三国志 新規
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袁春卿  董昭に説得された袁紹の一族


袁春卿(えんしゅんけい)字が春卿か
豫州汝南郡汝陽県の人(??~??)

袁紹の一族。

200年、官渡の戦いで曹操は鄴城を包囲した。
袁紹の任命した魏郡太守の袁春卿が城を守っており、曹操は袁春卿の父で揚州にいた袁元長(えんげんちょう)を招き、正式な魏郡太守の董昭(とうしょう)に袁春卿へ「お父上は兵乱を避けて南方へ移住された。智恵のある深い見識があってこそのことだ。曹操はそれに感心し、一族を離れ孤独なことにも同情しそばへ招いた。あなたは朝廷を離れて袁紹に仕え、このままでは忠も孝も無視することになる。かつて曹操に招聘されたこともあるし、よく考慮されよ」と降伏を促させた。(『董昭伝』)

袁春卿が降伏したかは定かでないが、鄴は204年まで陥落しなかった。(『袁紹伝』)



袁元長  袁春卿の父


袁元長(えんげんちょう)字が元長か
豫州汝南郡汝陽県の人(??~??)

袁紹の一族。

200年、官渡の戦いで曹操は鄴城を包囲した。
袁紹の任命した魏郡太守の袁春卿(えんしゅんけい)が城を守っており、曹操は袁春卿の父で揚州にいた袁元長を招き、正式な魏郡太守の董昭(とうしょう)に袁春卿へ「お父上は兵乱を避けて南方へ移住された。智恵のある深い見識があってこそのことだ。曹操はそれに感心し、一族を離れ孤独なことにも同情しそばへ招いた。あなたは朝廷を離れて袁紹に仕え、このままでは忠も孝も無視することになる。かつて曹操に招聘されたこともあるし、よく考慮されよ」と降伏を促させた。(『董昭伝』)

袁春卿が降伏したかは定かでないが、鄴は204年まで陥落しなかった。(『袁紹伝』)



曹偉  魏諷と並ぶ大罪を犯す


曹偉(そうい)字は不明
兗州山陽郡の人(??~220?)

魏の臣。

「世語」に曰く。
黄初年間(220~226)、孫権が魏へ上奏しよしみを通じると、曹偉は(無官の仲介者を装い?)孫権と書簡を交わし賄賂を求め、それを利用して都の名士と交友しようとしたため誅殺された。

王昶(おうちょう)の「家誠」に曰く。
魏諷(ぎふう)・曹偉は邪悪さで破滅を招いたが、多くの若者を駆り立て動揺させた。速やかに誅殺されたが影響を受けた者は多数に及んだ。我が子らはよく戒めとすべきである。(『王昶伝』)

董昭(とうしょう)は諸葛誕・鄧颺(とうよう)らを「徒党を組んで風紀を乱し、魏諷・曹偉よりも罪深い」と上奏したため、曹叡は彼らを罷免した。

魏諷・曹偉の大罪を同列に論じており、多数の名士の子弟が関わり処刑された魏諷の乱のように詳細がわからないが、匹敵するほどの大事件だったと思われる。
また董昭は「黄初のはじめ」と述べており、220年の出来事だろうか。(『董昭伝』)

「文帝紀」には孫権が上奏したのは221年8月と記される。(『文帝紀』)



董冑  董昭の子


董冑(とうちゅう)字は不明
兗州済陰郡定陶県の人(??~??)

魏の臣。
董昭(とうしょう)の子。

236年(『明帝紀』)、父が没すると後を継いだ。
郡太守や九卿を歴任した。(『董昭伝』)



劉普  劉曄の父


劉普(りゅうふ)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)

劉曄(りゅうよう)の父。

妻の脩(しゅう)は劉曄が7歳、兄の劉渙(りゅうかん)が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)



脩  劉曄の母


脩(しゅう)姓は不明
出身地不明(??~??)

劉曄(りゅうよう)の母。
劉普(りゅうふ)の夫。

劉曄が7歳、兄の劉渙(りゅうかん)が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)



劉渙  劉曄の兄


劉渙(りゅうかん)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)

劉曄(りゅうよう)の兄。
劉普(りゅうふ)の子。

母の脩(しゅう)は劉曄が7歳、兄の劉渙が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)

「ちくま版」の索引では晋代の劉渙と同一人物にされているが、そちらは100年ほど後の元康年間(291~299)に尚書吏部郎になった人物でそんなわけない。
さらに元康年間(264~265)とも誤記されており、それを鵜呑みにした記事も多々見られる。劉渙とともに尚書吏部郎になった邢喬(けいきょう)は306年没であり、年号ではなく期間の誤記だろう。(『邢顒伝』)



陳策  劉曄の読み通りに撃破された山賊


陳策(ちんさく)字は不明
揚州廬江郡の人?(??~??)

山賊。

廬江郡の郡境で数万人を集め要害に立て籠もっていた。
曹操も攻めあぐね、諸将は「険阻な土地で攻略は難しく、討伐しても利益も少ない」と撤退を進言したが、劉曄(りゅうよう)は「以前はまだ天下は平定されず部隊長を差し向けたから抵抗し、天下が定まった今になって降伏すれば処罰されると恐れているのです。勇将を差し向け降伏を呼びかければその日のうちに自壊します」と言い、曹操も「君の発言は適切だ」と同意し、はたしてその通りに撃破された。(『劉曄伝』)

時期は不明だが「天下が平定された」が袁紹の討伐を指すならばかなりの長期間に渡って抵抗していたと思われる。



劉㝢  劉曄の子


劉㝢(りゅうう)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)

魏の臣。
劉曄(りゅうよう)の子。

父が没すると後を継いだ。
末弟の劉陶(りゅうとう)は才能あったが品行悪かった。(『劉曄伝』)



劉陶  劉曄の口だけの子


劉陶(りゅうとう)字は季冶(きや)
揚州淮南郡成悳県の人(??~255?)

魏の臣。
劉曄(りゅうよう)の末子。

才能あったが品行悪かった。平原太守まで上った。

「王弼伝」に曰く。
よく合従連衡の策を論じ、当時の人々から推重された。(『劉曄伝』)

「王弼伝」に曰く。
「戦国縦横家」の説に詳しく、王弼(おうひつ)との議論ではいつもやり込めたが、王弼の得意分野になると打ち負かすことはできなかった。(『鍾会伝』)

「傅子」に曰く。
なかなか評判高く雄弁家だった。曹爽(そうそう)が権勢を振るっていた頃に選部郎となり、鄧颺(とうよう)ら一派に(現代の)伊尹・呂尚(太公望)だと称えられた。
空を突き破るほどに意気高く、夏侯玄(かこうげん)へ「孔子は聖人ではない。なぜなら智者は天下を切り回すもので、(そうしない孔子のような)愚者は球遊びをしているようなもので、天下は取れないのです」と言った。
夏侯玄はあまりに見当外れな言葉に細かく反論する気も起きず「天下の実態は変転して常ならぬ。今に窮地に立った君が見られよう」とだけ言った。
後に曹爽一派が粛清されると劉陶は村の宿舎に引っ込み、失言を謝罪した。

「晋紀」に曰く。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱すると司馬師は質問したが、劉陶の返事は要領を得なかった。
司馬師は「君はいつも私と天下のことを議論しながら、いざとなるとまるっきり控えるのか」と激怒し、平原太守に左遷した上、殺した。(『劉曄伝』)



張喜  赤壁の戦いで合肥を救援


張喜(ちょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。
名は「武帝紀」のみ張熹で、他は張喜と記される。

208年、孫権は劉備と同盟し合肥を攻撃した。曹操は劉備の討伐に向かい、合肥には張熹を向かわせた。孫権は張熹が来ると聞き撤退した。
曹操軍は赤壁へ進み敗北した。
(※裴松之は「呉書」では合肥の戦いの前に赤壁の戦いがあったと記され、そちらが正しいと指摘する)(『武帝紀』)

曹操の本隊は多くの兵が疫病にかかっていたため、張喜に1千騎だけ預け、途中で汝南郡を通過する際に徴兵させたが、そちらも多数が疫病にかかった。
合肥を守る蔣済(しょうせい)は、張喜が4万の兵を率いて現れたとする偽の報告書を作り、使者をわざと孫権に捕まえさせた。孫権はそれを信じ撤退した。(『蔣済伝』)

赤壁の戦い後、孫権は合肥を包囲したが1ヶ月経っても落とせなかった。態勢を立て直した曹操が張喜を援軍に送ったため撤退した。(『呉主伝』)

「ちくま版」は注で張熹と張喜を同一人物と指摘しておきながら、索引では別人にしている。
それにならい項は分けたが内容は同じにした。



封仁  曹操の蔣済への信頼を聞く


封仁(ほうじん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

温恢(おんかい)が揚州刺史になると蔣済(しょうせい)はその別駕に任命され、曹操は「君がいれば心配ない」と辞令を下した。
後に蔣済が謀叛を企んでいると誣告されると、曹操はその辞令を于禁(うきん)と沛国相の封仁らに示し「謀叛が事実なら私は人を知らないことになる。これは愚民が騒乱を楽しんでいるだけだ」と言い、すぐに釈放させ、召し寄せて丞相主簿西曹属に取り立てた。(『蔣済伝』)



蔣秀  蔣済の子


蔣秀(しょうしゅう)字は不明
豫州沛国平阿県の人?(??~??)

魏の臣。
蔣済(しょうせい)の子。

249年、父が没すると後を継いだ。
蔣秀も没すると子の蔣凱(しょうがい)が後を継いだ。

没年は不明だが咸熙年間(264~265)に蔣済の功績により蔣凱が取り立てられており、それ以前に没したと思われる。(『蔣済伝』)



蔣凱  蔣済の孫


蔣凱(しょうがい)字は不明
豫州沛国平阿県の人?(??~??)

晋の臣。
蔣秀(しょうしゅう)の子。蔣済(しょうせい)の孫。

父が没すると後を継いだ。
咸熙年間(264~265)に五等爵の制度が設けられると、蔣済の功績により下蔡子に取り立てられた。(『蔣済伝』)



孫阿  泰山の令となり蔣済の亡き子を助ける


孫阿(そんあ)字は不明
出身地不明(??~??)

歌手。

「列異伝」に曰く。
蔣済(しょうせい)が領軍将軍の時(239~242)、妻の夢に亡くなった息子が現れこう言った。
「私は今は泰山(黄泉の国)で働いていますが、言葉に表せないほど苦労しています。もうすぐ孫阿(そんあ)という男が亡くなり、泰山の令(長官)になるので、どうか今のうちに父上から孫阿へ、私を楽な所へ転任させて欲しいと頼んでください」
妻は蔣済に話したが、彼はただの夢だと取り合わなかった。
だが翌日、またも妻の夢に息子が現れ「私はもう孫阿の迎えに来ていて、彼は明日の真昼に出発します。父上は気難しく理解してくれないので、母上の夢に出てきたのです。どうかもう一度父上に話してください」と言い、孫阿の容姿を詳しく語った。
妻は起きると蔣済へ話を伝えた。人をやって調べさせると孫阿が見つかり、息子が語った通りの容姿だった。
蔣済は「もう少しで息子を裏切るところだった」と涙を流し、孫阿に会い事情を話した。孫阿は死を恐れず、泰山の令になれることを喜び、頼みを快く引き受けた。
蔣済は早く結果が知りたくて、職場から孫阿のそばまで10歩ごとに人を置き、様子を観察させた。午前8時に孫阿は心臓の痛みを訴え、10時には激しくなり、真昼に亡くなった。
蔣済は「我が子の不幸を哀れむが、死後も知覚があったのがうれしい(※また再会できる)」と泣いた。一月余り後、母の夢にまた息子は現れ「録事に転任できました」と報告した。(『蔣済伝』)



閻志  閻柔の弟


閻志(えんし)字は不明
幽州広陽郡の人(??~??)

魏の臣。
閻柔(えんじゅう)の弟。

「魏氏春秋」に曰く。
228年、鮮卑の軻比能(かひのう)を討伐した田豫(でんよ)が3万の大軍に包囲され、曹叡は対策を劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)に尋ねた。
孫資は「上谷太守の閻志は軻比能に信頼されています。詔勅で閻志に説得を命じれば包囲は解けます」と進言し、はたしてその通りになった。(『劉放伝』・『鮮卑伝』)

閻柔は異民族の捕虜となりながら崇敬を集め絶大な支持を受けた人物で、閻志にも兄の威光か、それとも兄譲りのカリスマ性があったようだ。



戚寄  劉馥に説得された袁術配下A


戚寄(せきき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

はじめ袁術に仕えた。
建安年間(196~220)はじめ、劉馥(りゅうふく)に説得され秦翊(しんよく)とともに軍勢を引き連れ曹操へ鞍替えした。(『劉馥伝』)



秦翊  劉馥に説得された袁術配下B


秦翊(しんよく)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

はじめ袁術に仕えた。
建安年間(196~220)はじめ、劉馥(りゅうふく)に説得され戚寄(せきき)とともに軍勢を引き連れ曹操へ鞍替えした。(『劉馥伝』)



劉煕  劉馥の孫


劉煕(りゅうき)字は不明
豫州沛国相県の人(??~??)

魏の臣。
劉靖(りゅうせい)の子。
劉馥(りゅうふく)の孫。

254年、父が没すると後を継いだ。
弟の劉弘(りゅうこう)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『劉馥伝』)



李覿  司馬朗に失敗を予見される


李覿(りてき)字は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

魏の臣?

司馬朗(しばろう)と同郷の李覿(りてき)らは高い名声を得ていたが、司馬朗は常に彼らを低評価し、後に失敗するとその見識に心服された。(『司馬朗伝』)



育延  逆ギレして梁習に殺される


育延(いくえん)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の豪族。

「魏略」に曰く。
并州で恐れはばかられていた。
ある時、配下5千騎を引き連れ刺史の梁習(りょうしゅう)に交易を求めた。聞き入れなければ恨まれ、許可すれば城下に入られ略奪の心配があり、悩んだ末に承諾し空城で会合した。
すると交渉中に市場管理の役人が育延の配下の一人を捕らえた。鮮卑の騎兵はいきり立ち、馬に乗って弓を構え梁習らを何重にも包囲した。梁習は動揺せず逮捕した理由を聞くと、殺人の罪に問われていた。梁習は通訳を呼び事情を説明すると、「自分から法を犯し、役人は危害を与えたわけではないのに、なぜ騎兵で脅すのだ」と咎め育延を殺した。その配下は肝を潰して抵抗せず、鮮卑は以後おとなしくなった。(『梁習伝』)



魯昔  愛妻家で身を滅ぼした烏丸王


魯昔(ろせき)
并州太原郡の人(??~217)

烏丸の王。

「魏略」に曰く。
217年、曹操は漢中を制圧すると騎督の魯昔を内地に留め、池陽に駐屯させて廬水方面を守らせた。
しかし魯昔は太原郡晋陽県に残した妻が恋しくなるとともに二度と帰れなくなるのではと恐れ、部下500騎を引き連れ出奔した。そして谷に部下を留めて単身で晋陽に入り妻を連れ出した。
州郡もようやく出奔に気づいたが、弓の名手の魯昔を恐れ、追撃に及び腰だった。そこで并州を治める梁習(りょうしゅう)は従事の張景(ちょうけい)に鮮卑から兵を募らせ後を追わせた。
魯昔は妻と二人乗りだったため移動に時間がかかり、部下と合流する前に鮮卑の兵に射殺された。
曹操は魯昔の出奔を聞くと大きな反乱を招くことを危惧したが、すぐに討伐した報告が入って大いに喜び、梁習が前後に渡り何度も策略を立てたことから関内侯に封じた。(『梁習伝』)



張景  魯昔を追撃した従事


張景(ちょうけい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
217年、曹操は漢中を制圧すると騎督の魯昔(ろせき)を内地に留め、池陽に駐屯させて廬水方面を守らせた。
しかし魯昔は太原郡晋陽県に残した妻が恋しくなるとともに二度と帰れなくなるのではと恐れ、部下500騎を引き連れ出奔した。そして谷に部下を留めて単身で晋陽に入り妻を連れ出した。
州郡もようやく出奔に気づいたが、弓の名手の魯昔を恐れ、追撃に及び腰だった。そこで并州を治める梁習(りょうしゅう)は従事の張景に鮮卑から兵を募らせ後を追わせた。
魯昔は妻と二人乗りだったため移動に時間がかかり、部下と合流する前に鮮卑の兵に射殺された。
曹操は魯昔の出奔を聞くと大きな反乱を招くことを危惧したが、すぐに討伐した報告が入って大いに喜び、梁習が前後に渡り何度も策略を立てたことから関内侯に封じた。(『梁習伝』)



施畏  苛酷で著名な刺史・太守達A


施畏(しい)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かった。(『梁習伝』)



倪顗  苛酷で著名な刺史・太守達B


倪顗(げいぎ)字は不明
豫州魯郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かった。(『梁習伝』)



胡業  苛酷で著名な刺史・太守達C


胡業(こぎょう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かった。(『梁習伝』)



劉類  三国一のクソ上司


劉類(りゅうるい)字は不明
冀州高陽郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類が最も酷かったが、人間関係の処理に長けたため失脚しなかった。
嘉平年間(249~254)、弘農太守に赴任すると下役200余人に休暇も与えずもっぱら急ぎでもない仕事をさせた。過失があれば重さに関わらず髪を引き抜き杖でめった打ちし、投獄したり引きずり出したりを3~4度繰り返した。
銭を探すためあちこち掘らせたため市場は穴だらけだった。
表では簡素化を口にし、巡視に出ると無理に挨拶に来ないよう命じておきながら、来ない者を記憶して陥れた。
他人を信頼せず、上役を外に出すと下役に尾行させて監視し、それも信用できず小使いや奴婢に下役も監視させた。
ある時、巡察に出て民家で宿を取った。たまたま犬と豚が騒ぎ出すと配下が勝手に殺して食べようとしていると思い込み、孫弼(そんひつ)を連れてこさせ土下座させた。事情を聞くと詳しく調べなかったことに引け目を感じたが、他のことにかこつけて責め続けた。
100歳近い民の尹昌(いんしょう)は巡察を知ると子に抱えられながら挨拶に赴いたが、劉類は「こんな死人をわざわざ私に会わせるのか」と子を叱りつけた。彼の無礼さは全てこのようだった。
刺史や太守に降級・免職・死刑を口にしてはいけない「三不肯」という古い慣習があったが、郡民は苦しみ「劉府君(知事)には三不肯がある」と門に書きつけた。劉類は態度を改めなかった。
その後、司馬昭が外征のため弘農郡を通った時に郡の人々が「もうろくし郡を治める力がない」と訴え、都に召され五官中郎将となった。(『梁習伝』)



孫弼  劉類に理不尽に責められる


孫弼(そんひつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かったが、人間関係の処理に長けたため失脚しなかった。
嘉平年間(249~254)、弘農太守に赴任すると下役200余人に休暇も与えずもっぱら急ぎでもない仕事をさせた。過失があれば重さに関わらず髪を引き抜き杖でめった打ちし、投獄したり引きずり出したりを3~4度繰り返した。
銭を探すためあちこち掘らせたため市場は穴だらけだった。
表では簡素化を口にし、巡視に出ると無理に挨拶に来ないよう命じておきながら、来ない者を記憶して陥れた。
他人を信頼せず、上役を外に出すと下役に尾行させて監視し、それも信用できず小使いや奴婢に下役も監視させた。
ある時、巡察に出て民家で宿を取った。たまたま犬と豚が騒ぎ出すと配下が勝手に殺して食べようとしていると思い込み、五官掾の孫弼を連れてこさせ土下座させた。事情を聞くと詳しく調べなかったことに引け目を感じたが、他のことにかこつけて責め続けた。
100歳近い民の尹昌(いんしょう)は巡察を知ると子に抱えられながら挨拶に赴いたが、劉類は「こんな死人をわざわざ私に会わせるのか」と子を叱りつけた。彼の無礼さは全てこのようだった。
刺史や太守に降級・免職・死刑を口にしてはいけない「三不肯」という古い慣習があったが、郡民は苦しみ「劉府君(知事)には三不肯がある」と門に書きつけた。劉類は態度を改めなかった。
その後、司馬昭が外征のため弘農郡を通った時に郡の人々が「もうろくし郡を治める力がない」と訴え、都に召され五官中郎将となった。(『梁習伝』)



尹昌  劉類に罵倒された御長寿


尹昌(いんしょう)字は不明
司隸弘農郡の人(??~??)

魏の民。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かったが、人間関係の処理に長けたため失脚しなかった。
嘉平年間(249~254)、弘農太守に赴任すると下役200余人に休暇も与えずもっぱら急ぎでもない仕事をさせた。過失があれば重さに関わらず髪を引き抜き杖でめった打ちし、投獄したり引きずり出したりを3~4度繰り返した。
銭を探すためあちこち掘らせたため市場は穴だらけだった。
表では簡素化を口にし、巡視に出ると無理に挨拶に来ないよう命じておきながら、来ない者を記憶して陥れた。
他人を信頼せず、上役を外に出すと下役に尾行させて監視し、それも信用できず小使いや奴婢に下役も監視させた。
ある時、巡察に出て民家で宿を取った。たまたま犬と豚が騒ぎ出すと配下が勝手に殺して食べようとしていると思い込み、五官掾の孫弼(そんひつ)を連れてこさせ土下座させた。事情を聞くと詳しく調べなかったことに引け目を感じたが、他のことにかこつけて責め続けた。
100歳近い民の尹昌は巡察を知ると子に抱えられながら挨拶に赴いたが、劉類は「こんな死人をわざわざ私に会わせるのか」と子を叱りつけた。彼の無礼さは全てこのようだった。
刺史や太守に降級・免職・死刑を口にしてはいけない「三不肯」という古い慣習があったが、郡民は苦しみ「劉府君(知事)には三不肯がある」と門に書きつけた。劉類は態度を改めなかった。
その後、司馬昭が外征のため弘農郡を通った時に郡の人々が「もうろくし郡を治める力がない」と訴え、都に召され五官中郎将となった。(『梁習伝』)