文立 蜀の旧臣を推挙した蜀の旧臣
文立(ぶんりつ)字は広休(こうきゅう)
益州巴郡臨江県の人(??~280)
蜀・晋の臣。
蜀代に太学へ遊学し譙周(しょうしゅう)に師事した。門弟たちは優れた者を孔子の弟子になぞらえ、文立を最高位の顔回に、陳寿・李密(りみつ)を子游・子夏、羅憲(らけん)を子貢にたとえた。(『晋書 文立伝』)
「華陽国志」に曰く。
益州刺史の費禕(ひい)に招かれ従事となり、都に上り尚書郎を務め、再び費禕に招聘され大将軍東曹掾に任じられ、やがて尚書に上った。(『譙周伝』)
264年、蜀が滅亡し梁州が設置されると最初の別駕従事となり、秀才に推挙され、郎中に任じられた。
翌265年(※華陽国志では266年)、済陰太守となった。(『譙周伝』・『晋書 文立伝』)
265年、洛陽から益州へ帰った文立は師の譙周を訪ねた。譙周は話のついでに予言文を見せ、その通りに司馬昭が急逝した。(『譙周伝』)
268年、司馬炎が賢良直言の士を推挙せよと詔勅を下し、済陰太守の文立が郤詵(げきしん)を推挙した。
対策(論文)が上級と評価され議郎に任じられたが、母が没し喪に服すため官を辞した。(『晋書 郤詵伝』)
都に上り太子中庶子となり、流浪していた諸葛亮・蔣琬(しょうえん)・費禕ら蜀の宰相たちの子孫を多数登用させた。忠節と蜀の旧臣の抜擢を評価され、散騎常侍に上った。(『晋書 文立伝』)
巴東監軍が欠員になった時、司馬炎は楊宗(ようそう)・唐彬(とうひん)のどちらが良いか尋ねた。文立は「どちらも失態は犯さないでしょうが、楊宗は酒癖が悪く、唐彬は金銭欲が強い」と答え、司馬炎は「金銭欲は与えれば満たせるが、酒癖はどうしようもない」と唐彬を選んだ。唐彬は「晋書」に列伝される重臣となった。(『晋書
唐彬伝』)
蜀で尚書を務めた程瓊(ていけい)は品行と徳に優れ文立とも深く親交があると聞き、司馬炎はなぜ推薦しなかったのか尋ねた。
文立は「彼のことはよく知っていますが、80歳近く謙虚な人柄なのでもう栄誉は求めないと思いました」と答えた。話を伝え聞いた程瓊は「文立はへつらわない。だから私は称賛するのだ」と言った。
西域から名馬が献上され、司馬炎は文立に処置を尋ねたが、(職務外だとして)太僕に聞くよう答え、分をわきまえた態度を司馬炎は称えた。(『晋書 文立伝』)
やがて衛尉まで上り、朝廷の人々は賢明さと優雅さに敬服し、当時の名卿とうたわれた。
280年に没した。著述した上奏・詩・賦等あわせて数十篇は広く世に伝わった。(『譙周伝』・『晋書 文立伝』)
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