畢軌 曹爽取り巻きの并州刺史
畢軌(ひつき)字は昭先(しょうせん)
兗州東平国の人(??~249)
魏の臣。
父の畢子礼(ひつしれい)は典農校尉を務めた。
「曹真伝」に附伝される。
若い頃から才能により名声があり、曹叡が即位前には文学(官名)を務めた。
黄初年間(220~226)の末に地方へ出て長史となり、226年、曹叡が帝位につくと宮中へ入り黄門郎になった。息子が公主(内親王)をめとったため、豪邸を構えた。(『畢軌伝』)
何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・李勝(りしょう)・丁謐(ていひつ)・畢軌らは名声高かったが、曹叡は彼らが上辺だけ華やかで内実は乏しいと見抜き、抑えつけて退けた。(『曹真伝』)
曹叡の代に劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が権勢を振るい、誰もが交際を求めたが辛毗(しんぴ)は一切それに加わらなかった。それを子の辛敞(しんしょう)に批判されると「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に宂従僕射の畢軌が「王思(おうし)は古参の精励なる官吏ですが、忠誠と計略では辛毗に及びません。尚書僕射は王思から辛毗に交代させるべきです」と上奏されると、劉放・孫資は「陛下が王思を用いるのは努力を買い、虚名に惑わされないからです。辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。(『辛毗伝』)
人々は報復した劉放・孫資を批判した。(『劉放伝』)
やがて并州刺史に栄転したが、驕慢と評された。(『畢軌伝』)
「世語」に曰く、畢軌は鮮卑の奴隷を捕らえ、都へ送った。その男は前漢の范明友に仕え、350歳だというが言葉遣いや飲食の有様は普通の人と同じで、誰も知らない過去の人間関係を語った。(『明帝紀』)
鮮卑の軻比能(かひのう)が諸葛亮の北伐に呼応し挙兵した。雁門太守の牽招(けんしょう)は討伐に赴いたがすぐ撤退された。牽招は畢軌と相談し「鮮卑は住居を定めないから動きが早く、逃げられれば追いつけない。奇襲しようにも道が険阻で、秘密裏に兵站を行えない。そこで国境の外に兵を置き、屯田させて連携して戦おう」と策を練ったが、そのさなかに病没した。(『牽招伝』)
233年、軻比能が反乱すると、国境を守る歩度根(ほどこん)がよしみを通じたため、畢軌は討伐を訴え出た。曹叡は「歩度根は軻比能に誘われたが迷いがある。討伐軍を差し向ければかえって結託させてしまうだろう」と反対したが、畢軌はすでに蘇尚(そしょう)、董弼(とうひつ)を出撃させていた。軻比能は息子に1千騎を与え歩度根の民を迎えに行かせたが、これが討伐軍と出くわし、不意をつかれたのか2将は敗北し首を打たれた。
歩度根は国境を出て軻比能と合流し、魏へ攻撃を加えた。都から派遣された秦朗(しんろう)にようやく撃退され、鮮卑軍は北方へ逃げた。(『明帝紀』)
畢軌は他の州へ異動させられたが、蔣済(しょうせい)は「過去の過ちは取り返せないが、畢軌は同じ過ちを繰り返すでしょう。人には向き不向きがあり、彼は文学に優れ意志が強いのだから、都に高位で迎え入れたほうが良い。国家のためにそうしてください」と上奏した。
正始年間(240~249)に都に戻され中護軍となり、侍中尚書に上り、司隷校尉を務めた。実権を握った曹爽(そうそう)と親しく、意見を具申してはよく聞き入れられた。(『畢軌伝』)
何晏・鄧颺・李勝・丁謐らも曹爽の腹心として返り咲いた。
曹爽ははじめ司馬懿に敬意を払ったが、丁謐・畢軌が「司馬懿は大きな野心を抱き、非常によく人心をつかんでいます。本心から信用してはいけません」と吹き込んだため、冷遇するようになり、危険を察した司馬懿は隠退したように見せかけた。(『曹真伝』)
人事を司る盧毓(ろいく)は異動させられ、何晏が後任となった。さらに廷尉として外に出されたうえ、畢軌にでたらめの上奏をされ罷免された。(※ちくま版では「畢軌は何晏に陥れられ司隷校尉を免職となった」と書かれるが、「斉王紀」では処刑された時も司隷校尉のままであり、誤訳だろうと指摘されている)(『盧毓伝』)
249年、司馬懿によって曹爽一派が粛清され、畢軌らも連座して処刑された。(『斉王紀』)
「漢晋春秋」に曰く、王淩(おうりょう)が曹芳の廃位を企み、子の王広(おうこう)に話すと、「曹爽は驕慢と奢侈で人心を失い、何晏は虚無の説を好んで政治を顧みず、鄧颺・丁謐・畢軌らは人望はあるが世間に張り合うことしか考えていませんでした。彼らは人心を失い、一網打尽にされても誰も哀悼を捧げません。だが司馬懿父子は人心を得ており、簡単には滅ぼせません」と反対されたが、王淩は従わなかった。(※裴松之は他の史書に見えない発言であると創作を疑っている)(『王淩伝』)
「演義」にも曹爽の取り巻きの司隷校尉として登場。特に活躍はなく処刑された。
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