楊豊 三国志の必殺仕事人
楊豊(ようほう)字は伯陽(はくよう)
涼州酒泉郡の人(??~??)
侠客。
楊阿若(ようあじゃく)の名でも著名。
若い頃に侠客となり、仇討ちを生業とした。人々は「東市相斫る楊阿若、西市相斫る楊阿若(※東で西で大暴れ)」と呼んだ。
210年頃、酒泉太守の徐揖(じょゆう)は豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。
楊豊は黄昴に非があると思い、徐揖を助けようとしたが、間に合わず徐揖は殺され、黄昴に恨まれた。
黄昴は楊豊に高い懸賞金を掛け、生け捕りにするよう命じた。(『閻温伝』)
武威太守の張猛(ちょうもう)は先に龐淯(ほういく)に暗殺されかかったが義士であると許した人物で(『龐淯伝』)、この時も楊豊を仮の都尉に取り立て、復讐を許可する布告を出した。
楊豊は単騎で南羌に赴き、羌族から1千騎を得て酒泉郡に迫った。30里手前で止まり、馬に柴を引きずらせ、砂埃を立てさせた。黄昴軍はそれを見て大軍が迫っていると恐慌をきたし、散り散りとなった。
黄昴は捕らえられ、楊豊は「私を賞金首にしたが逆に捕らえられた今どんな気持ちだ?」と挑発し、命乞いする彼を殺した。
だが東方にいた黄華(こうか)が帰ってきて酒泉郡を支配したため、楊豊は敦煌郡へ逃げた。
黄初年間(220~226)に反乱が鎮まり、黄華も魏へ降伏したため、楊豊は酒泉郡に帰った。
郡は孝廉に推挙し、州は彼の道義と武勇を上奏した。
詔勅により駙馬都尉に任じられ、20余年後に病没した。
「魏略」では孫賓碩(そんひんせき)、祝公道(しゅくこうどう)、鮑出(ほうしゅつ)とともに「勇侠伝」に列伝された。
著者の魚豢(ぎょかん)は「彼らの名を消さず、軽薄な世俗を正すことを願う。楊阿若は若い頃は任侠と呼ばれ、長じると道義にのっとり、西から東へ行き、節義にもとる者を叩きのめした。勇気を持つうえ仁愛のある者と言ってよい」と評した。(『閻温伝』)
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