三国志 新規
3月分

12月分   1月分   2月分


游殷  胡軫を呪い殺す


游殷(ゆういん)字は不明
司隸馮翊郡の人(??~??)

後漢の臣。

「三輔決録注」に曰く。
張既(ちょうき)が子供の頃、馮翊郡の功曹の游殷は彼を評価し家に招いた。賓客のための食事を用意させると妻は「あなたはどうかしています。無邪気なおぼっちゃんなのに何が特別なお客様ですか」と笑ったが、游殷は「おかしく思うな。彼は長官の器だぞ」と言い、覇者の道について張既と語り合った。
宴が終わると子の游楚(ゆうそ)の後事を託し、張既ははじめ辞退したが、郷里の期待の星だった游殷の頼みを断り難く承諾した。
後年、游殷は不仲だった胡軫(こしん)に濡れ衣を着せられ処刑された。
一月余り後、胡軫は病にかかり、口を開くと「悪うございました。悪うございました。游殷が鬼(亡者)を連れて来た」と繰り返し、そのまま死んだ。
関中の人々は游殷を「生きては人の価値を見分ける明識さを、死んでは尊き精神の霊魂を持つ」と称えた。
子の游楚は張既の推薦により太守に上った。(『張既伝』)



游楚  諸葛亮の北伐から隴西郡を守る


游楚(ゆうそ)字は仲允(ちゅういん)
司隸馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。
游殷(ゆういん)の子。

以下「三輔決録注」に曰く。
張既(ちょうき)が子供の頃、馮翊郡の功曹の游殷は彼を評価し家に招いた。賓客のための食事を用意させると妻は「あなたはどうかしています。無邪気なおぼっちゃんなのに何が特別なお客様ですか」と笑ったが、游殷は「おかしく思うな。彼は長官の器だぞ」と言い、覇者の道について張既と語り合った。
宴が終わると子の游楚の後事を託し、張既ははじめ辞退したが、郷里の期待の星だった游殷の頼みを断り難く承諾した。
後年、游殷は不仲だった胡軫(こしん)に濡れ衣を着せられ処刑された。
一月余り後、胡軫は病にかかり、口を開くと「悪うございました。悪うございました。游殷が鬼(亡者)を連れて来た」と繰り返し、そのまま死んだ。
関中の人々は游殷を「生きては人の価値を見分ける明識さを、死んでは尊き精神の霊魂を持つ」と称えた。

曹操が関中を平定した時、漢興郡の太守が欠員だった。張既は文武両道であると游楚を推薦し、太守に抜擢され、後に隴西太守に転任した。

以下「魏略」に曰く。
激しい気性の持ち主だが恩恵ある統治で刑罰を好まなかった。
227年、諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安郡の太守は郡を捨てて逃亡した。游楚は隴西郡の官民を集めると「諸君に恩恵を施すことができなかった。諸郡の官民は蜀に呼応し、諸君も富貴を得る好機だ。私は太守として死ぬべき道義がある。君達は私の首を獲って蜀軍に降るといい」と言った。
官民はみな涙を流し「死ぬも生きるもあなたとともにします。二心は抱きません」と誓い、游楚は「ならば計略がある。太守を失った天水・南安の官民は蜀軍を連れてくるから、我々は固守するしかない。魏の援軍が来れば助かり、隴西郡を守った功績で富貴を得られる。来なければ私を捕まえて降伏しても遅くない」と言った。
はたして南安郡は蜀軍を迎え隴西郡を攻めた。游楚は蜀軍の指揮官に「隴山を抑え魏の援軍を妨げれば、我々はなすすべなく1月後に降伏する。それができなければ疲弊するだけだ」と告げ、長史の馬顒(ばぎょう)に攻撃させると、蜀軍は撤退した。
10余日後、魏の援軍は隴山を抑え、諸葛亮は敗走した。

天水・南安郡の太守は重い刑に処されたが、游楚は列侯され、長史ら配下も取り立てられた。
曹叡は喜び、詔勅により特別に参内を許した。游楚は小柄だが声が大きく、初めて参内したため儀礼がわからず、呼ばれた時に「はい」と答えるべきところで「承知しました」と大声で叫んだ。曹叡は微笑み労をねぎらった。
曹叡の警護をしたいと上奏し駙馬都尉に任じられた。学問をせず、遊びと音楽を好み、歌手・演奏者を雇い外に出る時には必ずお供させ、博打や投壺(ダーツ)を大喜びで楽しんだ。
数年後に北地太守に任じられ、70余歳で没した。(『張既伝』)

「魏略」では正史に列伝された張既、趙儼(ちょうげん)、梁習(りょうしゅう)、裴潜(はいせん)らとともに10人が同伝に収められ、「激情を示して心中をさらけ出し、我が身と郡の安全を保った。晩年は陸賈にならい宴席や芸事をのんびり楽しんだのは、一つの充実した生き方である」と評された。(『裴潜伝』)



馬顒  游楚の指揮下で隴西郡を守る


馬顒(ばぎょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
227年、諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安郡の太守は郡を捨てて逃亡した。隴西太守の游楚(ゆうそ)は官民を集めると「諸君に恩恵を施すことができなかった。諸郡の官民は蜀に呼応し、諸君も富貴を得る好機だ。私は太守として死ぬべき道義がある。君達は私の首を獲って蜀軍に降るといい」と言った。
官民はみな涙を流し「死ぬも生きるもあなたとともにします。二心は抱きません」と誓い、游楚は「ならば計略がある。太守を失った天水・南安の官民は蜀軍を連れてくるから、我々は固守するしかない。魏の援軍が来れば助かり、隴西郡を守った功績で富貴を得られる。来なければ私を捕まえて降伏しても遅くない」と言った。
はたして南安郡は蜀軍を迎え隴西郡を攻めた。游楚は蜀軍の指揮官に「隴山を抑え魏の援軍を妨げれば、我々はなすすべなく1月後に降伏する。それができなければ疲弊するだけだ」と告げ、長史の馬顒に攻撃させると、蜀軍は撤退した。
10余日後、魏の援軍は隴山を抑え、諸葛亮は敗走した。
天水・南安郡の太守は重い刑に処されたが、游楚は列侯され、長史ら配下も取り立てられた。(『張既伝』)

この長史は馬顒のことだろう。



顔俊  魏を利用しようとしガン無視された賊徒


顔俊(がんしゅん)字は不明
涼州武威郡の人(??~??)

賊徒。

張既(ちょうき)が雍州刺史を務めた頃(219年頃)、涼州では武威郡の顔俊、張掖郡の和鸞(からん)、酒泉郡の黄華(こうか)、西平郡の麴演(きくえん)らが反乱し、勝手に将軍を名乗って争いあった。
顔俊が母と子を人質に出して魏に援軍を求めると、張既は「顔俊は不遜と逆心を抱いており、(力を貸して)勢いを得れば即座に背きます。我々は蜀との戦いに集中すべき時ですから、介入せず共倒れを待つべきです」と言い、曹操も同意した。
1年余り経ち、顔俊は和鸞に殺され、和鸞も武威郡の王秘(おうひ)に殺された。(『張既伝』)



和鸞  顔俊を殺し王秘に殺された賊徒


和鸞(からん)字は不明
涼州張掖郡の人(??~??)

賊徒。

張既(ちょうき)が雍州刺史を務めた頃(219年頃)、涼州では武威郡の顔俊(がんしゅん)、張掖郡の和鸞、酒泉郡の黄華(こうか)、西平郡の麴演(きくえん)らが反乱し、勝手に将軍を名乗って争いあった。
顔俊が母と子を人質に出して魏に援軍を求めると、張既は「顔俊は不遜と逆心を抱いており、(力を貸して)勢いを得れば即座に背きます。我々は蜀との戦いに集中すべき時ですから、介入せず共倒れを待つべきです」と言い、曹操も同意した。
1年余り経ち、顔俊は和鸞に殺され、和鸞も武威郡の王秘(おうひ)に殺された。(『張既伝』)



王秘  顔俊を殺した和鸞を殺す


王秘(おうひ)字は不明
涼州武威郡の人(??~??)

賊徒?

張既(ちょうき)が雍州刺史を務めた頃(219年頃)、涼州では武威郡の顔俊(がんしゅん)、張掖郡の和鸞(からん)、酒泉郡の黄華(こうか)、西平郡の麴演(きくえん)らが反乱し、勝手に将軍を名乗って争いあった。
顔俊が母と子を人質に出して魏に援軍を求めると、張既は「顔俊は不遜と逆心を抱いており、(力を貸して)勢いを得れば即座に背きます。我々は蜀との戦いに集中すべき時ですから、介入せず共倒れを待つべきです」と言い、曹操も同意した。
1年余り経ち、顔俊は和鸞に殺され、和鸞も武威郡の王秘に殺された。(『張既伝』)

顔俊と同じ郡の出身であり、配下による仇討ちだろうか。
また263年の蜀征伐に従軍した同姓同名の人物がおり、どちらもその他の事績が無く同一人物の可能性も少しはあるだろうか。



麴光  戦わずして張既に平定された賊徒


麴光(きくこう)字は不明
涼州西平郡の人(??~??)

賊徒。

西平郡の太守を殺し反乱した。
将軍らは討伐しようとしたが、涼州刺史の張既(ちょうき)は「郡民の全てが同調したわけではない。討伐すれば一致団結してしまい、虎に翼を与えるようなものだ。麴光は羌族を頼りにしているから、羌族に恩賞を約束して討伐させれば、戦わずして落ち着く」と言った。
羌族を説得し、麴光に騙されて反乱した者は赦し、隊長格の首を送れば恩賞を与えると持ちかけると、麴光は配下に殺され、すぐに平定された。(『張既伝』)

西平郡では先に麴演(きくえん)という人物が反乱しており、間違いなく同族だろう。



龐延  張既に招聘された謎の人物


龐延(ほうえん)字は不明
司隸扶風郡の人(??~??)

魏の臣?

涼州刺史の張既(ちょうき)が招聘した人物の一人で、みな名声と地位を得たと記される。(『張既伝』)

楊阜(ようふ)・龐淯(ほういく)ら正史に列伝された人物も含まれるが、龐延だけ事績がわからない。



張翁帰  張既の末子


張翁帰(ちょうおうき)字が翁帰か
司隸左馮翊高陵県の人(??~??)

魏の臣。
張既(ちょうき)の末子。

223年、父が没すると関内侯に封じられた。

兄の張緝(ちょうしゅう)が後を継いだが、254年に反乱に加担し三族皆殺しとなった。
存命なら張翁帰も連座しただろう。(『張既伝』)



徐英  張既を鞭打った過去にこだわる


徐英(じょえい)字は泊済(はくせい)
司隸馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
張既(ちょうき)は下役人の頃、功曹の徐英に手ずから30回鞭打たれた。
徐英は郡の名族で、建安年間(196~220)のはじめに蒲阪県令となった。張既はやがて列侯され刺史にまで上ったが、徐英は剛気な上に郷里では名声・品行ともに優れたことを意識し、かつて鞭打ったこともあり敬遠していた。
張既は過去を根に持たず仲直りしようとし、酒席で酔いに任せて親しくしようとしたが、徐英はあえてそれを拒み、そのために起用されなかった。
人々は張既が恨まなかったことと、徐英が屈服しなかったことをともに称えた。(『張既伝』)



張邈  張緝の反乱の連絡役の子


張邈(ちょうばく)字は不明
司隸左馮翊高陵県の人(??~254)

魏の臣。
張緝(ちょうしゅう)の子。張既(ちょうき)の孫。
名は張藐とも書かれる。

「魏略」に曰く。
張緝と李豊(りほう)の家は代々親しく近所のため、李豊が出掛けている時には張邈が(父の使者として)出向いて相談することもあった。(『張既伝』)

「王沈魏書」に曰く。
李豊は張緝とともに反乱を企み、張邈が連絡役を務めた。

254年、反乱は事前に露見し、三族皆殺しとなった。(『夏侯尚伝』)



温恕  温恢の父


温恕(おんじょ)字は不明
并州太原郡祁県の人(??~??)

後漢の臣。
温恢(おんかい)の父。

涿郡太守に上り、温恢が15歳の時に没した。
家は裕福だったが、乱世の折に財産を持っていてもしかたないと、温恢は遺産を全て親族に分け与え、郷里で称えられた。
後に魏書に列伝される名臣となった。(『温恢伝』)

温恢の没年は不明だが曹丕の在位中(220~226)に45歳で亡くなっており、逆算すると温恕の没年は190~196年か。



呂貢  樊城の戦い当時の豫州刺史


呂貢(りょこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

219年、関羽が樊城を包囲すると曹操は詔勅を下し、兗州刺史の裴潜(はいせん)と豫州刺史の呂貢を呼び寄せたが、ゆっくり来るよう言いつけた。
温恢(おんかい)はこれを陽動と見抜き「民衆を動揺させないための手立てで、すぐ荊州へ転進するよう命令が来るはずだ。張遼らにも同じ命令が下るだろうが、彼らもきっと気づいている。彼らに後れを取れば、君は咎められるぞ」と裴潜に忠告した。
果たしてすぐに転進の命令が届いたが、裴潜は忠告を聞き入れ輜重隊を減らし軽装兵を中心に編成していたためすぐに駆けつけられ、面目を保った。(『温恢伝』)

220年、曹丕は即位すると賈逵(かき)を豫州刺史に任じた。
当時、平定されたばかりで州郡の行政が行き渡らず、豫州でも兵曹従事が前の刺史の時から休暇を取り、賈逵の着任から数ヶ月後に帰ってきたりと乱れていたため、州の二千石以下の官吏から阿諛追従する者を一掃するよう上申した。(『賈逵伝』)

時期から見て前の刺史とは呂貢のことだろう。統治がいいかげんだったことがうかがえる。



温生  温恢の子


温生(おんせい)字は不明
并州太原郡祁県の人(??~??)

魏の臣。
温恢(おんかい)の子。

黄初年間(220~226)に父が没すると関内侯に封じられた。
早逝し爵位は断絶した。(『温恢伝』)



祝奥  賈逵に惑わされた謀臣


祝奥(しゅくおう)字は不明
出身地不明(??~??)

郭援(かくえん)の臣。

202年、郭援は河東郡を攻め、賈逵(かき)を捕虜とした。
賈逵は開戦前から「もし戦になれば皮氏(※地名)を占拠した方が勝つ」と考え、包囲されかかると使者を出して皮氏を占拠するよう進言していた。このままでは間に合わないと思い、郭援の謀臣の祝奥を言葉巧みに迷わせ、進軍を7日間遅らせたため、皮氏の占拠は間に合った。(『賈逵伝』)

「魏略」に賈逵を助けた義士の祝公道(しゅくこうどう)という人物がいる。あるいは同一人物か。



柳孚  賈逵にズボンを盗まれた義兄


柳孚(りゅうふ)字は不明
出身地不明(??~??)

賈逵(かき)の義兄(妻の兄)。

「魏略」に曰く。
賈逵は代々の名家の出だったが早くに親を亡くしたため貧しく、冬に履くズボンも無かった。
柳孚の家に泊まった際、我慢できず柳孚のズボンを履いて帰った。そのため人々は賈逵は頑健そのものだと噂した。(『賈逵伝』)

人々の評価がよくわからない。文化の違いだろうか。



張嬰  石亭の戦い直前に魏に寝返った将A


張嬰(ちょうえい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226~227年頃、王崇(おうすう)とともに軍勢を引き連れて魏へ降伏した。(『賈逵伝』)

228年に周魴(しゅうほう)が偽装投降で曹休(そうきゅう)を騙した石亭の戦いが起こる直前であり、あるいは魏を信用させるための謀略の一環だろうか。



王崇  石亭の戦い直前に魏に寝返った将B


王崇(おうすう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

226~227年頃、張嬰(ちょうえい)とともに軍勢を引き連れて魏へ降伏した。(『賈逵伝』)

228年に周魴(しゅうほう)が偽装投降で曹休(そうきゅう)を騙した石亭の戦いが起こる直前であり、あるいは魏を信用させるための謀略の一環だろうか。



李孚  出入り自在で曹操を笑わせる


李孚(りふ)字は子憲(しけん)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

袁紹、後に魏の臣。
元は馮孚(ふうふ)と名乗ったが改姓した。

以下「魏略」に曰く。
興平年間(194~195)、郡で飢饉が起こった。学生だった李孚はニラを育てており、成熟してから食べようとした。飢えた人々に求められたが一本も分け与えず、育ち切るまで自身も食べなかった。初志貫徹の人と呼ばれた。

袁氏に仕え役人となり、袁尚(えんしょう)の主簿となった。
(204年)、袁尚が遠征した時、本拠地の鄴を曹操に包囲された。
袁尚は守将の審配(しんぱい)と連絡を取ろうとし、誰に任せるか李孚に相談すると「小者に命じても状況を十分に知らせることができず、そもそも到達できない恐れがあります」と自ら連絡役を買って出た。
李孚は3人の部下を選ぶと、行き先も教えず丸腰で出発した。当時、禁令に背いて草刈りや牧畜をする者が多かったため、それに紛れて鄴へ着くと、役人に変装して堂々と曹操軍の陣中を通った。都督だと偽り、周囲の将兵を叱責し勝手に処罰を与え、包囲の兵を怒鳴りつけて捕縛させると道を開けさせ、城兵に縄を垂らさせ中に入ることに成功した。
曹操はその顛末を聞くと「こいつは入っただけではない。今になんとかして出てくるぞ」と笑った。

李孚は報告のため袁尚の元に戻ろうとし、審配に老人や子供を解放し兵糧を節約するよう進言した。
曹操軍に降伏すると申し出て夜に3つの城門を同時に開き、数千人の降伏者が火を持って城から出てきた。曹操軍は全面降伏だと思っていたうえ、火に気を取られて警戒せず、李孚は部下とともに降伏者に紛れて脱出した。
報告を聞いた曹操は「やはり私の言った通りだ」と手を叩いて笑った。

結局、袁尚は敗走し、はぐれた李孚は袁譚(えんたん)に降り主簿となった。
袁譚が曹操に討たれると李孚は平原城に戻った。城兵は降伏したいと考えたが混乱して落ち着かず、李孚は曹操に面会し、収拾のため信頼できる者を派遣するよう求めた。曹操は「あなたの思うようにせよ」と命じ、李孚は帰って城中を落ち着かせた。
曹操は役立つ人物だと思ったが、讒言により閑職に留まった。

後に解県長を務め厳格で有能と評判を取り、出世の道がひらけ司隷校尉に上った。
70余歳だったが精密さと決断力は衰え知らずで、策略も往時と変わらなかった。陽平太守に転じ、在任中に没した。

「魏略」では李孚、賈逵(かき)、楊沛(ようはい)の3人が同伝に収められた。(『賈逵伝』)

「演義」でも曹操の部下になりすまして審配と合流する逸話が語られた。
だが非戦闘員の解放は曹操の油断をつく策略に変更され、李孚が脱出することもその後は曹操に降ることもない。



李越  蘇則に秒で降伏した賊徒


李越(りえつ)字は不明
雍州隴西郡の人?(??~??)

賊徒。

215~219年頃、隴西郡を根拠地に反乱したが、金城太守の蘇則(そそく)が羌族を率いて包囲するとすぐに服従した。(『蘇則伝』)



師亮  蘇則を冷遇するが恨まれず


師亮(しりょう)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

涼州安定郡の富豪。

「魏略」に曰く。
蘇則(そそく)の家は代々の名家だったが、興平年間(194~195)に董卓残党らによって三輔が混乱し飢饉になり、涼州北地郡へ避難した。安定郡へ移り富豪の師亮(しりょう)を頼ったが冷遇されると「天下はいずれ安定し、混乱は長く続くまい。必ず帰ってきてここの太守となり、俗な連中をくじいてやる」と嘆息した。
吉茂(きつぼう)らとともに南の太白山に隠棲し、書物に親しんだ。
安定太守に赴任すると師亮ら冷遇した者は逃げ出そうとしたが、蘇則は人をやって安心させてやり、謝礼で旧恩に報いた。(『蘇則伝』)



蘇怡  蘇則の後継ぎ(兄)


蘇怡(そい)字は不明
雍州扶風郡武功県の人(??~??)

魏の臣。
蘇則(そそく)の子。

223年、父が没すると後を継いだ。
子が無いまま没したため弟の蘇愉(そゆ)が領地を受け継いだ。(『蘇則伝』)



蘇愉  蘇則の後継ぎ(弟)


蘇愉(そゆ)字は休豫(きゅうよ)
雍州扶風郡武功県の人(??~??)

魏・晋の臣。
蘇則(そそく)の子。

223年、父が没すると兄の蘇怡(そい)が後を継いだ。
子が無いまま没したため弟の蘇愉が領地を受け継いだ。
咸熙年間(264~265)、尚書に上った。

太常・光禄大夫を歴任した。「晋百官名」に記載された。
「山濤啓事」に曰く、誠実で英知に富んだ。

子の蘇紹(そしょう)・蘇慎(そしん)も高名で、娘は石崇(せきすう)に嫁いだ。(『蘇則伝』)



張白騎  白馬に乗った黒山賊


張白騎(ちょうはくき)名は不明
出身地不明(??~??)

黒山賊の頭目。

「典略」に曰く。
頭目らは気ままに異名を名乗り、白馬に乗っていたため張白騎と名乗った。(『張燕伝』)

206年、高幹(こうかん)に連動し東垣県を攻めた。河東太守の杜畿(とき)は諸県は自分に味方すると知っていたため数十騎で先行して防ぐと、数十日で4千人が集まり、曹操の援軍も到着し撃退した。(『杜畿伝』)

同時期に弘農郡を攻めた張晟(ちょうせい)と同一人物説がある。
だが「杜畿伝」で張白騎・張晟は名を書き分けられており、別人のように思える。



謝該  楽詳に左氏伝を教授する


謝該(しゃがい)字は不明
荊州南郡の人(??~??)

後漢の臣。

「魏略」に曰く。
楽詳(がくしょう)は若い頃から学問を好み、建安年間(196~220)のはじめ、公車司馬令の謝該が「春秋左氏伝」に詳しいと聞き、南陽郡から許都まで徒歩で質問に出向いた。そして著した「左氏楽氏問七十二事」は(唐代にも)現存する。(『杜畿伝』)



杜理  杜畿の早逝した子


杜理(とり)字は務仲(むちゅう)
司隸京兆郡杜陵県の人(??~??)

魏の臣?
杜畿(とき)の子。杜恕(とじょ)の弟。

「杜氏新書」に曰く。
幼くしてものの精髄を素早く見抜いたため、杜畿は見どころがあると思い「理」と名付けた。
21歳で没した。(『杜畿伝』)



杜寛  杜畿の学者肌の子


杜寛(とかん)字は務叔(むしゅく)
司隸京兆郡杜陵県の人(??~??)

魏の臣。
杜畿(とき)の子。杜恕(とじょ)・杜理(とり)の弟。

「杜氏新書」に曰く。
清淡・深遠な人柄で明晰な頭脳を持ち古代の教えを好んだ。
名臣の一族のため都で育ったが、目的に向かって熱意を持ち広く学問し、俗事にかまけなかった。ものの奥底にある隠れた真実を探求しようと志して名声を得たため、世に知られた人々は交友を求めた。
孝廉に推挙され郎中に任じられたが、42歳で没した。
経書について多くの議論や批判をしたが、草稿のままで完成しなかった。「礼記」と「春秋左氏伝」への注は(唐代にも)現存する。(『杜畿伝』)



阮柯  阮武の慎み深い後継ぎの甥


阮柯(げんか)字は士度(しど)
兗州陳留郡の人(??~??)

晋の臣。
阮炳(げんへい)の子。

「兗州記」に曰く。
伯父の阮武(げんぶ)が没すると子が無かったのか、兄の阮坦(げんたん)が後を継いだ。
阮坦も没すると通常なら次弟が後を継ぐはずだが、父は下の子の阮柯を寵愛したため、幼少ながら後を継がせた。
長じると阮柯はそれを悔やみ、隠者の頭巾をかぶって暮らし、生涯に渡り脱がなかった。
篤実にして静寂上品な人柄で、礼を好み決して外れず、経典の研究に専念し広い学識を持っていた。
濮陽王(ぼくようおう)の文学に選ばれ、領軍長史に上り、没した。
領軍将軍の王衍(おうえん)は哭礼の際に心から泣いたという。(『杜畿伝』)



濮陽王  阮柯が仕えた王


濮陽王(ぼくようおう)名は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

司馬炎の一族。

「兗州記」に曰く。
阮柯(げんか)は広い学識を持ち、濮陽王(ぼくようおう)の文学に選ばれた。(『杜畿伝』)

濮陽王の素性は不明である。



呉瓘  魏の歴史に残る太守A(※事績不明)


呉瓘(ごかん)字は不明
豫州陳国の人(??~??)

魏の臣。

魏郡太守を務めた。
陳寿は魏の歴史の中で優秀な太守5人の中に呉瓘を入れた。しかし5人の中で呉瓘と任燠(じんいく)の事績は残っていないと裴松之は記す。(『倉慈伝』)



任燠  魏の歴史に残る太守B(※事績不明)


任燠(じんいく)字は不明
青州楽安郡の人(??~??)

魏の臣。

清河太守を務めた。
陳寿は魏の歴史の中で優秀な太守5人の中に任燠を入れた。しかし5人の中で呉瓘(ごかん)と任燠の事績は残っていないと裴松之は記す。(『倉慈伝』)