三国志 ふ 1


不耐濊王  濊の王


不耐濊王(ふたいわいおう)
濊の人(??~??)

濊の王。

245年、楽浪太守の劉茂(りゅうぼう)は帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)とともに、高句麗に寝返った濊を討伐した。
濊王の不耐侯(ふたいこう)は降伏した。
247年、不耐侯は朝貢し不耐濊王の位を授けられた。(『東夷伝』)



朴胡  巴郡の異民族A


朴胡(ふこ)
益州巴郡の人(??~??)

異民族。

215年、曹操は漢中を討伐した。陽平関が陥落すると、張魯(ちょうろ)は降伏しようとしたが、閻圃(えんほ)は「追い詰められてすぐ降伏すれば低く評価されますが、朴胡か杜濩(とこ)に協力を頼み、抵抗した後に降伏すれば高評価されます」と進言した。
張魯はそれに従い、さらに宝物庫を焼こうとする配下に「これは国家のものである」と言い、封印して撤退した。曹操はいたく感心し、降伏した張魯を厚遇した。(『張魯伝』)

215年、巴郡の7豪族のうち、蛮王の朴胡と賨邑侯の杜濩が住民をこぞって魏へ帰順した。
巴郡を分割し、朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守とし、ともに列侯した。(『武帝紀』)

巴西郡の王平(おうへい)は朴胡・杜濩とともに洛陽へ朝貢し校尉の官位を与えられた。
後に漢中で蜀軍と戦い、劉備へ降伏した。(『王平伝』)

黄権(こうけん)は張魯が撤退した時、劉備へ「漢中が落ちれば巴郡の力は弱まり、蜀の手足をもぎ取られるようなものです」と言い、救援するよう進言したが、張魯はすぐに魏へ降伏してしまった。
だが後に朴胡・杜濩を撃破し、夏侯淵を討ち取り漢中を制圧できたのは、全て黄権の計略によるものである。(『黄権伝』)



扶禁  霍峻に撃退された劉璋の将A


扶禁(ふきん)字は不明
出身地不明(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

212年、劉備が益州侵攻を開始すると霍峻(かくしゅん)は葭萌関の守備を任された。
劉璋は扶禁、向存(しょうそん)に1万の兵で葭萌関を包囲させたが、霍峻は数百人の兵で1年近く守り抜き、隙をついて出撃し向存を討ち取った。(『霍峻伝』)



扶羅韓  歩度根の次兄


扶羅韓(ふらかん)
鮮卑の人(??~218)

鮮卑の大人(王)。
歩度根(ほどこん)の次兄。

鮮卑は歩度根の代には勢力が衰えており、扶羅韓が数万の部族を別に率いていた。
曹操が幽州を制圧すると、同じく大人の軻比能(かひのう)らとともに、閻柔(えんじゅう)を通じて朝貢した。(『鮮卑伝』)

218年(『武帝紀』)、代郡烏丸の能臣氐(のうしんてい)は、魏に背き扶羅韓によしみを通じようとした。だが扶羅韓の配下が心服しておらず、いずれ失敗すると考え、軻比能とも別に連絡を取った。軻比能は扶羅韓・能臣氐と同盟を結ぼうと持ちかけ、席上で扶羅韓を殺し軍勢を奪ってしまった。
幼い息子の泄帰泥(せつきでい)は軻比能に目を掛けられたが、長じると叔父の歩度根に懐柔され、身を寄せた。

その後、233年に泄帰泥は魏に降伏し、歩度根は軻比能に殺された。(『鮮卑伝』)



武陔  武周の慎み深い長子


武陔(ぶがい)字は元夏(げんか)
豫州沛国竹邑県の人(??~??)

魏・晋の臣。
武周(ぶしゅう)の長子。

沈着かつ俊敏で器量があり、弟の武韶(ぶしょう)・武茂(ぶぼう)とともに幼い頃から声望高く、親族や郷里の者も三兄弟の優劣を見抜けなかった。そこで武周は同郷の劉昶(りゅうちょう)に人物鑑定を頼んだ。
武陔は帝王を補佐する才があり、三公に次ぐ位に上り、下の二人も侍中・散騎常侍・尚書は下回らないと見立てられた。

武陔も人物鑑定に長じ、陳泰(ちんたい)と親しく付き合った。
曹叡の代に下邳太守になったのを皮切りに昇進して行き、司馬師が実権を握ると従事中郎に招かれ、司隷校尉、太僕となり五等爵の制度が始まると亭侯から薛県侯に進んだ。
司馬昭とは非常に親しく尊敬され、陳泰とその父の陳羣(ちんぐん)との優劣を尋ねられ、それぞれの長所を挙げて優劣付け難いと答え、感心させた。

泰始年間(265~275)のはじめに吏部尚書となり、尚書左僕射に上り、さらに左光禄大夫・開府・儀同三司となった。地位・名声ともに高く(予言通り)三公に次ぐ位にあったが、晋の建国には関わらず、魏の重臣だったのに晋への禅譲に際し引退しなかったことに深く謙遜の念を抱き、高潔さを失わなかったため人々に美談と称えられた。
官位はそのまま上がらずに没し、定侯と諡された。
子の武輔(ぶほ)が後を継いだ。
弟の武韶・武茂もともに散騎常侍に上り、劉昶の見立ては全て的中した。(『晋書 武陔伝』)

李憙(りき)は「武陔は劉友(りゅうゆう)とともに官用の稲田を横領しました。悪い諡号を与えるべきです」と言上したが、責任は劉友にあるとして退けられた。(『晋書 李憙伝』)



武周  張遼と仲直り


武周(ぶしゅう)字は伯南(はくなん)
豫州沛国竹邑県の人(??~??)

魏の臣。

下邳県令の頃、臧覇(ぞうは)に尊敬され、親しく宿舎にまで訪ねられた。臧覇の配下が罪を犯すとすぐさま逮捕したためますます感心された。(『臧覇伝』)

張遼の護軍を務めたが仲違いした。
張遼は胡質(こしつ)を部下にもらおうとしたが、病気を理由に断られた。問い詰められると胡質は「武周は正しい人物で、あなたもはじめは称揚していましたが、些細な恨みから憎しみ仲違いしました。私のような者はなおさら無理でしょう」と答えた。
非を認めた張遼は武周との関係を修復した。(『胡質伝』)

220年、曹丕へ皇帝即位を勧める書状に侍御史として連名した。(『文帝紀』)

武周の官位は光禄大夫まで上った。

3人の子は幼い頃から声望高く、武周は同郷の劉昶(りゅうちょう)に人物鑑定を頼んだ。
長男の武陔(ぶがい)は三公に次ぎ、下の二人も尚書以下にはならないだろうと見立てられた。

武陔は三公の目前まで行ったが、晋代になると建国に貢献していないからと慎み深くし、清廉さを讃えられ「晋書」にも立伝された。
下の子の武韶(ぶしょう)・武茂(ぶぼう)も高位に上り、見立ては的中した。(『胡質伝』)



武韶


未作成



武茂


未作成



苻健  蜀に帰服した氐族の王


苻健(ふけん)
氐族の人(??~??)

氐族の王。

236年、400戸の民とともに広都県へ移住した。(『後主伝』)

「張嶷伝」に異聞がある。
武都郡の氐族の王の苻健は蜀へ降伏を願い出た。張尉(ちょうい)を迎えに出したが期日を過ぎても現れず、蔣琬(しょうえん)はたいそう心配した。
張嶷(ちょうぎょく)は「苻健の言葉には真心が籠もっていましたから偽りではありません。しかし苻健の弟はずる賢く、降伏に同調しない者もいたので内部分裂を起こし、遅れているのでしょう」となだめた。
はたして苻健の弟が400戸を率いて魏へ降り、苻健は単身で現れた。(『張嶷伝』)

「ちくま版」は「張嶷伝」での苻健の降伏を延煕14年(251年)と記すが、建興14年(236年)の誤りである。



浮雲  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


浮雲(ふうん)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、浮雲ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)



傅睿


未作成



傅嬰  仇討ちトリオ


傅嬰(ふえい)字は不明
出身地不明(??~??)

孫堅の三男・孫翊(そんよく)の配下。

204年、孫翊は配下の媯覧(きらん)、戴員(たいいん)によって殺された。
孫翊の未亡人の徐氏(じょし)は二人の言うことを聞くふりで油断させ、その隙に傅嬰・孫高(そんこう)・徐元(じょげん)に命じて仇討ちをさせた。
徐氏も仇討ちトリオもこの逸話にしか登場しない。(『孫韶伝』)

傅嬰はトリオの中で唯一KOEIのSLG「三國志Ⅲ」に登場し、なぜか将軍になれるほどの高パラメーターを与えられた。

孫高は姓から孫一族と思われるが素性は不明。

徐元は姓から徐氏の一族と思われるがやはり素性は不明の挙げ句、トリオの中で唯一「演義」にも、詳細が描かれる「呉歴」にも登場しない。



傅嘏  論理の達人


傅嘏(ふか)字は蘭石(らんせき)
涼州北地郡泥陽県の人(209~255)

魏の臣。
傅充(ふじゅう)の子。傅巽(ふそん)は伯父にあたる。

20歳頃に名を知られ、陳羣(ちんぐん)に召され司空掾となった。(『傅嘏伝』)

227年、都で荀粲(じゅんさん)と出会い、名理(形式論理学)を得手とする傅嘏と、老荘思想を尊ぶ荀粲は基本的な結論は一致するものの、場面場面では言い合いになることも多く、友好を結ぶまでには至らなかったが、裴徽(はいき)が仲介に入ったことで仲良くなり、そこに夏侯玄(かこうげん)も加わった。
荀粲は「君達は世俗的な出世や功業名誉では必ず私に勝つが、識見では私に劣る」と言った。傅嘏は「識見があるから功業名誉を立てるのだ」と反論したが、荀粲は「功業名誉は意志と状況も大事で、識見だけでは足りない。あなた方は偉いお人だと尊敬するが、私は必ずしも同じことはしません」と言い返した。(『荀彧伝』)

「傅子」に異聞がある。
夏侯玄・何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)が席巻していた頃、傅嘏は彼らから交際を求められたが断った。荀粲が「夏侯玄は一時代を風靡する英傑で、交際を断れば恨みを招く。二人の優れた人物が仲良くしないのは国家の利益に反する」と言うと、傅嘏は「夏侯玄は器量よりも大きい野心を持ち、虚名を集めることはできるが、現実に通用する才能はない」と評し「三人とも道徳に外れており、遠くでも災難が降りかかる恐れがあるのに、昵懇になどできない」と言った。
裴松之は「傅嘏は夏侯玄の失敗を見抜いたが、鍾会とは親しくしたという。夏侯玄は重い名声のため外から災難を招いたが、鍾会は反乱し自ら災いを招いた。ならば鍾会の失敗も見抜けたはずなのに予見できず、しかも片方とだけ親しくしたのは正しい態度ではない。この逸話は傅嘏にとってプラスにならない」と批判している。

また傅嘏は李豊(りほう)とも不仲で、後の災難を予見したと「傅子」は記している。(※家伝だけありどうも傅嘏の美化が甚だしい)(『傅嘏伝』)

荀粲は女性の容姿だけを重視し、評判の美人の曹洪(そうこう)の娘をめとり寵愛していたが、数年後に先立たれると憔悴した。傅嘏が「容姿だけを重視するなら他に美人を求めるのは容易だろう」と聞くと、「妻は傾国というほどではなかったが、容易に巡り会えるほどの美貌ではなかった」と語り、翌年には後を追うように病没した。享年29。

尊大で人を見下す彼は凡人と付き合えず、友人は十人ほどだったが、いずれも名高い俊才英傑ばかりで、彼らの嘆き悲しむ声は、道行く人々を感動させたという。(『荀彧伝』)

劉劭(りゅうしょう)が官吏の勤務評定を作ると、「根拠にしている前代の制度はほとんど散逸している。法は時代に沿って変わるもので、ふさわしくなければ後世に残す価値が無いと抹消される。根本の法が無いまま勤務評定だけ定めても人材は得られない」と批判した。

正始年間(240~249)のはじめに尚書郎に、やがて父と同じ黄門侍郎に上った。
当時は曹爽(そうそう)が実権を握り、何晏が人事を任されていたが、傅嘏は曹爽の弟の曹羲(そうぎ)に「何晏は外見は静かだが内実はどぎつく、はしっこく利益を好み、努力をしない。きっとあなたの兄弟を惑わし、朝政をすたれさせる」と重用しないよう進言したところ、それが何晏らの耳に入り免職となり、滎陽県令に左遷されたが出仕しなかった。

司馬懿に招かれ従事中郎将となり、249年、曹爽一派が粛清されると河南尹、尚書に上った。
傅嘏は常々「法制度は秦代のままで、儒者や学者は三代(夏殷周)の礼を組み合わせたいと願っている。だが礼も時代の要求に応えるべきで、この名実が合致しないために治世は訪れないのだ。法を整備し根本を正すべきだが、今は多難で変革はできない」と考えていた。

「傅子」に曰く、河南は天下の中心であり、利益と悪事の集まる土地である。歴代の河南尹で、司馬芝(しばし)の統治は漁網の大綱を引っ張るように非常に大まかだった。次の河南尹の劉静(りゅうせい)は小さな網の目で非常に細かく、李勝(りしょう)は規則を壊して一時的な名声を得た。そして傅嘏は司馬芝の大綱を立て直し、劉静の網の目を裁ち、李勝の壊したものを繕った。
功績を誇らず隠したため、華々しい名声は得られなかったが、官民は彼の統治に安心した。(『傅嘏伝』)

251年頃、王基(おうき)は魏の全権を握った司馬師へ政治の心得を説くとともに、許允(きょいん)・傅嘏・袁侃(えんかん)・崔賛(さいさん)を「現代の正直の士で正しい気質を持ち、浮ついた心がない」と評し、政治に携わらせるよう推薦した。(『王基伝』)

252年、孫権の死に乗じて呉征伐の機運が生じたが、傅嘏は「呉は孫権を失いかえって危機感を強め、要害を固めているから勝利を得るのは難しい」と反対した。聞き入れられず魏は三方から呉を攻めたが、東関の戦いで惨敗した。
呉の諸葛恪(しょかつかく)が逆に徐州・青州をうかがう気配を見せると、傅嘏は陽動と見抜き、はたして諸葛恪は合肥新城を攻めたが敗走した。

「傅子」に曰く、傅嘏は治道に通じ、正義を愛し、論理に明るく、事物の本質を認識していた。人間の才能・本性について論じ、根本まで追求することに掛けては並ぶ者がなかった。鍾会は年下だったが親しく付き合い、傅嘏の議論をまとめた。
他に裴徽・荀甝(じゅんかん)と親しくしたがともに早逝した。
何曾(かそう)・陳泰(ちんたい)・荀顗(じゅんぎ)・鍾毓(しょういく)とも親しく、いずれも朝政に携わる名臣だった。(『傅嘏伝』)

衛瓘(えいかん)は若くして傅嘏の知遇を得た。(『衛覬伝』)

王弼(おうひつ)ははじめ裴徽に、次いで傅嘏に才能を認められた。(『鍾会伝』)

嘉平年間(249~254)の末に関内侯に封じられ、同年、夏侯玄・李豊は反乱を企み処刑された。(『傅嘏伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に尚書・関内侯として連名した。(『斉王紀』)

曹髦が即位すると武郷亭侯に進んだ。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が反乱すると、傅嘏と王粛(おうしゅく)だけが司馬師が親征するよう進言し、自ら尚書僕射を代行し参謀を務め大いに貢献した。(『傅嘏伝』)

司馬師が急逝したため、司馬昭が全軍の総帥となり、鍾会が作戦立案をした。朝廷(曹髦)はこの機に司馬氏の勢力を削ろうと、司馬昭を許昌に留め、傅嘏には全軍を率いただちに洛陽へ帰還するよう詔勅を下したが、傅嘏は鍾会と相談して上奏文を作成し、勅命に背き司馬昭を連れて帰還した。(『鍾会伝』)

「世語」には司馬師が臨終の間際、傅嘏に朝政を委ねようとしたが、傅嘏は司馬昭に後を継がせたと記されるが、孫盛はありえないことだと一蹴している。

この功績により鍾会が驕ると「君は野心が器量よりも大きく、功業を成し難い。慎み深くしなければいけない」と諌めた。

陽郷侯に進み、1200戸に加増されたが同年のうちに没した。享年47。
太常を追贈され、元侯と諡された。

末子の傅祗(ふし)が後を継いだ。
咸熙年間(264~265)に五階級の爵位制度が立てられると、傅嘏の功績が改めて採り上げられ、傅祗は涇原子に取り立てられた。
傅祗は晋の司空まで上った。(『傅嘏伝』)

264年、鍾会は蜀を制圧後に反乱し、命を落とした。(『鍾会伝』)

陳寿は「才能と達識によって高官となった」と評したが、裴松之は「見識・器量ともに優れた当時の一流の人物であり、この評は拙劣なうえ、美点を表現するに不充分である」と批判している。

「演義」でも呉征伐に反対し、毌丘倹との戦いでは策を出したりと史実通りの活躍を見せる。



傅咸


未作成



傅幹  的確な判断力


傅幹(ふかん)字は彦材(げんざい)
涼州北地郡霊州県の人(175~??)

魏の臣。
傅燮(ふしょう)の子。

187年、漢陽太守の傅燮は反乱した韓遂(かんすい)の軍に城を包囲された。兵糧は尽き、包囲する胡族はかねてから傅燮を慕っていたため、土下座して降伏するよう懇願した。
13歳の傅幹は剛毅な父が玉砕することを恐れ「国家は父上を受け入れなかったために混乱し、兵は不足しています。胡族も望んでいるのですから、郷里に帰って道義を守り、天下を救いましょう」と言ったが、その言葉が終わらないうちに傅燮は激昂し、息子を幼名の別成(べつせい)と呼び「お前にも私の覚悟がわかるだろう。殷の紂王は暴虐だったが、伯夷は殷に殉じた。漢王朝は殷ほど酷くないが、私の徳は伯夷に劣りはしない。お前には才知がある。努力せよ」と言い遺し、玉砕を遂げた。(『後漢書 傅燮伝』)

「戦略」に曰く。
202年、袁尚(えんしょう)は馬騰(ばとう)と同盟し曹操に対抗しようとした。
傅幹が「曹操は天子を守り道義に従っているが、袁尚はその逆です。あなたは日和見しようとしていますが、袁尚が敗れた後に真っ先に処罰されることを心配します」と言い、馬騰はにわかに不安になった。
傅幹はさらに「智恵者は災い転じて福となします。曹操は郭援(かくえん)に河東郡を襲われ対処できずにいますが、あなたが攻めれば郭援を撃破できます。曹操の危急を救えば必ずや重んじられるでしょう」と進言し、馬騰は子の馬超を派遣し、郭援を撃破させた。(『鍾繇伝』)

「傅子」に曰く。
212年、劉備が益州を攻めると趙戩(ちょうせん)は「劉備は戦下手で、益州は堅固な土地だからすぐには陥落しない」と言った。
徴士の傅幹は「劉備は寛大で度量があり人の死力を振り絞らせる。諸葛亮は正道に寄りながら権謀がある。張飛・関羽は万人と戦える。劉備の智略を三人の英雄が補佐すれば必ず成功する」と見立てた。(『先主伝』)

「九州春秋」に曰く。
214年、曹操が孫権を討伐しようとすると、参軍の傅幹は「天下を治めるには文武が必要で、文は徳を、武は威を用いるのが第一です。呉・蜀は険阻な土地で威を用いて服従させるのは困難ですが、徳ならば容易にできます」と政治に励むよう諫言したが、却下された。魏軍は敗北した。(『武帝紀』)

官位は扶風太守まで上った。(『後漢書 傅燮伝』)

官位は丞相倉曹属で終わった。(『武帝紀』)

没年は不明だが217年に生まれた子の傅玄(ふげん)は「若くして父を失い困窮した」と記される。
後に「晋書」に列伝される名臣となった。(『晋書 傅玄伝』)

「演義」でも曹操に呉の討伐をやめるよう進言し、史実とは逆に聞き入れられた。



傅羣  楊儀に寝返られた荊州刺史


傅羣(ふぐん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

荊州刺史を務めた。
建安年間(196~220)、主簿の楊儀(ようぎ)が襄陽太守の関羽に寝返った。(『楊儀伝』)



傅玄


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傅公明


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傅士仁  明暗を分けた裏切り者


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傅祗  傅嘏の末子


傅祗(ふし)字は子荘(しそう)
涼州北地郡泥陽県の人(??~??)

魏の臣。
傅嘏(ふか)の末子。

魯の大臣(不詳)が孔子を神として祀るよう上奏し、曹叡は議論させた。
博士の傅祗は賛成したが、崔林(さいりん)は「他の聖人を祀らず孔子だけを国を上げて祀るのはおかしい。孔子はすでに礼も義も別格の扱いを受けており、子孫が祀っていれば充分だ」と反対した。
(※裴松之は「ヨモギのような卑小な心で明白な道義を抑えつけた身の程知らず」と崔林を激しく非難している)(『崔林伝』)

(※崔林は244年没、傅嘏は47歳で255年に没した。傅祗はこの議論の時にまだ十代と思われる。あるいは同姓同名の別人か)

255年、父が没すると後を継いだ。

咸熙年間(264~265)に五階級の爵位制度が立てられると、傅嘏の功績が改めて採り上げられ、傅祗は涇原子に取り立てられた。

永寧年間(301~302)に司空に上った。

子の傅宣(ふせん)は御史中丞、傅暢(ふちょう)は秘書丞まで上った。傅暢の著した「晋諸公賛」は裴松之の注にも多く引かれている。(『傅嘏伝』)



傅充  傅嘏の父


傅充(ふじゅう)字は介子(かいし)
涼州北地郡泥陽県の人(??~??)

魏の臣。
魏の重臣の傅嘏(ふか)の父。同じく重臣の傅巽(ふそん)は兄にあたる。

黄門侍郎を務めた。(『傅嘏伝』)



傅燮  決して己を曲げない傅幹の父


傅燮(ふしょう)字は南容(なんよう)
涼州北地郡霊州県の人(??~187)

後漢の臣。
傅幹(ふかん)の父。

元の字は幼起(ようき)だが「論語」にちなみ改めた。
身長は8尺(約184㎝)あり、威厳ある容貌だった。

若くして太尉の劉寬(りゅうかん)に師事し、孝廉に2度挙げられた。推挙してくれた人が没すると、官を辞して喪に服した。
後に護軍司馬となり、184年の黄巾の乱では皇甫嵩(こうほすう)とともに討伐した。

「続漢書」に曰く、卜巳(ぼくし)・張伯(ちょうはく)・梁仲寧(りょうちゅうねい)ら3人の頭目を討ち取った。

もともと宦官を憎んでおり、黄巾の乱の源はもとをただせば宦官であると上疏し、趙忠(ちょうちゅう)の逆鱗に触れた。功績により列侯されるはずだったが、趙忠の讒言により握りつぶされた。霊帝は上疏を理解し、罪には問わず、安定都尉に任じられるに留まった。それも病により罷免された。

後に議郎となり、涼州で辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)が反乱すると、司徒の崔烈(さいれつ)は涼州を放棄するよう強く主張した。傅燮は激怒し「司徒を斬り天下を安んじよ」と言った。
楊賛(ようさん)が傅燮は大臣を侮辱したと非難したが、霊帝は傅燮に意見を聞いた。
傅燮は故事を引き涼州の重要さを説き「崔烈は宰相でありながら国家のための策も考えず、一州を切り捨て天下に憂慮を与えようとしています。それを理解していないなら暗愚の極みで、理解しているなら不忠の極みです」と言った。霊帝も同意し、朝廷は傅燮を重んじ重大事を相談するようになった。

趙忠は車騎将軍に上ると、黄巾の乱を功績を改めて論じるよう命じられ、甄挙(しんきょ)らは傅燮を列侯するよう推した。
趙忠は弟の趙延(ちょうえん)を使者に立て、慇懃な態度で「受ければ領邑は1万戸を超えるでしょう」と言うと傅燮は顔色を変え「厚遇と不遇は天命で、功績を採り上げられないのは時勢である。(先に列侯を握りつぶされておいて今さら)私的に賞賜など望むものか」と拒絶した。
趙忠はいよいよ恨みを深くしたが、傅燮の名声は高く手出しできなかった。だが多くの権力者に睨まれ、傅燮は難を避けるため漢陽太守に赴任した。

前太守の范津(はんしん)は人物鑑定で知られ、かつて傅燮を孝廉に挙げた人であり、傅燮が赴任すると(太守の地位を示す)割符を合わせてから去り、人々は名誉なことだと称えた。
傅燮の統治は民のみならず反乱した羌族にも慕われ、周辺で屯田し40近くの陣営が軒を連ねた。

当時、涼州刺史の耿鄙(こうひ)に信頼された程球(ていきゅう)が私腹を肥やし人々に恨まれていた。
187年、耿鄙が韓遂・王国(おうこく)の反乱鎮圧に向かうと、傅燮は「あなたは着任して日が浅く、配下はまだ指揮を理解していません。先に地盤を固めるべきです」と諫言したが、耿鄙は却下して出陣し、間もなく反乱により程球とともに殺された。韓遂らは反撃し傅燮の守る漢陽郡を包囲した。
兵糧は尽き、包囲する胡族はかねてから傅燮を慕っていたため、土下座して降伏するよう懇願した。
13歳の傅幹は剛毅な父が玉砕することを恐れ「国家は父上を受け入れなかったために混乱し、兵は不足しています。胡族も望んでいるのですから、郷里に帰って道義を守り、天下を救いましょう」と言ったが、その言葉が終わらないうちに傅燮は激昂し、息子を幼名の別成(べつせい)と呼び「お前にも私の覚悟がわかるだろう。殷の紂王は暴虐だったが、伯夷は殷に殉じた。漢王朝は殷ほど酷くないが、私の徳は伯夷に劣りはしない。お前には才知がある。努力せよ。楊会(ようかい)はお前にとって程嬰(身寄りのない趙武をかくまった古人)だ」と告げた。
王国は傅燮を惜しみ、元の酒泉太守の黄衍(こうえん)に説得させたが、傅燮は「貴様は朝廷に仕えながら逆賊に従うのか」と激怒し、突撃して玉砕を遂げた。

壮節侯と諡された。(※諡号は列侯されていなければ贈られず、どこかで列侯されていたと思われる)
子の傅幹は扶風太守まで上った。(『後漢書 傅燮伝』)

孫の傅玄(ふげん)は「晋書」に列伝される名臣となった。(『晋書 傅玄伝』)

「演義」には登場しない。



傅常


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傅宣


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傅僉  父子ともに美しく散る


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傅巽  龐統らを評す


傅巽(ふそん)字は公悌(こうてい)
涼州北地郡泥陽県の人(??~??)

魏の臣。
傅充(ふじゅう)の兄。

容貌に優れ、博学で人物鑑定眼に長じた。
はじめは三公の府に召され尚書郎を務めたが、後に(董卓の専横を避け?)荊州へ逃れ州牧の劉表(りゅうひょう)に仕えた。
龐統(ほうとう)を「英雄だが不完全」、裴潜(はいせん)を「清潔で品行方正」と評し、後に二人とも高位についた。

208年、劉表が没して劉琮(りゅうそう)が後を継ぎ、曹操の大軍が迫ると蒯越(かいえつ)・韓嵩(かんすう)とともに降伏を勧めた。劉琮は渋ったが東曹掾の傅巽は道理を説き、客将の劉備と劉琮のどちらの器量が勝るか問い、劉備が上回るという言質を取ると、劉備でさえ曹操には敵わず、もし敵うなら客将の地位に甘んじはしないだろうと半ば脅して説き伏せた。
その功から曹操によって関内侯に封じられた。(『劉表伝』)

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に関内侯として連名した。(『武帝紀』)

当時、丁儀(ていぎ)が曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを繰り広げていた。
何夔は丁儀と不仲だったため、尚書の傅巽は「あなたの友人の毛玠(もうかい)も既に陥れられました。丁儀を少し立ててやりなさい」と忠告したが「道義に外れた行いをすれば我が身を損なうだけで、他人を損なうことはできない。そのうえ邪な心を抱いて高位にいれば長くはない」と何夔は聞き入れなかった。(『何夔伝』)

「傅子」に曰く、魏諷(ぎふう)が才知ある人物だと名を馳せた時、「必ず謀叛する」と見立て、的中させた。(『劉表伝』)

220年、曹丕を皇帝に推挙する上奏に散騎常侍として連名した。(『文帝紀』)

曹丕が即位すると、曹植と蘇則(そそく)は漢の滅亡を嘆き、喪に服した。曹丕は蘇則の件は知らなかったが、曹植が喪に服したと聞き「私は天に応えて禅譲されたのに、大声で泣いた者がいるそうだ」と当てこすった。
蘇則は自分のことだと思い、反論しようとしたが、侍中の傅巽はそれに気づき、蘇則をつねり「君のことではない」と教えて黙らせた。

「魏略」に異聞がある。
蘇則は金城太守を務めていた時、漢から魏への禅譲を聞くと、献帝が崩御したと早合点し、喪に服した。
一方、曹植は漢の滅亡を嘆き大声で泣いた。後に曹丕は外出の折、曹植のことを思い出して「人間の心は同じではないものだな。私が帝位に上った時、大声で泣いた者がいる」と言った。蘇則は自分のことだと思い、謝罪しようとしたが傅巽がそれに気づき、目配せしてやめさせた。(『蘇則伝』)

曹丕の代に尚書侍中に上った。(『傅嘏伝』)

太和年間(227~233)に没し、入れ替わるように甥(傅充の子)の傅嘏(ふか)が声望を高めていった。(『劉表伝』)

「演義」では劉琮に降伏を勧め、関内侯に封じられて出番終了となる。



傅著


未作成



傅暢


未作成



傅募


未作成



傅方  関羽に揃って降伏


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傅彤  犬には降らぬ


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傅容  牽招の統治に次ぐ


傅容(ふよう)字は不明
幽州漁陽郡の人(??~??)

魏の臣。

12年にわたり雁門太守を務めた牽招(けんしょう)が没すると、それに次ぐ統治で評判を取った。後に遼東に転任した時も治績を上げた。(『牽招伝』)

233年頃、聶夔(じょうき)とともに公孫淵(こうそんえん)へ楽浪公の位を授ける使者を務めた。
公孫淵は都から帰ってきた配下に「魏の使者は左駿伯(さしゅんはく)をはじめ剛勇の者ばかりです」と吹き込まれ、疑心暗鬼となった。
暗殺を警戒し、また威信を示すため使者を学校へ滞在させると、兵に包囲させた後に面会し、彼らを怯えさせた。
帰国した傅容らはありのままに報告したと記され、魏は公孫淵に叛意ありと警戒を強めたと思われる。(『公孫度伝』)



普富廬  代郡烏丸の単于代行


普富廬(ふふろ)
烏丸の人(??~??)

代郡烏丸の単于(王)代行。

207年、曹操の討伐軍が袁煕(えんき)・袁尚(えんしょう)や、蹋頓(とうとん)ら烏丸の単于を撃破すると、代郡烏丸の単于代行の普富廬と上郡烏丸の単于代行の那楼(なろう)が配下を引き連れ祝賀に赴いた。

216年にも普富廬は朝貢した。(『武帝紀』)



無臣氐  曹彰に瞬殺された代郡・上谷の烏丸族


無臣氐(ぶしんてい)
烏丸の人(??~218?)

代郡・上谷の烏丸族。

218年に反乱し、曹彰(そうしょう)に討伐された。(『武帝紀』)



舞陽君  何皇后の母


舞陽君(ぶようくん)名は興(こう)
姓と字は不明
出身地不明(??~190)

何皇后(かこうごう)と何苗(かびょう)の母。

はじめ朱氏(しゅし)に嫁ぎ、何苗を生んだ。(『董卓伝』)
「後漢書」には何皇后の父は何真(かしん)、何苗は異父弟と記される。
いずれにしろ何苗と兄の何進(かしん)とは血が繋がらない。

三兄妹は荊州南陽郡で屠殺業を営んでいたが、妹が霊帝に見初められ何皇后となったため何進はやがて大将軍へ上った。(『後漢書 后紀』)

189年、霊帝が没し何皇后の子の少帝が即位すると、何進は実権を握る十常侍ら宦官の排除に動いた。だが何苗と舞陽君は宦官と親密で賄賂を受け取っていたため、何太后へ何進が少帝を差し置き実権を握ろうとしていると吹き込んだ。
何進は宦官に対抗するため各地から兵を集め、火を放って脅した。何苗は兄へ「我々は貧しく卑賤の身から、宮中に取り立てられて富貴を得たのです。どうか和解してください」となだめ、決心を鈍らせた。

何進の腹心の袁紹は強硬策を採り、何進の命令と偽って宦官やその家族を逮捕した。
十常侍の筆頭格の張譲(ちょうじょう)の息子の嫁は、何太后の妹(舞陽君の娘)だった。張譲はその嫁へ土下座して仲裁を頼み、舞陽君から何太后へ伝わり、争いは止まった。

結局、何進は宦官によって暗殺された。部下の袁紹、呉匡(ごきょう)は異変を悟ると宮中に突入して宦官を殺し、何苗もそれに加わった。
だが呉匡はかねてから何苗が何進に逆らうのを恨み、宦官と結託しているのではと疑っていた。
そこで何進暗殺の黒幕であると糾弾し、董卓の弟の董旻(とうびん)とともに彼を殺した。

混乱に乗じて都の実権を握った董卓は、少帝を廃位しその異母弟の献帝を立てた。
少帝は王に降格させられ、袁紹が董卓追討軍を結成すると、擁立されることを恐れた董卓は、李儒(りじゅ)に命じて少帝と何太后を毒殺させた。
さらに舞陽君を殺して庭に捨て、何苗の墓を暴き、遺体をバラバラにして道端にばらまかせた。(『後漢書 何進伝』)

一方で「後漢書 后紀」には189年、何進が宦官によって暗殺されると、乱戦の中で舞陽君も殺されたと記される。(『後漢書 后紀』)

「演義」でも何苗とともに宦官と結託したが、その最期は描かれない。



馮恢  父孝行だが博士としてはいまいち


馮恢(ふうかい)字は不明
冀州魏郡長楽県の人(??~??)

晋の臣。
馮員(ふういん)の子。馮紞(ふうたん)、馮淑(ふうしゅく)の兄。

父が弟の馮淑に爵位を譲りたいと考えていたため、父が没すると喉を病み声が出なくなったと称して隠居した。無事に馮淑が後を継ぐと復帰し、博士祭酒となった。
翟嬰(てきえい)が馮恢を「品行に優れ俗事を超越した古の烈士のような人物」だと推挙すると、崔洪(さいこう)は「馮恢は博士祭酒にふさわしい学問が無く、学生を交替で当直させて(カンニングし)それをごまかしている。弟に爵位を譲ったという微細な善行はあるが、比類なき優れた人物ではない。翟嬰の目は節穴だ」と上奏し、翟嬰は罷免された。
朝廷は崔洪を恐れはばかるようになり、尚書左丞に上ると人々に「生い茂ったトゲ(のような鋭い男)が博陵郡からやって来た。南で灰鷹、北で鷹となる(目を光らせる)」とうたわれた。(『晋書 崔洪伝』)

張華(ちょうか)はかつて徴士の馮恢を司馬炎の面前で批判したことがあった。
張華を宰相にすべきだと朝廷が議論した時、司馬炎に寵愛されていた馮紞が「張華は鍾会のように反乱する恐れがある」と吹き込んだため、張華の官位は太常に留められた。(『晋書 張華伝』)

「馮紞伝」には馮恢も列伝されていると記されるが実在しない。(『晋書 馮紞伝』)



馮楷  謎の七将


馮楷(ふうかい)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

208年、荊州征伐が始まると趙儼(ちょうげん)は都督として張遼・于禁・張郃・李典(りてん)・朱霊(しゅれい)・路招(ろしょう)・馮楷ら7将を指揮した。(『趙儼伝』)

馮楷の名はそこにしか見えないが、名だたる名将たちと同列に記されており、相応の地位と実力があったと思われる。
その後の事績が不明なのは荊州征伐~赤壁の戦いの過程で戦死したためだろうか。

なお「演義」には登場しないが、「蒼天航路」では脇役ながら夏侯淵の配下としてあちこちに登場する。



馮熙  曹丕に獄死させられかけた呉の使者


馮熙(ふうき)字は子柔(しじゅう)
豫州潁川郡の人(??~??)

呉の臣。
光武帝の名臣の馮異の子孫。

以下「呉書」に曰く。
孫権が車騎将軍の時に東曹掾を務めた。

223年、劉備が没すると呉は立信都尉の馮熙を公式の使者として弔問させた。帰国すると中大夫となった。

後に魏へ使いすると曹丕に「呉が魏と友好関係を続けたいなら蜀を攻めるべきなのに、なぜ蜀と和睦したのだ」と問われ「蜀へは答礼として行っただけで、ついでに弱点を偵察して来たと聞いています」と答えた。
曹丕はさらに「呉では災害が相次ぎ有能な人材も減ったと聞く。あなたはどう思う」と尋ねた。馮熙は「孫権は優れた主君で臣下は忠義に励み、100万の兵と山のような食料に肥沃な土地を持ち、民が飢える年はありません。いわゆる金城湯池の富強の国で、貴国との優劣は付けられません」と答えた。
曹丕は不快に思い、同郷の陳羣(ちんぐん)を通じて厚い恩賞をちらつかせ寝返りを誘ったが応じなかった。
獄舎に送られ、このままでは君命を辱めると考え、護送中に自害を図ったが御者に気付かれ死ねなかった。孫権はそれを聞き「(捕虜となっても屈しなかった前漢の)蘇武となんら変わらない」と涙を流した。
結局、帰国できずに魏の土地で没した。(『呉主伝』)



馮氏  妬まれ殺された袁術の側室


馮氏(ふうし)名は不明
司隸の人(??~??)

袁術の側室。
馮方(ふうほう)の娘。

「九州春秋」に曰く。
馮氏は国一の美女で、戦乱を避け揚州に避難した。城壁の上から一目見た袁術に見初められ側室となったが、寵愛されたため後宮の女達に妬まれた。
彼女を陥れようと「将軍(袁術)は操の固い女を好むから、しょっちゅう涙を流し物思いにふけっていれば大切にされるでしょう」と嘘を吹き込まれその通りにすると、袁術は悩みがあるのだろうと考え一層寵愛した。
とうとう女達は共謀して絞殺し、かわやの梁にぶら下げて自害に偽装した。袁術はかねてからの悩みのせいだと考え、手厚く葬った。(『袁術伝』)



馮習  夷陵の戦いの戦犯?


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馮粛  古代の舞に通暁する舞師A


馮粛(ふうしゅく)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢・魏の臣。

曹操は音楽家の杜夔(とき)を軍謀祭酒に任じ、太楽(宮廷音楽)を新たに制定させた。
杜夔は並外れた音感と聴覚を持ち、弦楽器や管楽器ら8種の楽器を全て演奏できたが、歌と舞は得手ではなかった。
そこで雅楽の名手の鄧静(とうせい)・尹斉(いんせい)、歌師の尹胡(いんこ)と、舞師で古代からの舞に通暁する馮粛・服養(ふくよう)らを集めて古代からの音楽を考究し、古くは四書五経から、近代の様々な事例を参考に、芸能者を養成し、楽器を作り揃えた。古来からの音楽を復興し、後世に引き継がせたのは全て杜夔の尽力によるものである。(『杜夔伝』)



馮淑  馮恢に爵位を譲られる


馮淑(ふうしゅく)字は不明
冀州魏郡長楽県の人(??~??)

晋の臣。
馮員(ふういん)の子。馮恢(ふうかい)の弟。

父が下の子の馮淑に爵位を譲りたいと考えていたため、馮恢は父が没すると喉を病み声が出なくなったと称して隠居した。無事に馮淑が後を継ぐと馮恢は復帰し、博士祭酒となった。
翟嬰(てきえい)が馮恢を「品行に優れ俗事を超越した古の烈士のような人物」だと推挙すると、崔洪(さいこう)は「馮恢は博士祭酒にふさわしい学問が無く、学生を交替で当直させて(カンニングし)それをごまかしている。弟に爵位を譲ったという微細な善行はあるが、比類なき優れた人物ではない。翟嬰の目は節穴だ」と上奏し、翟嬰は罷免された。
朝廷は崔洪を恐れはばかるようになり、尚書左丞に上ると人々に「生い茂ったトゲ(のような鋭い男)が博陵郡からやって来た。南で灰鷹、北で鷹となる(目を光らせる)」とうたわれた。(『晋書 崔洪伝』)



馮純  孫皓に妻を奪われる


馮純(ふうじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。
馮朝(ふうちょう)の子。

張布(ちょうふ)は孫皓の不興を買い殺されたが、下の娘の張氏は側室として寵愛された。
ある時、孫皓が「お前の父親はどこにいる」とからかうと彼女は「悪人に殺されました」と答え、腹を立てた孫皓に殴り殺された。

その後、孫皓は彼女が懐かしくなり、そっくりな木像を作らせて側に置いた。それにも飽き足らず、姉妹がいなかったか調べさせた。姉が馮純に嫁いでいるとわかると、奪って側室とし、一日中、彼女とベッドで過ごし朝政を顧みなくなった。(『孫和何姫伝』)



馮則  史書に名を残した一兵卒


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馮紞  賈充・荀勗の同類


馮紞(ふうたん)字は少冑(しょうちゅう)
冀州安平郡の人(??~286)

魏・晋の臣。

父の馮員(ふういん)は汲郡太守を、祖父の馮浮(ふうふ)は司隸校尉を務めた。
若くして経史を広く読み機知に富んだ弁舌を身に着けた。
魏郡太守、歩兵校尉、越騎校尉を歴任し、司馬炎に気に入られ左衛将軍に上った。
顔色をうかがい機嫌を取るのが上手く、寵愛は日に日に高まり賈充(かじゅう)・荀勗(じゅんきょく)ら(佞臣と)親しく付き合った。(『晋書 馮紞伝』)

賈充が(謀略により)出兵させられることになると、荀勗は馮紞に「賈充が遠ざけられたら我々は権勢を失う。賈充の娘を太子と婚姻させられれば自ずと取りやめさせられる」と言い、二人で司馬炎を訪ね賈南風(かなんぷう)を才色兼備と称え太子の司馬衷と婚姻させた。
賈充の出兵は取りやめられ、彼らは忠義ある人々に憎まれ、媚びへつらいの誹りを受けた。(『晋書 荀勗伝』)

司馬炎が賈南風を太子妃から廃そうとした時も荀勗・馮紞の陳情により取りやめられた。人々は荀勗が国を傾け害悪を流す様は魏代の孫資(そんし)・劉放(りゅうほう)の同類だと蔑んだ。(『晋書 荀勗伝』)
荀勗・馮紞は一か八かで無理を押し通し賈南風の廃位を阻止した。(『晋書 馮紞伝』)

279年からの呉討伐では賈充・荀勗とともに強く反対したが司馬炎は聞き入れず、馮紞は汝南太守として王濬(おうしゅん)の指揮下で戦った。
王濬は快進撃で孫晧を降伏させ、馮紞は御史中丞に移り、侍中となった。(『晋書 王濬伝』・『晋書 馮紞伝』)

司馬炎が重病にかかり危ぶまれた時、馮紞・荀勗は司馬炎の弟の司馬攸(しばゆう)に声望が集まっていると見立てた。荀勗は以前から司馬攸に疎まれており、司馬攸が次の皇帝となれば排斥されると恐れ、馮紞から司馬炎へ「(あなたにもしものことがあった時)太子(司馬衷)は廃位されかけたことがあり、司馬攸は声望を集めているから辞退しきれず帝位を奪われるかもしれません。都から出し藩国へ赴任させれば安泰です」と吹き込んだ。
司馬攸は怒りから病を得て没し、人々は悲しみ恨んだ。司馬炎も司馬衷の行く末を案じて馮紞・荀勗の邪な意見を聞いただけであり、兄弟仲は良かったため深く嘆き悲しんだ。
馮紞は「斉王(司馬攸)は名声が実態より大きすぎ、寿命を終えられた。晋にとっては福でありそんなに悲しむことではありません」と諌め、司馬炎は涙を収めた。

呉討伐で強く反対したため成功裏に終わると大いに恥じて恐れ、主戦派だった張華(ちょうか)を仇敵のように恨んだ。
幽州に赴任した張華が治績を挙げると尚書令にすべきだと建議された。馮紞は何気ないていで鍾会が反乱した例を話し、張華に重責を担わせてはならないと司馬炎に吹き込み、取りやめさせた。

286年、重病にかかると詔勅により散騎常侍となり、20万銭と寝台の帷を一式与えられ、ほどなく没した。
2人の子がおり馮播(ふうばん)は大長秋に、馮熊(ふうゆう)は中書郎に上った。兄の馮恢(ふうかい)も列伝されている。(※実際にはされていない)(『晋書 馮紞伝』)



馮朝  孫皓に息子の嫁を奪われる


馮朝(ふうちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

255年秋、衛尉の馮朝は広陵に城を築いた。呉穣(ごじょう)が広陵太守に、留略(りゅうりゃく)が東海太守に任じられた。
同年、監軍使者・督徐州諸軍事に任じられた。(『孫皓伝』)

張布(ちょうふ)は孫皓の不興を買い殺されたが、下の娘の張氏は側室として寵愛された。
ある時、孫皓が「お前の父親はどこにいる」とからかうと彼女は「悪人に殺されました」と答え、腹を立てた孫皓に殴り殺された。

その後、孫皓は彼女が懐かしくなり、そっくりな木像を作らせて側に置いた。それにも飽き足らず、姉妹がいなかったか調べさせた。姉が元衛尉の馮朝の子の馮純(ふうじゅん)に嫁いでいるとわかると、奪って側室とし、一日中、彼女とベッドで過ごし朝政を顧みなくなった。(『孫和何姫伝』)



馮斐  李勗に殺された道案内


馮斐(ふうひ)字は不明
出身地不明(??~270)

呉の臣。

269年、呉は虞汜(ぐし)や薛珝(せつく)、陶璜(とうこう)に荊州から、李勗(りきょく)、徐存(じょそん)に海路から交阯を攻めさせた。
翌270年、李勗は進軍に難渋し、案内役の馮斐を殺すと撤退した。

佞臣の何定(かてい)は以前、李勗の娘を、息子の嫁に迎えたいと申し出たが断られ、恨んでいた。そこで「李勗はみだりに馮斐を殺し、勝手に撤退した」と讒言し、李勗と徐存の一家眷属を誅殺させた。幼い子供も殺され、死体は焼かれた。(『孫晧伝』)



馮方  馮氏の父


馮方(ふうほう)字は不明
司隸の人(??~??)

袁術の臣?

「九州春秋」に曰く。
馮方の娘は国一の美女で、戦乱を避け揚州に避難した。城壁の上から一目見た袁術に見初められ側室となったが、後宮の女達に妬まれ殺された。(『袁術伝』)

記述はこれだけで馮方は袁術の臣なのか、何者なのかわからない。



馮芳  西園八校尉・助軍右校尉


馮芳(ふうほう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「山陽公載記」に曰く。
188年、霊帝は西園八校尉を設置し、馮芳を助軍右校尉に任命した。(『後漢書 霊帝紀』)



馮諒  胡質の事件簿1の容疑者


馮諒(ふうりょう)字は不明
出身地不明(??~??)

陽平郡の官吏。

冀州陽平郡頓丘県民の郭政(かくせい)は従妹と密通し、その夫の程他(ていた)を殺害した。
郡吏の馮諒が疑われ、郭政・従妹・馮諒らは投獄されて鞭打ちの拷問を受け、郭政と従妹は耐えたが馮諒は偽りの自白をした。
頓丘県令に着任した胡質(こしつ)は彼らの態度から真相を見抜き、詳しく取り調べ罪を暴いた。(『胡質伝』)



馮礼  寝返りに失敗した審配配下


馮礼(ふうれい)字は不明
出身地不明(??~204?)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、曹操は袁尚の本拠地の鄴を包囲した。
鄴を守る審配(しんぱい)配下の大将の馮礼は反乱し、曹操軍300人あまりを内部に引き入れた。しかし察知した審配は石を落として門を破壊し、閉じ込められた300人は全滅した。(『袁紹伝』)

馮礼もともに戦死したと思われ、以後の事績はない。
ちなみに審配はこの前にも蘇由(そゆう)の反乱を未然に防いでいるが、最後は甥の審栄(しんえい)に裏切られ敗北した。

「演義」では守備中に泥酔していたのを審配に咎められ、逆恨みで寝返った。地下道を掘り進んで城内へ侵入しようとしたが、察知した審配に閉じ込められ全滅した。



伏完  伏皇后の父


伏完(ふくかん)字は不明
徐州琅邪郡東武県の人(??~209)

後漢の臣。

先祖が光武帝の宰相を務めた名家で、桓帝の娘の劉華(りゅうか)をめとり、朝廷でも重きを置かれた。
195年には側室の盈(えい)との間の娘である伏寿(ふくじゅ)が、献帝の皇后に立てられた。

同年、献帝に従い董卓残党の支配する長安から脱出し、曹操の庇護を得た。大いに貢献した伏完は輔国将軍・儀同三司に任じられようとしたが、外戚として曹操に睨まれることを恐れて辞退し、屯騎校尉の地位に留まった。

曹操は献帝の側近を意に沿う者に入れ替え、趙彦(ちょうげん)ら逆らう者を殺し、200年には暗殺を企んだ董承(とうじょう)を処刑し、献帝の子を妊娠していた董承の娘の董貴人(とう)も連座させた。
伏寿は献帝の子すら殺す曹操に戦慄し、父の伏完へ曹操の悪逆ぶりを非難する手紙を送った。

209年に伏完は没し、子の伏典(ふくてん)が後を継いだ。
そして214年、手紙が露見し、伏寿は廃后のうえ幽閉され、獄中で没した。
献帝との間に生まれていた二人の皇子や、兄の伏典ら一族の百余人も殺された。
赦されたのは伏寿の母の盈ら19人に過ぎず、いずれも幽州涿郡に追放された。(『後漢書 后紀』)

「演義」では董承を暗殺者に推薦したのも伏完とされる。また伏完が先立たず、娘とともに暗殺を謀議したため伏寿も処刑される、よりわかりやすい流れになった。



伏寿  献帝の最初の皇后


伏寿(ふくじゅ)字は不明
徐州琅邪郡東武県の人(??~214)

後漢の献帝の皇后。いわゆる伏皇后。
伏完(ふくかん)と盈(えい)の娘。

先祖が光武帝の宰相を務めた名家で、190年に董卓が長安への遷都を強行した際に、献帝の貴人(側室)となり、195年に皇后に立てられた。
董卓は没したが、残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らによって実権は握られており、献帝は支配から逃れるため旧都の洛陽への帰還を敢行した。
激しい追撃を受け、伏寿も持参していた絹数匹を董承(とうじょう)の命を受けた孫徽(そんき)に剣で脅され奪われるなど、散々な目にあい、ようやく一息ついた時には衣服はところどころ破れ、粟や棗で飢えをしのいだ。

196年、洛陽に到着したが、董卓によって焼き尽くされた都の再建は遠く、曹操の庇護を受けて許昌へ遷都した。
曹操は献帝の側近を意に沿う者に入れ替え、趙彦(ちょうげん)ら逆らう者を殺し、200年には暗殺を企んだ董承を処刑し、献帝の子を妊娠していた董承の娘の董貴人(とう)も連座させた。

伏寿は献帝の子すら殺す曹操に戦慄し、父の伏完に曹操の悪逆ぶりを非難する手紙を送ったが、209年に伏完が病没してしまう。
伏寿は怒りを胸に秘めていたが214年に手紙が露見し、壁の中に隠れていた所を華歆(かきん)らによって捕らえられた。献帝に「どうか助けていただけないでしょうか」と訴えたが、献帝も「私の命もいつまであるかわからないのだ」となすすべなく、廃后のうえ幽閉され、獄中で没した。
献帝との間に生まれていた二人の皇子や、兄の伏典(ふくてん)ら一族の百余人も殺された。
赦されたのは母の盈ら19人に過ぎず、いずれも幽州涿郡に追放された。
曹操は代わって娘の曹節(そうせつ)を皇后に立て、支配はさらに強化された。(『後漢書 后紀』)

「献帝春秋」には伏寿の手紙が荀彧(じゅんいく)や曹操の手にあっさり渡り、荀彧がそれを報告しなかったため自害に追い込まれた、という話が記されるが、裴松之は「献帝春秋のでたらめな記述のうち最も酷いもの」と非難している。(『荀彧伝』)

「演義」では董承を暗殺者に推薦したのも伏完とされる。また伏完が先立たず、娘とともに暗殺を謀議したため伏寿も処刑される、よりわかりやすい流れになった。



伏典  伏皇后の兄


伏典(ふくてん)字は不明
徐州琅邪郡東武の人(??~214)

後漢の臣。
伏完(ふくかん)の子。

209年に伏完は没し、子の伏典が後を継いだ。

214年、姉妹の伏皇后(ふくこうごう)が曹操を激しく非難した手紙が明るみに出たため、伏皇后と伏典ら一族の百余人が処刑された。(『後漢書 后紀』)



伏徳


未作成



伏夫人  司馬亮らの母


伏夫人(ふくふじん)名は不明
出身地不明(??~??)

司馬懿の側室。

司馬懿の三男の司馬亮(しばりょう)、四男の司馬伷(しばちゅう)、五男の司馬京(しばけい)、六男の司馬駿(しばしゅん)を生んだ。

司馬京は24歳で早逝したが、司馬亮・司馬伷・司馬駿はいずれも各方面の都督を務めるなど高位に上った。(『晋書 宣五王伝』)

咸寧年間(275~280)のはじめ、司馬亮の治める扶風国のうち池陽県の4100戸が、伏夫人の領邑として分けられた。後に南郡の枝江県に移封された。
伏夫人が軽い病にかかったため、洛水でみそぎをすることになり、司馬亮ら三兄弟が見舞いに集まり、みな節を持って楽器を演奏した。岸辺は揺れ、水面は光り輝き、遠くからそれを見ていた司馬炎は「伏妃は富貴と言うべきだな」と感嘆した。(『晋書 汝南王亮伝』)



服養  古代の舞に通暁する舞師B


服養(ふくよう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢・魏の臣。

曹操は音楽家の杜夔(とき)を軍謀祭酒に任じ、太楽(宮廷音楽)を新たに制定させた。
杜夔は並外れた音感と聴覚を持ち、弦楽器や管楽器ら8種の楽器を全て演奏できたが、歌と舞は得手ではなかった。
そこで雅楽の名手の鄧静(とうせい)・尹斉(いんせい)、歌師の尹胡(いんこ)と、舞師で古代からの舞に通暁する馮粛(ふうしゅく)・服養らを集めて古代からの音楽を考究し、古くは四書五経から、近代の様々な事例を参考に、芸能者を養成し、楽器を作り揃えた。古来からの音楽を復興し、後世に引き継がせたのは全て杜夔の尽力によるものである。(『杜夔伝』)



文鴦  趙雲の再来とうたわれた若武者


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文休  文聘の後継ぎの養子


文休(ぶんきゅう)字は不明
荊州南陽郡宛県の人(??~??)

魏の臣。
文聘(ぶんぺい)の養子。

文聘が没すると、実子の文岱(ぶんたい)は父に先立っていたため、養子の文休が後を継いだ。(『文聘伝』)

江夏太守の逯式(ろくしょく)は兵権を握りしばしば呉の国境を侵したが、古参の文休とはかねてから険悪だった。(※文聘は元の江夏太守でもある)
236年、陸遜は逯式が呉と内通しているとする文書を作り、わざと魏軍に渡した。逯式は妻子を人質に出して潔白を訴えたが、周囲から信頼されなくなり、やがて罷免された。
(※裴松之は逯式ごときの脅威に小ざかしい詐術を弄したのは陸遜の功績にならないと、わざわざ記載した陳寿を批判する)(『陸遜伝』)

没すると子の文武(ぶんぶ)が後を継いだ。(『文聘伝』)



文恭  廖立に向朗とともに誹謗中傷される


文恭(ぶんきょう)字は仲宝(ちゅうほう)
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、李邵(りしょう)と蔣琬(しょうえん)に意見を述べ、劉備や関羽すらこき下ろし、向朗(しょうろう)・文恭は凡人で、文恭は治中となりでたらめばかりやっていると誹謗中傷した。
李邵・蔣琬はすぐに諸葛亮に伝え、廖立は免職のうえ庶民に落とされた。(『廖立伝』)

224年、諸葛亮は杜微(とび)を招聘した。耳の聴こえない彼のため諸葛亮は手紙を送り、その中で「李邵兄弟や文恭らもあなたの高邁な志に感嘆しています」と記した。(『杜微伝』)



文欽  DQNはDQNを呼ぶ


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文虎  文鴦の弟


文虎(ぶんこ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏→呉→魏・晋の臣。
文欽(ぶんきん)の子。文鴦(ぶんおう)の弟。

255年、文欽は毌丘倹(かんきゅうけん)とともに反乱したが敗北し呉へ亡命した。

257年、諸葛誕は反乱すると呉へ救援要請したが、疑心暗鬼の末に援軍の文欽を殺した。
その時、文鴦・文虎は小城に出ており無事で、すぐ報復しようとしたが配下は従わなかった。兄弟は城壁を乗り越えて、魏へ降伏した。
軍吏は処刑を求めたが司馬昭は「文欽の罪は死刑が当然で子も連座すべきだが、追い詰められて亡命した身であり、そのうえ城が落ちないうちに彼らを処刑したら、城内の兵は(降伏を受け入れられないと思い)より結束することになる」と言い却下した。
そして文鴦・文虎を将軍に任じて関内侯に封じ、数百騎を与えて城の周りを駆けめぐらせながら「文欽の子ですら赦された。他の者は何を心配することがあろうか」と喧伝させた。城内は動揺した(降伏する者が相次いだ)。

翌258年、城は落ち諸葛誕は処刑された。
兄弟は牛車を支給され、文欽の遺体を祖先の墓へ葬るのを許された。(『毌丘倹伝』)

文鴦は晋で異民族討伐で活躍するが文虎のその後は不明。
しかし文鴦は政争により291年に三族皆殺しにされており、存命でもともに処刑されただろう。

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