三国志 よ 1


羊徽


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羊徽瑜  司馬師の3人目の正室


羊徽瑜(ようきゆ)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(214~278)

司馬師の3人目の正室。
羊衜(ようどう)の娘。蔡邕(さいよう)の孫。
羊祜(ようこ)の同母姉。

234年、司馬師は魏王朝に連なる正室の夏侯徽(かこうき)を毒殺した。
その後、呉質(ごしつ)の娘をめとったが、呉質の失脚により離縁し羊徽瑜を迎えた。
聡明で才知と徳行に優れたが子には恵まれなかった。

265年、司馬炎が即位すると弘訓宮に居したため、弘訓太后(こうくんたいこう)と号した。(『晋書 景献羊皇后伝』)

266年、羊徽瑜が盛んに口添えしたため夏侯徽にようやく「懐」と諡された。(『晋書 景懐夏侯皇后伝』)

273年、母の蔡氏(さいし)に済陽県君を追贈し、穆と諡した。(※司馬懿の正室の張春華(ちょうしゅんか)と同じである)
278年に没した。享年65。(『晋書 景献羊皇后伝』)



羊瑾  羊琇の兄


羊瑾(ようきん)字は不明
兗州泰山郡南城県の人(??~??)

晋の臣。
辛憲英と羊耽(ようたん)の子。
羊琇(ようしゅう)の兄。羊祜(ようこ)は従兄弟にあたる。

尚書右僕射まで上った。
弟の羊琇は司馬炎の竹馬の友で「晋書」に列伝された。(『晋書 羊琇伝』)



羊祜  仁愛の名将


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羊琇  司馬炎の竹馬の友


羊琇(ようしゅう)字は稚舒(ちじょ)
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

魏・晋の臣。
辛憲英と羊耽(ようたん)の子。
辛毗(しんぴ)の孫。

学問を好んで智恵と計略に優れ、司馬炎とは同門で非常に親しく、いつも席を並べて学んでいた。冗談で「君が富貴を得たら私を10年ずつ領護の各部署に任命してくれ」と頼み、司馬炎も請け合った。

若い頃に泰山郡計となり鍾会の参軍事を務めた。(『晋書 羊琇伝』)

鍾会が鎮西将軍になると、辛憲英は甥の羊祜(ようこ)に理由を尋ねた。蜀討伐のためだと聞くと辛憲英は「鍾会はいつも勝手気ままに振る舞い、いつまでも臣下に甘んじている人物ではありません。その野心が心配です」と案じた。(『晋書 羊耽妻辛氏伝』)

「辛憲英伝」に曰く、辛憲英のあけすけな言葉を聞いた羊祜は「おば上、口を慎んでください」と心配した。(『辛毗伝』)

263年、蜀討伐にあたり鍾会は羊琇を参軍につけるよう要請した。辛憲英は「憂慮した通りの災難が我が家を襲いました。しかしお国の大事ですから反対はできないでしょう」と言い、はたして羊琇は強く辞退したが司馬昭は聞き入れなかった。
辛憲英は羊琇に「いにしえの君子は家では孝行に、外では国に忠節を尽くし、道義によって態度を決め、父母に心配を掛けまいとしました。軍事において必要なのは思いやりだけではありません。くれぐれも気をつけなさい」と諭した。(『晋書 羊耽妻辛氏伝』)

264年、蜀を滅亡させた鍾会は成都で反乱し討伐された。
その時、相国左司馬の夏侯和(かこうか)と騎士曹属の朱撫(しゅぶ)は相国(司馬昭)の使者として成都に滞在していた。鍾会は夏侯和・朱撫や、配下で中領軍司馬の賈輔(かほ)・郎中の羊琇に反乱に加担するよう迫ったが、4人は危険を顧みず拒絶した。
賈輔は散将の王起(おうき)に「鍾会は凶暴で将兵をことごとく殺そうとしているが、司馬昭が30万の兵を率い既に討伐に向かっている」と誇張して話し、人々を奮い立たせようとした。王起から将兵にこの言葉が伝わったため士気が上がり鍾会は速やかに討伐された。
曹奐は詔勅を下して称え、夏侯和・賈輔を郷侯に、朱撫・羊琇を関内侯に封じた。王起も部曲の将に昇進した。(『陳留王紀』)

司馬炎が太子に立てられる前、司馬昭は本心では三男の司馬攸(しばゆう)に後を継がせたいと考えていた。
羊琇は司馬昭の政治を分析し、諮問されそうなことをあらかじめ司馬炎に教えてやった。予想が的中し完璧に回答した司馬炎は太子となった。
司馬炎は撫軍将軍になると羊琇を参軍事に任じ、265年に晋王に即位すると左衛将軍に抜擢し甘露亭侯に封じた。
同年、帝位につくと中護軍に移り散騎常侍を加えられた。職務につくこと13年、近衛兵を司って機密に与り、寵遇はとても厚かった。(『晋書 羊琇伝』)

羊祜は従弟の羊琇へ手紙を送り「呉との国境は安泰で、隠居して故郷へ帰り自分の墓を掘りたい。卑しい身で高位を得ると責められてばかりだ」とぼやいた。(『晋書 羊祜伝』)

杜預(とよ)が鎮南将軍になった時、羊琇は裴楷(はいかい)とともに遅刻し、列席者は既に着座していた。羊琇は「杜預は客と席を連ねて座るのか」と怒り、座らずに帰った。

奢侈を好み際限なく金を浪費した。炭で獣の像を造り、それに火をつけ酒を温めることは洛陽の富貴な人々にこぞって真似された。夜に宴を始めて昼まで続き、親族らと男女の区別なくたわむれ、人々に批判された。一方で施しを好み、困窮した者は手厚くもてなしたため、配下や支持者には信奉され、自らを犠牲にして無二に尽くされた。
人材登用も官位の上下を無視して気心の知れた者を任命したため、不当に官位を得る者が多かったが、彼らは羊琇のために身命を惜しまなかった。
そうして放恣に振る舞いしばしば法を犯したためにらまれ、司隸校尉の劉毅(りゅうき)に弾劾されたが、司馬炎の恩寵により死罪を減じられ免職に留められた。だがすぐに公の爵位によって領護軍となり、官職にも復帰した。(『晋書 羊琇伝』)

辛憲英は羊祜に贈られた華美な衣装を裏返して着た、という逸話があるが、羊祜は着る物も質素に努めたとあり、奢侈を好んだ羊琇の誤記だろうか。(『晋書 羊耽妻辛氏伝』・『晋書 羊祜伝』)

278年、羊祜が没すると質素に努めた彼を思い、羊琇らは先祖の墓の隣に葬りたいと願い出たが、司馬炎は許可せずひとかどの土地に葬らせた。(『晋書 羊祜伝』)

282年、司馬攸が都から追放されると羊琇は切実に諌めたため司馬炎の怒りを買い、太僕に左遷された。
寵愛を失った憤怒から病を得て引退し、特進・散騎常侍となり没した。
司馬炎は自ら詔勅を著し「羊琇は朕とともに亡き景献皇后(けいけんこうごう ※字の羊徽瑜(ようきゆ)で著名。羊琇の従姉。司馬師の妻で司馬炎の伯母にあたる)と親しく、幼少の頃から恩があり、内外の官位を歴任し忠誠心は顕著だった。不幸にして早逝したことを悼む。輔国大将軍・開府・儀同三司を追贈する」と命じ、「威」と諡した。(『晋書 羊琇伝』)
他に東園の秘器・朝服一式・銭30万・布100匹を下賜したがこれは羊祜が没した時と全く同じである。(『晋書 羊祜伝』)

「演義」には登場しない。



羊続  粗衣粗食の反乱鎮圧名人


羊続(ようしょく)字は興祖(こうそ)
兗州泰山郡平陽県の人(142~189)

後漢の臣。

忠臣の子孫のため郎中となり、官を去った後に大将軍の竇武(とうぶ)に招かれた。
168年、竇武が宦官誅滅に失敗し自害すると、羊続も党錮の禁により10数年に渡り禁錮され、隠棲を強いられた。
176年、党錮の禁が解かれると太尉の府に招かれ、4度の昇進を果たし廬江太守に赴任した。(※禁錮が10年に満たない。竇武粛清前の第一次党錮の禁なら166年からであり勘定に合う)

184年、黄巾の乱が起こると廬江郡でも舒県が攻撃された。羊続は県内の20歳以上の男子を徴兵し、弱い者には水で消火に当たらせた。数万人を集めて黄巾賊を撃退し、郡を平定した。
安風県で戴風(たいふう)が反乱するとこれも撃破し3千の首級を挙げ、残党は許して民とし、農具を与え農業に従事させた。

186年、江夏郡で趙慈(ちょうじ)が反乱し、南陽太守の秦頡(しんけつ)を殺し6県を陥落させた。
羊続は南陽太守に転任して討伐に当たることとなり、まず見すぼらしい服に着替え、童子一人を連れ各県を視察して回った。それをもとに各県の風土や官民の性質を次々と言い当てると、郡内の人々は種がわからず畏怖した。
そして荊州刺史の王敏(おうびん)とともに討伐し、趙慈ら5千の首級を挙げた。残党は降伏し、羊続は罪に問わなかった。郡内は平定され万民は喜んで服従した。

奢侈に流れる風潮を深く憎み、粗衣粗食で馬さえ痩せこけていた。生魚を献上されると食べずに庭に掛けて(干し)、新しく献上されると取り替えた。
妻が子の羊祕(ようひ)とともに(金の無心に)訪れたが、門を閉ざして迎えなかった。羊祕が一人で訪ねると、破れた衣服やわずかな塩と麦しかない蓄えを見せ「私の暮らしぶりはこのようで、お前の母に融通できる財産はない」と帰らせた。(『後漢書 羊続伝』)

「英雄記」に曰く。
劉虞は太尉に任命されたが辞退し、代わりに趙謨(ちょうぼ)や、劉焉(りゅうえん)・黄琬(こうえん)・羊続らを推挙した。みな三公に任命された。(※みな辞退し劉虞が太尉となった)(『公孫瓚伝』)

189年、太尉に任命されたが、三公になるためには1千万銭の礼金が必要で、任命の使者にも賄賂が必要だった。羊続は使者に一着の上着を見せ「これが全財産です」と言った。霊帝は喜ばず、任命は反故となった。
太常に任命されたが、着任前に病没した。享年48。

遺言により100万銭もの香典を辞退し、配下の焦倹(しょうけん)も遺志を尊重し1銭たりとも受け取らなかった。
詔勅で称賛され、香典ではなく泰山太守を通じて遺族へ銭が賜与された。(『後漢書 羊続伝』)



羊耽  辛憲英の夫


羊耽(ようたん)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

魏の臣。
辛憲英の夫。
羊瑾(ようきん)・羊琇(ようしゅう)の父。羊祜(ようこ)は甥にあたる。

太常まで上った。
上の子の羊瑾は尚書右僕射まで上り、下の子の羊琇は司馬炎の竹馬の友で「晋書」に列伝された。(『晋書 羊琇伝』)



羊度


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羊衜  人物鑑定の名手


羊衜(ようどう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

呉の臣。

225年、南中を制圧した諸葛亮は、同盟を結ぶ呉へ費禕(ひい)を送り経緯を報告させた。
諸葛恪(しょかつかく)と羊衜は舌戦を挑んだが屈服させることはできず、孫権は「君は必ず蜀の股肱の臣となるだろう」と絶賛した。(『費禕伝』)

229年、皇太子になった孫登(そんとう)の側近の諸葛恪、張休(ちょうきゅう)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)は「四友」と呼ばれ、謝景(しゃけい)、范慎(はんしん)、刁玄(ちょうげん)、羊衜ら賓客(補佐)も評判を取り、多士済々と讃えられた。
孫登は胡綜(こそう)に命じて「賓友目」を作らせ、彼等を称賛した。
しかし羊衜は一人ひとりの欠点を指摘した。そのため諸葛恪らから恨みを買ったが、後に四人とも身を誤り、人々は根拠があったのだと納得した。(『孫登伝』)

20歳で太子中庶子となった。
当時、隠蕃(いんばん)が声望を集め衛将軍の全琮(ぜんそう)らひとかどの人物はこぞって親交を求めた。だが羊衜と楊迪(ようてき)だけがそれを拒んだ。人々はいぶかしんだが、後に隠蕃は魏の間者と発覚し、その先見の明に感服した。(『孫休伝』・『孫登伝』)

庶民の李衡(りこう)は、人物鑑識に優れると評判の羊衜を訪ね「多事多難の世で、尚書を補佐し激務を担当する才がある」と評された。
当時、呂壱(りょいつ)が専権を振るって多くの重臣を陥れたが、誰も逆らえずにいた。羊衜は「李衡しか呂壱を追い詰められる者はいない」と抜擢し、李衡は呂壱の悪事と失策を調べ上げ、孫権へ数千言にわたり述べ立てた。孫権は恥じ入り、数ヶ月後に呂壱は誅殺された。(『孫休伝』)

238年、独立した公孫淵(こうそんえん)は司馬懿の討伐を受け、呉に救援を求めた。孫権がその使者を殺そうとすると、羊衜は「むしろ厚遇し、部隊を派遣するべきです。司馬懿が負ければ公孫淵に恩を着せられ、膠着すればその隙に後方を荒らせます」と反対した。
孫権は納得し部隊を派遣した。(『公孫度伝』)

239年、公孫淵の援護のため羊衜・鄭胄(ていちゅう)が使者として向かい、将軍の孫怡(そんい)が魏へ攻め込み、張持(ちょうじ)・高慮(こうりょ)を撃破し捕虜を得た。(『呉主伝』)

241年、孫登は病没し、遺言で「羊衜は弁が立ち、使者として独自の判断で外交をやり遂げられる」と評した。(『孫登伝』)

242年、孫権は三男の孫和(そんか)を太子に立てたが、四男の孫覇(そんは)にも目を掛け、二人に変わりない待遇を与えた。
そのため孫覇の側近は、太子になれる可能性があると考え、孫和と対立するようになり、兄弟の不仲を聞いた孫権は、交際を禁じた。
羊衜は「不仲であることを疑われ、国益にならない」と反対した。
結局、二人の争いは二宮の変へと発展し、呉の国力を大いに損ねた。(『孫覇伝』)

同年、鍾離牧(しょうりぼく)は南海太守に任じられた。
始興太守を務めていた羊衜は、滕胤(とういん)へ手紙を送り「鍾離牧のことはよく知らなかったが、南海に赴任し、威厳と恩恵が配下に行き渡り、知略と勇気が示されるのをこの目で見た。しかも行いは全く純粋で、古人の風格を備えている」と絶賛した。(『鍾離牧伝』)

羊衜は桂陽太守にまで上り、没した。(『孫登伝』)



羊秘  曹丕の帝位禅譲を支持した羊続の子


羊秘(ようひ)字は不明
兗州泰山郡平陽県の人(??~??)

魏の臣。
羊続(ようしょく)の子。

羊続は奢侈に流れる風潮を深く憎み、粗衣粗食で馬さえ痩せこけていた。生魚を献上されると食べずに庭に掛けて(干し)、新しく献上されると取り替えた。
妻が子の羊秘とともに(金の無心に)訪れたが、門を閉ざして迎えなかった。羊祕が一人で訪ねると、破れた衣服やわずかな塩と麦しかない蓄えを見せ「私の暮らしぶりはこのようで、お前の母に融通できる財産はない」と帰らせた。

189年に没した時も遺言により100万銭もの香典を辞退し、配下の焦倹(しょうけん)も遺志を尊重し1銭たりとも受け取らなかった。
詔勅で称賛され、香典ではなく泰山太守を通じて遺族へ銭が賜与された。(『後漢書 羊続伝』)

「献帝伝」に曰く。
220年、曹丕に皇帝即位を勧める文書に羊秘は侍御史として連名した。(『文帝紀』)



姚瓊  楊阜とともに馬超を撃退した同志B


姚瓊(ようけい)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

魏の臣。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を陥落させた。
楊阜(ようふ)は城外にいた姚瓊ら同郷の同志らを密かに集めると城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)



姚光


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姚貢  袁紹に弾劾され亡命した男B


姚貢(ようこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「魏略」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は袁紹を非難する上表の中で「袁紹は元の上谷太守の高焉(こうえん)と、元の甘陵国相の姚貢を弾劾して理不尽に金を取り立て、金を用意できなかった二人は亡命した」と述べた。(『公孫瓚伝』)



姚信


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姚泰


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姚伷  文武どちらも推挙する


姚伷(ようちゅう)字は子緒(ししょ)
益州巴西郡閬中県の人(??~242)

蜀の臣。

214年、劉備に益州が制圧されると功曹書佐に任命された。

223年、広漢太守となった。(『楊戯伝』)
227年(『諸葛亮伝』)、諸葛亮が漢中に駐屯すると、丞相掾に招かれた。
文官も武官も推挙したため、諸葛亮は「人材を推挙するほど忠義で利益になることはない。推挙にあたって誰しも得意分野に熱心になるものだが、姚伷は文武どちらの人材も増やしてくれる。幅の広い正しい人物と言える。願わくば他の掾も彼を見習ってくれ」と称賛した。(『楊戯伝』)

当時、巴西郡では2千石(太守)の官位の龔禄(きょうろく)や姚伷らが名声高く、みな(官位は低いが)張嶷(ちょうぎょく)と親しく交わった。(『張嶷伝』)

234年、諸葛亮の没後も次第に昇進し尚書僕射に上った。
当時の人々は彼の誠実さと純粋さに心服していた。
同郷の馬勲(ばくん)・馬斉(ばせい)はともに自らの能力で出世したが、郷里の人からの信頼では姚伷に及ばなかった。

242年に没した。

241年に楊戯(ようぎ)が著した「季漢輔臣賛」は故人のみ収録したため、姚伷は載らなかった(が、記録に残すべき人物である)と陳寿は記した。(『楊戯伝』)



陽逵  死んだ韓遂の首を獲るB


陽逵(ようき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

212年、韓遂(かんすい)は曹操に敗れて兵を失い、郭憲(かくけん)を頼った。
人々は韓遂を殺して手柄にしようとしたが、郭憲は「追い詰められ私を頼ってきた人を、どうして危険に陥れようとするのだ」と怒った。
手厚くもてなしたが、やがて韓遂は病没した。
田楽(でんがく)・陽逵は韓遂の首を斬り、曹操のもとへ送って手柄にしようとした。彼らは郭憲も功績者の中に入れようとしたが、「生きている時も手を下せなかったのに、死人を捕まえて功績とすることなどできない」と断られた。

215年、韓遂の首と功績者の名簿が届けられると、曹操は以前から郭憲を知っていたため、名前が無いのを不思議に思い、陽逵らに事情を尋ね、その節義に感服した。
そして上奏の際に郭憲の名を加えさせ、陽逵らとともに関内侯に封じた。
郭憲の名声は響き渡った。(『王脩伝』)

一方、「武帝紀」には215年、韓遂を麴演(きくえん)・蔣石(しょうせき)が協力して殺し、首級を曹操へ送ったと記され、矛盾が見える。(『武帝紀』)



陽儀  公孫度に野心と予言を聞かされる


陽儀(ようぎ)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫度(こうそんど)の臣。

190年、董卓により乱世がもたらされると遼東太守の公孫度は目を掛けていた官吏の柳毅(りゅうき)・陽儀らに「漢王朝の命運は絶えようとしている。王座を狙うべきだ」と語った。

「王沈魏書」に曰く、公孫度は二人に「讖書(予言書)には孫登(そんとう)が天子になると記される。私の姓は公孫、字は升済で升は登に符合する」と言った。(『公孫度伝』)



陽羣  後出師表の謎メンバーA


陽羣(ようぐん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

「漢晋春秋」のいわゆる「後出師表」に曰く。
諸葛亮が漢中に駐屯してからわずか1年で趙雲・陽羣・馬玉(ばぎょく)・閻芝(えんし)・丁立(ていりゅう)・白寿(はくじゅ)・劉郃(りゅうこう)・鄧銅(とうどう)らの将を失った。(『諸葛亮伝』)

「後出師表」は偽作を疑われており、その根拠としてまだ存命のはずの趙雲が死亡したと記されていること、陽羣以下の将が(閻芝を除き)他の史書に一切見えないことが挙げられる。



楊  馬超の妻


楊(よう)名は不明
出身地不明(??~??)

馬超の妻。

「列女伝」に曰く。
213年、馬超は反乱し冀城を制圧した。
馬超は趙昂(ちょうこう)と王異の子の趙月(ちょうげつ)を人質に出させ趙昂を登用しようとしたが、内心では信頼しきれずにいた。
馬超の妻の楊はかねてから王異の節義ある行為を聞いていたので、親しくなりたいと考え招いた。王異はそれを好機と「戦いが終わったばかりでまだ周辺は動揺しています。曹操と戦うためには、夫ら涼州の力が必要でしょう」と吹き込み、楊を通じて馬超の信頼を得た。
そして隙をつき人質に構わず挙兵して馬超を撃破した。(『楊阜伝』)

「演義」では馬超が撃破されると子ら一族とともに殺され、城外の馬超の前へ投げ落とされた。怖い。

「反三国志」では楊鳳(ようほう)と命名されたが、気の毒なことに史実には黒山賊や白波黄巾軍の一派に同姓同名の人物がいる。それとも女山賊だった可能性が微粒子レベルで存在する……?



楊偉  暦を作り、臆せず諫言もする


楊偉(ようい)字は世英(せいえい)
司隸馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。

毌丘倹(かんきゅうけん)が杜摯(とし)に送った答詩に「貧しい出自から出世した」と記される。(『杜摯伝』)

太和年間(227~232)、これまで用いられていた暦は時節より遅れていることから、月の満ち欠けを計算し直し、新暦(太和暦)を作るよう進言があり、曹叡(そうえい)は高堂隆(こうどうりゅう)と尚書郎の楊偉、駱禄(らくろく)らに作製を命じた。
ところが高堂隆は旧暦を重んじたため議論は紛糾し、数年に渡り互いに上奏して非難し合う事態となった。
楊偉が高堂隆と駱禄の主張にはともに一長一短あると述べ、詔勅が下され新暦の採用が決まった。高堂隆は敗れたものの彼の精緻さは知れ渡った。(『高堂隆伝』)

237年、太和暦は景初暦に改名された。(『明帝紀』)

曹叡が宮殿の増築に血道を上げていた時、楊偉は「墓に植えられた木や石碑を資材にしていますが、死者と遺族を傷つけ、後世の模範になりません」と諫言した。

244年、曹爽(そうそう)は蜀に侵攻した。
蜀軍は山を利用し防備を固めていたため攻めあぐね、参軍の楊偉は撤退を進言し、鄧颺(とうよう)と口論になり「鄧颺と李勝(りしょう)は国家の大事を担えないから斬るべきだ」と言った。取り巻きを罵倒され曹爽は不快に感じたが結局撤退した。(『曹真伝』)

265年、晋に禅譲されると景初暦は泰始暦に改められたが、実際は景初暦と同じであり、北魏の代の451年まで用いられたという。



楊猗  楊俊の孫で司馬越の舅


楊猗(ようい)字は公彦(こうげん)
司隷河内郡獲嘉県の人(??~??)

晋の臣。
楊俊(ようしゅん)の孫。

「世語」に曰く。
兄の楊覧(ようらん)汝陰太守に上った。弟の楊猗は尚書に上り司馬越(しばえつ)の舅となった。
楊覧の子の楊沈(ようしん)は散騎常侍になった。(『楊俊伝』)



楊艶  司馬炎の嫉妬深い皇后


楊艶(ようえん)字は瓊芝(けいし)
司隸弘農郡華陰県の人(238~274)

司馬炎の最初の皇后。
司馬衷らの母。
楊炳(ようへい)と趙氏(ちょうし)の娘。

早くに母を亡くし母方のおじの家で育った。おじの妻は仁愛あり、自ら楊艶に乳を与え実子は乳母に任せた。
長じると継母の段氏(だんし)の家に移り、若くして聡明で文字を書くのが上手く、美貌で家事に習熟した。人相見に高貴さを極めると占われ、司馬昭は嫡子の司馬炎の嫁に迎えた。寵愛され三男三女に恵まれた。

265年、司馬炎が即位すると皇后に立てられた。母方の家の恩に報い、趙俊(ちょうしゅん)を高官とし、姪の趙粲(ちょうさん)を司馬炎の夫人に迎えた。
重臣の賈充(かじゅう)の妻の郭槐(かくかい)は楊艶へ賄賂を贈り、娘の賈南風(かなんぷう)を司馬衷の太子妃とするよう依頼した。司馬炎は重臣の衛瓘(えいかん)の娘を選ぼうとしたが、楊艶が盛んに賈南風を褒め称え、さらに荀顗(じゅんぎ)に口添えさせたため賈南風に決まった。
司馬炎は暗愚な司馬衷を後継者にするのを危ぶんだが、楊艶は「嫡子は年齢によって決めるもので、賢愚で決めるものではない」と反対した。

泰始年間(265~275)、司馬炎は後宮を良家の子女で満たそうとし、全ての婚姻を止めて宦官に全国を巡回させて美女を探し、楊艶に候補を選ばせた。しかし楊艶は嫉妬深く、品行の正しい年長の者ばかり選び、美女は外した。
卞藩(べんはん)の娘が非常に美貌で、司馬炎はぜひ選んでくれと望んだが楊艶は「卞氏は曹丕の代に皇后を輩出した家で、その娘を低い地位に置いてはいけません」と理屈を付けて断った。
結局、高官の子女たちで后妃の高い位は占められ、低い位も全て2千石(刺史・太守クラス)の家柄で埋まった。良家の子女の多くはわざと衣服を破いたり、食事を摂らずやつれて選抜を回避した。

274年、楊艶は重病にかかると死後に寵愛される胡夫人(こふじん)が皇后になれば司馬衷が廃されると恐れ、従妹の楊芷(ようし)を泣きながら推薦した。司馬炎も泣いて応じ、彼の膝枕の上で息絶えた。享年37。

司馬炎は「早くに両親を亡くしたから家族への思いが深かった。父祖を改葬したいと願っていたが倹約に努めるため口には出さず、重病にかかってからようやく明かしてくれた。なんとかしてやりたい」と詔勅し、叔父の楊駿(ようしゅん)に命じて改葬させ、母の趙氏を県君、継母の段氏を郷君とした。(『晋書 武元楊皇后伝』)



楊会  傅幹にとっての程嬰


楊会(ようかい)字は不明
出身地不明(??~??)

漢陽太守の傅燮(ふしょう)の臣。

涼州刺史の耿鄙(こうひ)に信頼された治中の程球が私腹を肥やし人々に恨まれていた。
187年、耿鄙が韓遂(かんすい)・王国(おうこく)の反乱鎮圧に向かうと、傅燮は「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言したが、耿鄙は却下して出陣し、間もなく反乱により程球とともに殺された。韓遂らは反撃し傅燮の守る漢陽郡を包囲した。

兵糧は尽き、包囲する胡族はかねてから傅燮を慕っていたため、土下座して降伏するよう懇願した。
傅燮の子の傅幹(ふかん)は剛毅な父が玉砕することを恐れ「国家は父上を受け入れなかったために混乱し、兵は不足しています。胡族も望んでいるのですから、郷里に帰って道義を守り、天下を救いましょう」と言ったが、その言葉が終わらないうちに傅燮は激昂し、息子を幼名の別成(べつせい)と呼び「お前にも私の覚悟がわかるだろう。殷の紂王は暴虐だったが、伯夷は殷に殉じた。漢王朝は殷ほど酷くないが、私の徳は伯夷に劣りはしない。お前には才知がある。努力せよ。主簿の楊会はお前にとって程嬰(身寄りのない趙武をかくまった古人)だ」と告げ、降伏を拒否し玉砕を遂げた。

傅幹は扶風太守まで上った。(『後漢書 傅燮伝』)



楊懐  劉備に暗殺された人B


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楊岳  偃月陣で戦った楊阜の従弟


楊岳(ようがく)字は不明
涼州天水郡冀県の人(??~??)

魏の臣。
楊阜(ようふ)の従弟。

213年(※建安17年(212年)と誤記される)、馬超は張魯(ちょうろ)の援軍を得て1万の兵で冀城を包囲した。
楊阜は有志や一族の子弟1千人を集めて籠城し、楊岳は城壁の上に偃月陣を張って戦ったが、衆寡敵せず降伏した。
楊岳は拘禁されたが、楊阜は密かに同志を集めつつ従弟の楊謨(ようぼ)に楊岳と連絡を取らせ、城外で挙兵し、馬超が討伐に出た隙に楊岳を解放させ、冀城を奪回した。
楊阜は5ヶ所の傷を受け、一族の従弟ら7人が戦死したが撃退に成功した。(『楊阜伝』)



楊玩  常播を弁護する


楊玩(ようがん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

江原県の主簿を務めた。
237年、県長の朱游(しゅゆう)が横領の罪を誣告された際に、主簿功曹の常播(じょうは)が弁護してやった。
常播は数千回も杖打ちされ、3度の裁判を経て2年あまり幽閉された。拷問のたびに「早く処罰しろ。ごたごた訊ねる必要はない」とだけ言った。
主簿の楊玩が常播と同じ証言をし、ようやく事態がはっきりし朱游は死刑を免れた。
常播の身を捨てて主君に尽くし、節義を貫いた態度を誰もが称賛した。(『楊戯伝』)



楊琦  献帝を助けた侍中


楊琦(ようき)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝起居注」に曰く。
董卓死後、都を制圧した李傕(りかく)は献帝を幽閉し、食事もろくに出さず、要求されると腐った牛の骨を与えた。献帝は立腹し難詰しようとしたが、侍中の楊琦は「李傕は田舎者で野蛮です。しかし非道な行いは自覚しており、刺激すればもっと酷い目に遭います」となだめやめさせた。

「献帝起居注」に曰く。
献帝が董卓残党の支配する長安を脱出しようとすると、郭汜(かくし)の兵が道を阻んだ。
劉艾(りゅうがい)は「天子様だ!」と大声で叫び、楊琦に命じて車の御簾(すだれ)を上げさせた。献帝は「お前たちは下がりもせず、なぜ私の近くまで迫るのか」と叱咤し、郭汜の兵は道を空け、通過すると万歳を叫んだ。(『董卓伝』)

※「後漢書 楊震伝」に事績があるため後に追記する



楊儀  口は災いの元


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楊戯  「季漢輔臣賛」を著す


楊戯(ようぎ)字は文然(ぶんぜん)
益州犍為郡武陽県の人(??~261)

蜀の臣。

若い頃は程祁(ていき)、楊汰(ようたい)、張表(ちょうひょう)と並び称された。楊戯はいつも程祁を筆頭と推していたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。
20余歳で州の書佐から督軍従事となって裁判を司り、公平妥当とうたわれた。諸葛亮に召されて丞相府の主簿になった。

234年、諸葛亮の没後には尚書右選部郎に任命されたが、諸葛亮の後継者の蔣琬(しょうえん)に請われ治中従事史になった。
蔣琬が大将軍に上るとその府の東曹掾に召された。(『楊戯伝』)

楊戯は大まかな性格で、議論中でさえ蔣琬に返事をしないことがあった。ある人が彼を陥れようと態度の悪さを訴えると、蔣琬は「人の心は顔と同じようにそれぞれ違う。表では従い、裏で文句を言うのは古人も戒めている。楊戯は私の意見に賛成すれば本心を偽り、反対すれば私の非を明らかにすると考え、黙っているのだ。むしろさわやかな態度である」と弁護した。(『蔣琬伝』)

以後も南中郎参軍、庲降都督の副将・兼建寧太守を歴任し、病気になると都に召還され護軍監軍、梓潼太守、射声校尉と重職を歴任した。いずれも清潔かつ簡約で細かいことにこだわらなかった。

怠惰で仕事も適当に手を抜く性分だったが、公正で他人に取り入らず、ひいきもしなかった。
仕事で指示を与える時は、細々と書かず一枚の紙ですら紙面が余った。
旧知の者への友愛は固く、幼馴染の韓儼(かんげん)や黎韜(れいとう)は重病や身持ちの悪さで誰からも見捨てられたが、楊戯だけは昔通りの友情を示した。
低評価されていた譙周(しょうしゅう)も楊戯だけが「我らの子孫は結局このノッポ(※譙周)に劣るだろう」と称賛した。後に譙周が頭角を現すと楊戯の評価も上がった。
かつて並び称された程祁・楊汰・張表はいずれも先に没した。

241年、「季漢輔臣賛」を著し、蜀を支えた故人を顕彰した。
陳寿はこれを正史に全文掲載するとともに補足しており、史官を置かず記録の乏しい蜀書を補うとともに、故国の先人達への敬意を表したと考えられている。

257年、姜維の北伐に従軍した。
平素から彼に心服していなかったため、楊戯は酒が入ると嘲笑した。姜維は寛大な態度を取ったが内心では嫌悪し、心中を察した官吏によって楊戯は上訴され、免官のうえ庶民に落とされた。
261年に没した。(『楊戯伝』)

陳寿は「人の優れた点を見出すため人物評定を行った。しかし智慧には欠陥があり、危うく災難にかかるところだった」と評した。

「演義」には登場しない。



楊曁  学者ながらに軍事に参与


楊曁(ようき)字は休先(きゅうせん)
司隸滎陽郡の人(??~??)

魏の臣。

215年、魏は漢中を攻めたが苦戦した。
楊曁の上表に曰く「武帝(曹操)は自ら十万の軍勢を率い、張衛(ちょうえい)の守備など問題にならないと考えていた。ところが漢中は天然の要害で、いくら精鋭や勇猛な将がいても手の打ちようがなかった。対峙すること3日間、ついに「挙兵して30年になるが、初めて人に(勝利を)くれてやるのはどうかな」と弱音を吐き撤退を決めたが、天運が味方し、張魯(ちょうろ)が自壊した隙をつき漢中を平定しました」(『張魯伝』)

228年、曹休(そうきゅう)は石亭の戦いで大敗した。曹休が謝罪すると、曹叡は屯騎校尉の楊曁を使者に立てて彼を慰撫し、以前に増した待遇を与えたが(敗戦の悔恨から)急病を発し逝去した。(『曹休伝』)

232年、遼東で公孫淵(こうそんえん)が反乱すると、中領軍の楊曁は田豫(でんよ)を推挙した。田豫は汝南太守のまま青州の諸軍を率い、遼東軍の進路を読んで撃破した。(『田豫伝』)

「傅子」に曰く。
劉曄(りゅうよう)は曹叡に重用された。曹叡が蜀征伐を考えると内々で彼も賛成したが、公の朝臣との討議では反対に回った。
楊曁は反対派の中でも最も堅固に主張し、劉曄とも議論を重ねていた。楊曁が曹叡にも反対を伝えると「学者の君に軍事のことがわかるのか」と皮肉られた。
楊曁は「私は儒者の端くれですが、陛下が中領軍に任じられたからには言葉を尽くします。それに劉曄も反対しています」と返した。
曹叡は劉曄も内々では賛成していると言い、改めて呼び出し問いただすと「国の討伐は重大な計画です。私は夢の中でさえ漏らさないよう気を付けているのに、決まってもいない計画をなぜ吹聴するのですか。口に出せば蜀に伝わる危険があります」と劉曄は諌めた。
劉曄はさらに楊曁へ「釣り師は魚が針にかかると、まず魚の動きに任せ、制御できるようになってから釣り上げる。君主は大魚どころではない。あなたは率直な臣下だが策略は取るに足らない。熟考すべきだ」と苦言を呈した。
曹叡も楊曁も謝ったが、劉曄は後に讒言により失脚し、発狂して死んだ。英知と策謀はあったが道義と誠実さが無かったからである。(※裴松之が注に引いた異聞であり正史の記述ではない)(『劉曄伝』)

子の楊肇(ようちょう)は晋代に荊州刺史に上った。(『田豫伝』)



楊恭  張裔に遺児を養育される


楊恭(ようきょう)字は不明
益州犍為郡の人(??~??)

張裔(ちょうえい)の友人。

張裔と親しくしたが若死にし、遺児は数歳にもならなかった。張裔は遺児を引き取って家に住まわせ、自分の母のように楊恭の母に仕えた。遺児が成長すると嫁を探し、田畑と家を買い与えた。(『張裔伝』)



楊顒  たとえ話で諸葛亮を謝らせる


楊顒(ようぎょう)字は子昭(ししょう)
荊州の人(??~??)

蜀の臣。
楊儀(ようぎ)の一族。

214年、劉備が益州を制圧すると巴郡太守となり、諸葛亮の主簿を務めた。
ある時、諸葛亮が自ら金銭や穀物の出納帳を調べていると、楊顒はずかずかと部屋に入ってきて次のように諫言した。
「行政には役割があり、それを侵犯してはいけません。一家にたとえれば、奴隷が耕作し、下女が炊事をし、鶏が朝を告げ、犬が盗人に吠え、牛が荷を背負い、馬が人を運べば、各人の仕事に空白はなく、全てが充足します。
ところが主人がそれらを全て自分で行えば、疲労困憊し結局なにもできません。それは主人が奴婢や鶏や犬に劣っているからではなく、一家の主人としての道に反しているからです。(※故事を引き)先人も自分の職務だけに集中しました。公(諸葛亮)は手ずから出納帳まで調べ一日中汗を流していますが、あまりにも労働過重です」
諸葛亮は陳謝した。

楊顒は後に東曹属となり官吏の選考を司った。
没すると諸葛亮は3日間泣き続けた。
そして蔣琬(しょうえん)と張裔(ちょうえい)に手紙を送り「頼広(らいこう)と楊顒を失い朝廷の損失は多大だ」と嘆いた。(『楊戯伝』)



楊欣


未作成



楊訓  崔琰の死を招く


楊訓(ようくん)字は不明
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。

崔琰(さいえん)に「才器は不足するが清潔誠実で道義を守る」と推挙され、すぐさま曹操に招聘された。

216年、曹操が魏王に即位した際に楊訓はおもねった上奏をし、人々に嘲笑され、崔琰の推挙は誤りだったとささやかれた。
崔琰はその上奏を読むと「内容が良いだけだ。時よ時よ。必ず時代は変化する」と返信した。あれこれ言う者は咎めだてしたいだけで、情理を考えていないと非難したつもりだったが、世間を恨み誹謗中傷する意味だと受け取る者がおり、曹操も不遜だと激怒した。
処罰し懲役刑を命じたが、崔琰の言動も態度も変わらず、曹操は「罪人でありながら家に賓客を招き、門前は商人のように賑わい、ミズチのような髭で客を威嚇している」といよいよ腹を立て、ついに死を命じた。(『崔琰伝』)



楊敬叔


未作成



楊原  任峻に決起を促される


楊原(ようげん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

中牟県令を務めた。
董卓が都を席巻する混乱の中、楊原は逃亡を企てたが、任峻(じんしゅん)は「誰もが董卓に怒っていますが、きっかけがなく決起できないだけです。あなたが口火を切れば後に続くでしょう」と説得し、「関東10県の兵を集めれば1万人を下りません。河南尹を代行し募兵しましょう」と進言した。
楊原はそれに従い、任峻に主簿を命じた。任峻は上奏して河南尹を代行し兵を集めた。

任峻はその後、曹操に仕えたが、楊原の消息は不明である。(『任峻伝』)



楊弘  またの名を楊大将


楊弘(ようこう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁術の臣。

長史を務めた。
199年、袁術が没すると残党の張勲(ちょうくん)は旧知の孫策のもとへ落ち延びようと考え、楊弘もそれに同行したが、廬江太守の劉勲(りゅうくん)に捕らわれ軍勢を奪われた。
張勲ともどもそのまま歴史から姿を消した。(『孫策伝』)

「演義」では楊大将(ようたいしょう)へ謎の改名を果たす。というか同一人物にされがちだが、ありふれた姓だし全くのオリジナルキャラの可能性もある。
呂布に兵糧を送って懐柔し、その隙に劉備を攻めさせる案を出したが、呂布は劉備と袁術を仲裁させてしまい失敗に終わった。
その後、曹操に寿春を攻められると淮南へ逃げるよう勧め、物語から姿を消した。



楊弘  王淩の反乱を密告


楊弘(ようこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

251年、王淩(おうりょう)は反乱を企て、将軍の楊弘を派遣して兗州刺史の黄華(こうか)に協力させようとした。楊弘・黄華はすぐさま司馬懿に密告し、王淩は捕らえられ、自害した。
楊弘・黄華は郷侯に封じられた。(『王淩伝』)



楊孝祖  許劭に推挙された6人の賢者E


楊孝祖(ようこうそ)字が孝祖か
豫州汝南郡の人?(??~??)

素性不明。

「汝南先賢伝」に曰く。
許劭(きょしょう)は樊子昭(はんししょう)・虞永賢(ぐえいけん)・李淑才(りしゅくさい)・郭子瑜(かくしゆ)・楊孝祖・和洽(かこう)ら6人の賢者を推挙した。6人には及ばないが、伸び悩んでいたり子供の頃に許劭に評価されて名を上げた者は数え切れないほど多かった。
見せかけの品行を暴き、虚偽の名声を抑えつけたのは周の単襄公さえ問題にならないほどだった。(『和洽伝』)

楊孝祖は「引き上げられた」とだけ書かれ身分がわからないが、他の5人も低い身分から見出されており楊孝祖も同様だろう。



楊昂  五斗米道の呪符使い


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楊洪  勉強嫌いの出世人


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楊康  令狐愚の謀叛を密告したが斬られる


楊康(ようこう)字は不明
出身地不明(??~251?)

魏の臣。

兼治中従事を務めた。単固(ぜんこ)とともに兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)の腹心だった。

後に令狐愚は王淩(おうりょう)とともに謀叛を企み、単固と楊康もその計画を知っていた。
令狐愚は決行前に重病に倒れ、楊康が都に招聘されると、単固も病を理由に官を辞した。
令狐愚は病没し、楊康が計画を密告したため、251年、王淩は捕らえられた。
司馬懿は単固に事情を知っているか尋ねたが否定されたため、一族もろとも逮捕し、拷問したが単固は口を割らなかった。
司馬懿は業を煮やし、楊康も捕らえ単固と論戦させた。単固は弁明に詰まった末に「おいぼれめ、主君(令狐愚)を裏切った上に私の一族を滅ぼしておいて、自分が生き長らえられるか考えてみろ」と罵った。
単固は謀叛を知っていたと断じられ、処刑を命じられた。

楊康は謀叛の密告により列侯されるのを期待していたが、単固との論戦により多くの嘘が明らかとなり、結局ともに処刑された。
単固は処刑場に向かいながら楊康を「おいぼれの下衆め、お前の死は自業自得だ。死者に知覚があるなら、どの面下げてあの世へ行く(※令狐愚に会う)つもりだ」と罵った。(『王淩伝』)



楊囂  楊脩の子


楊囂(ようごう)字は不明
司隷弘農郡華陰県の人(??~??)

魏・晋の臣。
楊脩(ようしゅう)の子。楊彪(ようひょう)の孫。

「世語」に曰く。
晋代に著名で、泰始年間(265~275)はじめに典軍将軍となった。
(司馬炎の?)腹心を務めたが早くに没した。(『陳思王植伝』)

典軍将軍の時、呉との戦いで賈充(かじゅう)の命令を届け60日で遠征軍を撤退させた。(『晋書 賈充伝』)

278年、盧欽(ろきん)が没すると司馬炎は「王基(おうき)・盧欽・楊囂には余財が無く、遺族は飢饉で困窮している」と言い、米を贈らせた。(『晋書 盧欽伝』)

子の楊準(ようじゅん)も著名で冀州刺史まで上った。(『陳思王植伝』)



楊賛  崔烈を非難した傅燮を非難


楊賛(ようさん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

涼州で辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)が反乱すると、司徒の崔烈(さいれつ)は涼州を放棄するよう強く主張した。傅燮(ふしょう)は激怒し「司徒を斬り天下を安んじよ」と言った。
尚書郎の楊賛が傅燮は大臣を侮辱したと非難したが、霊帝は傅燮に意見を聞いた。
傅燮は故事を引き涼州の重要さを説き「崔烈は宰相でありながら国家のための策も考えず、一州を切り捨て天下に憂慮を与えようとしています。それを理解していないなら暗愚の極みで、理解しているなら不忠の極みです」と言った。霊帝も同意し、朝廷は傅燮を重んじ重大事を相談するようになった。(『後漢書 傅燮伝』)



楊粲  南郡の救援に向かう


楊粲(ようさん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

222年、夷陵の戦いの直後に魏は三路から呉へ侵攻した。
南郡には曹真(そうしん)・夏侯尚(かこうしょう)・張郃・徐晃が攻め寄せ、呉からは諸葛瑾(しょかつきん)・潘璋(はんしょう)・楊粲が救援に向かった。(『呉主伝』)

魏軍は浮き橋を造って中洲を占拠し、包囲された朱然(しゅぜん)を救おうにも呉軍はなすすべなかった。潘璋は「敵は勢い盛んで長江の水位も低く今は戦うべきではない」と言い、密かに葦で大量のイカダを造り、水位が上がったら火を点けて流し浮き橋を焼こうと考えた。
だが夏侯尚らはそれを察知し撤退した。(『潘璋伝』・『朱然伝』)

楊粲は主力級のメンバーとして名前が挙がり相応の地位にいたようだがこの戦いにしか登場しない。

 


楊芷  賈南風に抹殺された皇后


楊芷(ようし)字は季蘭(きらん)
司隸弘農郡華陰県の人(259~292)

司馬炎の2人目の皇后。
楊駿(ようしゅん)と龐氏(ほうし)の娘。
楊艶(ようえん)の従妹。

男胤(だんいん)という字もあり楊胤とも書かれる。
274年、皇后の楊艶は重病にかかると死後に寵愛される胡夫人(こふじん)が皇后になれば太子の司馬衷が廃されると恐れ、従妹の楊芷を泣きながら推薦した。(『晋書 武元楊皇后伝』)

276年、皇后に立てられた。柔順で婦徳があり後宮で名声高く寵愛されたが、渤海殤王(ぼっかいしょうおう)は早逝し子には恵まれなかった。
289年、夫人や側室とともに桑を摘み褒美を与えた。

太子妃の賈南風(かなんぷう)は嫉妬深く、司馬炎は廃そうとしたが楊芷が「父の賈充(かじゅう)は元勲で数世代は特別扱いするべきです。嫉妬深いだけでは帳消しになりません」と反対したため取りやめた。
しかし賈南風はしばしば楊芷に戒め注意されたため、助けられたことも知らず逆恨みした。
凶暴さは度外れており291年、ついに楊駿を陥れて誅殺した。
楊芷も一切の意思表示をできず、矢文を城外へ飛ばし助けを求めたが、これが露見し反逆者の一味とされた。

永寧宮へ移送され、司馬衷のはからいで実母の龐氏には会えたが、賈南風は群臣らを利用して楊芷が反乱を企てていると司馬衷に吹き込み、身分を庶民へ落とすよう勧めた。
張華(ちょうか)らは故事を引き太后から皇后へ落とすだけでよいと反対したが、司馬晃(しばこう)らが強硬に主張した。司馬衷は渋り、龐氏の処刑にもはじめ同意しなかったが結局押し切られた。
楊芷は母と抱き合って泣き叫び、髪を切り土下座し「妾」と称してまで助命嘆願したが賈南風は会いさえしなかった。

翌292年、側近も何もかも奪われ餓死した。享年34。
賈南風は怪しげな巫術を信じており、楊芷があの世で司馬炎に訴えないようさまざまな呪術を施した。

307年、名誉回復され皇太后に復したが、司馬炎とは合祀されなかった。
340年、改めて議論されようやく合祀された。(『晋書 武悼楊皇后伝』)



楊賜


未作成



楊竺  孫覇派の讒言魔


楊竺(ようじく)字は不明
徐州広陵郡の人(??~250)

呉の臣。

若くして声望を集めたが、陸遜は彼がいずれ身を誤るだろうと考え、兄の楊穆(ようぼく)へ弟と絶縁するよう勧めた。(『陸遜伝』)

二宮の変が起こると全寄(ぜんき)は孫覇(そんは)派の中核を担い、楊竺とともに毎日のように孫和(そんか)派を讒言した。それにより顧譚(こたん)は配流され、陸胤(りくいん)は投獄された。(『孫和伝』・『陸胤伝』)

吾粲(ごさん)は誰はばかることなく正論を唱え、太子を明確にし孫覇を外へ出し、楊竺を追放するよう意見した。このため孫覇・楊竺の恨みを買い、讒言によりついに処刑された。(『吾粲伝』)

245年、陸遜が没すると、孫権は遺児の陸抗(りくこう)へ、かつて楊竺が讒言した20条の嫌疑を問いただした。陸抗はひとつひとつに条理を立てて反論し、孫権は疑いを解いた。(『陸遜伝』)

250年、孫権は二宮の変に孫和の廃嫡と孫覇の自害で終止符を打った。楊竺は誅殺され、死体を長江へ投げ棄てられた。
兄の楊穆は弟をしばしば止めようとしたため死罪は免れたが、南方へ配流された。全寄も誅殺された。(『孫覇伝』)

裴松之は二宮の変において歩隲(ほしつ)ほどの良臣が「孫覇にへつらい結託し楊竺などと変わりなかった」と嘆いた。(『孫和伝』)

次の異聞がある。
「呉録」に曰く、孫権は楊竺と二人きりで孫覇の才能について論じあった。楊竺の絶賛を受け、孫権は太子に立てることを約束した。側近がベッドの下に隠れてこれを聞いており、太子の孫和に報告した。
孫和はたまたま訪れた陸胤に、このことを陸遜に伝えるよう頼んだ。
陸遜は太子を変えないよう上表し、孫権は楊竺が漏洩したと思い詰問した。楊竺は調査し、陸遜に伝えられたのは陸胤しかいないと報告したが、陸胤は孫和をかばい「楊竺に聞きました」と道連れにした。
楊竺は拷問に耐えきれず偽りの自白をし、もともと彼を疑っていた孫権は処刑させた。(『陸胤伝』)

「演義」ではそもそも二宮の変が起こらないので登場しない。



楊秋  旗本八旗アホ担当


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楊修  ヨウトン教授と破滅のカンペ


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楊醜  暗殺また暗殺


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楊俊  司馬懿らを世に送り出す


楊俊(ようしゅん)字は季才(きさい)
司隷河内郡獲嘉県の人(??~222)

魏の臣。

若い頃は辺譲(へんじょう)のもとで学問を修め高評価された。
世情が乱れると、河内郡は交通の要衝であり戦乱に巻き込まれると考え、付近の住民100軒余りを連れて京県・密県一帯の山へ移住した。親族や知人が6軒ほど人買いに連れ去られると、家財を傾け買い戻してやった。貧乏な者を援助し一心同体で暮らした。

河内郡では司馬朗(しばろう)が名声高かったが、楊俊はその弟で無名の司馬懿や、族弟の司馬芝(しばし)の才能を見抜いた。
難を避けてさらに并州へ移ると、奴隷だった王象(おうしょう)を見出し、身柄を引き取り自由の身にした。3人ともに魏の重臣となった。(『楊俊伝』)

并州刺史の梁習(りょうしゅう)は、常林(じょうりん)・楊俊・王凌(おうりょう)・王象・荀緯(じゅんい)を推挙し、曹操はみな県長に任じた。(『常林伝』)

曹操ははじめ楊俊を曲梁県長に任じ、後に都に召して丞相掾属とした。茂才に推挙され、安陵県令、南陽太守と昇進していった。
任地では道徳を教化し、学校を建てたため官民に称えられた。
征南軍師に転任し、魏が建国されると中尉になった。
生涯を通して人物鑑識を使命とし、兵士から審固(しんこ)、衛恂(えいじゅん)を抜擢し、ともに高位に上った。

219年、魏諷(ぎふう)が反乱すると、自分の責任と感じ、自らを弾劾して出頭した。免職になると思い込み、曹丕へ別れを告げると、曹丕は不機嫌そうに「たいそう気高いことだ」と皮肉った。
平原太守に左遷された。(『楊俊伝』)

曹操は「反乱を招いたのは、私の爪・牙となるべき臣に、悪事を留め企みを防ぐ者がいなかったからだ。諸葛豊(前漢の名臣)のような人材に楊俊の後任を任せたい」と言った。
桓階(かんかい)は「徐奕(じょえき)こそその人です」と推薦し、後任の中尉となった。(『徐奕伝』)

220年、曹丕が即位すると南陽太守に復した。
散騎常侍に上っていた王象は楊俊を絶賛し都へ呼び戻すよう推挙した(が、容れられなかった)。

222年、曹丕は南陽郡宛県に行幸するにあたり「百官は郡県に迷惑を掛けない」よう通達した。ところが宛の県令は曲解し、「郡県が百官に迷惑を掛けない」よう市場を閉鎖した。行幸した曹丕はゴーストタウンと化した宛を見て「私は盗賊なのか」と激怒し、南陽太守の楊俊と県令を逮捕した。
曹丕はかつて後継者争いの際に、敵対こそしなかったが曹植(そうしょく)の方を評価した楊俊を憎んでおり、自害を命じた。
司馬懿、王象、荀緯らは平伏し、頭から血を流すほど助命嘆願したが許されず、楊俊は罪を認め、自害した。
人々は冤罪だと悲しみ悼み、王象は失意から病を得て没した。

孫の楊覧(ようらん)・楊猗(ようい)は高位に上った。(『楊俊伝』)

魚豢(ぎょかん)は「魏略」に列伝し「梁習・趙儼(ちょうげん)・裴潜(はいせん)は張既(ちょうき)・楊俊には及ばないが、自己を抑制し、老いていよいよ明知を発揮したのは簡単にできることではない」と称えた。(『裴潜伝』)

陳寿は「人間関係を大切にして道義を行った」と評した。

「演義」には登場しない。



楊駿  頂点からの転落


楊駿(ようしゅん)字は文長(ぶんちょう)
司隷弘農郡華陰県の人(??~291)

晋の臣。
楊芷(ようし)の父。
楊珧(ようちょう)・楊済(ようせい)の兄。

若い頃から王(※不明)に直属に仕え高陸令・驍騎鎮軍二府司馬となった。
276年、娘の楊芷が司馬炎の2人目の皇后となり分を超えた権勢を得て、鎮軍将軍から車騎将軍に移り臨晋侯に封じられた。
皇后の父となったために列侯されたことを大乱の前兆であると非難された。褚䂮(ちょけい)・郭奕(かくえき)は楊駿は器量が小さく重職に就けないよう諌めたが司馬炎は従わなかった。

三国統一がなり太康年間(280~289)、天下は安泰で司馬炎は政治を顧みなくなり、酒色にふけり皇后の一族を寵愛した。謁見するため口利きが横行し、楊駿と弟の楊珧・楊済が権力を握り人々は「三楊」と呼んだ。

290年、司馬炎は重病になったがいまだ後継者を定めず、建国の功臣もほとんどが没しており朝廷は動揺した。楊駿はそれに乗じて自分の一派だけで要職を固めた。
司馬炎は少し回復した時に人事を見ると顔色を変え、楊駿に「これで良いはずがない」と言い司馬亮(しばりょう)に楊駿と同等の権力を与えようとした。だが楊駿は華廙(かよく)からその詔勅を奪い隠してしまった。
二晩が経ち司馬炎はいよいよ危篤となった。楊芷は楊駿に全権を握らせるよう上奏し、司馬炎はうなずくしかなかった。華廙・何劭(かしょう)に口頭で遺詔を作らせ、楊駿は侍中・車騎将軍・行太子太保・領前将軍から太尉・太子太傅・仮節・都督中外諸軍事・侍中・録尚書・領前将軍に昇進した。司馬炎は詔勅を見せられ何も言わなかった。
2日後に没すると楊駿は殯(通夜)にさえ出ずに兵で守りを固めた。これより恭謙さを完全に失った。

司馬衷が即位すると太傅・大都督・仮黄鉞に上り、朝廷と百官を統括した。側近の裏切りを恐れ甥の段広(だんこう)・張劭(ちょうしょう)を近侍とした。詔勅は常に司馬衷が確認すると楊芷(楊駿)に提出された後に発令された。
皇后の賈南風(かなんぷう)を制御できず、ひどく恐れはばかり、私党を多く立て兵を集めさせた。皇族は天下に恨まれ、弟の楊珧・楊済は俊才でありしばしば諌めたが、聞き入れず追い返した。
古典や旧例の知識に乏しくたびたび禁を犯した。司馬炎が没した時も年をまたいでいないのに改元し、それを指摘されると失敗を隠すため史官に記録を削除させ翌年に改元をやり直した。
声望が無いことを自覚し、曹叡が即位した時にならい、列侯や賞賜を乱発し歓心を買おうとした。だが独善的で諫言を聞かず世論と調和しなかった。
友人の孫楚(そんそ)は故事を引き「皇族外の者が朝政を専断し子孫まで存続した試しはない。皇族は王として勢い盛んで、あなたは協調せず猜疑心を抱き、友人ばかり用いている。災いは目の前に迫っている」とたしなめたが従わなかった。
従兄弟の蒯欽(かいきん)は若い頃から楊駿と気心が知れ、まっすぐな性格で自説を曲げないためしばしば正論で諌めた。楊珧・楊済は彼が殺されないか肝を冷やしたが、蒯欽は「楊駿は知恵はないが私を処罰しようにも罪がないことくらいはわかる。遠ざけるだけで殺されることはないだろう。遠ざけてくれれば一緒に死なずに済むが、そうならなければ(ないがしろにされた)皇族に報復され生き残れまい」と言った。

孟観(もうかん)・李肇(りちょう)は楊駿に冷遇されており、(賈南風へ)楊駿が帝位の簒奪を企むだろうと密かに言い募った。
賈南風は自ら朝政をしたいと企んでいたが楊駿に専横され、楊芷に嫁として仕えるのも不服だった。そこで宦官の董猛(とうもう)と結託し楊芷の廃位と楊駿の誅殺を狙い、孟観・李肇を一味に引き込んだ。司馬亮にも打診したが「楊駿は凶暴で死と滅亡は目の前だ(から手を下すまでもない)」と断られた。
司馬瑋(しばい)は賛成し、入朝を求めた。楊駿は司馬瑋をかねてから警戒しており、入朝させれば脅威ではなくなると考え受諾した。

291年、司馬瑋が入朝すると孟観・李肇は夜中に司馬衷に楊駿罷免の詔勅を作らせ厳戒態勢とし、司馬繇(しばよう)が近衛兵4百を率い逮捕に向かった。段広は「楊駿には子がなく簒奪などする理由がありません」と弁解したが司馬衷は何も言わなかった。
楊駿は討伐を聞き配下に対策を尋ねた。朱振(しゅしん)は「おそらく賈南風と宦官の謀略で不利な状況です。宮殿の門を焼いて威勢を示し、太子(司馬遹)の身柄を奪い宮殿へ突入すれば、首謀者の首を斬って寄越すでしょう」と献策したが、臆病な楊駿は「明帝(曹叡)が大動員して建てた宮殿を焼いていいわけがない」と尻込みした。
傅祗(ふし)は武茂(ぶぼう)とともに宮殿に入り偵察してくると許可を得て、同僚を「宮中を手薄にしてはいけない」と誘いかくして全員が楊駿のもとから逃げた。
司馬繇らは楊駿の籠もる役所に火を放ち、弩(ボウガン)で狙い撃ちさせ、兵は外に出ることもできなかった。楊駿は厩に逃げたところを刺殺された。
賈南風は楊駿と親しくした者をことごとく三族皆殺しとし、死者は数千人に上った。
李肇に楊駿の家の書類を焼かせ、偽造した司馬炎の遺詔を抹消した。死体には誰も近づかず太傅舍人の閻纂(えんさん)だけが収容した。

これより先、楊駿は隠者の孫登(そんとう)を招き衣服を贈った。孫登はそれを切ってしまい「切れ切れ刺せ刺せ」と大声で言った。10日後、病死と偽って帰った。
楊駿が粛清されると人々は孫登の予言だと思った。
また290年には司隸河内郡温県の狂人が「光光たる文長(楊駿の字)、大戟を連ねて壁を作った。毒薬を用いたが戟が返って自分を傷つける」と歌った。楊駿は護衛に戟を使わせていた。

(賈南風の誅殺後の)301年、司馬衷は「舅(楊駿)は道理を失い宗族が絶えた。とても悲しいことである」と一族の楊超(ようちょう)を奉朝請・騎都尉に任じた。(『晋書 楊駿伝』)



楊条


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楊稷  陶璜と戦った交阯太守


楊稷(ようしょく)字は不明
益州犍為郡の人(??~271)

晋の臣。

263年(『孫休伝』)、交阯太守の孫諝(そんしょ)が暴政を布いたため、郡の役人の呂興(りょこう)は孫諝を殺し、魏へ鞍替えした。呂興は晋から後任の太守に任命されたが、彼も部下に殺され、その後も次々と没し安定しなかった。(『晋書 陶璜伝』)

268年(『孫晧伝』)、南中監軍の霍弋(かくよく)は、新たな交阯太守の楊稷を援護するため、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて出撃し、呉の大都督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)

それに対し呉は陶璜(とうこう)らが反撃した。楊稷に敗れ二将を失ったものの(『晋書 陶璜伝』)、態勢を立て直し271年、交阯を包囲した。
楊稷・毛炅らは、霍弋から「包囲され百日以内に降伏したら一族もろとも誅殺する。百日を過ぎれば降伏しても罪は私が引き受ける」と言い含められていた。だがその霍弋はすでに病没し、兵糧も尽きたため楊稷は百日経たずに降伏を申し出た。
ところが陶璜は食料を渡し籠城を続けさせた。配下の者が諌めると「百日経てば彼らは罪を免れ、我らは義を立てられる。民には教訓になり、敵国も懐柔できて素晴らしいではないか」と答えた。
百日後、楊稷・毛炅は降伏した。
以上の逸話は「漢晋春秋」と「晋書」に記されている。

「華陽国志」に異聞がある。
王約(おうやく)の寝返りにより城は落ち、楊稷と毛炅は捕虜にされた。陶璜は勇猛な毛炅を解放しようとしたが、毛炅に父の脩則を殺された脩允(しゅういん)は処刑を願った。
毛炅にも恭順する意思はなく、陶璜に拷問されてもひるまず「お前たちの父親は死んだ犬だ」などと罵り続けながら殺された。
楊稷は護送中に病死した。
司馬炎はこれを聞くと悲しみ、楊稷に交州刺史を追贈し、毛炅の爵位を長男に継がせ、他の三人の子は関内侯に封じた。(『孫晧伝』)

「晋書」にはさらに別の経緯が記される。
楊稷と毛炅は降伏した。脩允は毛炅の処刑を願ったが、陶璜は許可しなかった。ところが毛炅は陶璜の暗殺を企み捕まった。陶璜は拷問の末に毛炅を殺した。
楊稷は護送中に病死した。

司馬炎は呉の捕虜になるも脱走した孟幹(もうかん)から経緯を聞き、これより先に楊稷を交州刺史、毛炅を交阯太守に任じていたが、印綬が届く前に二人とも没したため、楊稷に交州刺史を追贈し、毛炅の子を関内侯に封じた。(『晋書 陶璜伝』)



楊任  わしが楊任よ


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楊崇


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楊済  楊駿に巻き込まれる


楊済(ようせい)字は文通(ぶんつう)
司隷弘農郡華陰県の人(??~291)

晋の臣。
楊駿(ようしゅん)・楊珧(ようちょう)の弟。
「晋書 楊駿伝」に附伝される。

鎮南・征北将軍を歴任し、太子太傅となった。
武芸に優れ、司馬炎の狩猟に王済(おうせい)とともにお供をした時、猛獣が飛び出してきた。司馬炎が王済に命じて射殺させると、2匹目が現れた。今度は楊済が命じられて射殺し、兵は大いに快哉を叫んだ。
司馬炎は武官を重視し貴族や清流派の優れた者を任用し、楊済は武芸で称えられた。次兄の楊珧と治世を考え、甥の李斌(りひん)らとともに厳しく司馬炎を諌めた。楊駿が王佑(おうゆう)を左遷し、司馬衷が太子に立てられたのは全て楊済の計画によるものである。

楊駿は司馬亮(しばりょう)を忌み嫌い、都から出して帰藩させようとしたが、楊済・李斌は反対したため疎まれた。
楊済は傅咸(ふかん)に「もし楊駿が司馬亮に政治を任せ自分は引退すれば、一族はかろうじて存続できる。さもなければいずれ皆殺しにされるだろう」とぼやいた。傅咸は「司馬亮とは協調すべきで引退する必要はない。専横してはいけないのは外戚だけではなく宗室(皇族)もだ。今は宗室の力が弱いからバランスを取り依存関係を目指せばよい」と助言した。
楊済はますます不安になり石崇(せきすう)にも相談した。石崇も「宗室を疎外しているが四海と協調すべきだ」と言った。楊済は自分の言葉は楊駿に聞き入れられないが、石崇からなら聞くかもしれないと考え頼んだが、楊駿は却下した。

291年、楊駿・楊珧・楊済は誅殺された。
その直前、楊済は東宮(太子の宮殿)に呼び出された。粛清を察知し裴楷(はいかい)にどうすべきか尋ねたが「あなたは太子太傅だから行くしかない」と言われた。
楊済は施しを好み長く兵権を持っていたため兵に慕われていた。配下の兵4百人はいずれも関中の精鋭で弓を射れば必ず命中する腕前で、全員が楊済を救いたいと思っていた。だが東宮に入るともはや打つ手はなく、皆が嘆き恨んだ。(『晋書 楊済伝』)



楊整脩


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楊宣  曹操に印綬や冠を授けた使者


楊宣(ようせん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝起居注」に曰く。
214年、献帝は左中郎将の楊宣と亭侯の裴茂(はいぼう)を使者とし、曹操に印綬や冠を授けた。(『武帝紀』)



楊祚  遼東で一、二を争う名将?


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楊宗  羅憲の副将格


楊宗(ようそう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀・晋の臣。

「漢晋春秋」に曰く。
264年、蜀が滅亡したが旧臣の羅憲(らけん)は魏へ降伏せず、侵攻してきた呉軍を相手に孤軍奮闘していた。羅憲は参軍の楊宗に包囲を破らせて魏の陳騫(ちんけん)へ救援を求めた。籠城戦は半年を超えたが、陳騫が司馬昭へ言上し、荊州刺史の胡烈(これつ)が援軍として派遣され呉軍を撃退した。(『霍峻伝』)

巴東監軍が欠員になった時、司馬炎は武陵太守の楊宗と唐彬(とうひん)のどちらが良いか尋ねた。文立(ぶんりつ)は「どちらも失態は犯さないでしょうが、楊宗は酒癖が悪く、唐彬は金銭欲が強い」と答え、司馬炎は「金銭欲は与えれば満たせるが、酒癖はどうしようもない」と唐彬を選んだ。唐彬は「晋書」に列伝される重臣となった。(『晋書 唐彬伝』)

「華陽国志」によると同一人物である。いずれ追記する。
ちなみに羅憲も武陵太守・巴東監軍を歴任している。



楊綜  曹爽を諌めた主簿


楊綜(ようそう)字は初伯(しょはく)
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
249年、専権を振るう曹爽(そうそう)一派を打倒するため司馬懿は挙兵した。
曹爽の司馬の魯芝(ろし)は城門を突破して駆けつけ、主簿の楊綜は降伏しようとする曹爽を「天子を擁し権力を握っているのに、それを捨てて処刑場へ赴くのですか」と諌めた。
曹爽の処刑後、楊綜は謀叛の罪に問われかけたが、司馬懿は「主人のために働くのは当然だ」と言い、魯芝・楊綜を赦し、尚書郎に任じた。
楊綜は後に安東将軍、司馬昭の長史となった。

ただし裴松之は「晋紀には楊綜は安東参軍になったと記されている」と矛盾を指摘する。(『曹真伝』)



楊汰  楊戯の早逝した友人


楊汰(ようたい)字は季儒(きじゅ)
益州巴郡の人(??~??)

蜀の臣?

楊戯(ようぎ)、程祁(ていき)、張表(ちょうひょう)と並び称された。楊戯はいつも程祁を筆頭と推していたが、諸葛亮は楊戯を評価していた。
早逝した。(『楊戯伝』)



楊珧  備えあっても憂いあり


楊珧(ようちょう)字は文琚(ぶんきょ)
司隷弘農郡華陰県の人(??~291)

晋の臣。
楊駿(ようしゅん)の弟。楊珧(ようちょう)の兄。
「晋書 楊駿伝」に附伝される。

尚書令・衛将軍を歴任した。名声あり司馬炎にも見込まれ、声望は兄の楊駿に勝った。
楊駿の権威が盛んになると粛清を恐れ罷免を何度も願い出たが許されなかった。
276年、一族の楊艶(ようえん)に続き楊駿の娘の楊芷(ようし)が皇后に立てられると「一族から二人の皇后を出して滅亡しなかった試しは古今にありません。どうか私の(罷免を求める)上表を所蔵し、もし言う通りになったら(滅亡の危機に瀕したら)災禍から見逃してください」と司馬炎に言い、認められた。

その姿勢を称賛されたが、司馬炎が司馬攸(しばゆう)の帰藩を目論むと賛成し、人々に恨まれた。羊琇(ようしゅう)は成粲(せいさん)とともに楊珧を殺そうと企み、察知した楊珧は仮病で家に引き籠もった。そして羊琇を讒言で左遷させると、司馬攸の帰藩にあえて反対する者はいなくなった。

趙休(ちょうきゅう)が天文を見て「(前漢を滅ぼした)王莽は一族から5人の公を出しました。楊氏には3人の公がおり天文に異変が出ています。(彼らの反乱が)心配です」と上表すると楊珧はいよいよ恐れ、強く罷免を求めようやく認められた。銭百万・絹五千匹を賜った。

291年、楊駿が誅殺されると、親しくした者まで三族皆殺しとなった。楊珧は司馬炎に預けた上表があるから張華(ちょうか)に確認させて欲しいと頼み、人々も(弟の鍾会の反乱を危惧し、同様に司馬昭に配慮を求め連座を免れた)鍾毓(しょういく)の前例にならうべきだと言ったが、賈南風は楊氏を仇敵のように憎んでいたため聞き入れず処刑した。誰もが悲嘆に暮れた。(『晋書 楊珧伝』)

や~ゆ  よ1  よ2