曹操 乱世の奸雄

曹操(そうそう)字は孟徳(もうとく)
豫州沛国譙県の人(155~220)
※事績が膨大なため試みに陳寿の本文にある記述のみ記す
~199年へ
200年、劉備らとともに反乱を計画した董承を処刑した。
曹操が自ら劉備の討伐に向かおうとすると諸将は袁紹に背後を襲われることを危惧したが、「劉備は傑物で今討伐しなければ後の災いとなる。袁紹は大きな志を持っているが機を見るに敏ではない。きっと動かないだろう」と言い、郭嘉も同意した。
読み通りに袁紹は動かず、敗れた劉備は袁紹のもとへ逃げ、妻子と関羽は曹操の手に落ちた。(『武帝紀』)
曹仁は「劉備は袁紹の兵を率いて日が浅く、思いのままに動かせません。今なら撃破できます」と進言し、曹操も同意して騎兵を任せた。(『曹仁伝』)
曹操は劉備を上表して左将軍に任じ、外出する時には同じ輿に乗り、座る時も席を同列にし丁重に扱った。
一方で劉備は董承から曹操誅殺の勅命を受けていた。ある時、食事中に曹操が「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹など物の数にも入らない」と言うと、劉備は思わず箸を取り落とした。
袁術討伐を命じられ、出陣中に計画が発覚し、董承らは処刑された。(『先主伝』)
劉表は曹操・袁紹のどちらにも与せず中立を決め込んだ。韓嵩(かんすう)は劉先(りゅうせん)とともに「両雄が対峙していますが、趨勢を決するのはあなたです。決起して双方を攻めるか、どちらに与するか態度をはっきりしてください。中立のままでは、勝者に恨まれます。曹操は英知を持ち天下の優れた人物を全て帰順させており必ず勝ちます。そして荊州に攻め寄せてきたら防げません。急ぎよしみを通じるべきです」と進言し、劉表も重い腰を上げた。(『劉表伝』)
桓階(かんかい)は長沙太守の張羨(ちょうせん)に「袁紹に道義は無く、対する曹操には道義があります」と進言し劉表の傘下から離脱させ、曹操によしみを通じた。
しかし官渡の戦いから続く袁紹勢力との戦いは長引き、劉表は長沙を攻め、抗戦中に張羨は病没し、城は陥落した。
桓階は劉表に召し出されたが病を理由に断り、曹操が荊州を制圧すると張羨を離反させたことを評価され招聘された。(『桓階伝』)
袁紹軍10万が進軍し、程昱は700の兵で籠城していた。曹操が2千の援軍を送ろうとすると「袁紹は向かうところ敵なしと考えており、小勢には見向きもしないでしょう。しかし援軍が加われば攻撃してきますし、勝ち目はなく無駄に兵を失うだけです」と断った。
はたして袁紹軍は程昱を無視して通過した。曹操は賈詡に「程昱の肝は前漢の孟賁・夏育以上だ」と語った。(『程昱伝』)
官渡の戦いが始まり、白馬城が顔良(がんりょう)に包囲され、袁紹本隊は黄河を渡ろうとした。
荀攸は「兵力差がありますが、敵を分散させれば対抗できます。公(曹操)は渡河して敵の背後に回る動きを見せてください。袁紹はそれを見て必ず西へ動くので、その隙に顔良を不意打ちすれば生け捕りにできます」と献策した。
全て荀攸の読み通りに進み、顔良を討ち取った。(『武帝紀』)
捕虜となった関羽を曹操は偏将軍に任じ手厚く礼遇した。
しかし心服はさせられないと感じ、張遼に確かめさせると関羽は「曹公の厚遇はありがたいが、私は劉備に厚い恩誼を受け、ともに死のうと誓った仲で絶対に裏切りません。しかし手柄を立て曹公に恩返ししてから去ります」と答えた。
関羽が顔良を討ち取ると必ず去ってしまうと考え、漢寿亭侯に封じ、重い恩賞を与え引き止めた。しかし関羽は恩賞に封をして手紙を残し、劉備のもとへ帰った。追撃しようとした側近を曹操は「彼なりに主君のためにしているのだ」と止めた。
裴松之は「関羽が留まらないことを知り、内心ではその志を称え、追撃もさせず道義を成就させた。王者・覇者の度量であり曹操の偉大さである」と評した。(『関羽伝』)
曹操が輜重隊とともに西進すると袁紹軍に追撃された。諸将は泡を食って撤退を進言したが、荀攸は(曹操の意図を察し)「これは敵を捕らえる餌です。どうして引き上げられましょう」と言った。曹操は荀攸に目配せして笑った。
おとりにした輜重隊に袁紹軍は殺到して陣形を乱し、そこを攻撃して文醜(ぶんしゅう)を討ち取った。(『荀攸伝』)
名将だった顔良・文醜を2度の戦で殺された袁紹軍は恐れおののいた。手柄を立て義理を果たした関羽は劉備のもとへ帰った。
袁紹は東西数十里に渡る陣を敷いて少しずつ前進し、兵力で劣る曹操軍は敗れ2~3割が負傷した。土山を築いて矢の雨を注がれ、曹操軍は盾をかぶらなければ外を歩けず動揺した。(『武帝紀』)
曹操は投石車を造って反撃し、袁紹軍はこれを霹靂車と呼んだ。(『袁紹伝』)
官渡の戦いの際に兵士の徐他(じょた)らは反乱を企んだが、曹操の側に常に許褚がいたため決行できなかった。
許褚が休暇を取ったためついに決起したが、宿舎の前まで来ると許褚は胸騒ぎを覚えて引き返し護衛を務めた。徐他らは曹操の帷幕に入ると、いないはずの許褚の姿に愕然とし、その顔色を見て謀叛を察知した許褚はすかさず打ち殺した。
曹操はいよいよ許褚を寵愛し、常に同行させ離さなくなった。(『許楮伝』)
兵糧は尽きかけ、荀彧に撤退を相談すると「至弱をもって至強にぶつかるこれこそ天下分け目の時です。それに袁紹はただの豪傑で人を集められても用いられません。公(曹操)は神の如き勇武と英智があるうえに天子を擁する正義があり、成功しないわけがありません」と励まされた。(『武帝紀』)
荀彧に「許昌まで前線を下げたい」と相談すると、荀彧は「兵糧が少ないと言っても項羽と劉邦の戦いの時ほどではありません。戦線が膠着して半年にもなり、必ず変事が起こります。それを逃がしてはなりません」と励まし思いとどまらせた。(『荀彧伝』)
兵糧が尽き包囲された時、曹操に方策を相談された賈詡は「公(曹操)は袁紹に聡明さ、勇敢さ、人の使い方、決断力で勝ります。それなのに半年掛かって勝利を得られないのは、万全を期しているからです。機を逃さず決断すればたちどころに片付くでしょう」と答えた。(『賈詡伝』)
孫策は曹操が留守の間に許都を攻めようとしたが、刺客に殺された。(『武帝紀』)
曹操は孫策の死に乗じて孫権を討とうと考えたが、張紘(ちょうこう)に「他人の死に乗じるのは古の掟に背き、もし失敗すれば恨みを買いよしみを捨てることになります。逆に恩義を施すべきです」と諌められ、孫権に官位を与えた。そして張紘を補佐に任じ孫権を帰順させようとしたが、張紘はそのまま孫権のもとへ帰った。(『張紘伝』)
降伏していた劉辟が汝南郡で蜂起し、劉備が助勢したが、曹仁に撃破させた。
荀攸の計略で袁紹の輸送隊を襲い数千台を焼き払ったが、兵糧は尽きかけ兵も疲弊した。曹操は配下の輜重隊を「あと15日で袁紹を打ち破り、これ以上の苦労は掛けない」と励ました。
許攸が曹操に寝返り、淳于瓊(じゅんうけい)が護送する輜重隊の居場所を知らせた。諸将は罠を疑ったが、荀攸・賈詡は真実と読み、曹操は自ら5千の兵を率い襲撃に打って出た。
淳于瓊は小勢と侮り迎撃に出たが敗れた。援軍が現れそれに備えるよう側近が言うと、曹操は「背後まで来てから言え」と怒鳴って攻め続けさんざんに打ち破った。
袁紹は襲撃を知ってもなお「今のうちに曹操の本営を落とせば帰る場所が無くなる」と侮り張郃・高覧(こうらん)に本営を攻めさせたが、二人は淳于瓊の敗北を聞くとそのまま降伏した。
袁紹軍は総崩れとなり、袁紹は辛くも逃げ切ったが無数の輜重と財宝を残していった。その中に内通者の書簡があったが、曹操は全て焼き捨て罪に問わなかった。
当地には昔、「50年後に真人(天子となるべき人物)が現れ、その鋭鋒には敵対できぬ」という予言があり、まさに50年後に曹操が現れたのである。(『武帝紀』)
曹操は張郃の降伏を喜び「伍子胥は自ら危険を招いた(があなたは賢明な判断をした)。微子や韓信のようなものだ」と称えた。(『張郃伝』)
沮授(そじゅ)は顔良の敗北、短期決戦の不利さ、淳于瓊の援護を訴えたが全て却下された。曹操の捕虜となり、厚遇されたが逃亡を図って殺された。
田豊(でんほう)も「曹操は軍隊を巧みに操り千変万化の術を弄し小勢でも侮れず、持久戦に持ち込むべき」と訴えていた。敗走した袁紹は「意見を聞かなかったから敗北したと嘲笑される羽目になった」と田豊を殺した。(『袁紹伝』)
鍾繇は関中から馬2千頭を送った。曹操は「馬が大変役立った。西方を警戒する必要が無くなったのはあなたの勲功で、蕭何(劉邦の名臣)が関中を平定したのに匹敵する」と称えた。(『鍾繇伝』)
曹操が河北へ進出すると、劉放(りゅうほう)は帰順するよう王松(おうしょう)に勧めた。後に曹操からも帰順の誘いが届き、劉放が書状を記し降伏した。
曹操は誘う前から説得していたと聞いて興味を抱き、劉放を登用した。(『劉放伝』)
反乱した昌豨(しょうき)を攻めあぐねた張遼は単身で説得し降伏させた。曹操は「これは大将のやり方ではないぞ」と危険を顧みない張遼をたしなめ、張遼は謝罪し「昌豨に(これ以上の)災いをなす勇気はないと判断しました」と言った。(『張遼伝』)
後にまた反乱した昌豨は旧知の于禁を頼り降伏したが、「包囲された後に降伏した者は許さない軍法がある。旧友だからと見逃したら節義を失ってしまう」と于禁は泣きながら処刑した。曹操は「昌豨が私ではなく于禁を頼ったのは運命だろう」と感嘆し、いよいよ于禁を重んじた。(『于禁伝』)
泰山太守の呂虔(りょけん)は反乱征伐で活躍し、曹操に「己の意志を貫き目的を成し遂げることが烈士の求めるものだろう。呂虔は悪人を捕らえ暴虐を討ち民を安んじた。自ら矢石をくぐり必ず勝利した。豫・青・徐州で立てた功績は寇恂・耿弇と同じである」と称えられた。(『文聘伝』)
陳琳(ちんりん)は袁紹に命じられて曹操を罵倒する檄文をものした。捕虜となった陳琳に曹操は「私の罪状だけならともかく、なぜ父や祖父のことまで引き合いに出したのだ」と苦言を呈しただけで許し、その文才を愛し阮瑀(げんう)とともに多くの文書を作らせた。(『王粲伝』)
201年、黄河を渡り袁紹軍を追撃した。
袁紹は兵をまとめ、背いた郡県を平定し、曹操も許都へ引き上げた。
汝南郡で反抗を続けていた劉備を攻め、劉備は曹操が自ら来たと聞くや劉表のもとへ逃げた。(『武帝紀』)
いまだ兵糧は足りず、曹操は袁紹よりも先に荊州の劉表を討伐しようと考えたが、荀彧は「袁紹は敗れ兵の心は離れており、これにつけこみ平定してしまうべきです。はるばる荊州まで遠征し、態勢を立て直した袁紹に背後を襲われたら好機が失われます」と反対した。(『荀彧伝』)
202年、故郷の譙県に駐留し「故郷の人々はほとんど死滅し、街を一日中歩き回っても顔見知りに出会わず、胸が痛む。挙兵以来、死んで後継ぎのいない将兵は親族を探し、後を継がせて手厚く待遇せよ。霊廟を建て祭祀をすれば私は死んでも思い残すことはない」と布告した。
かつて評価してくれた橋玄を祀り、再び官渡へ進軍した。
袁紹が病没し、末子の袁尚(えんしょう)が後を継いだが、長子の袁譚(えんたん)ともども連敗を重ねた。(『武帝紀』)
韓範(かんはん)は降伏すると偽って、隙をつき籠城を続けた。
攻撃を命じられた徐晃は矢文を撃って説得し、降伏させた。このままでは韓範が処刑されると思い、曹操へ「袁譚・袁尚は健在で、まだ抵抗する諸城は韓範がどうなるか耳を傾けています。今日彼を殺せば、明日は諸城は必死に抵抗し、河北の安定は遠のきます。どうか降伏を受け入れてください」と進言し、同意させた。(『徐晃伝』)
曹操は李典・程昱に水路で兵糧を輸送させた。高蕃(こうばん)に水路を塞がれると曹操は「船が通れなければ陸路で渡れ」と命じたが、李典は「高蕃の兵は軽装でしかも水を盾にし油断している。必ず勝てるし利益があるなら独断も認められる」と命令を無視して攻撃し、輸送路を確保した。(『李典伝』)
203年、袁尚・袁譚を連破した。
賞罰の徹底や学問を奨励する布告を出した。
荊州の劉表を攻めるため兵を返すと、袁譚・袁尚は冀州を争い仲間割れをした。敗れた袁譚は辛毗(しんぴ)を使者に曹操へ降伏を申し出、諸将はためらったが荀攸は賛成し、曹操は受け入れて袁譚の娘を子の曹整(そうせい)の嫁に迎えた。
曹操は北へ引き返し、袁尚は撤退し、配下の呂曠(りょこう)・呂翔(りょしょう)が寝返った。(『武帝紀』)
袁譚が降伏を申し出て援軍を要請すると、諸将は「先に強力な劉表を討伐すべきで、袁譚・袁尚など気に掛けるまでもない」と反対したが、荀攸は「天下に騒動が起こっているのに劉表は動こうとせず、野心がありません。袁氏はいまだ大きな勢力を持ち、袁譚・袁尚が和睦すれば脅威となります。また争いを続けさせ、どちらかが相手を併呑すれば、それも脅威となり兵難はまだまだ続きます。この混乱に乗じて一気に平定すべきです」と進言した。
曹操は「もっともだ」と同意し、袁譚の降伏を受け入れて袁尚を撃破した。(『荀攸伝』)
袁譚は辛毗を使者とし曹操に講和(※降伏)を求めた。
曹操は同意したが、数日経つと気が変わり、荊州征伐に向かい袁譚・袁尚は共倒れさせようと考えた。辛毗は曹操の様子からそれに気づき、郭嘉を通じて抗議し講和を結んだ。袁譚が滅びると辛毗は登用された。(『辛毗伝』)
204年、袁尚が袁譚を攻めた隙に、本拠地の鄴を包囲した。袁尚が救援に戻ると諸将は「本拠地を守るため必死に戦うから避けるべきです」と進言したが、曹操は「大道から来れば避けるべきだが、西山から来れば負けに来るのと同じだ」と言った。はたして袁尚は西山から現れ、夜中に奇襲を掛けたが返り討ちにされた。
包囲された袁尚は降伏を申し出たが許されず、大敗して逃走した。降伏した兵を見せられた鄴の城兵は戦意喪失した。鄴を陥落させ、守将の審配(しんぱい)を処刑した。(『武帝紀』)
曹操はわざと浅い堀を造り、審配を油断させた。夜間に一気に掘り進めて河を決壊させて流し込み、水で鄴城を包囲した。(『袁紹伝』)
曹操は袁紹の墓に詣でて祀り、涙を流した。袁紹の妻をいたわり、下僕と宝物を返還し、衣服や米を与えた。
かつて袁紹と曹操は展望を語り合った。袁紹は「南は黄河を盾にし、北は異民族の力を得て、南進して天下の覇権を争えばだいたい成功できるだろう」と言い、曹操は「天下の智者と勇者を集め、道義をもって制御して彼らに任せれば、上手く行くだろう」と言った。
河北の租税を免除し、土地の略奪を厳禁したため民は大喜びした。
曹操は冀州牧となり、兗州牧を返上した。(『武帝紀』)
李典は進んで河北へ一族を移住させようとし、曹操が「後漢の耿純(※一族を率い光武帝に従った)を手本とするのか」と笑うと「私はのろまで意気地がなく功績も少ないから、一族を挙げて力を尽くすのは当然です。それにいまだ周辺は平定できず、制圧が急がれますから、耿純を手本にしたわけではありません」と言った。
一族1万3千人を鄴へ移住させ、曹操はそれを称え昇進させた。(『李典伝』)
臧覇も一族や配下の移住を願い出た。曹操は「蕭何・耿純と同じだ。私はそれを軽んじない」と認めた。(『臧覇伝』)
袁譚は鄴を包囲している間に勢力拡大し、敗れた袁尚の軍勢を奪っており、曹操はこれを約定違反と責めて訣別し、(曹整の妻に迎えた?)娘を返し攻撃した。(『武帝紀』)
袁譚に苦戦した曹操が撤退を考えると、曹純(そうじゅん)は「千里の彼方から遠征し、勝てずに撤退すれば必ず威光を失います。それに敵地深くまで侵入し長期戦は困難です。しかし敵は勝利してつけ上がり、我々は敗北して慎重になっています。慎重さをもってつけ上がった敵と戦うのだから必ず勝てます」と励まし、曹操はもっともだと同意し、激しく反撃し勝利を得た。(『曹仁伝』)
同204年に任峻は没し、曹操を大いに嘆かせた。(『任峻伝』)
205年、袁譚を討ち取った。
袁煕(えんき)の配下も次々と寝返り、袁煕・袁尚は三郡烏丸のもとへ逃げた。
かつて氷割りの仕事をさせようとしたが逃亡した民がおり、法によって降伏も許されなかったが、自首して来た。曹操は「お前を許せば法に違反し、殺せば自首した者を殺すことになる。捕まらないよう隠れていろ」と釈放した。民は涙を流し感謝したが、結局捕まってしまった。
黒山賊の張燕(ちょうえん)が十数万の兵を率いて降伏し、列侯された。
幽州刺史を殺し反乱した趙犢(ちょうとく)を討伐し、侵攻した三郡烏丸を撃退した。
袁紹の甥で降伏し并州刺史を務めていた高幹(こうかん)が反乱した。(『武帝紀』)
韓珩(かんこう)は曹操への寝返りを誓う席上で「私は袁氏に大恩を受けた。しかし主君が滅亡したのに救う知力も、討ち死にする勇気も無く、信義に欠けている。それなのに曹操に仕えることはできない」と断った。
曹操は韓珩の節操を高く評価し何度も招聘したが、韓珩は固辞し無官のまま家で没した。(『袁紹伝』)
王脩(おうしゅう)は曹操に遺体を引き取りたいと願い出たが、彼を試そうと曹操は黙って返事をしなかった。王脩は死刑に処されても構わないと覚悟を示し、曹操は願いを聞き入れた。
管統(かんとう)の首を持ってくるよう命じたが、王脩は彼は亡国の忠臣であると応じず、説得して出頭させた。曹操は上機嫌で赦免した。
袁氏の政治は大雑把で、調べさせると審配ら諸臣は私腹を肥やしていたが、王脩の財産はほとんど無く、代わりに書物が数百巻あった。
曹操は「みだりに名声があるわけではない」と嘆息し、司空掾に招き司金中郎将を代行させた。(『王脩伝』)
曹操は都に上った劉放を「班彪が竇融を漢王朝へ帰伏させたことになんと似ていることか」と王松を降伏させた功績を称え抜擢した。(『劉放伝』)
206年、高幹の籠もる壺関を3ヶ月の包囲の末に陥落させ、高幹も逃亡中に討たれた。
海賊の管承(かんしょう)を討伐し、徐州の郡を再編成した。
袁尚兄弟の頼った烏丸の蹋頓(とうとん)の討伐を決め、運河を掘り海まで通じさせた。(『武帝紀』)
はじめ曹操は壺関を陥落させたら敵兵を全て生き埋めにしろと命じていた。数ヶ月経っても落とせず、曹仁が「城を包囲したら生きる道を示してやらなければ、城兵は必死に抵抗します。そのうえ城は堅固で兵糧も豊富だから、被害が増え包囲の日数も増えるばかりです」と諌め、降伏を受け入れさせた。(『曹仁伝』)
曹操は高幹の従弟の高柔(こうじゅう)も始末しようと考え、刺奸令史に任じて過失を犯すのを待ったが、法を適格に運用し裁判を滞りなく行ったため、かえって丞相倉曹属に抜擢した。(『高柔伝』)
王思(おうし)の出した意見書が曹操の逆鱗に触れ、逮捕を命じられた。だが王思は留守にしており、代わりに出向いた梁習(りょうしゅう)が捕らえられた。
王思は急報を聞くと馬を走らせ駆けつけて、罪は自分にあると処刑を願い出た。
曹操は梁習がかばい、王思が逃げなかったことに感心し「我が軍に二人も義士がいるとは知らなかった」と罪を許した。その後、王思を豫州刺史、梁習を并州刺史へ同時に抜擢した。(『梁習伝』)
曹操は太史慈の評判を聞き、箱に当帰(薬草。「当に帰すべし」という意味)だけを入れて招聘したが応じなかった。206年に没した。(『太史慈伝』)
207年、配下のこれまでの働きを称え功臣20人余りを列侯させ、その他の者も順列を付けて賞し、戦災孤児(功臣の子)を厚遇した。
諸将は烏丸を攻めれば背後を劉表・劉備に襲われると危惧したが、郭嘉だけは「劉表は劉備を用いられない」と賛成した。かくて遠征が始まった。
大洪水で海沿いの道が遮断されると、田疇(でんちゅう)が案内役を務めたが、その他の道も険しく山を掘り谷を埋め500里に渡って道路を造った。
200里手前で烏丸は遠征軍に気づき、袁尚・袁煕らと数万の兵で迎え撃った。曹操のいた輜重隊は軽装で人々は恐怖したが、曹操は高地に登り敵陣が整っていないのを見て取ると、張遼に攻撃させて打ち破り、蹋頓ら主だった者を斬り、20万人を降伏させた。(『武帝紀』)
張遼は意気盛んに攻撃を勧め、見事と感じた曹操は持っていた指揮の旗を渡した。(『張遼伝』)
郭嘉は「兵は神速を尊びます。このまま行軍すれば輜重隊が増えて進軍は遅くなり、その間に要地を抑えられ防備を固められます。軽装の兵だけで先行させ急襲しましょう」と進言した。
曹操は自ら敵の本拠地へ襲撃を掛け、蹋頓ら烏丸の諸王を斬った。(『郭嘉伝』)
袁尚・袁煕は烏丸の単于(王)とともに遼東太守の公孫康(こうそんこう)のもとへ逃げ、まだ数千騎を持っていた。
諸将に追撃すれば袁尚らの首を取れると進言されたが曹操は「公孫康に首を送らせる。兵をわずらわせるまでもない」と却下した。
はたして公孫康は袁尚・袁煕らを処刑し、首を曹操へ送った。曹操は「公孫康はかねてから袁尚を怖がっていた。厳しい態度を取れば力を合わせ反抗するが、緩めれば自分で始末をつける。勢いからそうなるのだ」と解説した。(『武帝紀』)
牽招(けんしょう)はかつて袁紹のもとで烏丸突騎を務めていたため、曹操は烏丸への対処を任せた。
袁尚・袁煕が殺され、首級が送られてくると、かつての主君として牽招は祭祀を行った。曹操は事前に弔う者は処罰するとうたっていたが、牽招の義理堅さを認め、かえって茂才に推挙するなど重用した。(『牽招伝』)
田疇は烏丸を恨んでおり道案内を務めた。曹操ははじめ司空掾に招いたが、引見すると「下役にしてよい人物ではない」と評価し、茂才に推挙し県令とした。田疇は赴任せず案内を務め、献策もし勝利に導いた。
列侯されたが以前に仕官を断り逃亡しており、道義が立たないと考え辞退した。曹操もそれを尊重した。旧恩ある袁尚の死を悼んだ時も問題にしなかった。
後にやはり列侯すべきだったと考え直したが田疇はなおも辞退した。重ねて辞退したため処罰すべきだという議論まで起こり、曹操は田疇と親密な夏侯惇に「私の意向だとは告げずに勧めてくれ」と説得させたが、田疇はそれを見抜いて死の覚悟まで口にし、曹操もついに諦めた。(『田疇伝』)
曹操は「当初からあらゆる討伐に従軍し、勝利は全て荀攸の策謀のおかげです」と上表し列侯させた。
論功行賞でも「忠義公正、よく緻密な策略を立て、国の内外を鎮撫した者として第一に荀彧、次に荀攸が挙がる」と激賞した。
討伐に随行し計略を巡らせたが、(曹操だけに話したため)諸将や肉親でも内容を知る者はいなかった。
曹操は常々「愚鈍に見えて英知を持ち、臆病に見えて勇気あふれ、ひ弱に見えて剛気である。善をひけらかさず、面倒を人に押し付けない。その英知には近づけるが、愚鈍さには誰も近づけない。顔回・甯愈でも彼以上ではあるまい」と褒め称えた。
曹丕は太子の頃、曹操に「荀攸は人の手本となる人物だ。お前は礼を尽くして尊敬しなければならん」と言われた。荀攸が病気になると、曹丕は見舞いに訪れただひとり寝台の下で拝礼した。これほどの敬意と特別扱いを受けた。(『荀攸伝』)
郭嘉は深く計略に通じ、物事の真実をつかんでいた。曹操は「奉孝だけが私の意図をよくわきまえている」と字で親しく呼んだ。
陳羣は品行が悪いと彼をたびたび弾劾したが、郭嘉は平然として意に介さず、曹操は陳羣も公正であると二人を一層気に入った。
だが烏丸征伐から帰還すると危篤となり、同207年、そのまま没した。享年38。
曹操は葬儀の席で荀攸らに「諸君は私と同年輩だが、奉孝だけが一番若かった。天下を平定したら彼に後事を託そうと思っていた。これが運命だろうか」と深く悲しんだ。
朝廷へ「郭嘉は私に仕え11年、重大な議論や敵を前にするたび変化に対処しました。私の策略がまだ決まらないうちに彼はやすやすと処置を考えていたものです。天下平定に彼の功績は多大です。不幸にも短命で事を成就できず、思い起こせば忘れることができません。800戸を加増し1000戸とすべきです」と上奏した。
後に赤壁の戦いで敗れた曹操は「奉孝がいれば私をこんな目に遭わせなかっただろう」と嘆息した。(『郭嘉伝』)
208年、鄴へ帰還し(荊州討伐に備え)大池を築き水軍を訓練した。
後漢は三公を廃止し、初代丞相に曹操を任命した。
7月、荊州討伐に出ると翌8月に劉表が病没した。後を継いだ劉琮(りゅうそう)は降伏し、劉備は逃亡した。(『武帝紀』)
劉琮は降伏を渋ったが傅巽(ふそん)は道理を説き、客将の劉備と劉琮のどちらの器量が勝るか問い、劉備が上回るという言質を取ると、劉備でさえ曹操には敵わず、もし敵うなら客将の地位に甘んじはしないだろうと半ば脅して説き伏せた。(『劉表伝』)
曹操は劉備が軍需物資の蓄えられた江陵を占拠するのを恐れ、輜重隊を後方に残し全速力で追撃した。既に襄陽を通過したと聞くと騎兵5千で追わせ、長坂で追いつき撃破した。(『先主伝』)
文聘(ぶんぺい)は初め降伏を拒み、曹操軍が漢江を渡るとようやく降った。
曹操がなぜ遅れたのか問うと「劉表を補佐できず、荊州が滅びました。領土を守り、みなし子(劉琮)を裏切らず、劉表の霊に恥じないことを願い色々考えましたが、どうにもなりませんでした。悲痛と慚愧の思いから合わせる顔もなかったのです」と答えた。曹操は心打たれ「御身はまことに忠臣である」と称え厚遇した。(『文聘伝』)
15人を新たに列侯し、文聘ら劉表の旧臣の多くを取り立てた。益州牧の劉璋が初めて労役に応じ兵を派遣した。
孫権は劉備と同盟し合肥を攻めた。張熹(ちょうき)を派遣すると孫権は撤退したが、曹操本隊は赤壁で劉備に敗れた。疫病が蔓延し多くの死者が出たため撤退し、劉備が荊州の江南を制圧した。(『武帝紀』)
劉備に三顧の礼で招かれた諸葛亮は「袁紹より名声も兵も少なかった曹操が勝ったのは、天が与えた時節だけではなく人間の計略によるものです。曹操は百万の兵と天子を擁し、対等に戦える相手ではありません」と言い、孫権と同盟し鼎立する天下三分の計を説いた。(『先主伝』)
孫権が対策を討議すると、群臣はみな勝ち目がなく降伏するよう言った。だが周瑜は「曹操は漢王朝にあだなす賊徒で、将軍(孫権)は父兄の後を継ぐ英俊であり、王室に害なす者を討つべきです。曹操の背後では馬超・韓遂(かんすい)が隙をうかがい、騎馬を捨て不慣れな水戦を我々に挑もうとしています。慣れない風土で疫病も必ず起こるでしょう。3万の兵を預けていただければ今日か明日にも曹操を捕虜にできます」と豪語した。
孫権は「おいぼれ(曹操)は以前から帝位を狙っていたが、袁紹・袁術や呂布・劉表と私をはばかり、実行できずにいた。今や私だけが生き残り、私とおいぼれは並び立てない。周瑜の言葉は私と全く同じだ。天があなたを私に授けてくれたのだ」と喜び、開戦を決断した。
(※裴松之は「開戦を初めに主張したのは魯粛で、周瑜を呼び戻し意見を聞くよう勧めたのだ。この書き方では周瑜がただ一人反対したように読め、魯粛の手柄を盗み取ったに等しい」と指摘する)(『周瑜伝』)
曹操は荀彧に手紙で「荊州を手に入れたのは(特段)うれしくないが、蒯越(かいえつ)を得られたのはうれしい」と語った。(『劉表伝』)
孫権の討伐に向かうと賈詡は「威名も武力も十分だから、荊州の統治に専念すれば兵を使うまでもなく孫権を帰服させられる」と反対した。曹操は聞き入れず、赤壁の戦いで大敗した。(『賈詡伝』)
子の曹沖(そうちゅう)は5~6歳で大人のように智恵が働いた。孫権から象が贈られ、曹操は重さを知りたがり方法を臣下に尋ねたが、誰も思いつかなかった。すると曹沖が「象を船に乗せて水面の線に印を付けます。象を下ろし、水面が同じになるまで荷物を乗せていけば計算できます」と答え、曹操を喜ばせた。
当時、刑罰は極めて厳重に行われており、曹操の馬の鞍をネズミに食われてしまい、倉庫係は死を覚悟した。曹沖はそれを聞くと自首するのを3日待つよう命じ、刀で自分の着物に穴を空けると、落ち込んだふりをした。曹操が気づくと「ネズミに服をかじられると不吉だと言います」と言い、それは迷信だと曹操は笑った。
3日後、倉庫係が自首すると曹操は「そばにあった子供の服がかじられるのに、ましてや柱に掛けておいた馬の鞍だ」と笑って罪に問わなかった。このように曹沖が密かに助けてやった者は数十人に及んだ。
後継者にしたいとさえ考えたが208年、13歳で病没した。
曹操は(普段は全く信じていない)治癒の祈祷さえ自ら行い、亡くなると酷く悲しんだ。曹丕が慰めると「私にとっては不幸だが(ライバルの消えた)お前たちにとっては幸いだ」と毒づき、同時期に亡くなった娘と冥婚させ、曹沖について話す時はいつも涙を流した。(『鄧哀王沖伝』)
曹操は名医の華佗(かだ)の評判を聞き、持病の頭痛が起こると鍼を打たせ、打つそばから苦痛が引いていった。
華佗の手腕はこのように絶妙なものだったが、もともと士人の身分だったのに(当時は位の低い)医師として遇されることに不満を抱いていた。
曹操が重病にかかると「完治させるのはほとんど不可能ですが、根気強く治療すれば寿命は延ばせます。家に帰り書物と処方を取ってこなければいけません」と診立て、帰郷したきり妻の病を理由に戻らなくなった。
曹操は何度も手紙を送り、役人に命じて戻らせようとしたが華佗は応じなかった。曹操は「華佗の妻が本当に病気なら見舞いをやって休暇を認め、嘘なら逮捕して連れてこい」と命じた。逮捕され投獄された。
荀彧は「華佗の腕はまことに巧みで、人々の生命も彼の腕一本にかかっています」と助命嘆願したが曹操は「心配するな。こんな鼠のような輩が天下に一人きりのわけがない」と聞かず、拷問を命じ獄死させた。
後に偏頭痛が起こると「華佗はこれを治すことができたが、重んじられるためにわざと治さなかったのだ。生かしておいても結果は同じだった」と言った。
だが208年、寵愛する息子の曹沖が危篤になると「華佗を殺してしまったのが残念だ。この子をむざむざ死なせることになってしまった」と嘆息した。(『華佗伝』)
曹操は遠征に出る時、張範と邴原(へいげん)を留守に残し、曹丕には必ず二人に相談するよう言い置き、曹丕は子や孫として礼を尽くした。(『張範伝』)
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