劉渙 劉曄の兄
劉渙(りゅうかん)字は不明
揚州淮南郡成悳県の人(??~??)
劉曄(りゅうよう)の兄。
劉普(りゅうふ)の子。
母の脩(しゅう)は劉曄が7歳、兄の劉渙が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)
「ちくま版」の索引では晋代の劉渙と同一人物にされているが、そちらは100年ほど後の元康年間(291~299)に尚書吏部郎になった人物でそんなわけない。
さらに元康年間(264~265)とも誤記されており、それを鵜呑みにした記事も多々見られる。劉渙とともに尚書吏部郎になった邢喬(けいきょう)は306年没であり、年号ではなく期間の誤記だろう。(『邢顒伝』)
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