三国志 ひ


弥加  魏に厚遇された鮮卑の大人


弥加(びか)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(指導者)。

鮮卑の王の檀石槐(だんせきかい)は支配地を中東西の3部に分け、東部は弥加・闕機(けつき)・素利(そり)・槐頭(かいとう)ら大人が支配した。
彼らの支配域は長城の外で遠く離れていたため国境を荒らすことは全く無かったが、軻比能(かひのう)よりも配下は多かった。
建安年間(196~220)、閻柔(えんじゅう)を通じて中原に交易を求め、曹操は王位を与えるなど厚遇した。
220年、馬を献上すると曹丕は素利・弥加に帰義王の位を与えた。(『鮮卑伝』)

黄初年間(220~226)頃、鮮卑の有力者の軻比能・弥加・素利は領地を分割して支配し、それぞれ境界を設け、中原に馬を売らない誓約を結んだ。
田豫(でんよ)は彼らが結託したら脅威になると考え、分断させ仇敵同士となるよう仕組んだ。
はたして素利は盟約に背き数千頭の馬を魏へ献上し、軻比能に攻められ田豫に救援を求めた。大軍に包囲されたものの田豫は陽動作戦で欺き大勝した。(『田豫伝』)

使持節護鮮卑の牽招(けんしょう)は素利・弥加らの10数万人の部落を懐柔し帰伏させた。(『牽招伝』)



卑衍  遼東屈指の名将?


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卑湛  張郃に推薦された同郷の儒者


卑湛(ひたん)字は不明
冀州河間郡の人(??~??)

魏の臣。

張郃は儒者を重んじ、同郷で経学に明るく品行の良い卑湛を推薦した。
曹叡(?)は「張郃は外では軍を指揮し、内では朝廷に心を配る」と称え、卑湛を博士に抜擢した。(『張郃伝』)



卑弥弓呼  卑弥呼のライバル?


卑弥弓呼(ひみここ)
狗奴の人(??~??)

狗奴の男王。

247年、倭の女王・卑弥呼は不和だった卑弥弓呼と戦闘になり、載斯烏越(そしあお)を帯方太守の王頎(おうき)のもとへ派遣しそれを報告させた。
王頎は張政(ちょうせい)を遣わせて卑弥呼と卑弥弓呼の戦を調停させた。(『東夷伝』)

卑弥弓呼と狗奴については諸説あり、卑弥呼は「女王」、卑弥弓呼は「男王」を意味する一般名詞で、皇族同士の争いとするものや、狗奴の所在地については蝦夷から九州南部まで幅広い。



卑弥呼  倭の女王


卑弥呼(ひみこ)
倭の人(??~??)

倭の女王。

※試みに「正史」にある記述のみ記す

倭ではもともと男子が王位に就いていたが、70~80年経った光和年間(178~183)、戦乱が起こり戦いが続いた。
そこで国々は協議し、卑弥呼を女王に立て争いを治めた。彼女は鬼神崇拝の祭祀者として人心をつかんだ。

高齢になっても夫を持たず、弟が統治を補佐した。王位に就いて以来その姿を見た者はほとんどおらず、1千人の侍女に囲まれ、ただ1人の男子が食事を運んだり、命令や言上を取り次いだ。宮廷から外に出ず、城壁や兵で厳重に警護された。

238年、難升米(なそめ)・都市牛利(たしごり)を帯方郡へ送り、魏へ朝貢したいと申し出た。
帯方太守の劉夏(りゅうか)は使者と護衛を付けて都へ送ってやり、曹叡は喜び官位や褒美と卑弥呼を親魏倭王に任じる印綬を与えた。
(曹叡の逝去による遅延もあり?)240年、倭にそれらが届けられ、卑弥呼は感謝の上表を返した。

243年、伊声耆(いせいぎ)・掖邪狗(ややこ)ら8人を朝貢させた。
245年、難升米に褒美が与えられた。
247年、帯方太守に赴任した王頎(おうき)に、載斯烏越(そしあお)を派遣して狗奴国の卑弥弓呼(ひみここ)と争っていることを報告した。
王頎は張政(ちょうせい)を遣わせて卑弥呼と卑弥弓呼の戦を調停させた。

卑弥呼が没すると大規模な塚に葬られ、百人以上の奴婢が殉死させられた。
次は男子が王位に就いたがまたも戦乱が起こって1千人以上が死に、卑弥呼の一族の娘の壱与(いよ)が13歳で女王となり、再び国は落ち着いた。(『東夷伝』)



費禕  深酒はほどほどに


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費観  李厳の(数少ない)親友


費観(ひかん)字は賓伯(ひんはく)
荊州江夏郡鄳県の人(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の娘婿。後に蜀の臣。

費観のおば(族母)は劉璋の母であり、また劉璋の娘をめとった。

213年、劉備の益州侵攻に際し、李厳(りげん)とともに綿竹で迎撃したが、結局は降伏した。
214年、益州が制圧されると裨将軍に任命され、後に巴郡太守・江州都督となった。(『楊戯伝』)

劉璋の親戚の費観や呉懿(ごい)を高位に就けたことは、劉備の優れた人材登用の一例として「先主伝」に挙げられている。(『先主伝』)

223年、都亭侯に封じられ振威将軍(※本文には揚威将軍とある)を加えられた。

李厳は自尊心が強く、輔匡(ほきょう)ら年齢も地位も近い人物も寄せ付けなかったが、20以上も年下の費観とは打ち解け、まるで同年輩のように付き合った。

没年は不明だが37歳で没した。

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「才能あふれ、文武両道で、任務に当たっては見事に取りさばき、施しのために利殖を図り、義心を持ち限度を知っていた」と評した。

陳寿は事績が残っていないため伝を立てなかったとその注に記した。(『楊戯伝』)

「演義」では劉璋の妻の弟に変更。李厳とはやはり親友だが立場は費観の方が上に描かれる。

「吉川三国志」では劉璋の親戚の設定が消えた。



費恭  費禕の名声あった子


費恭(ひきょう)字は不明
荊州江夏郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。
費禕(ひい)の子。

253年、父が暗殺されると兄の費承(ひしょう)が跡を継いだ。
費恭は公主をめとり、姉妹は太子の劉璿(りゅうせん)の妃となった。

「費禕別伝」に曰く。
費禕は慎み深く質素な性格で蓄財をせず、子にも質素な服と食事しか与えず、外出も徒歩で一般人と同じ生活をさせた。(『費禕伝』)

「襄陽記」に曰く。
蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や費恭らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍峻伝』)

「費禕別伝」に曰く。
尚書郎となり名声があったが若くして没した。(『費禕伝』)



費桟


未作成



費詩  関羽を説き伏せた男


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費承  費禕の後継ぎの子


費承(ひしょう)字は不明
荊州江夏郡鄳県の人(??~??)

蜀の臣。
費禕(ひい)の子。

253年、父が暗殺されると後を継ぎ、黄門侍郎となった。
弟の費恭(ひきょう)は公主をめとり、姉妹は太子の劉璿(りゅうせん)の妃となった。

「費禕別伝」に曰く。
費禕は慎み深く質素な性格で蓄財をせず、子にも質素な服と食事しか与えず、外出も徒歩で一般人と同じ生活をさせた。(『費禕伝』)

「襄陽記」に曰く。
蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や費恭らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍峻伝』)

費承は既に没していたのだろうか。



費斉


未作成



費伯仁  費禕の族父


費伯仁(ひはくじん)字が伯仁か
荊州江夏郡鄳県の人(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。
費禕(ひい)の族父。

費禕は幼い頃に父を失い費伯仁のもとへ身を寄せた。
費伯仁のおばは劉璋の母であり、招かれて費禕を連れて遊学した。劉備が益州を制圧すると費禕は仕えた。(『費禕伝』)



費楊  廖式が勝手に任命した臨賀太守


費楊(ひよう)字は不明
出身地不明(??~240)

呉の臣?

239年、将軍の蔣秘(しょうひ)は南方の異民族を討伐した。
蔣秘配下の都督の廖式(りょうしょく)は、臨賀太守の厳綱(げんこう)を殺して勝手に平南将軍を名乗り、弟の廖潜(りょうせん)とともに零陵・桂陽郡を攻めた。交州・蒼梧・鬱林郡にも波及し数万人の勢力に膨れ上がったが、呂岱(りょたい)・唐咨(とうし)らに討伐され1年余りで全て撃破された。(『呉主伝』)

「呂岱伝」に詳細が記される。
廖式の反乱は零陵・蒼梧・鬱林郡の情勢を不穏にした。呂岱は上表して自ら出陣を求め、許可を待たずに討伐に向かった。孫権は追認して交州牧を与えるとともに唐咨らを後詰めに送った。
1年余りで全て討伐し、廖式が勝手に任命した臨賀太守の費楊も斬り、配下を自軍に組み入れて都へ帰還した。(『呂岱伝』)



費曜  北の隠れた良将


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費立  費詩の子


費立(ひりつ)字は不明
益州犍為郡南安県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
費詩(ひし)の子。

「蜀世譜」に曰く。
蜀の滅亡後、晋の散騎常侍となった。
以後、益州の費姓のうち名声・官位を得た者の多くは費詩の子孫である。(『費詩伝』)



糜威  糜竺の子


糜威(びい)字は不明
徐州東海郡朐県の人(??~??)

蜀の臣。
糜竺(びじく)の子。

虎賁中郎将まで上った。
子の糜照(びしょう)は虎騎監となり、糜竺・糜威・糜照の三世代はみな弓と馬が達者だった。(『糜竺伝』)



糜竺  大富豪将軍


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糜照  糜竺の孫


糜照(びしょう)字は不明
徐州東海郡朐県の人(??~??)

蜀の臣。
糜威(びい)の子。
糜竺(びじく)の孫。

虎騎監まで上った。
糜竺・糜威・糜照の三世代はみな弓と馬が達者だった。(『糜竺伝』)



糜芳  裏切りの弟


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畢軌  曹爽取り巻きの并州刺史


畢軌(ひつき)字は昭先(しょうせん)
兗州東平国の人(??~249)

魏の臣。
父の畢子礼(ひつしれい)は典農校尉を務めた。
「曹真伝」に附伝される。

若い頃から才能により名声があり、曹叡が即位前には文学(官名)を務めた。
黄初年間(220~226)の末に地方へ出て長史となり、226年、曹叡が帝位につくと宮中へ入り黄門郎になった。息子が公主(内親王)をめとったため、豪邸を構えた。(『畢軌伝』)

何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・李勝(りしょう)・丁謐(ていひつ)・畢軌らは名声高かったが、曹叡は彼らが上辺だけ華やかで内実は乏しいと見抜き、抑えつけて退けた。(『曹真伝』)

曹叡の代に劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が権勢を振るい、誰もが交際を求めたが辛毗(しんぴ)は一切それに加わらなかった。それを子の辛敞(しんしょう)に批判されると「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に宂従僕射の畢軌が「王思(おうし)は古参の精励なる官吏ですが、忠誠と計略では辛毗に及びません。尚書僕射は王思から辛毗に交代させるべきです」と上奏されると、劉放・孫資は「陛下が王思を用いるのは努力を買い、虚名に惑わされないからです。辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。(『辛毗伝』)
人々は報復した劉放・孫資を批判した。(『劉放伝』)

やがて并州刺史に栄転したが、驕慢と評された。(『畢軌伝』)

「世語」に曰く、畢軌は鮮卑の奴隷を捕らえ、都へ送った。その男は前漢の范明友に仕え、350歳だというが言葉遣いや飲食の有様は普通の人と同じで、誰も知らない過去の人間関係を語った。(『明帝紀』)

鮮卑の軻比能(かひのう)が諸葛亮の北伐に呼応し挙兵した。雁門太守の牽招(けんしょう)は討伐に赴いたがすぐ撤退された。牽招は畢軌と相談し「鮮卑は住居を定めないから動きが早く、逃げられれば追いつけない。奇襲しようにも道が険阻で、秘密裏に兵站を行えない。そこで国境の外に兵を置き、屯田させて連携して戦おう」と策を練ったが、そのさなかに病没した。(『牽招伝』)

233年、軻比能が反乱すると、国境を守る歩度根(ほどこん)がよしみを通じたため、畢軌は討伐を訴え出た。曹叡は「歩度根は軻比能に誘われたが迷いがある。討伐軍を差し向ければかえって結託させてしまうだろう」と反対したが、畢軌はすでに蘇尚(そしょう)、董弼(とうひつ)を出撃させていた。軻比能は息子に1千騎を与え歩度根の民を迎えに行かせたが、これが討伐軍と出くわし、不意をつかれたのか2将は敗北し首を打たれた。
歩度根は国境を出て軻比能と合流し、魏へ攻撃を加えた。都から派遣された秦朗(しんろう)にようやく撃退され、鮮卑軍は北方へ逃げた。(『明帝紀』)

畢軌は他の州へ異動させられたが、蔣済(しょうせい)は「過去の過ちは取り返せないが、畢軌は同じ過ちを繰り返すでしょう。人には向き不向きがあり、彼は文学に優れ意志が強いのだから、都に高位で迎え入れたほうが良い。国家のためにそうしてください」と上奏した。
正始年間(240~249)に都に戻され中護軍となり、侍中尚書に上り、司隷校尉を務めた。実権を握った曹爽(そうそう)と親しく、意見を具申してはよく聞き入れられた。(『畢軌伝』)

何晏・鄧颺・李勝・丁謐らも曹爽の腹心として返り咲いた。
曹爽ははじめ司馬懿に敬意を払ったが、丁謐・畢軌が「司馬懿は大きな野心を抱き、非常によく人心をつかんでいます。本心から信用してはいけません」と吹き込んだため、冷遇するようになり、危険を察した司馬懿は隠退したように見せかけた。(『曹真伝』)

人事を司る盧毓(ろいく)は異動させられ、何晏が後任となった。さらに廷尉として外に出されたうえ、畢軌にでたらめの上奏をされ罷免された。(※ちくま版では「畢軌は何晏に陥れられ司隷校尉を免職となった」と書かれるが、「斉王紀」では処刑された時も司隷校尉のままであり、誤訳だろうと指摘されている)(『盧毓伝』)

249年、司馬懿によって曹爽一派が粛清され、畢軌らも連座して処刑された。(『斉王紀』)

「漢晋春秋」に曰く、王淩(おうりょう)が曹芳の廃位を企み、子の王広(おうこう)に話すと、「曹爽は驕慢と奢侈で人心を失い、何晏は虚無の説を好んで政治を顧みず、鄧颺・丁謐・畢軌らは人望はあるが世間に張り合うことしか考えていませんでした。彼らは人心を失い、一網打尽にされても誰も哀悼を捧げません。だが司馬懿父子は人心を得ており、簡単には滅ぼせません」と反対されたが、王淩は従わなかった。(※裴松之は他の史書に見えない発言であると創作を疑っている)(『王淩伝』)

「演義」にも曹爽の取り巻きの司隷校尉として登場。特に活躍はなく処刑された。



畢子礼  畢軌の父


畢子礼(ひつしれい)字が子礼か
兗州東平国の人(??~??)

魏の臣。

建安年間(196~220)に典農校尉を務めた。

子の畢軌(ひつき)は曹爽(そうそう)と親しく、厚遇された。
だが249年、隙をついて挙兵した司馬懿によって一網打尽となり、畢軌ら曹爽一派は揃って処刑された。(『斉王紀』)



畢諶  親孝行は忠義者


畢諶(ひつしん)字は不明
兗州東平郡の人(??~??)

曹操の臣。

曹操が兗州刺史の時、別駕従事に任命された。
194年、張邈(ちょうばく)は呂布とともに反逆すると、畢諶の母・弟・妻子を脅迫した。
曹操は主従関係を解消し故郷へ帰るよう勧めたが、畢諶は「二心を抱かない」と誓って断り、曹操は喜び涙を流したが、退出したその足で故郷へ逃げ帰った。

その後、呂布が敗れ畢諶は捕らえられた。人々は身を案じたが曹操は「親孝行で主君に忠義でない者がいるだろうか。私に必要な者だ」と言い、魯国相に任命した。(『武帝紀』)

後に曹爽(そうそう)の取り巻きとして権勢を振るった畢軌(ひつき)も同郡出身であり、同族だろう。



畢瑜  劉虞の説得に失敗


畢瑜(ひつゆ)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣?

「献帝起居注」に曰く。
191年、袁紹は冀州牧の韓馥(かんふく)とともに劉虞(りゅうぐ)を皇帝に立てようとし、冀州鉅鹿郡任県の県長を務めた畢瑜を送り説得したが、拒絶された。(『武帝紀』・『袁紹伝』)



繆禕


未作成



閔貢  少帝と陳留王を奪還する


閔貢(びんこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

189年、大将軍の何進(かしん)が宦官に暗殺され、配下の袁紹はその報復として宦官を皆殺しにした。宦官は少帝と陳留王(後の献帝)を連れて逃亡したが、董卓らの追撃を受けて殺され少帝らは奪還された。(『董卓伝』)

盧植(ろしょく)が追撃し、王允(おういん)は河南中部掾の閔貢にそれを追わせた。閔貢は宦官に追いつくと数人を斬り殺し、残りは河に身を投げた。(『後漢書 何進伝』)

「英雄記」に曰く。
河南中部掾の閔貢は少帝と陳留王を守って帰還した。少帝は一人で馬に乗り、閔貢は陳留王と相乗りしていた。
董卓が兵を率いて出迎えると崔烈(さいれつ)は無礼だと叱責したが、董卓は「昼夜兼行で3百里の彼方からやってきたのに何事だ。私にお前の首が斬れないと思ったか」と罵倒し、少帝にも「あなたが宦官に混乱を引き起こさせたのです。災禍を招いた責任は小さくないですな」と非難した。
そして閔貢の手から陳留王を抱き取った。(※董卓の手を払い、くつわを並べたとする説もある)(『董卓伝』)

閔貢は郎中となり、都亭侯に封じられた。(『後漢書 何進伝』)

「演義」では宦官の首領格の段珪(だんけい)を討ち取った。



閔純  耿武とともに袁紹に抵抗


閔純(びんじゅん)字は伯典(はくてん)
出身地不明(??~191)

冀州牧の韓馥(かんふく)の臣。

191年、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)の侵攻から守る名目で冀州牧の座を譲るよう韓馥に迫った。
臆病な韓馥は同意したが、長史の耿武(こうぶ)、別駕の閔純、治中の李歴(りれき)らは「冀州には百万の兵と十年分の兵糧があり、袁紹は本拠地を持たず困窮しており、膝の上の赤ん坊のようなものです。乳を与えなければ餓死するのになぜ明け渡すのか」と諌め、従事の趙浮(ちょうふ)・程奐(ていかん)は迎撃したいと願い出たが、韓馥は却下して冀州牧を袁紹へ譲った。(『袁紹伝』)

「英雄記」に曰く。
韓馥が譲位すると10人の従事が見捨てて去ったが、耿武・閔純は残って抵抗を続け、田豊(でんほう)に殺された。(『後漢書 袁紹伝』)

「演義」ではなぜか関純(かんじゅん)に改姓。耿武とともに袁紹に抵抗し、文醜(ぶんしゅう)に殺された。

「吉川三国志」には耿武しか登場しない。

は1  は2  ひ  ふ1  ふ2    ほ1  ほ2