後に君の言葉を採り上げなかったら(※袁紹との同盟を翻意させたことか)私はどうしてここまで来られただろう」と称えた。大宴会を開かれ、そのさなかに程昱は「充足を知る者は恥辱を受けない(※老子)という。ここで引退すべきだ」と言い隠棲した。(『程昱伝』)
盧毓(ろいく)は逃亡兵の妻子も連座して処刑されることに異議を唱えた。多くの経書を用いた意見に曹操は「主張は正しく、そのうえ経典を引いて内容があり、私を感嘆させた」と言った。(『盧毓伝』)
212年、朝廷から様々な特権を与えられた。
魏郡を再編成(拡張)し、孫権の討伐に向かった。(『武帝紀』)
同212年、董昭らは曹操を魏公にしようと考え荀彧に相談したが、反対された。
それを聞いた曹操は内心穏やかではなくなった。
孫権の討伐に出た曹操は上表により荀彧を慰問に送らせ、そのまま軍中に留めさせた。
濡須へ兵を進めると、荀彧は病にかかって留守に残り、そのまま憂悶のうちに没した。享年50。(『荀彧伝』)
董昭は古代の五等級の爵位制度を復活させるべきだと提言した。
曹操は「聖人が定めたものであり人臣の定めるべきことではない」と渋ったが、滔々と説得され認めた。後に魏公・魏王となったが全て董昭が初めに建議したのである。(『董昭伝』)
213年、濡須で孫権を破り、都督の公孫陽(こうそんよう)を捕らえ帰還した。
魏公となり、魏を建国し3人の娘を献帝の貴人(側室)とした。
魏郡を分割し、魏国の官位を設けた。
再び反乱した馬超を夏侯淵に攻めさせた。(『武帝紀』)
孫権と対峙すること1ヶ月、軍勢に少しの乱れもないのに感嘆し、曹操は撤退した。(『呉主伝』)
後の郭皇后(かくこうごう)は30歳で曹操に見出され、曹丕の侍女となった。
聡明な彼女は曹丕の参謀として後継者争いに数々の献策をし、やがて側室・皇后となった。(『文徳郭皇后伝』)
袁渙は魏が建国されると郎中令となり御史大夫の事務を扱った。曹操に、より教化を進ませるよう進言し、喜ばれた。
在官から数年で没した。曹操は涙を流して悲しみ、遺族へ親愛の情として(法定の)倍の米を支給した。(『袁渙伝』)
杜襲(としゅう)・王粲(おうさん)・和洽は同時に侍中となった。王粲は記憶力に優れ見聞が広かったため、曹操はたびたび車に同乗させるほど厚遇したが、和洽・杜襲のほうが尊敬されていた。
ある時、杜襲だけが曹操に招かれ夜半まで語り合った。競争心の強い王粲が落ち着かず「いったい何を話しているのだ」と言うと、和洽はにやにやしながら「天下のことだから話せば切りがない。あなたは昼間に公(曹操)にお供すればいいのに、ここでいらいらしているのは、夜もお供したいからか?」と皮肉った。(『杜襲伝』)
曹操は逃亡兵が無くならないことを憂慮し、残された妻子への罪を重くしたが、高柔に説得されて廃止した。これにより多くの者が助かった。
当時、廬洪(ろこう)・趙達(ちょうたつ)が新設された校事(監察官)を務めていたが、高柔は「上司が部下を信頼せず、また廬洪・趙達は自身の愛憎で処置を決めています」と処分を求めた。
だが曹操は「私は君よりも趙達らを理解している。賢人君子には摘発はできないのだ」と却下したが、後に趙達らの汚職が発覚した。曹操は彼らを処刑し、高柔に謝った。(『高柔伝』)
214年、馬超・韓遂を撃破した。
毌丘興(かんきゅうこう)が安定太守に赴任する際、曹操は「羌族はよしみを通じたいと考えており、向こうから使者を送ってくる。こちらから使者を送れば、使者は立場に付け込み自身が利益を得ようとするだろう」と注意を与えた。
だが毌丘興は着任すると范陵(はんりょう)を使者として送ってしまい、范陵は羌族をそそのかし自分を都尉にするよう要求させた。
曹操は「そうなるに違いないと予知していた。私が聖人だからではない。経験豊富なだけだ」と言った。(『武帝紀』)
楊阜は馬超の討伐に貢献したとして列侯されたが辞退した。曹操は「立派に大功を立てあれ以上はできなかった」と称え受けさせた。(『楊阜伝』)
朝廷は魏公を諸王の上位に置いた。
孫権と合肥で戦い、年内に撤退した。
夏侯淵が宋建(そうけん)を討ち涼州を平定した。(『武帝紀』)
孫権の討伐に当たって曹植に鄴の守備を命じ、「私が初めて県令になったのは23歳だったが、その時を振り返っても後悔することのないほど尽力した。お前も23歳だ。頑張らないわけにはいかないぞ」と戒めた。(『陳思王植伝』)
曹操は「夏侯淵は30年割拠した宋建を一度の戦で滅ぼし、関右地域を闊歩し向かうところ敵なしだった。「論語」で孔子が弟子の顔回へ「私達は及ばない」と言ったのと同じである」と激賞した。
曹操は羌族と会見する時、いつも夏侯淵を脅しの材料に使った。(『夏侯淵伝』)
伏皇后(ふくこうごう)が200年の董承の処刑を献帝が恨んでいると記した手紙が露見し、廃后され兄弟ともども処刑された。
再び品行よりも才能を見るよう布告し、刑罰の担当官には法に詳しい者を選ぶよう命じた。(『武帝紀』)
同214年、荀攸が没した。曹操は彼の話をするたびに涙を流して悲しんだ。(『荀攸伝』)
曹操は張既(ちょうき)を雍州刺史に任じ、「君を故郷の州に刺史として帰すのは(項羽の故事と逆に)立派な服で真昼に行く、といったところだ」と称えた。
後に劉備への対処を聞かれると、氐族を移住させて対抗させる策を立て、許可された。(『張既伝』)
215年、娘の曹節(そうせつ)が献帝の皇后となった。
并州の4郡を廃止し新興郡を新設した。
漢中征伐に向かい、氐族に道を阻まれたが撃破した。韓遂が部下に裏切られ殺された。
漢中は険阻な山を横切り十数里に渡って城が築かれており、容易に落とせなかった。撤退するふりで守備を緩めさせると、密かに山を登らせて夜襲を掛けて大勝した。周辺の郡を再編した。
孫権が合肥を攻めたが張遼・李典(りてん)が撃破した。(『武帝紀』)
合肥の戦いの際に薛悌(せつてい)は護軍として張遼・李典・楽進を監督した。
曹操は孫権軍の襲来に備え、命令書を収めた箱を薛悌に預けていた。開くと「張遼・李典は出撃し、楽進は薛悌を守れ」とあった。籠城か出撃かで割れていた意見がまとまり、張遼・李典は奇襲を仕掛けあわや孫権を討ち取る大戦果を挙げた。(『張遼伝』)
巴郡の異民族の2王が帰順したため、郡を分割しそれぞれの太守に任命した。
朝廷から諸侯・太守・国相を独断で任命する権限を与えられた。
六等級の爵位を設け論功行賞した。(※領地の無い爵位の始まりである)
降伏した張魯を列侯した。劉備が益州を制圧したため、張郃に攻めさせ夏侯淵に漢中を守らせ帰還した。(『武帝紀』)
張魯が撤退する際に「これは天下の物である」と財宝を焼かなかったことに曹操は感心し、張魯の娘を子の嫁に迎えるなど厚遇した。(『張魯伝』)
曹操は漢中が険阻で兵糧も乏しくなり「ここは化け物の国だ。打つ手がない。兵糧も乏しく撤退したほうが良い」と言い、自らすぐさま撤退し、劉曄に後続の諸軍を任せた。だが劉曄は勝機があり、無事に撤退するのも困難だと考え、馬を飛ばして曹操に追いつき継戦を勧め、勝利に導いた。
その勢いで劉備と決戦するよう進言したがそれは退けられた。(『劉曄伝』)
曹操はかねてから朱霊を恨み、ついに兵を没収しようとし、威厳あり恐れられている于禁に命令書を届けさせた。朱霊や配下はおとなしく辞令を受け、于禁の指揮下に入った。(『于禁伝』)
216年、魏王に爵位が進んだ。娘を公主と呼び化粧料(領地)を与えるのを許可された。
烏丸・匈奴の諸王が続々と来朝した。
孫権の討伐に向かった。(『武帝紀』)
この頃、厳才(げんさい)が都で反乱を起こした。王脩は車馬を用意させたが、待ち切れず徒歩で宮門に駆けつけた。曹操は遠くからそれを見て「あれは王脩に違いない」と言った。
鍾繇は「しきたりでは宮城に変事があれば九卿は役所にいることになっている」と苦言を呈したが、王脩は「しきたりは危難に駆けつける道義に反します」と意に介さなかった。(『王脩伝』)
崔琰は以前、楊訓(ようくん)を「才器は不足するが清潔誠実で道義を守る」と推挙したが216年、曹操が魏王に即位した際に楊訓はおもねった上表をし、人々に嘲笑され、崔琰の推挙は誤りだったとささやかれた。
崔琰はその上表を読むと「内容が良いだけだ。時よ時よ。必ず時代は変化する」と返信した。あれこれ言う者は咎めだてしたいだけで、情理を考えていないと非難したつもりだったが、世間を恨み誹謗中傷する意味だと受け取る者がおり、曹操も不遜だと激怒した。
処罰し懲役刑を命じたが、崔琰の言動も態度も変わらず、曹操は「罪人でありながら家に賓客を招き、門前は商人のように賑わい、ミズチのような髭で客を威嚇している」といよいよ腹を立て、ついに死を命じた。(『崔琰伝』)
崔琰とともに人事を担当していた毛玠は、崔琰が自害させられたことを内心で不快に思った。告発により投獄され、曹操も「毛玠はただ誹謗するだけではなく崔琰の肩を持ち恨んでいる。友人の恨みのために君臣の恩義を損なうのは我慢がならない」と怒ったが、和洽(かこう)らの弁護により罷免に留められた。
毛玠が無官のまま没すると、曹操は葬儀の準備を整えてやった。(『毛玠伝』・『和洽伝』)
孫権の討伐にあたり徐奕(じょえき)を留府長史とし「君の忠誠は古人も及ばないが、いささか厳しすぎる。柔弱をもって剛強をおさめることを期待している。君に留守を任せれば後顧の憂いはない」と言った。(『毛玠伝』)
曹操が肉刑(※身体切断等の刑)の復活を議論させると、鍾繇・陳羣は賛成したが、王朗ら多くの者は反対した。曹操も深く賛同したが、今は軍事が第一であると結論は保留された。(『陳羣伝』)
劉放(りゅうほう)は文才に優れ、曹操~曹叡三代が詔勅で降伏を呼びかける時には文書を作成することが多かった。(『劉放伝』)
217年、濡須で孫権と戦い、夏侯惇・曹仁・張遼を守備に残し帰還した。(『武帝紀』)
帰還に際し夏侯惇を26軍の総司令官として居巣に駐屯させた。曹操は楽人と歌妓を賜与し「春秋時代の魏降は異民族と和睦を結んだだけで楽器を賜った。まして将軍の功績なら当然のことだ」と称えた。(『夏侯惇伝』)
朝廷からさらなる特権を付与された。曹丕を太子にした。(『武帝紀』)
曹操が内密に後継者について問うと、賈詡は黙ったまま答えず、やがて「袁紹と劉表のことを考えていました」と長子に後を継がせなかったため死後に家を滅ぼした二人の名を挙げた。曹操は大笑いし、曹丕を太子に立てた。(『賈詡伝』)
曹丕・曹植のどちらを太子にすべきか迷った曹操は封緘した文書で様々な人々へ内密に相談した。崔琰だけが封をせず返書をし「年長の曹丕を選ぶのが当然です。私は死をもって主張します」と言った。崔琰の姪(兄の子)は曹植に嫁いでいたが、公正な態度に曹操は感嘆し、中尉に昇進させた。(『崔琰伝』)
曹操に意見を求められた邢顒は、「庶子を嫡子と代えるのは前代からのタブーです」と暗に曹丕を勧めた。(『邢顒伝』)
桓階も「曹丕は徳に優れ年長であるから当然太子にすべきである」と主張し、公にも内密にも懇切をきわめて説得した。(『桓階伝』)
後継者争いに敗れた曹植はある時、天子専用の道路を使った。曹操は激怒して担当官を殺し、諸侯の禁令を重くし、曹植への寵愛も日に日に衰えた。
さらに曹植の側近の楊脩(ようしゅう)が才能ある上に袁術の甥だったため、後顧の憂いを断つため罪をかぶせて殺した。曹植は恐れてますます落ち着かなくなった。(『陳思王植伝』)
涼茂(りょうぼう)を太傅、何夔を少傅に任じ、太子に立てられた曹丕や諸侯の属官を選ばせた。涼茂が没すると何夔が後任となった。(『何夔伝』)
劉備が北進を開始し、張飛・馬超の侵攻を曹洪に防がせた。(『武帝紀』)
族子の曹休(そうきゅう)を「我が家の千里の駒だ」と評し、曹丕と起居をともにさせ我が子のように扱った。
曹洪の参軍に付け、「実際にはお前が司令官なのだぞ」と言い聞かせ、曹洪もそれを聞き指揮を任せた。曹休の献策により大勝した。(『曹休伝』)
曹操は(強欲な)曹洪の副将に辛毗と曹休をつけ「高祖は財貨と女色を好んだが、張良・陳平に正された。辛毗と曹休の心配は軽くないぞ」と訓戒した。(『辛毗伝』)
曹丕が太子になったのを祝い大盤振る舞いするよう勧められた卞氏は「年長だから後継者に選ばれただけです。教育がなっていないと責められなかったことを喜ぶだけで、大層な贈り物をする必要がありますか」と却下した。
曹操はそれを聞き「腹を立てた時も顔色を変えず、喜んだ時も節度を忘れない。これこそ最も難しいのだ」と喜んだ。(『武宣卞皇后伝』)
218年、吉本(きつほん)らが許昌で反乱し、鎮圧された。
曹洪と氐族が呉蘭(ごらん)を討ち取り、張飛・馬超らは漢中へ撤退した。
反乱した烏丸を子の曹彰(そうしょう)に討伐させた。
埋葬の制度を改め、自ら劉備の討伐に赴いた。
宛城で反乱した侯音(こうおん)を曹仁に討伐させた。(『武帝紀』)
劉廙(りゅうよく)は故事を引いて益州侵攻に反対したが、曹操は「主君が臣下を知るだけではなく、臣下も主君を知らねばならない。私にじっとしたまま周の文王のような徳を行わせたいようだが、おそらく私はそんな人間ではないぞ」と聞き入れなかった。(『劉廙伝』)
劉備が漢中を攻めたが、背後を絶とうとした陳式(ちんしき)を徐晃が撃破した。曹操は大いに喜び、徐晃に節を与え「漢中の喉にあたる要害を絶とうとする劉備の計画を、将軍は一度の行動で失敗させた。善のうちの善なるものである」と称えた。(『徐晃伝』)
代郡が三人の烏丸の単于(王)によりひどく荒らされていたため、曹操は裴潜を太守に任じ、精鋭を与え統治させようとした。だが裴潜は「もし大軍を引き連れていけば必ずや抵抗されるでしょう」と言い、一台の車だけで赴任した。単于らは感嘆し帰服した。
3年後、裴潜は都に召還されたが「私が烏丸に峻厳に対した分、後任者は寛大に接するでしょう。寛大にした後に締め付ければ必ず謀叛します」と後任の失敗を予測した。曹操は呼び戻すのが早すぎたと後悔したが、数十日もせずに三人の単于が反乱したという急報が届いた。(『裴潜伝』)
曹彰は武勇を好み激しい気性だった。曹操は「書物を読んで聖人を慕わず、馬や剣術を好むが、それは匹夫の勇に過ぎず尊重すべきではない」とたしなめ「詩経」と「尚書」を読むよう命じたが、曹彰は「男子たるもの10万の騎兵を率い蛮族を討って功績を立てるべきで、博士になんかなれない」とぼやいた。
幼い頃に抱負を聞かれた時も「将になり鎧を着て武器を手に、危険にひるまず士卒の先頭を切ります。信賞必罰をします」と答え曹操を大笑いさせた。
烏丸の討伐に当たり曹操は「家では父子だったが事に臨む今は君臣だ。常に王法に依ることを心せよ」と戒めた。曹彰は勇猛に戦い烏丸を平定した。
曹操に呼ばれると、兄の曹丕は「自慢せず控え目に受け答えしろ」と忠告してやり、曹彰がその通りに諸将の働きのおかげだと謙遜すると、曹操は曹彰の黄色い髭をつかみ「黄髭よ、まったく立派になりおったわい」と喜んだ。(『任城威王彰伝』)
219年、曹仁が侯音を討ち取った。
夏侯淵が劉備に敗れ戦死した。(※定軍山の戦い)(『武帝紀』)
曹操は戦勝を重ねる夏侯淵を「指揮官たる者は勇気だけを頼りにせず、臆病でもあらねばならない。勇気を基本としつつも行動に移す時には智略を用いる。勇気だけに任せていては一人の敵の相手しかできない」といつも戒めていたが、その危惧が当たったのである。(『夏侯淵伝』)
曹操は郭淮を夏侯淵の司馬に抜擢していた。夏侯淵の戦死後、諸将は劉備の勢いを恐れ河に沿って布陣するよう意見したが、郭淮は河から離れて布陣し、渡河するところを攻撃する策を立てた。劉備は警戒して渡河せず、曹操も判断を褒め、夏侯淵の後任となった張郃の司馬に郭淮を任じた。(『郭淮伝』)
曹操は法正(ほうせい)の献策により夏侯淵が討ち取られたと聞くと「劉備にはこんな策は考えつかないから、誰かの入れ知恵だと睨んでいた」と言った。
(※裴松之は「劉備には英智があり(曹操がそれを知らないはずもなく)本心ではなく悔しまぎれの発言だろう」と推測する)(『法正伝』)
雍州で反乱が相次ぎ、その一人の顔俊(がんしゅん)が魏へ人質を送り援助を求めた。対処を聞かれた張既は「今は劉備との戦いに掛かりきりで、反乱者達は争わせ共倒れにさせるべきです」と言い、曹操も同意した。
顔俊は和鸞(からん)に殺され、和鸞もまた顔俊の後釜に殺された。(『張既伝』)
偵察に出た賈逵は水衡都尉が数十人の囚人を護送しているのに出くわした。賈逵は戦時下であるとして重罪の者一人だけを処刑し他は釈放させた。曹操はその判断を褒め諫議大夫に任命し、夏侯尚(かこうしょう)とともに計略を司らせた。(『賈逵伝』)
曹操は劉備と対峙したが撤退し、漢中を奪われた。(『武帝紀』)
劉備は策略を立て「曹操が自ら来たとしても手も足も出ない。必ず漢中を守り通して見せる」と豪語した。要害に立て籠もって全く打って出ず、被害を増やした曹操は数ヶ月後に撤退した。
漢中王を名乗り「曹操はまっすぐを憎み正しきを嫌い、多くの仲間を集め隠していても帝位簒奪の意図は明らか」と非難した。(『先主伝』)
劉備は張飛が任命されるだろうという大方の予想に反し督漢中・鎮遠将軍・漢中太守に魏延を抜擢した。
方策を問われた魏延は「曹操が天下の兵を集めて攻め寄せればこれを防ぎ、配下に10万の兵を与えて攻めさせれば併呑してみせます」と答え人々を感嘆させた。(『魏延伝』)
和洽は漢中から住民を移住させて兵を引き上げ戦費を節約するよう進言していた。はじめ曹操は受け入れなかったが、結局は移住させ撤退することとなった。(『和洽伝』)
撤退にあたり留府長史を長安に置き守らせようとしたが、担当官が選んだ人物に曹操は不満で「駿馬を放置して乗らずにどうしてばたばた余所を探すのか」と言い杜襲を任命した。
当時、許攸(きょゆう ※官渡の戦いの許攸とは別人)が従わずに不遜な言葉を吐いていた。曹操は立腹し殺そうと考え、帰服させるべきだという意見に耳も貸さず、膝に刀を乗せて威嚇した。
杜襲が諫言しようとすると、曹操は先に「何も言うな」と言った。杜襲はひるまず「殿下(曹操)の計画が正しければお助けしますが、誤っていたら改めてもらわねばいけません。それなのに先手を打って発言を禁じられるとはなんと気の小さいことでしょう」と言い、曹操は激怒した。
しかし許攸が凡人だという言質を取ると「凡人には非凡を理解できません。(劉備や孫権より先に)許攸を殺せば凡人らは強者を避けて弱者を攻めたと非難するでしょう。鼠に強弩を撃たず、鐘を草の撞木で突かないように、取るに足らない許攸に武威を示す価値はありません」と説得し、曹操も納得して許攸を厚遇し、帰服させた。(『杜襲伝』)
卞氏を王后に立てた。
関羽が曹仁の守る樊城を包囲し、救援に向かった于禁は漢水の氾濫によって捕虜となった。(『武帝紀』)
一方で龐悳は降伏を拒んで戦死し、報告を受けた曹操は「于禁は私に仕えて30年になる。危機にあたってまさか(仕えて日の浅い)龐悳に及ばないとは思わなかった」と嘆息した。(『于禁伝』)
龐悳はかつて張魯のもとにいたが、降伏すると武勇を聞いていた曹操は将軍に任じ列侯した。戦死を聞くと泣いて悲しみ、2人の子を列侯した。(『龐悳伝』)
曹植を曹仁の援軍に送ろうとしたが、呼び出された曹植は泥酔し話にならず、曹操は後悔して取りやめた。(『陳思王植伝』)
曹操は関羽の快進撃に肝を冷やし、都が近いため遷都を考えた。
司馬懿と蔣済は「于禁は洪水に遭っただけで敗北したわけではありません。孫権に関羽の背後を襲わせましょう」と進言した。(『蔣済伝』)
魏諷(ぎふう)が都で反乱を企てたが未然に防がれた。
孫権が降伏を申し入れ、関羽を挟撃した。曹操も討伐に向かったが先に徐晃・孫権が撃破し、曹仁の包囲は解けた。(『武帝紀』)
劉廙の弟が魏諷の反乱に加担したが、曹操は故事を引き兄弟は連座されないと特赦を与えた。(『劉廙伝』)
陳羣が減刑を願い出て、曹操も「名臣だから許したいと思っていた」と同意し連座を免れたのである。(『陳羣伝』)
曹操は「魏諷の反乱を招いたのは、私の爪・牙となるべき臣に、悪事を留め企みを防ぐ者がいなかったからだ。諸葛豊(前漢の名臣)のような人材はいないだろうか」と後悔した。
桓階は「徐奕こそその人です」と推薦した。だが徐奕は数ヶ月で重病を患い、辞職して諫議大夫となり、病没した。(『徐奕伝』)
徐晃の軍は新兵ばかりで勝利するのは難しいと考え、決戦を挑まず前線に駐屯した。曹操は徐商(じょしょう)・呂建(りょけん)を援軍に送り、「兵馬が集まったら進行せよ」と命令した。
関羽軍は偃城に駐屯したが、徐晃は塹壕を掘って背後に回る構えだけを見せて撤退させた。陣営を築きながら徐々に関羽の包囲陣に近づき、殷署(いんしょ)・朱蓋(しゅがい)らの援軍が到着すると、陽動を仕掛けて関羽をおびき出し、退却するとそれを追撃した勢いで包囲陣に突入し打ち破った。(『徐晃伝』)
曹操は徐晃がなかなか包囲を突破できずにいると、自ら遠征しようと考え、群臣に意見を求めると桓階だけが反対した。桓階は「大王(曹操)は曹仁らが事態に対処し、実力を発揮できると思っているのになぜ自身で出向こうとするのか。彼らが包囲の中にありながら二心を抱かないのは、大王が遠方から威圧しているからです。決死の覚悟で戦っている彼らが敗れるとなぜ心配するのですか」と言い、納得した曹操は豫州潁川郡郟県の摩陂に進出するだけに留め、やがて関羽も撃退された。(『桓階伝』)
諸将は関羽を追撃するよう言ったが趙儼は「ここで関羽を追撃すれば、今度は孫権は我々の背後を襲う恐れがある。関羽は逃して孫権の目の上のたんこぶにするのがいいでしょう」と反対した。王(曹操)も同じことを考えるはずです」と反対した。
はたして曹操からも追撃をやめるよう命令が届いた。(『趙儼伝』)
曹操は出陣すると夏侯惇を同じ車に乗せ、特別な親愛と尊重を示し、寝室にも出入りさせた。配下に比肩する者はなかった。(『夏侯惇伝』)
曹操は「関羽の包囲陣は10重もあった。私が挙兵してから30年の経験でも、古代の用兵でも、長駆して包囲陣に突入した例はない。そのうえこの包囲は古代の燕が斉を包囲した時よりも厳しかった。徐晃の功績は孫武・司馬穰苴に勝る」と激賞した。
凱旋した徐晃を曹操は7里先まで出迎え、大宴会を催し「樊城・襄陽を保てたのは将軍の手柄だ」とねぎらった。この時、諸軍が集結しており、曹操が巡察すると士卒は全て陣営を離れて宴会を見物していたが、徐晃の軍営だけは整然とし誰一人動いていなかった。曹操は「徐晃には周亜夫の風格がある」と感嘆した。
徐晃は常々「古人は明君に出会えないことに苦しんだが、私は幸運にも(曹操に)出会えた。功績を上げて力を尽くさねばならない。名声など問題ではない」と嘆息し、交友を広げたり後ろ盾を作ろうとしなかった。(『徐晃伝』)
220年、孫権は関羽を討ち取った。
曹操は洛陽で病没した。享年66。
「天下は依然として安定せず、古式に従い服喪する余裕はない。埋葬が済んだら喪を解け。兵を統率し駐屯する者は持ち場を離れるな。官吏は職務を続けよ。遺体は平服で包み、墓に財宝を収めたりするな」と遺言した。
武王と諡された。(『武帝紀』)
曹丕が丞相・魏王を継いだ。
同年、献帝から帝位を禅譲され、曹操に武皇帝の称号を追贈した。(『文帝紀』)
許褚は慎み深い人柄で法を遵守し、質朴で重々しく無口だった。
曹仁が来朝した時、曹操がまだ来ていなかったため許褚と語り合いたいと招いたが「王(曹操)はもうお出ましになるでしょう」と言い引き返した。曹仁は恨み、許褚もある人に態度を咎められたが「あの方は王のご親族の重臣ですが、外地(魏)の大名です。私は朝廷(後漢)の臣下であり、大勢で話し合えば十分で、個人的な付き合いはしません(※他国の臣下同士であり親しく付き合う立場ではない)」と答えた。曹操はそれを聞くといよいよ寵愛し、中堅将軍に昇進させた。
曹操が没すると号泣し血を吐いたという。(『許褚伝』)
222年、夏侯尚が江陵を攻めると、董昭は「武帝(曹操)は智勇ともに人並み外れながら敵を侮りませんでした」とその危うさを指摘し的中させた。(『董昭伝』)
226年、曹丕が没すると孫権は「曹操の配下をまとめる手腕は古今にも稀なもので、曹丕はその万分の一にも及ばない。後を継いだ曹叡はなおさらだ。重臣の陳羣や曹真は曹操・曹丕に頭を押さえつけられていたが、曹叡は幼く抑えが効かない。彼らは派閥を作って争いを始め、混乱と滅亡へと至るだろう」と語ったが的中しなかった。(『諸葛瑾伝』)
227年、曹叡は曹操を天帝と、曹丕を上帝と合わせて祭った。
229年、曹騰・曹嵩・曹操・曹丕4代の位牌を鄴から洛陽の霊廟へ移葬した。(『明帝紀』)
同229年、孫権は帝位につき「董卓に始まり曹操に至るまで悪逆をほしいままにし、天下を覆して9つの州をずたずたにし宇宙から秩序は失われ、人も神も痛み怨み身の寄せどころも無くなった」と非難した。(『呉主伝』)
233年、夏侯惇・曹仁・程昱を曹操の霊廟の園庭に祭らせた。
237年、周にならい曹操・曹丕・曹叡の霊廟だけ残し他は取り壊すよう上奏された。(『明帝紀』)
243年、曹洪・夏侯淵ら多くの建国の功臣を曹操の霊廟の園庭に祭らせた。
244年、荀攸も同様に祭らせた。(『斉王紀』)
254年、曹髦は帝位につくと曹操・曹丕・曹叡を三祖と並び称した。(『高貴郷公紀』)
258年、諸葛誕の反乱を鎮圧した司馬昭は勢いに乗って呉を攻めようと考えた。だが王基(おうき)が「太祖(曹操)は官渡の戦いに勝利した時、得た物が多いと判断し追撃しませんでした。(せっかく大勝したのにもし追撃に失敗すれば)武威を損なうと懸念したからです」と諌め、取りやめさせた。(『王基伝』)
262年、郭嘉も同様に祭らせた。(『陳留王紀』)
子の曹茂(そうぼう)は傲慢で強情な性格だったため曹操には愛されず、曹丕の代になってもただひとり王になれなかった。曹叡の代に卞太后に免じてようやく王位につけられたが、曹芳の代に兄弟に非礼を働き改易されかけた。(『楽陵王茂伝』)
陳寿は「群雄割拠した中で袁紹は4州を治め無敵を誇った。対する曹操は策略をめぐらせ計画を立て、申不害・商鞅の法術(思想)を我が物とし、韓信・白起の(如き)奇策を持ち、才能ある者に官職を与え、各人の能力を発揮させ、感情を抑えて冷静に計算し、過去の悪行を問題にしなかった。天子に成り代わり大事業を成し遂げたのは、明晰な機略が(人々の中で)最も優れていたからである。並外れた、時代を超えた英傑というべきだろう」と評した。(『武帝紀』)
陳寿はまた「呂布伝」で「光武帝は龐萌の、曹操は張邈の本質(反乱)を見抜けなかった。尚書に「人の真価を正しく判断できるのが真の知恵だが、皇帝とて困難である」というのは真理である」と評しており、曹操を光武帝と同等に評価しているのがわかる。(『呂布伝』)
陳寿は劉備を「権謀と才能では曹操に及ばず、そのため国土も狭かった。敗れても屈服せず臣下とならなかったのは、曹操が絶対に自分を受け入れないと考えたからで、利益を求めたのではなく、害悪を避けたためである」と評した。(『先主伝』)
|