傅嘏 論理の達人
傅嘏(ふか)字は蘭石(らんせき)
涼州北地郡泥陽県の人(209~255)
魏の臣。
傅充(ふじゅう)の子。傅巽(ふそん)は伯父にあたる。
20歳頃に名を知られ、陳羣(ちんぐん)に召され司空掾となった。(『傅嘏伝』)
227年、都で荀粲(じゅんさん)と出会い、名理(形式論理学)を得手とする傅嘏と、老荘思想を尊ぶ荀粲は基本的な結論は一致するものの、場面場面では言い合いになることも多く、友好を結ぶまでには至らなかったが、裴徽(はいき)が仲介に入ったことで仲良くなり、そこに夏侯玄(かこうげん)も加わった。
荀粲は「君達は世俗的な出世や功業名誉では必ず私に勝つが、識見では私に劣る」と言った。傅嘏は「識見があるから功業名誉を立てるのだ」と反論したが、荀粲は「功業名誉は意志と状況も大事で、識見だけでは足りない。あなた方は偉いお人だと尊敬するが、私は必ずしも同じことはしません」と言い返した。(『荀彧伝』)
「傅子」に異聞がある。
夏侯玄・何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)が席巻していた頃、傅嘏は彼らから交際を求められたが断った。荀粲が「夏侯玄は一時代を風靡する英傑で、交際を断れば恨みを招く。二人の優れた人物が仲良くしないのは国家の利益に反する」と言うと、傅嘏は「夏侯玄は器量よりも大きい野心を持ち、虚名を集めることはできるが、現実に通用する才能はない」と評し「三人とも道徳に外れており、遠くでも災難が降りかかる恐れがあるのに、昵懇になどできない」と言った。
裴松之は「傅嘏は夏侯玄の失敗を見抜いたが、鍾会とは親しくしたという。夏侯玄は重い名声のため外から災難を招いたが、鍾会は反乱し自ら災いを招いた。ならば鍾会の失敗も見抜けたはずなのに予見できず、しかも片方とだけ親しくしたのは正しい態度ではない。この逸話は傅嘏にとってプラスにならない」と批判している。
また傅嘏は李豊(りほう)とも不仲で、後の災難を予見したと「傅子」は記している。(※家伝だけありどうも傅嘏の美化が甚だしい)(『傅嘏伝』)
荀粲は女性の容姿だけを重視し、評判の美人の曹洪(そうこう)の娘をめとり寵愛していたが、数年後に先立たれると憔悴した。傅嘏が「容姿だけを重視するなら他に美人を求めるのは容易だろう」と聞くと、「妻は傾国というほどではなかったが、容易に巡り会えるほどの美貌ではなかった」と語り、翌年には後を追うように病没した。享年29。
尊大で人を見下す彼は凡人と付き合えず、友人は十人ほどだったが、いずれも名高い俊才英傑ばかりで、彼らの嘆き悲しむ声は、道行く人々を感動させたという。(『荀彧伝』)
劉劭(りゅうしょう)が官吏の勤務評定を作ると、「根拠にしている前代の制度はほとんど散逸している。法は時代に沿って変わるもので、ふさわしくなければ後世に残す価値が無いと抹消される。根本の法が無いまま勤務評定だけ定めても人材は得られない」と批判した。
正始年間(240~249)のはじめに尚書郎に、やがて父と同じ黄門侍郎に上った。
当時は曹爽(そうそう)が実権を握り、何晏が人事を任されていたが、傅嘏は曹爽の弟の曹羲(そうぎ)に「何晏は外見は静かだが内実はどぎつく、はしっこく利益を好み、努力をしない。きっとあなたの兄弟を惑わし、朝政をすたれさせる」と重用しないよう進言したところ、それが何晏らの耳に入り免職となり、滎陽県令に左遷されたが出仕しなかった。
司馬懿に招かれ従事中郎将となり、249年、曹爽一派が粛清されると河南尹、尚書に上った。
傅嘏は常々「法制度は秦代のままで、儒者や学者は三代(夏殷周)の礼を組み合わせたいと願っている。だが礼も時代の要求に応えるべきで、この名実が合致しないために治世は訪れないのだ。法を整備し根本を正すべきだが、今は多難で変革はできない」と考えていた。
「傅子」に曰く、河南は天下の中心であり、利益と悪事の集まる土地である。歴代の河南尹で、司馬芝(しばし)の統治は漁網の大綱を引っ張るように非常に大まかだった。次の河南尹の劉静(りゅうせい)は小さな網の目で非常に細かく、李勝(りしょう)は規則を壊して一時的な名声を得た。そして傅嘏は司馬芝の大綱を立て直し、劉静の網の目を裁ち、李勝の壊したものを繕った。
功績を誇らず隠したため、華々しい名声は得られなかったが、官民は彼の統治に安心した。(『傅嘏伝』)
251年頃、王基(おうき)は魏の全権を握った司馬師へ政治の心得を説くとともに、許允(きょいん)・傅嘏・袁侃(えんかん)・崔賛(さいさん)を「現代の正直の士で正しい気質を持ち、浮ついた心がない」と評し、政治に携わらせるよう推薦した。(『王基伝』)
252年、孫権の死に乗じて呉征伐の機運が生じたが、傅嘏は「呉は孫権を失いかえって危機感を強め、要害を固めているから勝利を得るのは難しい」と反対した。聞き入れられず魏は三方から呉を攻めたが、東関の戦いで惨敗した。
呉の諸葛恪(しょかつかく)が逆に徐州・青州をうかがう気配を見せると、傅嘏は陽動と見抜き、はたして諸葛恪は合肥新城を攻めたが敗走した。
「傅子」に曰く、傅嘏は治道に通じ、正義を愛し、論理に明るく、事物の本質を認識していた。人間の才能・本性について論じ、根本まで追求することに掛けては並ぶ者がなかった。鍾会は年下だったが親しく付き合い、傅嘏の議論をまとめた。
他に裴徽・荀甝(じゅんかん)と親しくしたがともに早逝した。
何曾(かそう)・陳泰(ちんたい)・荀顗(じゅんぎ)・鍾毓(しょういく)とも親しく、いずれも朝政に携わる名臣だった。(『傅嘏伝』)
衛瓘(えいかん)は若くして傅嘏の知遇を得た。(『衛覬伝』)
王弼(おうひつ)ははじめ裴徽に、次いで傅嘏に才能を認められた。(『鍾会伝』)
嘉平年間(249~254)の末に関内侯に封じられ、同年、夏侯玄・李豊は反乱を企み処刑された。(『傅嘏伝』)
254年、曹芳の廃位を求める上奏に尚書・関内侯として連名した。(『斉王紀』)
曹髦が即位すると武郷亭侯に進んだ。
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が反乱すると、傅嘏と王粛(おうしゅく)だけが司馬師が親征するよう進言し、自ら尚書僕射を代行し参謀を務め大いに貢献した。(『傅嘏伝』)
司馬師が急逝したため、司馬昭が全軍の総帥となり、鍾会が作戦立案をした。朝廷(曹髦)はこの機に司馬氏の勢力を削ろうと、司馬昭を許昌に留め、傅嘏には全軍を率いただちに洛陽へ帰還するよう詔勅を下したが、傅嘏は鍾会と相談して上奏文を作成し、勅命に背き司馬昭を連れて帰還した。(『鍾会伝』)
「世語」には司馬師が臨終の間際、傅嘏に朝政を委ねようとしたが、傅嘏は司馬昭に後を継がせたと記されるが、孫盛はありえないことだと一蹴している。
この功績により鍾会が驕ると「君は野心が器量よりも大きく、功業を成し難い。慎み深くしなければいけない」と諌めた。
陽郷侯に進み、1200戸に加増されたが同年のうちに没した。享年47。
太常を追贈され、元侯と諡された。
末子の傅祗(ふし)が後を継いだ。
咸熙年間(264~265)に五階級の爵位制度が立てられると、傅嘏の功績が改めて採り上げられ、傅祗は涇原子に取り立てられた。
傅祗は晋の司空まで上った。(『傅嘏伝』)
264年、鍾会は蜀を制圧後に反乱し、命を落とした。(『鍾会伝』)
陳寿は「才能と達識によって高官となった」と評したが、裴松之は「見識・器量ともに優れた当時の一流の人物であり、この評は拙劣なうえ、美点を表現するに不充分である」と批判している。
「演義」でも呉征伐に反対し、毌丘倹との戦いでは策を出したりと史実通りの活躍を見せる。
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