三国志 よ 2


楊肇  西陵の戦いで大敗


楊肇(ようちょう)字は不明
司隸滎陽郡の人(??~??)

晋の臣。
楊曁(ようき)の子。

山濤(さんとう)は「山濤啓事」で才能ある人物と称えた。

晋代に荊州刺史に上った。(『田豫伝』)

272年、呉の歩闡(ほせん)が反乱し西陵に籠城した。
晋は羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、荊州刺史の楊肇を援軍として送った。
呉の討伐軍の陸抗(りくこう)は楊肇と対峙したが、部下の朱喬(しゅきょう)と兪賛(ゆさん)が寝返ってしまった。
陸抗は「兪賛は古株で我が軍の実情に詳しい。私は常々、異民族の兵は訓練不足で弱点だと思っている」と言い、兪賛もそこを狙うだろうと考え、夜間のうちに異民族と精鋭の陣を交替させた。
翌日、はたして楊肇は異民族の陣を攻めようとして罠にはまり大敗した。

数ヶ月後、楊肇は万策尽き果てて夜陰に紛れ撤退を始めた。
陸抗は追撃したかったが歩闡に背後を襲われるのを警戒し、追撃の素振りだけを見せた。楊肇の兵はこれに泡を食って恐慌状態となり、鎧を捨てて逃げ出した。陸抗は軽装の兵に追撃させ大戦果を上げ、羊祜の軍も撤退した。
孤立した歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)

羊祜は「8万の兵を持ちながら3万の呉軍を攻めず江陵に留まり、みすみす備えを固めさせた。さらに楊肇の軍だけを進め、兵は少なく兵站も遠く、敗北を喫した」と弾劾され、降格させられた。
楊肇も免官され庶民に落とされた。(『晋書 羊祜伝』)

子の楊潭(ようたん)、楊歆(ようきん)や孫の楊彧(よういく)、楊経(ようけい)は事績を「潘岳集」に記された。(『田豫伝』)



楊定  段煨を讒言する


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楊迪  隠蕃の怪しさを見抜く


楊迪(ようてき)字は不明
揚州豫章郡の人(??~??)

呉の臣。

宣詔郎を務めた。

230年、魏から投降してきた隠蕃(いんばん)が声望を集め、呉の重臣はこぞって親交を求めた。だが羊衜(ようどう)と楊迪だけがそれを拒んだ。人々はいぶかしんだが、後に隠蕃は魏の間者と発覚し、その先見の明に感服した。(『孫登伝』)



楊党  蓋勲に摘発された長安県令


楊党(ようとう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

長安県令の楊党は中常侍(宦官)の子で、権威を頼りに私腹を肥やしていたが、司隷校尉に赴任した蓋勲(がいくん)は父子揃って摘発した。(『後漢書 蓋勲伝』)



楊沛  罪人官吏


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楊白  ロマンチスト


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楊帛


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楊彪  後漢末の最長老


楊彪(ようひょう)字は文先(ぶんせん)
司隷弘農郡華陰県の人(142~225)

後漢の臣。

楊彪を含め4代に渡り三公を輩出する名家に生まれる。
早くから声望高く、私腹を肥やす宦官を告発しさらに名を上げた。

189年、董卓が都を掌握した時にも三公の位にあった。董卓にさえ彼を殺すことはできず、長安遷都に反対した際には、天候不順にかこつけて罷免するだけだった。

董卓の死後、その残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らにも臆せず諫言した。
献帝を守り長安を脱出し、曹操の庇護を受けたが、楊彪は許昌への遷都に反対し、曹操が謁見した際にも敵対心をあらわにした。また彼の妹が袁術(えんじゅつ)に嫁いでいたこともあり、曹操は暗殺を恐れ、先手を取って楊彪を殺そうとさえ企んだが、孔融(こうゆう)らの反対により取りやめた。
楊彪も危険を察し、もはや後漢の命運も尽きたと考え、隠居した。

その後、息子の楊脩(ようしゅう)が曹操の逆鱗に触れ殺されたため、楊彪は痩せ衰えた。だが故事を引き堂々と悔恨を述べ、曹操のほうが尻込みするほどだった。

曹丕の代になると三公に推挙されたが、後漢を守れなかったことを例に上げ固辞した。
曹丕は礼をもって表彰し特権を与え、楊彪は84歳で天寿を全うした。



楊敏  蔣琬を非難する


楊敏(ようびん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

諸葛亮の後継者の蔣琬(しょうえん)は、督農の楊敏が「右往左往し前任者(諸葛亮)に全く及ばない」と非難した時も、処罰を建議されると「前任者に及ばないのは事実だ」と取り合わなかった。
なおも「右往左往していると言ったのは問題だ」と採り上げられたが「前任者に及ばなければ事を上手く処理できない。処理できなければ右往左往する。何が問題なのだね」とやめさせた。
後に楊敏が別件で投獄されると、誰もが処刑されると考えたが、蔣琬は私情を挟む人間ではなく、重罪に問われなかった。このように道理をもとにした態度を常に貫いた。(『蔣琬伝』)



楊阜  馬超の天敵


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楊謨  楊阜の従弟


楊謨(ようぼ)字は不明
涼州天水郡冀県の人(??~??)

魏の臣。
楊阜(ようふ)の従弟。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を包囲した。
楊阜は有志や一族の子弟1千人を集めて籠城し、従弟の楊岳(ようがく)は城壁の上に偃月陣を張って戦ったが、衆寡敵せず降伏した。
楊岳は拘禁されたが、楊阜は密かに同志を集めつつ従弟の楊謨に楊岳と連絡を取らせ、城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に楊岳を解放させ、冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)



楊奉  根無し草


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楊豹  楊阜の孫


楊豹(ようひょう)字は不明
涼州天水郡冀県の人(??~??)

魏の臣。
楊阜(ようふ)の孫。

楊阜が没すると後を継いだ。(『楊阜伝』)



楊豊  三国志の必殺仕事人


楊豊(ようほう)字は伯陽(はくよう)
涼州酒泉郡の人(??~??)

侠客。
楊阿若(ようあじゃく)の名でも著名。

若い頃に侠客となり、仇討ちを生業とした。人々は「東市相斫る楊阿若、西市相斫る楊阿若(※東で西で大暴れ)」と呼んだ。

210年頃、酒泉太守の徐揖(じょゆう)は豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。
楊豊は黄昴に非があると思い、徐揖を助けようとしたが、間に合わず徐揖は殺され、黄昴に恨まれた。
黄昴は楊豊に高い懸賞金を掛け、生け捕りにするよう命じた。(『閻温伝』)

武威太守の張猛(ちょうもう)は先に龐淯(ほういく)に暗殺されかかったが義士であると許した人物で(『龐淯伝』)、この時も楊豊を仮の都尉に取り立て、復讐を許可する布告を出した。

楊豊は単騎で南羌に赴き、羌族から1千騎を得て酒泉郡に迫った。30里手前で止まり、馬に柴を引きずらせ、砂埃を立てさせた。黄昴軍はそれを見て大軍が迫っていると恐慌をきたし、散り散りとなった。
黄昴は捕らえられ、楊豊は「私を賞金首にしたが逆に捕らえられた今どんな気持ちだ?」と挑発し、命乞いする彼を殺した。

だが東方にいた黄華(こうか)が帰ってきて酒泉郡を支配したため、楊豊は敦煌郡へ逃げた。

黄初年間(220~226)に反乱が鎮まり、黄華も魏へ降伏したため、楊豊は酒泉郡に帰った。
郡は孝廉に推挙し、州は彼の道義と武勇を上奏した。
詔勅により駙馬都尉に任じられ、20余年後に病没した。

「魏略」では孫賓碩(そんひんせき)、祝公道(しゅくこうどう)、鮑出(ほうしゅつ)とともに「勇侠伝」に列伝された。
著者の魚豢(ぎょかん)は「彼らの名を消さず、軽薄な世俗を正すことを願う。楊阿若は若い頃は任侠と呼ばれ、長じると道義にのっとり、西から東へ行き、節義にもとる者を叩きのめした。勇気を持つうえ仁愛のある者と言ってよい」と評した。(『閻温伝』)



楊豊  孫資を讒言し息子を助けられる


楊豊(ようほう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

孫資(そんし)は同郷の人々の中でも地位・名声ともに高く、田豫(でんよ ※魏書に列伝される田豫とは別人)、宗豔(そうえん)らに嫉妬から恨まれ、そのうえ楊豊が彼等に加担し讒言を繰り返した。
だが孫資は全く気にせず、やがて田豫は恥じ入って、宿怨を捨て縁組をしたいと願い出た。
孫資は「私には怨恨はもともと無い。君が悪く思っていただけだから、これからは良く思えばいいだけさ」と言い、息子の妻に田豫の娘を迎えた。

楊豊の息子は尚方(刀剣・器物の製作)の役人となったが、皇帝(曹叡?)の逆鱗に触れ処刑されそうになった。だが昔の恨みを気にせず孫資が請願してやったため助けられた。(『孫資伝』)



楊鳳  賊徒の監督を命じられた賊徒


楊鳳(ようほう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、黄龍(こうりゅう)、左校(さこう)、張牛角(ちょうぎゅうかく)、于氐根(うていこん)、劉石(りゅうせき)、平漢(へいかん)、張燕(ちょうえん)、于毒(うどく)ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳を黒山校尉に任じ、孝廉と計吏を推薦する人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。

「漢紀」に曰く。
左校、郭大賢(かくたいけん)、左髭丈八(さしじょうはち)ら3人が他に大きな徒党を率いていた。(『張燕伝』)

馬超の妻の楊(よう)は「反三国志」で楊鳳と命名されてしまった。女山賊だった可能性が微粒子レベルで存在する……?



楊僕  魏に降った武都郡の氐族の王


楊僕(ようぼく)
氐族の人(??~??)

涼州武都郡の氐族の王。

220年、一族を引き連れ魏に服属し、涼州漢陽郡(天水郡)へ移住した。(『文帝紀』)



楊穆  楊竺の兄


楊穆(ようぼく)字は不明
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣。
楊竺(ようじく)の兄。

楊竺は若くして声望を集めたが、陸遜は彼がいずれ身を誤るだろうと考え、兄の楊穆へ弟と絶縁するよう勧めた。(『陸遜伝』)

250年、孫権が二宮の変に終止符を打つと、孫覇(そんは)派として讒言を繰り返した楊竺は誅殺され、死体を長江へ投げ棄てられた。
楊穆は弟をしばしば止めようとしたため死罪は免れたが、南方へ配流された。(『孫覇伝』)



楊密  郭汜をなだめる


楊密(ようみつ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣?

「漢書」に曰く。
郭汜(かくし)は李傕(りかく)と対立すると、公卿をもてなし味方につけようとしたが、楊彪(ようひょう)は「臣下が敵対し合い、一人は天子を脅し、一人は公卿を人質にする。何をやっているのか」と言った。郭汜は自ら斬ろうとしたが中郎将の楊密や左右の者に諌められやっと解放した。(『董卓伝』)

事績はこれだけで、後漢の臣ではなく郭汜配下の可能性もある。

「演義」では明確に後漢の臣とされ、やはり事績はこれしかない。
それなのにSLG「三國志Ⅲ」に登場し、Ⅳ以降は消えたがなぜか13から復活した。



楊融  孫奮に脅される


楊融(ようゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

中書を務めた。
252年、孫亮が2代皇帝に即位し、幼い彼に代わり諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。
諸葛恪は各地の要害に皇族が配置されているのを厭い、孫奮(そんふん)を武昌から豫章に移そうと考えた。
諸葛恪は手紙を送り、「楊融は詔勅を授かり、あなたが禁令に背いていると伝えたが、あなたは『従わなければ俺をどうすると言うのだ』と暴言を吐いた」等の悪事を、いつでも罪に問えると脅しを掛けた。(『孫亮伝』・『孫奮伝』)



楊雍  蓋勲を漢陽太守に推挙した涼州刺史


楊雍(ようよう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

184年頃、羌族が反乱し護羌校尉の夏育(かいく)を攻撃すると、蓋勲(がいくん)や涼州の兵が救援したが、敗走し蓋勲も包囲された。
3つの傷を受けたがひるまず、近くの木を指差し「屍はここに葬れ」と命じた。羌族の滇吾(てんご)は彼に厚遇されていたため「蓋勲は賢人だ。殺したら天に背くことになる」と言い武器を振るって味方したが、蓋勲は「お前ら叛徒は死すべきだとなぜわからない。すぐに私を殺せ」と罵ったため、敵も味方も思わず顔を見合わせた。
滇吾は自分の馬を与えたがそれも拒否し、とうとう捕らえられたが、羌族は手出しせず(任地の)漢陽郡へ送り返した。
涼州刺史の楊雍は上表して蓋勲を漢陽太守とした。(『後漢書 蓋勲伝』)



楊覧  楊俊の孫


楊覧(ようらん)字は公質(こうしつ)
司隷河内郡獲嘉県の人(??~??)

晋の臣。
楊俊(ようしゅん)の孫。

「世語」に曰く。
汝陰太守に上った。弟の楊猗(ようい)は尚書に上り司馬越(しばえつ)の舅となった。
子の楊沈(ようしん)は散騎常侍になった。(『楊俊伝』)



楊利  印相の名人


楊利(ようり)字は不明
出身地不明(??~??)

印鑑職人。

陳羣(ちんぐん)は印相(印鑑の吉凶鑑定)を考案し、韋誕(いたん)に伝授した。韋誕はそれを楊利に教え、楊利は許允(きょいん)に伝授した。
楊利は腕に優れ十中八九は的中させたという。(『夏侯尚伝』)



楊慮  楊儀の早逝した兄


楊慮(ようりょ)字は威方(いほう)
荊州襄陽郡の人(??~??)

楊儀(ようぎ)の兄。

「楚国先賢伝」に曰く。
若くして徳行があり江南の第一人者とされた。州郡や諸公から招聘されたがいずれも断った。
17歳で没し、郷里の人々は「徳行楊君」と呼んだ。(『楊儀伝』)



楊林


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雍闓  建寧の親分


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雍茂  劉備を諌めて殺される


雍茂(ようぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「零陵先賢伝」に曰く。
中原の人々は劉備が益州を制圧すると(漢王朝の復興を期待し)到来を待ち望んだ。
だが劉備は自らが帝位に就こうと考えており、劉巴(りゅうは)はそれでは天下に度量の狭さを示すだけだと思い、主簿の雍茂とともに諫言した。
すると劉備は他のことにかこつけて雍茂を殺してしまい、伝え聞いた人々は劉備への期待を失った。(『劉巴伝』)

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