三国志 や~ゆ


掖邪狗  倭の使者たち


掖邪狗(ややこ)
倭の人(??~??)

223年、大夫の伊声耆(いせいぎ)、掖邪狗ら8人は魏に朝貢し率善中郎将の印綬を賜った。
卑弥呼の死後に掖邪狗ら20人が再び朝貢したが、すでに没していたのか、単に略されたのか、その際に伊声耆の名は見えない。(『常林伝』)



兪賛  西陵の戦いで晋へ寝返った古株


兪賛(ゆさん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の歩闡(ほせん)が反乱し西陵に籠城した。
晋は羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)を援軍として送った。
呉の討伐軍の陸抗(りくこう)は楊肇と対峙したが、将軍の朱喬(しゅきょう)と営都督の兪賛が寝返ってしまった。
陸抗は「兪賛は古株で我が軍の実情に詳しい。私は常々、異民族の兵は訓練不足で弱点だと思っている」と言い、兪賛もそこを狙うだろうと考え、夜間のうちに異民族と精鋭の陣を交替させた。
翌日、はたして楊肇は異民族の陣を攻めようとして罠にはまり大敗した。(『陸抗伝』)



庾嶷  庾峻・庾純の伯父


庾嶷(ゆぎ)字は劭然(しょうぜん)
豫州潁川郡の人(??~??)

魏の臣。

曹叡(そうえい)の代に議郎を務め、劉劭(りゅうしょう)、荀詵(じゅんしん)とともに法令を制定した。(『劉劭伝』)

正始年間(240~249)に太僕の庾嶷ら、魏の多くの重臣が隠者の胡昭(こしょう)を推挙した。(『管寧伝』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、太僕として連名した。(『斉王紀』)

子の庾䨹(ゆしゅく)は晋代に尚書・陽翟子に上った。
弟の庾遁(ゆとん)の子の庾峻(ゆしゅん)・庾純(ゆじゅん)がともに晋書に列伝されるなど、庾遁の子孫が代々栄えていった。(『管寧伝』)



庾䨹


未作成



庾峻


未作成



庾純


未作成



庾遁


未作成



尤突


未作成



酉牧  高堂隆に徳行を称えられた牛飼い


酉牧(ゆうぼく)字は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

牛飼い。
魏の臣。

高堂隆(こうどうりゅう)は陳留太守の時、70歳で徳行高い酉牧を推挙し計曹掾に取り立てた。曹叡も称えて郎中に任じ顕彰した。(『高堂隆伝』)



游殷  胡軫を呪い殺す


游殷(ゆういん)字は不明
司隸馮翊郡の人(??~??)

後漢の臣。

「三輔決録注」に曰く。
張既(ちょうき)が子供の頃、馮翊郡の功曹の游殷は彼を評価し家に招いた。賓客のための食事を用意させると妻は「あなたはどうかしています。無邪気なおぼっちゃんなのに何が特別なお客様ですか」と笑ったが、游殷は「おかしく思うな。彼は長官の器だぞ」と言い、覇者の道について張既と語り合った。
宴が終わると子の游楚(ゆうそ)の後事を託し、張既ははじめ辞退したが、郷里の期待の星だった游殷の頼みを断り難く承諾した。
後年、游殷は不仲だった胡軫(こしん)に濡れ衣を着せられ処刑された。
一月余り後、胡軫は病にかかり、口を開くと「悪うございました。悪うございました。游殷が鬼(亡者)を連れて来た」と繰り返し、そのまま死んだ。
関中の人々は游殷を「生きては人の価値を見分ける明識さを、死んでは尊き精神の霊魂を持つ」と称えた。
子の游楚は張既の推薦により太守に上った。(『張既伝』)



游奕  廖化に敗れた南安太守


游奕(ゆうえき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏書」に曰く。
238年、蜀の廖化(りょうか)が宕蕈(とうしん)を攻撃した。雍州刺史の郭淮は広魏太守の王贇(おういん)と南安太守の游奕に救援させたが、挟み撃ちを狙っていると聞いた曹叡は不利を悟り游奕を移動させるよう命じた。
しかし勅命が届く前に游奕は廖化に撃破され、王贇も流れ矢に当たり戦死した。(『明帝紀』)



游楚  諸葛亮の北伐から隴西郡を守る


游楚(ゆうそ)字は仲允(ちゅういん)
司隸馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。
游殷(ゆういん)の子。

以下「三輔決録注」に曰く。
張既(ちょうき)が子供の頃、馮翊郡の功曹の游殷は彼を評価し家に招いた。賓客のための食事を用意させると妻は「あなたはどうかしています。無邪気なおぼっちゃんなのに何が特別なお客様ですか」と笑ったが、游殷は「おかしく思うな。彼は長官の器だぞ」と言い、覇者の道について張既と語り合った。
宴が終わると子の游楚の後事を託し、張既ははじめ辞退したが、郷里の期待の星だった游殷の頼みを断り難く承諾した。
後年、游殷は不仲だった胡軫(こしん)に濡れ衣を着せられ処刑された。
一月余り後、胡軫は病にかかり、口を開くと「悪うございました。悪うございました。游殷が鬼(亡者)を連れて来た」と繰り返し、そのまま死んだ。
関中の人々は游殷を「生きては人の価値を見分ける明識さを、死んでは尊き精神の霊魂を持つ」と称えた。

曹操が関中を平定した時、漢興郡の太守が欠員だった。張既は文武両道であると游楚を推薦し、太守に抜擢され、後に隴西太守に転任した。

以下「魏略」に曰く。
激しい気性の持ち主だが恩恵ある統治で刑罰を好まなかった。
227年、諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安郡の太守は郡を捨てて逃亡した。游楚は隴西郡の官民を集めると「諸君に恩恵を施すことができなかった。諸郡の官民は蜀に呼応し、諸君も富貴を得る好機だ。私は太守として死ぬべき道義がある。君達は私の首を獲って蜀軍に降るといい」と言った。
官民はみな涙を流し「死ぬも生きるもあなたとともにします。二心は抱きません」と誓い、游楚は「ならば計略がある。太守を失った天水・南安の官民は蜀軍を連れてくるから、我々は固守するしかない。魏の援軍が来れば助かり、隴西郡を守った功績で富貴を得られる。来なければ私を捕まえて降伏しても遅くない」と言った。
はたして南安郡は蜀軍を迎え隴西郡を攻めた。游楚は蜀軍の指揮官に「隴山を抑え魏の援軍を妨げれば、我々はなすすべなく1月後に降伏する。それができなければ疲弊するだけだ」と告げ、長史の馬顒(ばぎょう)に攻撃させると、蜀軍は撤退した。
10余日後、魏の援軍は隴山を抑え、諸葛亮は敗走した。

天水・南安郡の太守は重い刑に処されたが、游楚は列侯され、長史ら配下も取り立てられた。
曹叡は喜び、詔勅により特別に参内を許した。游楚は小柄だが声が大きく、初めて参内したため儀礼がわからず、呼ばれた時に「はい」と答えるべきところで「承知しました」と大声で叫んだ。曹叡は微笑み労をねぎらった。
曹叡の警護をしたいと上奏し駙馬都尉に任じられた。学問をせず、遊びと音楽を好み、歌手・演奏者を雇い外に出る時には必ずお供させ、博打や投壺(ダーツ)を大喜びで楽しんだ。
数年後に北地太守に任じられ、70余歳で没した。(『張既伝』)

「魏略」では正史に列伝された張既、趙儼(ちょうげん)、梁習(りょうしゅう)、裴潜(はいせん)らとともに10人が同伝に収められ、「激情を示して心中をさらけ出し、我が身と郡の安全を保った。晩年は陸賈にならい宴席や芸事をのんびり楽しんだのは、一つの充実した生き方である」と評された。(『裴潜伝』)



熊睦  孫晧をいささか諌め撲殺される


熊睦(ゆうぼく)字は不明
出身地不明(??~276)

呉の臣。

滕脩(とうしゅう)は孫晧の代に熊睦に代わって広州刺史となった。(『晋書 滕脩伝』)

276年、会稽太守の車浚(しゃしゅん)は飢饉に襲われたため、民に食料を貸し与えて欲しいと上表した。ところが孫晧は車浚が民に恩を売ろうとしていると邪推し、処刑させた。
尚書の熊睦は暴虐をいささか諌めようとしたところ、刀の柄で撲殺された。遺体は傷だらけだったという。(『孫晧伝』)



優居  高句麗の大加


優居(ゆうきょ)
高句麗の人(??~??)

高句麗の臣。

夫余と高句麗は玄菟郡の支配下にあったが、遼東太守の公孫度(こうそんど)が勢力を伸ばすと、ともに遼東郡の支配下に入った。
高句麗王の伯固(はくこ)は大加(※官名)の優居や主簿の然人(ぜんじん)らを送り、富山賊との戦いに協力した。(『東夷伝』)

や~ゆ  よ1  よ2