游楚 諸葛亮の北伐から隴西郡を守る
游楚(ゆうそ)字は仲允(ちゅういん)
司隸馮翊郡の人(??~??)
魏の臣。
游殷(ゆういん)の子。
以下「三輔決録注」に曰く。
張既(ちょうき)が子供の頃、馮翊郡の功曹の游殷は彼を評価し家に招いた。賓客のための食事を用意させると妻は「あなたはどうかしています。無邪気なおぼっちゃんなのに何が特別なお客様ですか」と笑ったが、游殷は「おかしく思うな。彼は長官の器だぞ」と言い、覇者の道について張既と語り合った。
宴が終わると子の游楚の後事を託し、張既ははじめ辞退したが、郷里の期待の星だった游殷の頼みを断り難く承諾した。
後年、游殷は不仲だった胡軫(こしん)に濡れ衣を着せられ処刑された。
一月余り後、胡軫は病にかかり、口を開くと「悪うございました。悪うございました。游殷が鬼(亡者)を連れて来た」と繰り返し、そのまま死んだ。
関中の人々は游殷を「生きては人の価値を見分ける明識さを、死んでは尊き精神の霊魂を持つ」と称えた。
曹操が関中を平定した時、漢興郡の太守が欠員だった。張既は文武両道であると游楚を推薦し、太守に抜擢され、後に隴西太守に転任した。
以下「魏略」に曰く。
激しい気性の持ち主だが恩恵ある統治で刑罰を好まなかった。
227年、諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安郡の太守は郡を捨てて逃亡した。游楚は隴西郡の官民を集めると「諸君に恩恵を施すことができなかった。諸郡の官民は蜀に呼応し、諸君も富貴を得る好機だ。私は太守として死ぬべき道義がある。君達は私の首を獲って蜀軍に降るといい」と言った。
官民はみな涙を流し「死ぬも生きるもあなたとともにします。二心は抱きません」と誓い、游楚は「ならば計略がある。太守を失った天水・南安の官民は蜀軍を連れてくるから、我々は固守するしかない。魏の援軍が来れば助かり、隴西郡を守った功績で富貴を得られる。来なければ私を捕まえて降伏しても遅くない」と言った。
はたして南安郡は蜀軍を迎え隴西郡を攻めた。游楚は蜀軍の指揮官に「隴山を抑え魏の援軍を妨げれば、我々はなすすべなく1月後に降伏する。それができなければ疲弊するだけだ」と告げ、長史の馬顒(ばぎょう)に攻撃させると、蜀軍は撤退した。
10余日後、魏の援軍は隴山を抑え、諸葛亮は敗走した。
天水・南安郡の太守は重い刑に処されたが、游楚は列侯され、長史ら配下も取り立てられた。
曹叡は喜び、詔勅により特別に参内を許した。游楚は小柄だが声が大きく、初めて参内したため儀礼がわからず、呼ばれた時に「はい」と答えるべきところで「承知しました」と大声で叫んだ。曹叡は微笑み労をねぎらった。
曹叡の警護をしたいと上奏し駙馬都尉に任じられた。学問をせず、遊びと音楽を好み、歌手・演奏者を雇い外に出る時には必ずお供させ、博打や投壺(ダーツ)を大喜びで楽しんだ。
数年後に北地太守に任じられ、70余歳で没した。(『張既伝』)
「魏略」では正史に列伝された張既、趙儼(ちょうげん)、梁習(りょうしゅう)、裴潜(はいせん)らとともに10人が同伝に収められ、「激情を示して心中をさらけ出し、我が身と郡の安全を保った。晩年は陸賈にならい宴席や芸事をのんびり楽しんだのは、一つの充実した生き方である」と評された。(『裴潜伝』)
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